2026年3月1日(日) 主日礼拝(合同礼拝)
聖書:マルコによる福音書16章1−5節
説教:「復活する」
1 目撃
主イエス・キリストの復活の知らせを初めて聞いた人々が抱いたのは、驚きと恐怖でした。
そのことを、原初の復活物語(マコ16:1-8)は語っています。
受難節を歩む中、復活の日を「祝祭日」として喜び迎える準備をしている私たちは、同時に、マルコによる福音書の著者が描くこの時の、「驚きと恐れ」に目を向ける必要があるでしょう。
なぜなら、まさにこの「驚きと恐れ」こそが、マルコ福音書の結末そのものだからです。
この世において最も悲惨で残酷な十字架を、逃げ出さずに見続けた人々でさえ、復活の出来事には驚き、恐れ、そして耐えきれない思いを抱きました。
希望の光に目がくらみ、ともすれば見失ってしまいそうになる、その人智を超えた畏怖すべき神の御業に、私たちはあらためて目を向けるよう促されています。
マルコによる福音書の結末からは、その御業を見よ、との声が聞こえてくるのです。
その声に耳を傾けながら、本日は、マルコが語る復活の出来事、とりわけ彼女たちの「驚き」を、私たちも共に味わいたいと思います。
復活の物語に登場するのは、三人の女性です。
マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセの母マリヤ、そしてサロメ。
この三人は、イエス様を「先生」と慕い、ガリラヤから共にエルサレムへ上って来た女性たちでした(マコ15:40-41)。
男の弟子たちが皆逃げ去った後も、イエス様のもとにとどまり、主が十字架につけられるのを目撃した人たちです。
十字架を目撃する。それは同時に、その悲惨さをも目の当たりにしたということでもあります。
愛する方が傷つけられ、侮辱されるのを見つめる事。それは言葉に尽くせない苦しみであったでしょう。
しかし彼女たちは、十字架の悲惨さから目を背けることなく、自分たちが近づくことのできる限り近い場所で、すべてを見聞きしていきました。
彼女たちは、耳と目と心をもって、最後までイエス様に従い、仕えようとしたのです。
彼女たちはまた、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を取り下ろし、埋葬するのを目撃しました。
それは準備の日、すなわち安息日の前日に行われた出来事でした。
ヨセフが「思い切って」(マコ15:43)イエス様の遺体を引き取りたいと願った理由はさまざまに考えられますが、その一つは、安息日が迫っていたからであったでしょう。
安息日は、六日間の天地創造を終えた神が七日目に休まれたことを記念する日です(出31:16-17)。
その日には、仕事だけでなく、歩くことのできる距離さえも制限されていました。
この準備の日のうちに埋葬を終えなければ、イエス様の遺体を丸一日、木にかけたまま外にさらすことになってしまいます。
それは故人に対する侮辱であり、また聖書の教えにも反することでした(申21:22-23)。
引き取りの許可が出た後も、自由に行動できる時間的な猶予はほとんどなかったと思われます。
ヨセフは当時のユダヤ人の埋葬習慣に従いましたが、遺体の処置は簡略化せざるを得なかったのです。
2 行動
彼女たちは、その一部始終を目撃しました。
無事、埋葬されたことに安堵したのも束の間、遺体に施された処置を目にして、彼女たちの心は騒いだに違いありません。
師と慕う方の遺体が、やむを得ない事情があったとはいえ、十分な備えのないまま葬られるのを、彼女たちはそのままにしておくことはできなかったのです。
そしてもっと丁寧に埋葬したいと願いました。この思いが、彼女たちを単なる目撃者から行動する者へと変えていきました。
いわば、物語の表舞台へと押し出していったのです。
しかし、女性たちはすぐに行動することができませんでした。
埋葬の直後に安息日が始まったからです。
埋葬が終わる頃には日もすっかり暮れ、女性だけで出歩くのは危険な状況でした。
香油を買う店も閉まっていたことでしょう。
動くに動けない。
この葛藤が彼女たちをさらに悩ませたに違いありません※。
安息日が終わる夕刻、彼女たちは急いで出かけ、まず香油を買い求めました。
当時は日没から一日が始まりますから、香油を購入したのは夜であったことがわかります。
すでに暗く、外は危険でした。
彼女たちは日が昇るのを待たなければなりませんでした。
遺体の腐敗を防ぐためにも一分一秒が惜しい中で、なお待たなければならない。
もどかしい時間が続きます。
眠れない夜を過ごしたかもしれません。
そして翌朝早く、「週の初めの日(曜日)」に、彼女たちは日の光とともに、主イエスが納められた墓へと急ぎました。
つまり、誰よりも早く、彼女たちは墓へ向かったのです。
墓へ向かう道すがら、彼女たちの胸にはどのような思いが去来していたでしょうか。
目を伏せ、焦りと深い悲しみが、彼女たちを襲っていたに違いありません。
