読む礼拝


「神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。」(ルカによる福音書 3:2)

待降節第2主日

 代々の教会は、待降節の第一主日と第二主日とに、バプテスマのヨハネが伝えた預言者イザヤの言葉と、ヨハネが告げた悔い改めの説教に耳を傾けることを習いとしてきました。それは、キリストの降臨を覚え、また再臨を心に刻むことによって、信仰を持って生きるとはどういうことかを確認するためにほかなりません。

皇帝テベリオ在位の第十五年

 福音書記者ルカは、バプテスマのヨハネに神の言葉が臨んだのは「皇帝テベリオ在位の第15年」であったと記します。それは、キリストの誕生という神の救いの出来事は「昔々あるところに」と始まる昔話ではなく、まして造り話などではなく、歴史の中に起こった確かな事実であることを証言するものです。それは目に見え、手で触ることのできる(Iヨハネ1:1)リアルな出来事なのです。私たちは、そのような確かな事実として、キリストの降誕をすでに与えられており、それと同じように確かな事実としてキリストの再臨を待つのです。

ポンテオ・ピラトがユダヤの総督

 私たちが礼拝の中で告白する使徒信条の中で、主は「ポンテオ・ピラトのもとに苦難(くるしみ)を受け」と言い表しているのも同様です。けれども、聖書が単に皇帝テベリオ(ティベリウス)のみならず、総督や領主の名前まで列挙するのは、単に年代の設定のためだけではないでしょう。それは、より具体的に、それがどのような時代であったかを示すためでもあったはずです。

 キリストの誕生の時には「ユダヤの王ヘロデの世」と記されていたはずが、キリストの宣教の開始の時は「皇帝テベリオ在位の第十五年」と記されます。それは、ヘロデ大王の時代にはまだ保たれていたユダヤの独立が失われてしまっていることを示しています。

 もはやユダヤの王は存在せず、ローマから派遣される総督が統治しています。ヘロデ大王の息子たちは「領主」(四分封王)として限定された支配権を認められるに留まっているのです。それは、神の民が異教徒によって支配されるという、ユダヤの人々が決して認めたくない事態でした。

アンナスとカヤパとが大祭司

 一人しかいないはずの大祭司が「アンナスとカヤパ」と記されていることは、当時の宗教界の腐敗を表すものです。終身制であるはずの大祭司職はローマの介入によって左右され、元大祭司が現大祭司を背後で操りました。「一隊の兵卒やその千卒長やユダヤ人の下役どもが、イエスを捕え、縛りあげて、まずアンナスのところに引き連れて行った。彼はその年の大祭司カヤパのしゅうとであった」(ヨハネ18:12)とあるように、異教徒のローマ人との接触ができない大祭司ではなく、すでに職を退いたはずの元大祭司が、宗教界の最高指導者としてローマとの交渉に当たりました。現大祭司がお飾りにすぎなかったことは、使徒行伝が「大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった」(4:6)と記していることからも明らかです。

「すべての民の祈りの家」であるはずの神殿は、姻戚関係によって結び付いた特定の家系の既得権益の巣と化してしまっていたのです。そして、律法学者の聖書の教えも、「人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」(マタイ15:9)ものとなってしまっていました。

荒野

 神の言は荒野でザカリヤの子ヨハネに臨みます。神様は神殿ではなく荒野を選ばれるのです。神の言葉は、特別な場所でなければ聞けないというものではありません。特別な人々が独占しているわけでもありません。それは、日々の生活の中で、他の誰にでもなく、この私に臨むのです。そしてその場所は「沃野」ではなく「荒野」です。恐れも不安もない順風満帆な時と場所ではなく、荒れ、乾き、恐れと不安に満ち、死と滅びとに脅かされている時と所で、私たちは神の言葉を聞くのです。

 それは、この世以上にこの世化してしまった宗教指導者たち、祭司や律法学者へのさばきでもあります。どれほど制度が整い、目に見える儀式が立派で、建物が壮麗でも、そこで語られる言葉が、手垢にまみれた、紋切り型の、退屈な「神の言葉」と称する人間の言葉でしかないならば、そこには、神の言葉のききんが起こっているのです。神様は、このききんに際して、ご自身の言葉を送られるのです。

ヨルダンのほとりの全地方

 けれども、この神の言葉のききんによる心の砂漠化、魂の荒廃は、私たちの周りに広がっているばかりではありません。この荒野は、何よりもまず私たち自身の中に広がっているからです。

