読む礼拝

2022年5月22日の礼拝のために

「わたしは平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」。(ヨハネによる福音書14:27)

心騒ぎ、おじける弟子たち

 イエス・キリストは、「互いに愛し合」うことを新しいいましめとしてお命じになりました。けれども、このいましめに生きようとするとき、私たちは「心を騒がせ、またおじけ」ざるをえません。

 この戒めを語られる直前、キリストは「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」と言われました。「弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせ」るほかありません。ただ一人それが誰かを知っているイスカリオテのユダは、そのしようとすることをするために夜の闇の中に消えていきます。

 そして、「あなたのためには、命も捨てます」と言い切るペテロには、「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」との答えが返ってきます。どうして心を騒がさずにいられるでしょう。

愛し合えない者たちに向かって

「互いに愛し合いなさい」とのいましめは、弟子たちが意気揚々とキリストに従い始めたガリラヤでも、ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白し、山上の変貌を前にして「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と声を上げたピリポ・カイザリヤにおいてでもなく、弟子たちの弱さと欠け、愚かさと罪とが露わになる最期の晩餐において語られたのです。

 心が騒ぎ、怖じ気づいて当然です。けれども、このような者たちに向かってこそ、キリストは「互いに愛し合いなさい」とお命じになり、それに添えるかのように「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」とお語り下さったのです。

愛の破れの中で

 愛にはいつも愛が返ってくるわけではありません。無視されたり、誤解されたり、ときには裏切られ、憎しみが返って来る場合さえあることを私たちは知っています。

 そして、何よりそこには、愛に対して真実であることのできない自分の姿があります。裏切るつもりがなくても、結果として裏切ってしまう自分の弱さを、自分の思いが受け入れられない時に愛が憎しみに変わってしまう自分の罪を私たちは覚えざるをえないのです。

 私たちは「互いに愛し合う」ことを願いながら、それが不可能であるという事実の前に不安と恐れを覚えるほかありません。

「わたしは平安をあなたがたに残して行く」

 けれども、そのような弟子たちに、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」と言われるのです。教えでも、思い出でもなく、平安を残していくと主は言われたのです。

 その時「平安」とは心の平安だけを意味するものではありません。聖書協会共同訳が「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」と訳しているように、それは、人が罪に陥る前のエデンの園の平安、「それは、はなはだ良かった」と言われる、何一つ欠けるところのない、完全であり、無欠であるような、神の創造のみわざの回復です。

 それはなによりも、アダムとエバの不服従の罪によって失われてしまった神との和解であり、平和であり、それを土台とする平安なのです。

「世が与えるようなものとは異なる」

 だからこそそれは、「世」が与える、神様抜きの、目に見える範囲だけ、人間の思いの及ぶ範囲のみの平安ではありません。それは、場所が変わり、人が変わり、時が変わればなくなってしまう平安ではなく、いつでも、どこでも、だれに対しても変わることのない、真実の平和、平安なのです。この神の平和の上に立つゆえにこそ、「あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」とさとし励ますことができるのです。

「わたしを愛するならば」

 そして「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう」と言われます。キリストの平安の源はキリストへの愛であると言われるのです。そして、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」ということを「ことごとく思い起こさせる」ために、聖霊をお送りくださいます。

 聖霊とは、喜びの時も悲しみの時も、健やかな時も病む時も、順境の時も逆境の時も、いつも私たちと共にあって変わることなく、私たちを支え、助け、守り、導いて下さる神様です。キリストは「私はあなたがたを捨てて孤児とはしない」と約束して下さいました。「あなたはひとりではない」「わたしが共にいる」とキリストは言われるのです。

「心を騒がせるな、またおじけるな」

 キリストは、愛し合うことができない私たちの弱さと罪とをご存じです。そして、愛しえないものが愛しえるものとなるために、十字架の死によって、私たちがどれほど神様によって愛されているかをお示しくださったのです。私たちは、自分が一切の条件なしに受け入れられ、認められ、愛されていることを知るときに初めて、真の平安に生きることができ、他者を認め、受け入れ、愛することができるようになるからです。

 キリストが実現してくださったこの約束を、知らせ、分からせ、信じさせ、生きさせてくださる聖霊の働きによって、私たちはキリストの平安のうちに生き始めるのです。そしてこの約束に支えられ、この神の愛と平安の中に生かされて、私たちもまた「互いに愛し合う」といういましめに生きることができるのです。

