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2026年5月10日(日) 主日礼拝
聖書:使徒言行録1章6−11節
説教:「天にあげられる」 大石啓介

1 使徒(および弟子)たちの期待


 復活された主イエスを前にして、使徒たちはこう尋ねます。

「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」

 神がご自分の民を回復されること。

 神の国が完成すること。

 神の支配がこの世界に明らかになること。

 それは旧約聖書が繰り返し語ってきた希望でした。

 イザヤは、散らされた民が再び集められる日を語り(イザ11:11-12)、エゼキエルは、枯れた骨が再び生きる幻を通してイスラエルの回復を告げました(エゼ37章)。

 またゼカリヤは、主が王として全地を治められる日を待ち望みました(ゼカ14:9)。

 預言者たちは、神がご自分の民を再び集め、正義と平和を打ち立てられる日を待ち望んでいたのです。

 復活という驚くべき出来事を経験した弟子たちは、これらの約束が完成し、終わりの日に訪れる神の支配が決定的に現れる時が来たのではないかと期待していたのです。

 ですから彼らは、神の約束に基づいてこの問いを語ることができるのです。

 この問いは、決して見当違いなものではありません。

 もちろんその期待は、ガリラヤとエルサレムでイエス様と共に旅をしていたころから抱いていた希望でした。

 さらに彼らは、イエス様から終末についての教えを直接受けています(マコ13:24-27)。

 復活の主によって信仰を回復された使徒たちは、以前にも増して、その希望を抱いていたに違いありません。

 福音書の中で何度もつまずき、逃げ去り、理解できなかった弟子たち。イエス様を「先生」と呼んでいた弟子たちです。

 しかし「主よ」と呼びかけるその言葉が、その変化をよく表しています。

 彼らは復活の主を「主」として受け止め始めているのです。

 知識として、また経験として神の救いの御心に触れた使徒たちは、自分たちのうちに起こった救い(信仰の回復)が、今度はイスラエル全体へと広がることを期待したのでしょう。

 復活された主を前にして、神の支配が決定的に現れ、神の国の完成、すなわち終わりの日が到来しようとしていると期待していたのです。

 使徒たちが経験した出来事はそれだけ大きなことだったのです。

2 証人として立つこと

 しかし、直前に主から「聖霊を待つ」ように命じられていたことを思うなら(使徒1:4)、この問いはなお不十分であったと言わざるを得ません。

 また弟子たちは、終わりの日の時を把握しようとしていた点においても、なお彼らは不十分なままであったと言えるでしょう。

 なぜなら、イエス様はすでにこう語っておられたからです。

「その日(ἡμέρα(ヘーメラ))、その時(ὥρα(ホーラ))は、誰も知らない。

 天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。

 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時(καιρός(カイロ́ス))がいつであるか、あなたがたは知らないからである。」(マコ13:32-33)

