12月14日の待降節第3主日礼拝説教から

「彼は言った『わたしは、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声」である』(ヨハネによる福音書1:23)

バプテスマのヨハネは「私はキリストではない」と告白します。それは、単に人違いだということではありません。

「キリスト」とは「救い主」という意味です。ヨハネは、わたしは救い主ではない、わたしは人を救うことはできない、わたしは人を救う力はない、と告白したのです。

それは、自分の無力さの告白にほかなりません。自分が無力なものであること、人を救うことができないどころか、自分自身でさえ救い得ない者であることをヨハネは言い表すのです。

けれども、自分の無力さを知ること、言い表すことこそが、救いといのちの始まりです。なぜなら、そのとき私たちは、人を救わなければ、というできもしない義務感や、自分を救わなければ、という片意地を張った思い込みから解き放たれるからです。

私たちはもはや自分自身が強くて、賢くて、立派である必要はなくなったのです。私たちよりも遙かに強く、確かな救いと助けを成し遂げてくださる方が私たちの所に来てくださったからです。

私たちがなすべきことは、このお方に信頼すること、委ねること、従うこと、そしてこの方を指差すことだけです。

人間が人間以上の存在であろうとする「的外れ」なあり方を捨てて、神様によって創造された本当の人間の姿に立ち帰ること、この立ち帰りを示し、あらわし、あかしすること、それこそが偉大なことなのです。
(2014年12月14日の待降節第3主日礼拝説教から)

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