読む礼拝

「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない』」。                                      (ヨハネによる福音書3:3)

 ニコデモがキリストのもとを訪れます。パリサイ人ですから律法に精通していたことでしょう。良き行いに欠けていたはずはありません。ユダヤ最高議会の一員であったと思われますから、その地位と名誉は比べるものがないほどです。イエス様の埋葬に、極めて高価な「没薬と沈香を混ぜたものを百斤ほど持ってきた」(19:39)とありますから、大変なお金持ちでもありました。

 けれども、そのニコデモが、自分の立場を危うくすることを覚悟で、イエス様のもとを訪れます。律法を研究しても、良き行いをしても、地位と名誉と財産を手に入れても、なお足りないものがあることを彼は知っているのです。そして、このイエスという人物には、自分の飢えと渇きとを癒してくれる何かがあるということに彼は気付いているからです。

 けれども、イエス様は、ご自身を「神からこられた教師」と呼ぶニコデモに、「新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と宣言されます。これまでの自分をそのままにしておいて、学んだり、行ったりすることでは、心は満たされない、魂は癒されない、本当の喜びに満たされ、本当に悔いのない生涯を生きるためには、生まれ変わらなければならないとイエス様は言われるのです。

 けれどもそれはニコデモにとって不可能以外の何物でもありません。「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか」。やり直すには遅すぎます、生まれ変わるには年を取りすぎていますと彼は反論するのです。そしてそれは、もしそれできたらどれほどよいかという心の叫びでもあります。

 そのとき、イエス様は聖霊の働き、神様の自由な恵みと力とを示されます。「人にはできないが、神にはできる」(マルコ10:27)それが神様の約束です。イエス様は、人にはできない救いの道、人が「新しく」生きる道を示されます。それは「上から」生まれる道、人の知恵、人の力によってではなく、神様の恵みによって「生まれ変わる」道です。

 ナザレのイエスを「教師」としてではなく「救い主」として告白すること、イエス様の言葉に「どうして、そんなことがあり得ましょうか」とかぶりを振るのではなく、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)と従うこと、そこに私たちの新しい命があります。 
               (2017年3月19日の受難節第3主日礼拝説教から)


「あなたはすでにその人と会っている」。
                 (ヨハネによる福音書9:37)


 イエス様が生まれつき目の見えない人に目をとめられます。それは単に一人の苦しみに目をとめられたということではありません。イエス様は「わたしが世にきたのは・・・、見えない人が見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」(9:39)と言われます。この目の見えない人とは、他でもない私たち自身の姿なのです。造られたもの全てが指し示している神様の栄光を見ることができず、キリストの低さと貧しさの中に神の子の栄光を見ることができず、神様によって造られ、生かされ、愛されている自分自身の価値が分からず、同じように神様によって愛されている隣人の大切さに気がつかない、それが私たちの罪であり悲惨なのです。

 イエス様は、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗」られます。それは、父なる神様によって土のちりから造られた人間が、キリストによってもう一度新しく造られるということにほかなりません。そして、そのために「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じられます。イエス様は、その場でただちにこの人の目を開けることもおできになったはずです。けれども、イエス様がそうなさらなかったのは、イエス様が私たちがその言葉を信じ従い、人々の前にその信仰の姿を明らかにすることを求めておられるからです。イエス様は、私たちの目を開く前にまず耳を開き、心を開いて神の言葉を信じ従い言い表す信仰をお与えくださるのです。

 合理的だから信じるのではなく神の言葉だから信じ従う道、人間の理性で理解できる範囲でだけ信じるのではなく人間の理性の範囲を超えて信じ従う道を歩み出すことをイエス様は求められるのです。その時、その目に映る世界は変貌します。私たちは、苦しみ、悩み、痛みの意味について目が開かれます。「誰が罪を犯したためですか」という後ろ向きの犯人探しではなく、神様はここからどのようなことを新しく生まれさせてくださるのだろうか、という未来に向けての望みが開かれるのです。

 自分の生涯に起こる出来事の意味に目が開かれると同時に、世界への目が開かれます。彼はもはやこの世の権力者たちを恐れなくなります。真に恐れるべき方を知った者はそれ以外のいかなるものをも恐れる必要がなくなるのです。彼は本当の自信を身につけ本当の自立を果たします。

 そしてそれはいつも、神の言葉によってキリストへの目が開かれていくことと平行しています。「預言者だと思」い、「神から来た人」であると考え、ついに「主」と言い表して拝するに至るその歩みこそが、私たちの本当の人生、本当の自分、本当の人間を取り戻す歩みを支え導いているのです。
            (2017年3月26日の受難節第4主日礼拝説教から)