十字架の上の平安

 もちろんのその平安は、暖炉の前の安楽椅子でまどろむような安穏を意味しません。キリストご自身、ゲッセマネでは汗が血の滴りのように流れ落ちるような祈りを祈られ、十字架の上では「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

 キリストの平安は、この世の安楽を約束するものではありません。それは「この世の平安とは異なる」のです。けれども、キリストは悩みと苦しみの極み、ゲッセマネと十字架において「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と祈られ、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って息を引きとられます。苦しみと痛みのただ中にあってなお、揺らぐことのない、確かなものによって支えられ、一切を委ねることのできる平安、これがキリストの平安です。

立て。さあ、ここから出かけて行こう

この箇所は「立て。さあ、ここから出かけて行こう」とのキリストの言葉によって結ばれます。互いに愛し合うことの不可能性に打ちのめされたわたしたちは、人間の愛の不可能性を超えて真実の愛を実現したもう神の愛によって支えられ、力付けられて立ち上がるのです。そしてこの愛によって押し出され、導かれて、互いに愛し合うことのできる約束と希望に向けて歩み出すのです。(2022年5月22日の礼拝のために)


2022年5月15日の礼拝のために

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13:34)

裏切りと裏切りの間で


 イエス・キリストは、最後の晩餐の席で、わざわざ「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える」と前置きをした上で、「互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」との教えを弟子たちにお与えになりました。

 そして、キリストがこのいましめをお語りになったのは、まさに、イスカリオテのユダが、キリストを敵の手に引き渡すために闇の中に消えていった時でした。そして、このいましめを与えられた直後、「あなたのためには、命も捨てます」とのペテロの言葉に、キリストは「よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」とお答えになります。「互いに愛し合いなさい」との「新しいいましめ」は、実に、ユダの裏切りとペテロの裏切りとの間に、それをいずれも知りながら語られたいましめなのです。

命じられることなしには

 それは「いましめ」でした。それは、私たちが命じられることなしには「愛し合う」ことができないこと、生まれながらの人間には「愛し合う」ことができないことを明らかにしています。

 私たちが「愛さない」ということではありません。私たちは愛したいし愛されたいのです。イスカリオテのユダはキリストを愛していなかったのでしょうか。ペテロはキリストが嫌いになったから裏切ったのでしょうか。そんなはずはありません。ユダもペテロも自分ではキリストを愛していると確信していたに違いないのです。そうでなくてどうして「いっさいを捨てて」キリストのあとに従うことができたでしょう。

自分を中心にしてしか

 けれども、私たちはいつも自分の物差しによってでしか愛を考えることができず、自分を中心にしてしか愛することができません。それゆえに、その愛はいつも自分中心で一方的であるほかありません。

誰が誰を裏切ったのか

「金入れをあずかっていた」イスカリオテのユダは、「金庫番」として、ある意味キリストの考えと思いとを一番よく知りうる立場にありました。その中で、ユダは、キリストが自分が願ったような「イスラエルの軍事指導者」「力と栄光のメシア」ではないことに気がついたのではないでしょうか。ユダはキリストに「裏切られた」と思い、敵の手に渡そうとするのです。ひょっとしたら、それは無理矢理にでも武器を取って立ち上がらせるための非常手段だったかもしれません。

 ペテロは「あなたのためには、命も捨てます」と断言します。けれども、「あなたも、あの人の弟子のひとりではないか」と問われたとき、「いや、そうではない」と否まずにはいられません。

理想と偶像

 ユダにとって、キリストご自身の思いよりも、自分のキリストへの思いの方が大切だったのです。ユダが愛したのはキリスト自身ではなく、キリストについて思い描いた「キリスト像」に過ぎませんでした。そして現実のキリストが自分のキリスト像と違うことに気がついたとき、自分のキリスト像ではなく現実のキリストを捨てる方を選んだのです。

 ペテロにとっては、キリストを愛することそのものよりも、キリストを愛する自分自身の姿の方が大事だったように思えます。キリストの一番弟子として、キリストを守り、支え、褒められる、そんな自分の理想の姿がペテロの頭をいっぱいにしていたのではないでしょうか。けれどもそのような理想像は、現実の前にあっけなく裏切られていくのです。