 主イエスは、ここで改めてこの教えを使徒たちに示しておられるのでしょう。

 しかし主は、物分かりの悪い使徒たちを叱責されるのではありません。

 むしろ、彼らのはやる思いを静かに立ち止まらせ、優しくその方向を正されます。

 主が修正されたのは、第一に、終末の時についてでした。

「父がご自分の権威をもってお定めになった時(χρόνος(クロノス))や時期(καιρός(カイロス))は、あなたがたの知るところではない。」

 ここで主は、弟子たちの希望そのものを否定されたのではありません。

 この言葉によって示されたのは、「時」や「時期」は父なる神の権威に属する、ということです(マコ13:33)。

 神が定められた時は、人間が支配したり、計算したり、把握したりできるものではありません。

 そこで主は、終末の時期を知ることよりも、今どう生きるのかへと、私たちの目を向けられるのです。

 神が時を支配しているということが示される中で、同時に覚えたいのは、時を支配するのは私たち人間ではない、ということです。

 それは、歴史を完成させるのも私たちではない、ということです。

 神が始められた歴史を、神ご自身が完成される。そのことをまず心に刻みたいと思います。

 このことを見失う時、人は時を自分のものとして支配しようとします。言い換えるなら、自ら神の座に着こうとするのです。

 そしてやがて、人は世界そのものを支配しようとし始めます。

 その欲望は、争いや破壊を生み出します。聖書が語る罪とは、まさに人間が神になろうとするところから始まるのです。

 今の世界の混乱もまた、人間が神の座に立とうとするところから生まれているのではないでしょうか。

 しかし、時は神のものです。

 歴史は神の御手の中にあります。そして神ご自身が、この世界を完成へと導いていかれるのです。

 そのことを覚えた上で、同時に私たちは、神がご自分の御業のために人を用いられることも覚えたいと思います。

 そのことを示すために、主は8節において、弟子たちの務めを示されるのです。

「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てに至るまで、私の証人となる。」

 ここで主は、「いつですか」という問いから、「あなたがたは証人となる」という使命へと向け直されます。

 まず主は、証人としての「力」が与えられると言われました。

 それは私たち自身の力が増幅される、というわけではありません。

 聖霊が与えられることによって得られる「聖霊の力」です。

 その力は人間の力や思いを遥かに超えています。

 現に主は、その力によって、(使徒たちが予想した)イスラエルを超えて、全世界に復活の主を宣べ伝えることになると宣言されます。

 この証人は、「私の証人」ですから、自分の考えや自分自身を中心に語る人ではないことは言うまでもないでしょう。

 聖霊の力によって遣わされる証人とは、キリストにおいてすでに起こった出来事を証言する者です。

 神の子、イエス・キリスト、十字架につけられたキリスト、復活されたキリスト。

 そして今も生きて支配しておられるキリスト。

 この主を証しするのです。
 
3 天にあげられる

 それだけではなく、この証しは、主が天に上げられることとも深く結びついています。

 なぜなら、主イエスの地上のご生涯は、生誕、受洗、宣教と伝道、受難、十字架の死、そして復活へと進み、昇天によって完成へと至ります。

 しかしそれは、主の働きの終わりを意味するのではありません。

 むしろ昇天によって、主イエスのお働きは、もはや地上的な制限を受けないものとなりました。

 地上で肉体をもって歩まれた時には、主はある場所におられる時、別の場所にはおられませんでした。

 また、一つの時に、一つの場所で人々と向き合われました。

 しかし今や、昇天されたキリストは、聖霊によって、どこにでも、いつでも、御自身の救いの御業を行われるのです。

 復活された主は、昇天によって御父の右に座し、すべてを支配する王として立てられます。

 そして弟子たちは、その昇天された王キリストを証しする者として遣わされていきます。

 聖霊は、昇天されたキリストが、今も生きて支配しておられることを、力強く示してくださるのです。

 また、この昇天によって、一つの時代が終わり、新しい時代が始まります。

 主ご自身が地上を歩まれ、直接に御言葉を語られた啓示の時代はここで閉じられ、ここからは聖霊の時代、また教会の時代が始まるのです。

 それは、目に見える主に従う時代から、信仰によって主に従う時代への移り変わりでもあります。

 同時にこの時代は、主の再臨を待ち望む終わりの時代でもあります。

 教会は、再び来られる主の日まで、聖霊によって支えられながら、この世界で福音を証しし続けるのです。

 もはや立ち止まり続ける時ではありません。「時が来た」のです。

 だからこそ背中を押す言葉が響きます。

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」

 御使いの言葉は希望をただ待つのではなく、希望の中を歩むための言葉でした。

 見えなくなったからといって、主がおられなくなったのではないことを、言外に伝えています。

 むしろ主は、地上で肉体をもって共におられた時にも増して、今や聖霊によって、私たち一人ひとりと共にいてくださるのです。

 御使いが、そばに立って発したこの御言葉は、主が確かに共におられることの証しでもあります。

 さらに御使いは言います。

「あなたがたを離れて、天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。」

 再び来られる。この約束によって、キリスト者の希望はさらに確かなものとされます。

 キリストは再び来られます。この世界を完成へと導くために来られます。

 すべての涙をぬぐい去り、すべてを新しくされるために来られるのです。

 これだけの希望を前に、キリスト者は立ち止まり天を見上げる必要はないのです。

 ただ天を見上げて待つのではない、この希望の中に、主に遣わされた者として歩む時が始まったのです。

 その歩みは、聖霊を待ち望みつつ、再び来られる主を待つ歩みとして始まるのです。





2026年5月3日(日) 主日礼拝
聖書:使徒言行録1章3−5節
説教:「約束の聖霊」 大石啓介

1 約束の聖霊


 これまで私たちは、マルコによる福音書を通して、イエス様の物語を読み進めてきました。

 そこで示されてきたのは、イエス様が真に神の子であり、救い主キリストであるということです。

 さらにこの方が、私たちの罪を贖うために十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に復活して、永遠の命の門を開いてくださったことを知らされました。

