11月、12月の礼拝説教から

「御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える』」    (ルカによる福音書2:10)

 御使いは「恐れるな」と語ります。「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった」からです。あなた方を助け、守り、支え、導くあなた方の王が来て下さった。だから恐れる必要はない。もう大丈夫である。安心せよ。御使いはそう宣言するのです。

 けれども、御使いはそれに続いて「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」と伝えます。あなた方の王は赤ちゃんで、おむつを当てられて、馬小屋の中にいると御使いは教えます。救い主ならばなぜ大人の姿で降臨しないのか。立つことも、歩くことも、話すこともできず、食べるのも排泄するのも人の手を借りなければならない無力な姿をさらしているのか。きらびやかな宮殿ではなく貧しい馬小屋にいるのか。こんな小さい、弱い、貧しい存在がなぜ私たちの救い主なのか。どうして「恐れるな」などと言えるのか。私たちはいぶかしく思います。

 けれども、天の軍勢が、御使いとともに讃美をもって私たちの戸惑いを吹き払います。救い主が小さく、弱く、貧しくあることは、神様のみ心にかなうことであり、神の栄光を現すものであること、そしてそれを受け入れる者たちに平和を与えるものであることをあかしするのです。

 全知であり、全能であり、無限であり、永遠であるお方が、全知であることを断念し、全能であることを放棄された。分からないことがあること、できないことがあることを良しとされた。限界のある生を引き受けられた。それゆえに、もはや分からないこと、できないこと、限界のあることを恐れる必要はない。小さいこと、無力であること、貧しいことを恥じる必要はない。小さいままの、無力なままの、貧しいままの人間を神様は愛され、良しとされ、祝福され、用いて下さる。だから恐れるなと、御使いはあかしするのです。

 人間は、神様に良きものとして造られたままの人間であることを良しとせず、「神のようになる」こと、全知全能となることを求めて罪に堕ち、悲惨の中に歩む者となりました。私たちは知らないことを恐れ、できないことを嘆かざるをえません。だからこそ神様は、「父だけが知っておられる」ことに信頼し、「神には何でもできないことはない」ことのうちに安らう歩みを、イエス・キリストに歩ませてくださったのです。知らなくても、できなくても、小さく、弱く、貧しくとも、なお神を愛し、人を愛し、信頼と平安との中に生きる道を神様は開いてくださいました。神様に栄光を帰し、地に平和をもたらす命の道がここにあります。
                  (2015年12月21日のクリスマス礼拝説教から)

「そこで、マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます』」。(ルカによる福音書1:38)

 「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」。マリヤはこの言葉をもって神様にいっさいを委ねます。けれども、それは神様任せで何もしないということではありません。「マリヤは立って、大急ぎで山里へむかい」ます。ここでマリヤは親の許可をもらったとは書いてありません。ヨセフに相談したとも記されていません。マリヤは自分で考え、自分で決断し、自分で行動し始めるのです。信仰とは依存ではありません。むしろ本当の意味で自立することです。神様の言葉に頭を垂れた者は、自分の足で立ち上がり、歩み出すのです。

 そして自立とは孤立ではありません。マリヤが赴くのはエリサベツのもとです。一方はユダヤの地に住む齢を重ねた祭司の一族の娘、一方は「何の良いものが出ようか」とあざけられた「異邦人のガリラヤ」の一寒村ナザレの少女、親族というだけでは決して結ばれることのなかったであろう交わりが、信仰という一点において生まれるのです。

 その交わりは、「平安あれ」と挨拶を交わしあい、「あなたは女の中で祝福されたかた」、「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」と祝福を贈り合う交わりです。うわさ話や愚痴のこぼし合いではなく、互いに慰め合い、支え合い、励まし合う交わりが、神の言葉から生まれるのです。

 その中心が「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」という神様への讃美です。「あがめる」とは文字通りには「大きくする」という意味です。神様を讃美し、あがめ、ほめたたえるとは、神様を大きくすることなのです。もちろん、天地を造られた神様が、私たちによって大きくされるということはありません。神様を大きくするとは、神様がわたしたちにとって大きくなるということ、神様のみ旨とみ業とが「主」となり、私たちの思いと行いとが「従」となるということです。

 自分が大きくなる時、傲慢になります。人が大きくなる時、劣等感に陥ります。物が大きくなる時、物に振り回されます。なぜならそのとき、わたしたちは自分を自分以上のもの、人を人以上のもの、物を物以上のもの、つまり神様にしてしまっているからです。神様が大きくなる時、すなわち本当の神様が神様となるときに初めて、物は物としての、人は人としての、そして自分は自分としての本当の姿を取り戻すのです。