人間の愛の破れ

 わたしたち人間の愛は、自己中心という罪のゆえに、曲がり、歪み、捻れてしまっています。求められていないのに押しつけたり、求められているのに拒んだり、すれ違い、誤解し、誤解され、傷つけ、傷つき、いつの間にか愛が憎しみに、そしてついに無関心に変わるほかない悲惨の中を私たちは生きています。

わたしがあなたがたを愛した

 もう愛せません、どう愛してよいかわかりませんと言うほかない私たちに、キリストは「わたしがあなたがたを愛したように」とお教えくださいます。私たちは、キリストが私たちを愛して下さった愛を知ることによって愛を学ぶのです。そしてそれは決して「ハウツー」ではありません。

 そこには何より「わたしがあなたがたを愛した」という圧倒的、絶対的な愛の事実があります。わたしはすでにあなたがたを愛した、そして今も愛している、そしてこれからも愛し続ける、このキリストの愛の事実、私たちがキリストに愛されているという根本的な事実から、キリストは愛の戒めを語り始められるのです。

愛するとは自由にすること

 キリストはユダの裏切りを知りつつ、そのなすままにさせました。ペテロの裏切りを知りながらペテロの足を洗われました。それは、キリストがわたしたちに、裏切りをすら認める究極の自由をお与えになったということにほかなりません。だからこそキリストは、イスカリオテのユダが「出て行くと」、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。」と言われるのです。

 愛するとは人を自由にすること、自分の思いのままに動くロボットや着せ替え人形にするのではなく、一個の人格を持つ存在として、その自由な決断を認めることなのです。そしてそれは、「神に似せて」人を造られた神様が、アダムとエバとになさったことでもありました。

愛するとは引き受けること

 けれども、それは、好き勝手をゆるすことでも、まして見放すことでもありません。父なる神様は、そしてキリストは、ご自身が与えた自由の責任を引き受けられます。アダムの、エバの、ユダの、ペテロの、そして「イエスを捨てて逃げ去った」すべての弟子たち、神に背を向けて歩むすべての者たちの罪を「神の子羊」、イエス・キリストの十字架の死によってあがなわれるのです。

 キリストはペテロに対してなさったのと同じようにユダに対してもなさったに違いありません。その意味で、ユダの罪とはキリストを裏切ったことではなく、キリストのゆるしを信じないで、自分自身でその裏切りの結末をつけようとしたことにあったと言うべきでしょう。

 そしてペテロがなおキリストの弟子であり続けたのは、「外に出て激しく泣」いたこと、それを隠すことなく証し続けたという「悔い改め」のゆえにほかなりません。

十字架と復活の愛のゆえに

 キリストは、愛に対して愛で応える限り愛する愛ではなく、裏切りによっても、罪と破れによってもなお変わることのない愛を示されたのです。「イエスは……、彼らを最後まで愛し通された」(13:1)と語られる通りです。この無限の、完全な愛によって愛されているからこそ、私たちは自分の愛の欠けと破れにも関わらず、なお愛することができ、互いに愛し合うことができるのです。

 もちろんそれは私たちの力によってできることではありません。「あなたがたはわたしの行くところに来ることはできない」とキリストが言われる通りです。けれども、キリストは「しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」と約束してくださいます。

神を信じ、またわたしを信じなさい

 だからこそキリストは、この戒めに続いて、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(14:1-3)とのみ言葉をお語り下さったのです。この約束と希望とに支えられ、導かれて、「互いに愛し合いなさい」との新しいいましめに生きる者たちでありたいのです。(2022年5月15日の礼拝のために)


2022年5月8日の礼拝のために

「弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた。主も弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものとされた。」(マルコによる福音書16:20)

マルコによる福音書の「結び」


 1955年に発行された口語訳聖書にはつけられていませんが、1987年の新共同訳聖書からは、マルコによる福音書16章9節以下には〔 〕がつけられるようになりました。これは、「後代の加筆と見るのが一般的とされている箇所」(新共同訳)、「後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所」(聖書協会共同訳)を表わしています。

 現在、マルコ自身が書いた「マルコによる福音書」が存在しているわけではありません。他の福音書も、パウロの手紙も同じです。印刷技術のなかった時代、文書はすべて手で書き写さなければなりませんでした。現存している聖書はすべて、何代にもわたって書き写されてきた写本です。そして、いくつもの写本を比較検討して、最もマルコ自身が書いた原本に近いテキストを再構成する努力と研究が重ねられてきました。