「『わたしはよみがえりであり、命である』」。
              (ヨハネによる福音書11:25)


 イエス・キリストのもとに「あなたが愛しておられる者が病気をしています」との知らせが届きます。イエス・キリストを信じる者、神様に愛されている者もまた病を得、病み、苦しむのです。

 私たちは私たちが病むとき、困難に陥り、悩み苦しむとき、神様にもはや愛されていなくなったのではないかと不安を覚える必要はありません。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられ」ます。私たちの願いと求めがすぐに聞き届けられないように思える時でも、神様は私たちを忘れているわけでも、知らぬふりを決め込んでおられるのでもありません。神様には神様の時があり、神様の計画があるのです。

 それは、私たちが復活と永遠の命の約束を「信じるようになる」ことです。「あなたの兄弟はよみがえるであろう」との言葉に「終わりの日のよみがえりの時よみがえることは存じています」と答えるマルタに、キリストは「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と迫られます。

「存じている」「知っている」だけの信仰では足りない。首から上だけの信仰では力にならない。私たちが直面せざるをえない苦しみや悲しみを乗り越えさせるものは、あなたが「知っている」ことではなく、あなたが「信じている」ことなのだと言われるのです。それは信じることへの悔い改め、復活と永遠のいのちに向けての向き直りの迫りです。

 キリストは、墓の入り口にはめられている石を「取りのけなさい」と命じられます。それは、私たちが、動かしようがないとあきらめてしまっている現実への挑戦です。「四日もたっています」というマルタに、イエス様は「信じるなら神の栄光を見る」と約束されます。キリストにとって、息を引き取ったばかりの少女を目覚めさせることも、葬列の途中の青年を起きあがらせることも、「もう臭くなって」いるラザロをよみがえらせることも、そこに何の違いもありません。神様にとって、手遅れということはないのです。そして、私たちが「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認」(ヘブル11:1)し、この世の常識という「石を取りのける」とき、私たちは「神の栄光を見る」のです。

 「ラザロよ、出てきなさい」との言葉によってラザロをよみがえらせてくださったキリストは、この私たちをも、そして先に召された愛する者たちも、同じようにその名前を呼んで死から命へ移してくださいます。この復活と永遠の命の希望の中に歩む者でありたいのです。
              (2017年4月2日の受難節第5主日礼拝説教から)

「百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、『まことに、この人は神の子であった』と言った」                        (マタイによる福音書27:54)

 灰の水曜日から始まる受難節、そしてその最後の一週間である受難週の中心は、イエス・キリストが十字架にかけられた聖金曜日です。そして、ピラトの裁判から始まるこの一日の主題こそ、ナザレのイエスとは誰かということに他なりません。

 イエス・キリストの十字架上の罪状書きには、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と記されていました。キリスト教の絵画で、しばしば「INRI=IESUS NAZARENUS REXIUDAEORUM:イエス・ナザレの・王・ユダヤ人たちの」とラテン語で記されているのがそれです。

 そして、ローマ帝国の支配下にあり、厳密な意味ではローマ皇帝が「王」であるとされた時代にあっては、「ユダヤ人の王」を名乗ることは、ローマ帝国に反抗してユダヤ独立を目指す民族運動の指導者、ローマ帝国側から見れば「反政府運動の指導者」「テロリストの首謀者」であるということを意味しました。ローマ総督ピラトが問うたのはそのことに他なりません。

 ピラトの「あなたはユダヤ人の王であるか」との問いは、あなたは暴力革命を主導する反ローマの指導者なのかという問いだったのです。それに対してイエス様は、「そのとおりである」(口語訳)しかし文字どおりには「それは、あなたが言っていることです」(新共同訳)とお答えになりました。それは、わたしが誰であるかはあなたが自分で考え自分で判断しなさいというメッセージです。聖金曜日の出来事の全てを、そしてなにより「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」との言葉を、私たちはどのように受け止めるかが問われているのです。

 イエス・キリストの十字架とその最後の姿を最も間近で目撃した百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、「まことに、この人は神の子であった」と言い表しました。そして、「遠くの方から見ている女たち」の間から、そしてなにより復活のイエス・キリストの証人たちの中から、ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ(Iesus Xrisutos θeou Hyios Soter:ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救い主:頭文字をつなぎ合わせるとIXθUS=魚:キリスト教のシンボル)との告白が生まれました。

 イエスとは誰かとの問いは、自分は何を最も大切なものとして生きるかとの問いでもあります。この問いに誠実に、そして信頼と勇気とをもって応える者たちでありたいのです。

                 (2017年の受難週礼拝の説教から)