 そして、本当の姿を取り戻した私たちは、この世界が本当の姿を取り戻すための祈りと奉仕とに目が開かれます。神のはしため、神のしもべとしての讃美と奉仕に歩み出すことができるのです。これが神様によって創造された人間の喜びであり栄光です。

         (2015年12月10日の待降節第3主日礼拝説教から)

ビートルズ「レット・イット・ビー」とマリヤの受胎告知

「そこでマリヤが言った『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように(let it be to me according to your word)』」。    
                            (ルカによる福音書1:38)

 ビートルズに「LET IT BE」という名曲があります。タイトルでもあり、曲の中で印象深く繰り返される「レット・イット・ビー」という言葉は「なすがままに」と訳されていることが多いようです。もちろん英語の訳としてはそれでよいのですが、その背後に聖書の言葉があることはあまり知られていないようです。

 「自分が困難の中に置かれていることに気づいた時、母マリヤが自分の所に来てくれて、知恵の言葉をささやいてくれる。『なすがままに』」。この「なすがままに」と訳される ”Let It Be” は、『新約聖書』の「ルカによる福音書」1章38節にある、イエスの母マリアの天使ガブリエルの受胎告知に対する「お言葉どおりこの身になりますように」(let it be to me according to your word)からとられています。

 リード・ヴォーカルで作詞・作曲のポール・マッカートニーは、後にこの「母マリア」は自分が14歳の時に亡くなったマリア・マッカートニーのことであると語っていますが、彼女が敬虔なカトリック教徒であったこと、そしてポールがこの曲を作るにあたって、「讃美歌っぽくするにはどうしたらいい」と、音楽家としてのキャリアを教会のオルガニストから始めた共演者のビリー・プレストンに尋ねていたこと、実際、曲には讃美歌風のオルガンとコーラスが取り入れられていることからも、この「母マリヤ」が意図的に自分の母マリアとイエスの母マリアを重ね合わせていることが分かります。むしろ、それは、母マリアから聞いていたイエスの母マリアの言葉だったのではないでしょうか。

 4人のメンバーの音楽性の違いからビートルズが解散することになる直前、まさに「トラブルの中で」「傷つき」「離ればなれになり」「暗やみに包まれる」ような状況の中で、「厚い雲を貫いて」「夜が明けるまで」「輝き続ける」知恵の言葉が、この「let it be 」なのです。問題なのは、「なすがままに」、直訳すれば「それをしてなさしめよ」となる「it」「それ」とは何かということです。

 それが単なる「状況」であるなら、それは「なるようになれ」というあきらめに繋がるでしょう。けれども、その背後に「神さまのみ心」があることを信じることができるなら、それは信頼と希望とを生み出すものとなります。それは状況に身を委ねることではなく、今は苦しみでも悩みでも、理解もできず受け入れることも困難な事柄であっても、その背後に神さまのご計画があることを信じて、神さまの言葉と約束とに自分の未来を賭けていくことなのです。そしてその時、それは自分だけではなく回りの人々を慰め、励まし、支える「知恵の言葉」となるのです。
                     (2015年12月6日の待降節第2主日礼拝説教から)

「するとザカリヤは御使に言った、『どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています』」。
                    (ルカによる福音書1:18)

 クリスマス=Christmasは、しばしばXmasと表記されます。

 昔はこれを間違えて「X」(エックス)マスとか、「☓」(バツ)マスとか読む人もいたようです。

 もっとも、それはある意味当たり前のことで、英語で「X」を「キリスト」と読むのは一般的ではありません。

 英語の辞書を引けば、Xmasは「くだけた表記」とか「略号」との説明があります。この「X」はキリストのギリシャ語表記である「Χριστός」の頭文字「X」と「祭り」を意味する「-mas」を無理矢理に繋げた、ギリシャ語と英語との交ぜ書き表記だからです。

 けれども、Christmas=Christ+mas=「キリストの祭り」が、Xmasと表記され、エックス(X)マス、バツ(☓)マス、クロス(✝)マスと呼ばれることにも意味があるように思えます。
 なぜなら、イエス・キリストの誕生は、私たちにとって「X」=なぞ、であり、「☓」=否定、にほかならないからです。

 キリストの誕生は、私たちにとって大きな謎です。未知のものであり理解することができないものです。祭司ザカリヤが「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか」と叫ばざるを得なかったのも当然です。けれども、だからこそ、それは私たちに、新しい、私たちの思いを越えた喜びと希望とをもたらすことができるのです。

 そして、キリストの誕生は、私たちに突きつけられた神様の☓印です。それは、まず何よりも神様の言葉を信じないわたしたちの不信仰に対する神様の☓印です。「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と、人間の知恵やこの世の常識によって神様の言葉を退けようとしたザカリヤは口がきけなくなります。