 その結果、この箇所は本来のマルコ福音書には存在しておらず、後の時代に付け加えられたと考えられるようになりました。こうした研究の成果を反映して、現在ではこの箇所に〔  〕が付けられているのです。2種類の「結び」があるのもそのためです。

唐突な幕切れ

 本来のマルコによる福音書は、「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と終わっていたというのです。落ちつかないことこの上ありません。マルコ福音書を読んだ人たちが、それをもとにマタイ福音書やルカ福音書を書こうとしたのも、そして今度はマタイ福音書やルカ福音書を元にこの部分を付け加えようとしたのも無理のないことです。

 それは何よりもまず、この福音書を読む人は誰でも、実際には「彼女たちは……誰にも言わなかった」では終わらなかったことを知っていたからです。一時は恐怖の余り言葉を失った女の弟子たちも、その後、正気を取り戻し、み使いの「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」との言葉の通りに。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」との言葉を弟子たちに伝えたはずなのです。そうでなかったとしたら、このマルコ福音書そのものも書かれることがなかったに違いないからです。

信じなかった

 男の弟子たちもまた、女の弟子たちと同じように、キリストの復活を信じることができません。「彼らは、イエスが生きておられ、マリアがお姿を見たと聞いても、信じ」ませんし、おそらくはルカがエマオ途上の弟子たちのエピソードとして伝えている「二人の言うことも信じなかった」のです。「イエスは生きている」「キリストはよみがえった」との知らせは、それほどまでに信じることが困難なのです。

 ですから、私たちが復活を信じることができなくても心配するには及びません。キリストの復活の直後、直接復活の知らせを聞いた弟子たちでさえそうだったのですから、私たちが信じることができないものむしろ当然です。問題は、キリストの復活を信じない、信じることのできない者たちがどうして信じるようになったかということです。

イエスが現れ

 信じない弟子たちのところに、復活の主ご自身が来て下さいます。そして、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と命じられるのです。けれどもそれは、復活を信じることができたなら、その信じた福音を伝えなさいということではないでしょう。

 むしろ逆です。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え」る中で、あなたがたは私が確かに甦り、生きていること、いつもあなたがたと共にいて、あなたがたを守り、世界と歴史の支配者として、全てを導いていることを信じるようになるだろうということです。

ことばとしるし

 それが、「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る」と言われたことの意味でしょう。

 ですから、私たちは、こうした不思議なしるしを行うことができないことをもって、自分が不信仰であることか、ましてやキリストは本当はよみがえらなかったのだ、などという結論を導くことはできません。

 ここであげられているしるしは、ことごとくキリストが地上におられたときになさったものです。だとすればそれは、弟子たちがキリストに従い、キリストがなさったように行い、歩まれたように歩むとき、あなたがたはキリストが確かによみがえり、今も生きて働いていることを信じるようになるだろうということでしょう。そして、事実そのようにして弟子たちは信じる者とされていったのです。

福音書記者マルコの意図

 それこそが、本来のマルコによる福音書が「恐ろしかったからである」で終わっていた理由ではないでしょうか。マルコは、福音書を読み、聞く一人一人が、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」との「白い衣を着た若者」の言葉の通りに、ガリラヤヘ行って復活のキリストに会うことをこそ願っていたのです。

 もちろんそれは2000年前のユダヤのガリラヤのことではありません。それはまず何よりも、私たちが「神の子イエス・キリストの福音の初め」と始まるマルコ福音書の書き出しに戻って、もう一度、そして繰り返し繰り返し、イエス・キリストの福音を聞くということでしょう。

 そして、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた』(マルコ1:15)こと、そして、「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを通っていたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた」こと、そして「二人はすぐに網を捨てて従った」ことを、キリストの十字架の死と復活を途知らされた者として読み、聞くのです。

 弟子たちにとってそうであったように、私たちもまた私たち一人一人にとってのガリラヤ、自分がそこで生き、働き、時に苦しみ、悩む、まさに一人一人にとっての「現場」において、キリストの福音を聞き、その招きにあずかるというのです。そして、この招きに応え、キリストの言葉に従って生きる時、私たちは生きて働く復活のイエス・キリストに相まみえるというのです。

「来なさい。そうすれば分かる」

 アフリカで医療伝道に携わったアルベルト・シュヴァイツァーは、その時代を代表する聖書学者(またオルガニストでバッハ研究家)でもありました。最大の学問的業績とされる『イエス伝研究史』は、「ライマールスからヴレーデまで」という副題からも分かるように、その時代までに著されたほぼすべての「イエス伝」を網羅したものですが、彼はその末尾にこう記しました。

