12月7日の待降節第2主日礼拝説教から

「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」             (マルコによる福音書1:3)

 キリストの誕生を祝うクリスマスに備え、キリスト再臨を心に刻む待降節(アドヴェント)は、喜びの時であると共に悔い改めの時でもあります。なぜなら、生まれたまま、ありのままの自分では、私たちは神様の前に立つことができないからです。

 バプテスマのヨハネは、キリストの到来に先立って、悔改めのバプテスマを宣べ伝えました。聖書は、それがイザヤの預言の実現であるとあかしします。

 「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる」(イザヤ書40章3-4節)。

 私たちは「まっすぐ」でなければならないとイザヤは語ります。まっすぐに見、まっすぐに聴き、まっすぐに語り、真っすぐに歩まなければならない。けれども、私たちはそのように生きることができません。見ること、聞くこと、語ること、歩むこと、そのすべてにおいて私たちは曲がり、歪み、ねじれ、傾いているのです。

 イザヤは、まっすぐにするためには、高低のある地が平らにならなければならないと教えます。道が折れ曲がるのは、山に登り谷を下らなければないからです。まっすぐに歩みたいのなら、あなたの高ぶりと自己卑下から自由になって、神様と人の前に「平ら」にならなければならないというのです。

 それは、「神のように善悪を知る者」(創世記3章5節)となって、神様なしに生きようとする傲慢を捨て去ることです。「全世界をもうけ」(マタイ福音書16章26節)ようとして全ての人の上に立とうとする高慢から自由になることです。けれどもそれは、自分で自分を救わなければならないという負いきれない重荷を肩から下ろすことであり、力ある人の前には卑屈になり、力のない人の前では傲慢になる、ジェットコースターのような自己評価によって生きるのではなく、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」(マルコ福音書1章11節)という、どんな時でも変わらない神様の絶対的な肯定の中に休らうことです。

 イザヤは、高くなりなさい、低くなりなさいとは命じませんでした。イザヤは「高くされる」「低くされる」とあかししたのです。私たちが神様に向き直るなら、その言葉に耳を傾けるなら、神様が私たちを高くし、低くし、平らにし、平地としてくださると言うのです。この招きに応える者たちとなりたいのです。 (2014年12月7日の待降節第2主日礼拝説教から)

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