 神によって造られ、愛され、生かされていながら、神を忘れ、自分勝手に生きようとする。隣人と分かち合い、愛し合うことを命じられていながら、自分のみが富み栄えようとして、互いに貪り合い傷付け合う。造られたものすべてと調和して生きるように定められていながら、自然を利用し尽くし環境を破壊して、自らを滅びのうちに立たせてなお気付かない。荒れ果て、乾ききっているのは、私たちの心と魂そのものなのです。

悔改めのバプテスマ

 だからこそ、この荒野で叫ぶ声は、「悔い改め」を宣べ伝えます。この世界を造られ、この私に命を与えて下さった、すべての命の源である神に立ち帰ること、本来中心となりえないはずの「自分」を中心にするという「さかさま」な生き方から、本来の中心である神様を中心とする「あたりまえ」の生き方へとその向きを変えることを指し示すのです。

主の道を備えよ

 けれども、その「悔い改め」は、私たちが自分の決心や努力によって成し遂げる鍛錬や修練、自己改造といったものではありません。

 ここで引用されているイザヤは、神の民の最も深い苦しみと悩みの時代に、「慰めよ。わが民を慰めよ」(イザヤ40:1)との神様の言葉を人々に伝えました。その慰めとは、「主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める」(40:10)ということです。私たちが神様のもとに行くことができないために、神様の方が、私たちの所に来て下さるということが慰めなのです。そして、私たちではなく神様が私たちを統べ治めてくださるということ、私たちが「からだも魂も」神様のものとなるということ、それが、私たちにとっての本当の慰め、本当の平安、本当の喜びであると言うのです。「主の道を備えよ」とは、この神様の到来を迎える準備をせよとの呼びかけにほかなりません。

まっすぐにせよ

 その準備とは「道筋」を「まっすぐ」にすることです。ここでまっすぐにせよと命じられているのは道そのものではなく、その道筋です。道そのものを直せと言われたら途方に暮れるほかないでしょう。もし私たちが考え方と生き方を整え、言葉と行いとを改めてからでなければ神様を迎えることができないとすれば、一体誰が神様を迎えることができるでしょう。

 だからこそキリストは、ローマ風に飾り立てられたヘロデの宮殿でも、塵一つ落ちていないカヤパの神殿でもなく、ベツレヘムの馬小屋に来て下さったのです。問われているのは「道筋」です。それは私たちの思いと願いと言ってよいでしょう。神様は、私たちがきよくなりたいとの願いを持ち、新しくなりたいとの思いを抱くならそれで充分だと言われるのです。

悔改めのバプテスマ

 バプテスマのヨハネが宣べ伝えた「悔改めのバプテスマ」もそれ以外のものではありません。そうでなければ、どうしてヨルダン川に身を浸すだけのことが救いに結び付くでしょう。それは、預言者を通して語られた神様のみ言葉へのまっすぐな応答であり服従であるからこそ「罪のゆるしを得させる」ものとなるのです。

 求められているのは思いを整えること、姿勢を正すことです。あなたの心を私に向けよ、私の言葉にあなたの耳を傾けよ、そして私とまっすぐに向き合えと神様は言われるのです。そして、私たちの思いがまっすぐに神様に向けられ、私たちが正面から神様と向き合うならば、それが「悔い改め」であると神様は認めて下さいます。

平らになり

 悔い改めとは、私たちが非の打ち所のない立派な人間になるということではありません。神様はチリ一つ落ちていない舗装された4車線道路を求めたりはなさいません。神様が求められるのはまっすぐな道です。私たちがまっすぐに神様に思いを向けるなら、神様の方が私たちに向けて道を引いて下さり、その道を通って私たちのところに来て下さるというのです。

 イザヤは高くなりなさい、低くなりなさいとは命じませんでした。「高くされる」「低くされる」とあかししたのです。私たちが神様に向き直るなら、その言葉に耳を傾けるなら、神様が私たちを高くし、低くし、平らにし、平地としてくださると言うのです。

 神様によってこそ、「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ」ます。神の言葉に真っ直ぐに向き合うとき、私たちはこの世の物差しに自分を当てはめて、いたずらに自己を卑下したり、劣等感にさいなまれることから自由になります。また、人と自分とを引き比べて、根拠のないおごりや高ぶりに陥ることから救い出されます。私たちは自分に対する、また人に対する「険しさ」から解き放たれて、平らかな思いのうちに生き歩むことができるのです。(2021年12月5日の待降節第二主日礼拝のために)