 けれども、それはそれ以上に「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」という、私たちの現状肯定とあきらめと絶望に対する恵みの☓印にほかなりません。

 神様は「だって」「どうせ」「でも」という私たちの不信仰と現状肯定、あきらめと絶望とに☓印を付けて、私たちが見たことも聞いたことも考えたこともない、新しい出来事、喜びと希望とに満ちた出来事を起こそうとしておられるのです。

 ザカリヤは、その子に自分の名前を継がせることをせず、人々の「あなたの親族の中には、そういう名のついた者は、ひとりもいません」との意見にも屈せず、書板に「その名はヨハネ」と書き記します。

 そのとき、ザカリヤの口が開け、語り出して神をほめたたえます。この讃美の声に声を合わせたいのです。
             (2015年11月29日の待降節第一主日礼拝説教から)

「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。 (マルコによる福音書10:15)

「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてき」ます。当時、高名な宗教指導者に子どもに手をおいてもらって祝福を祈ってもらうことは普通に行われていたことでした。人々は、そうした風習にならって、子どもたちをイエス様の所に連れてきたのです。
 
 けれども、「弟子たちは彼らをたしなめ」ます。そこには、子どもを一人の人間として認めない、当時の社会の考え方が反映しています。
 
 一人前でなければキリストの所に来てはいけない、「良いわざ」を行えなければ、神様の祝福を受けることができない、イエス様は、こうした考え方に憤り、文字通りには「激怒される」のです。
 
 なぜなら、神様から見るなら、その言葉を理解することができず、その戒めを守り行うことができないという点では、「幼な子」も「大人」も変わることがないからです。
 
 イエス様は、「幼な子」を「抱き、手をその上において祝福され」ます。そのようにキリストによって受け入れられ、支えられ、祝福された者は、ひるがえって自らもまた、私たちのかたわらにある「幼な子」、隣人を受け入れ、愛し、奉仕することができるのです。そのとき、私たちは、すでに「神の国」に生き始めているのです。(2015年9月27日の礼拝説教から)

「あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに和らぎなさい」。 (マルコによる福音書9:50)

 イエス・キリストは、「わたしに従ってきなさい」と言われます。けれども、それは、みんなが同じ時に、同じ歩調で、同じ道をたどってということではありません。決断の早い人もいれば慎重な人もいます。歩くペースの速い人もゆっくりな人もいます。神様は、私たちの歩みが多種多様であることをお認めになります。
 
 今すぐ従うことができなくても、その歩みが遅くても、たどたどしくても、イエス様は、その名を慕い、その名によって生きようと願う者たちを退けません。神様の恵みは大きく、広く、深いのです。
 
 そしてイエス様は私たちがこの恵みにふさわしくあることをお求めになります。それは様々な人を受け入れること、「小さい者」を軽んじたり、つまづかせたりしないことです。
 
 そこでは、優れていると見えるところが誘惑となります。イエス様が「切り捨てなさい」と言われるとき、それは死んでから報いを受けるからということだけではなく、誰が一番偉いかを争い、優越感と劣等感とに翻弄され、ねたみやそねみによって人と人との間が引き裂かれているこの世の有り様こそすでに地獄ではないか、切り捨てるべきは弱い兄弟ではなく、あなたがたのおごり高ぶりであると言われているのです。

 自分の高ぶりが砕かれるとき、私たちは自分の力によってではなく神様の恵みによって生きているという真理を「塩」として持つことができます。その時初めて、私たちは「互いに和らぐ」ことができるのです。 (2015年9月20日の礼拝説教から)

「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。(マルコによる福音書9:35)

 イエス・キリストは「だれでも一ばん先になろうと思うならば」と言われました。一番になることが悪いことなのではありません。私たちが自分の力と知恵を精一杯に生かすこと、競い合う楽しみ、一番になることの喜びを味わうことをイエス様はお認めになります。

 イエス様が退けられるのは、強かったり、早かったり、巧みだったりすることが、人として「偉い」ことであるかのような考え方です。

 早いこと、強いこと、巧みなこと等々は、人に自慢するためのものではありません。自分一人が富み栄えるためのものでもありません。

 それは、より小さいもの、保護と配慮を必要とする者を助け、支え、守るために神様から託されたものなのです。

 一番後になって、みんなに目を配り、弱ったもの、疲れたもの、傷ついたもののために与えられた知恵と力とを用いること、それが一偉いことであるとイエス様は言われるのです。

 人の目につかないところ、誰にも誉められたりしないところ、そんなところで、小さな、そして本当は決して小さくはない奉仕をする人、それが本当に偉い人なのです。
                   (2015年9月13日の礼拝説教から)

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