「湖のほとりで、彼を何人とも知らなかった人々にイエスが歩み寄ったように、イエスはまたわれわれにも、見知らぬ人、名なき者として歩み来る。彼はわれわれにもまた『わたしについてきなさい』との同じ言葉を語り、われわれの時代において彼の解決すべき課題をわれわれに示してくれる。彼は命じる。そして彼に従う者には、賢い者にも愚かな者にも、平和、労役、闘争、苦難において、彼らが彼との交わりによって体験を許されるものを通して、ご自身を啓示する。かくて人々は、口に言いあらわしがたい秘密として、彼の何人であるかを経験するであろう。」

自分にとってのガリラヤ

 キリストとは誰か、それを知るためには、実際にキリストの言葉に従って生きるしかない。キリストが復活したかどうか、それを確かめるためには、「若者」が語ったように「ガリラヤ」に行かなければならない。それがシュヴァイツァーの結論でした。そして彼はその通りに、医学部に入り直し、一人の医者としてコンゴのランバレネに赴いたのです。

マルコによる神の招き

 もちろん、それは誰もができることではありません。けれども、ランバレネが彼にとってのガリラヤであったように、神様は私たち一人一人にもそれぞれのガリラヤを用意しておられます。キリストを証しする聖書の言葉に従って歩み出すとき、私たちは自分のガリラヤにおいて、そこに生きて働いておられる復活の主にお会いすることができるのです。

 この続きを書くのはあなた自身だ、そしてそれをあなたは文字ではなく、あなたの人生そのものによって綴るのだ、それがマルコによる福音書の結論であり、マルコに福音書を書かせ、それを通して私たちに語りかけて下さる神様の招きなのです。(2022年5月8日の礼拝のために)


2022年5月1日の礼拝のために

「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった」。(ヨハネによる福音書21:4)

キリストの復活の「その後」

 ヨハネによる福音書は、20章でいったん閉じられます。しかし、さらに、甦りの主が「三度目」に「ご自身をまた弟子たちにあらわされた次第」が記されます。それは、この世を生きる私たちは、何度も何度も繰り返して復活の主の力と命とにあずからなければならないからです。

復活を信じない弟子たち

 キリストの復活を信じることができず、信じてなお、それが日々の力と喜びとにならないのは、私たちだけではありません。復活のキリストに直接会ったはずの、直接言葉を聞いたはずの弟子たちでさえそうだったのです。
 ペテロは「わたしは漁に行く」と言いはじめます。「都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)と命じられていながら、彼らは待つことができません。キリストの言葉を信じ切れないで、彼らは自分たちの力でなにごとかを実現しようとします。食べ物ぐらいなら自分たちので手に入れることができると彼らは考えるのです。そのとき彼らが頼るのは、「昔取った杵柄」、自分たちの経験と実績です。

何の獲物もなかった

 けれども、その漁は「なんの獲物もな」いままに終わります。上から力を授けられないままの、キリストの言葉なしの働きは、収穫のない、空しいものに終わるほかありません。私たちは、自分を自分自身の知恵と力によって自分自身を養い、支え、導くことはできないのです。

一歩前進二歩後退

 復活の主に相まみえ、その言葉と約束をいただいていながら、弟子たちはその言葉に留まることができず、自分の知恵を力によって歩もうとして道を誤り、それゆえに失敗し、疲れ果てて意気阻喪します。

 地上を生きる信仰者の歩みは決して順風満帆とはいきません。それは常に一進一退を繰り返しつつ、終わりの日の完成を目指して進んでいくほかありません。疑い、迷い、時には後戻りしながら、しかしそのたびごとに新たに力を与えられ、導きを与えられ、何度破れようと、何度膝をつこうと、ときに地に倒れ伏そうと、しかしそのたびごとに上から言葉を与えられ、聖霊を注がれ、目開かれ、心燃やされ、よろめく膝を確かにされて、再び立ち上がり、新しい一歩を踏みだし、そしてついに「わしのように翼をはって、のぼることができる」(イザヤ40:31)ものにされていくのです。