しかし彼女たちは、その心を燃やし、震える体を奮い立たせました。
けれども、勢いよく歩み出したものの、ふと現実に引き戻されたのでしょうか。
彼女たちの心に再び不安がよぎります。
「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるでしょうか」(16:3)と話し合い始めたのです。
当時の墓は、山の斜面に洞窟を掘り、そこに遺体を安置する造りでした。
そして入口は大きな石で塞がれていました。
墓荒らしを防ぐため、その石は容易に動かせないほど重いものであったと考えられます。
少なくとも、この女性たちだけで動かせるものではありませんでした。
こうした彼女たちの心の浮き沈みが、16章1節から3節に描かれています。
悲しみに顔を伏せ、不安に駆られながらも、いてもたってもいられず墓へと急ぐ。
そのような「死を前にした人の姿」が、彼女たちを通してあらためて示されるのです。
これまでも彼女たちは不安と葛藤を抱えていたでしょう。
しかし、行動を起こしたときの不安は、ただ目撃していたときのそれよりも、さらに重く彼女たちにのしかかったのではないでしょうか。
答えは見えない。
それでも行動するしかない。そのような状況の中で、心は必要以上に騒ぐものなのです。
3 驚き
さて、彼女たちは墓に近づきました。
するとそこには、伏せていた目を上げる出来事が待っていました。
16章4節には、「目をあげてみると、石はすでにころがしてあった」と記されています。
早朝、まだ人影もない時間に墓に来た彼女たちが、この光景を見て何を思ったのか、聖書は詳しく記していません。
ただ「この石は非常に大きかった」と、その大きさが強調されているのです。
マルコ福音書の著者は、あえてこの石の大きさを強調します。
しかし興味深いことに、彼女たちが石のこと自体に驚いたとは記されていません。
たとえ非常に大きな石であっても、人の手によって動かし得るものであるならば、それ自体は決定的な驚きにはならないからです。
ですから私たちもまた、「誰がどのようにして石を動かしたのか」という点に心を奪われる必要はありません。
マルコが読者の目を向けさせようとしているのは、そこではないからです。
本当に心を向けるべきは、これから示される、真に驚くべき出来事そのものなのです。
彼女たちは、墓の中に入っていきます。
ヨハネによる福音書によれば、どうやら身をかがめなければ中の様子を見ることはできなかったようです。
そのことを思うと、この行動には驚かされます。
中に誰がいるのかもわからない状況で、彼女たちは中へと足を踏み入れたのです。
その大胆さは、驚くべきものと言わざるを得ません。
墓荒らしがまだその場にいる危険さえあったはずです。
しかし、彼女たちは誰がいるのかもわからないまま恐れずに、ただイエス様を求めて前へと進みました。
そして、「右手に真白な長い衣を着た若者が座っていたのを見て、非常に驚いた」(16:5)のです。
ここにきて、ついに彼女たちは驚きます。
「右手」とは、聖書において救いと平和を象徴する方向です。
その「平和の来る方向」に、明らかにただの人ではない若者が座っていた。
それゆえに、彼女たちは「非常に驚いた」のです。
この「非常に驚いた」というのは、単なる驚きを意味するものではありません。
また、先にみたピラトの驚きを伴う「不思議」でもありません。
ギリシャ語原文を見ると、この動詞は新約聖書の中でも、とりわけマルコによる福音書に特徴的に用いられている語であることがわかります。
その代表的な箇所の一つが、14章33節、ゲツセマネの祈りの場面です。
そこには、主イエスが「恐れおののき、また悩み始められた」と記されています。
この「恐れおののき」と訳されている動詞が、16章5節の「非常に驚いた」と同じ語なのです。
つまり、16章5節の「驚き」は、単なる意外性への反応ではありません。
神が差し出された十字架の杯を前にして、主イエスご自身が深く震えられた、その心の激しい動きと同質のものが、この三人の女性を襲ったということになります。
さらにこの語は、他の用例から考えても、圧倒的な存在の前に立たされたときの、畏れと尊敬を含む態度を表す言葉です。
すなわちそれは、真の権威ある方の前に立たされた人間の、畏怖を伴う驚きなのです。
彼女たちは、「平和の方向」に座す神の使いを見て、畏れおののいたのです。
16章5節のこの激しい驚きは、神の御言葉と御業の前に立つことの恐れおおさを示しています。
人間がその権力を誇示するために用意した、最も残酷な刑罰である十字架を、毅然として見上げることができた女性たちでさえ、この神の驚くべき御業の前に立たされたときには、ただ恐れおののくほかなかったのです。
マルコ福音書の著者は、彼女たちの姿を通して、神の御業が本来持っている重みと偉大さを読者に伝えようとしています。
そしてこの物語を読む私たちもまた、その重さを共有することへと招かれているのです。