 それはまことに「日ごとの悔い改め」(ルター)であり、「日々の新生」であって、それは地上の生涯の終わりまで続く戦いなのです。

岸に立っておられる主

 けれども、私たちはこの戦いを自分だけで戦うのではありません。弟子たちが暗闇の中で苦闘しているとき、主はすでにそのすぐそばに立っておられます。甦りの主は私たちの回り道や後戻りの時にさえ共にいてくださる方なのです。

 そして、途方に暮れる私たちに「何か食べるものがあるか」と問われます。復活のキリストは私たちの最も日常的で具体的な心配事を、私たちに先立って配慮してくださるのです。

あれは主だ

 けれども、私たちにはそのことが分かりません。弟子たちは、夜が明けで明るくなっていたにもかかわらず、岸に立っておられる復活の主に気がつきません。復活の主は、地上を歩まれた時と同じ姿をしてはおられないからです。

 キリストから、「子たちよ、何か食べるものがあるか」と尋ねられ、「ありません」と答えたときでさえ、自分たちが向き合っているお方がキリストであることに気がつかないのです。

地上のイエスと復活のキリスト

 それは、復活のキリストが地上のイエスとはその姿形を異にしているからです。地上を歩まれたキリストは、いつでも、誰に対しても同じ姿をしておられました。それは誰もが見ることのできる姿でした。

 キリストの誕生は「すべての民に与えられる大きな喜び」(マタイ2:10)であるゆえに、その知らせはだれもが見ることのできる星によって全ての民に告げ知らされ、「東からきた博士たち」は「その星を見たので、そのかたを拝み」(マタイ2:2)に来ました。

 けれども、復活のキリストはそのような姿をもっておられません。マグダラのマリヤは復活の主を「墓の番人」だと思い、エマオ途上の二人の弟子たちは、「イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた」(ルカ24:15)のに「目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」のです。

 復活の主は、信仰の目によってでしか、それが復活のキリストであることが分からない姿をしておられるのです。本当はすでにその姿を見、その言葉を聞き、支え、守られてさえいながら、私たちはそのことに気がつかないでいるのです。

船の右の方に

 キリストは「船の右の方に網をおろしてみなさい」と命じられます。右は聖書においては神の側、良きものが到来する方向を意味します。神に賭けよ、神の言葉と約束に信頼せよ、キリストはそう命じられるのです。この主の言葉に信頼し、その約束に賭けるとき、人の力では引き上げることのできないほどの収穫に弟子たちはあずかります。

 その時に初めて、自分たちの知らないところで自分たちを見守り、自分たちを導き、自分たちを支えて下さっていた方がおられること、そのお方こそが復活の主キリストであることに気がつくのです。

み言葉としるしとによって

「マリヤよ」との言葉をかけられて始めてマグダラのマリヤは自分の前に立っておられる方が復活のキリストであることに気がつき、エマオ途上の弟子たちは、誰とも知らない旅の道連れが「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに」、「目が開けて、それがイエスであることがわか」(ルカ24:31)ります。

炭火がおこしてあって

「彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあ」ります。キリストは薪が炭火になるほどの時間、弟子たちを見守り、必要な糧を備え、食事の準備をしてくださっていたのです。復活のキリストもまた「仕えられるためにではなく仕えるために」歩まれる食卓の奉仕者、ディアコニア、執事なのです。

 その言葉としるしによって、復活のキリストはご自身が確かに死に、確かに甦り、世の終わりまで私たちと共にあり、来たるべき神の国で喜びの祝宴を共に囲んでくださることを信じさせて下さるのです。

わたしを愛するか

 弟子たちはこの復活の主の弟子として歩み出します。「神を愛し人を愛する」という最も大切な戒めを生き、宣べ伝え、証しするために、キリストは、その出発点として「わたしを愛するか」と問われます。なぜなら、キリストは「まことの神にしてまことの人」であるゆえに、このお方を愛することが神を愛することと人を愛することとの出発点だからです。

わたしの羊を養いなさい

 私たちの愛は欠けと過ちに満ち、不完全であり、私たちの弱さと罪のゆに破れます。けれども、それを知りつつ、自ら傷つき血を流しつつ、なお愛し、なおゆるし、なお救いたもうキリストのゆえに、私たちはなお生きることができ、愛することのできる希望が与えられています。

 この愛のうちに人々を招き、その愛によって共に生き、その愛によって仕えること、それが、先に愛され、先にゆるされた者たちの使命なのです。(2022年5月1日の礼拝のために)