 まさにこれこそが福音(良い知らせ)であると、マルコは力強く証しします。

 そして私たちは、他の福音書にも目を向けながら、復活の主が弟子たちと出会い、彼らの信仰を回復していかれる姿を見てきました。

 深い傷を負っていた弟子たちが、主との出会いと教えによって立ち上がらされていく。

 その恵みは、私たち自身にも及び、再び信仰の火が燃やされています。

 そのような歩みの中で、これから私たちは、教会の誕生と成長を記す使徒言行録を学びます。

 それは、「キリストの教会を建てる」という私たちの目標にとって、具体的な導きを与える学びとなるでしょう。

 しかし覚えておきたいのは、使徒言行録は、人々がどのように教会を作り上げたかを記した物語ではない、ということです。

 むしろ、復活の主イエス・キリストが、ご自身の教会をどのように導いておられるかを証しする書です。

 実際、ルカは福音書において、「イエスが行い、また教え始められたすべてのこと」を書き記しました。

 そして使徒言行録は、その続きを語ろうとしているのです(使徒1:1-2)。

 ですから、ここに記されているのは、過去と切り離された新しい別の働きではなく、主ご自身の働きが途切れることなく続いている姿にほかなりません。

 主がよみがえられた後、四十日にわたって弟子たちに現れ、神の国について語り、彼らを整えられたという出来事もまた、その継続の中に位置づけられています。

 その働きは、主が天に上げられ、肉体においては見えなくなられた後にも、なお続いていく働きです。

 復活の証と神の国について弟子たちを教えながら、主はこれから先に続くその働きについて語られます。

 そしてこれから、その働きの中に弟子たちも加えられていきます。

 神様が人を救い、立ち上がらせていくその働きに、自分も用いられる――これは決して当たり前のことではなく、大きな恵みです。

 このように大きな働きへと招かれた弟子たちは、すぐにでも何かを始めるべきだと考えたかもしれません。

 しかし、主が最初にお命じになったのは、「働くこと」ではありませんでした。

「待つこと」でした。

 主はこう言われます。

「私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」(1:4)

 ここで明らかにされているのは、これから始まる教会の歩みが、弟子たちの力や計画によるのではないということです。

 神様が与えてくださるものによって、すべてが始まるのです。

 だから弟子たちは、まず「父から約束されたもの」を待たなければならなかったのです。

 この「父が約束されたもの」、それは聖霊でした。

 ところで、この聖霊とは一体何でしょうか。

 突然現れたもののように見えるかもしれませんが、決してそうではありません。

 聖霊は旧約聖書の時代から、力ある神の霊として働いてこられました。

 そして神様は預言者たちを通して、「霊が注がれる」と約束しておられたのです。

 イザヤは「ついに、霊が高い所から私たちに注がれる」(イザヤ32:15)と語り、ヨエルもまた「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ」(ヨエル3:1)と預言しています。

 その霊は、まず主イエスに注がれました(イザヤ11:1-5も参照)。

 さらに主ご自身も、

「天の父は求める者には聖霊を与える」(ルカ11:13)、

「何を言うべきかは、その時に聖霊が教えてくださる」(ルカ12:11–12)、

「助け主である聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことを思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26)

 と約束されました。

 このように、神の約束はまず主において成就し、主の働きは聖霊を通して弟子たちへと続いていきます。

 そして私たちは、この聖霊によってこそ、父なる神のご計画に参与することができるのです。

 だからこそ弟子たちは、聖霊を待たなければならなかったのです。

2 聖霊を待つ

 聖霊は、これまでも神の民に働いてこられました。

 ルカはそのことを福音書の中でも繰り返し語っています。

 聖霊に満たされた人々は、神を賛美し、力を与えられて生きていました。

 そして今、その同じ聖霊が、より豊かなかたちで弟子たちに与えられようとしているのです。

 主ご自身の教えと働きが、聖霊によって弟子たちのうちに保たれ、広げられていく。

 そのようにして、主の働きは途切れることなく、さらに力強く続いていくのです(使徒1:1–2)。

 そのことをより深く理解するために、常に聖霊と共に働いておられた主ご自身の歩みを思い返してみましょう。

 主が洗礼をお受けになったとき、聖霊が主の上に降りました(ルカ3:22並行)。

 そして聖霊に導かれて荒野に進み、サタンの試みに勝利された主は、聖霊に満たされてガリラヤでの宣教へと出て行かれます(ルカ4:1-15)。

 さらにルカは、主の誕生に至る出来事全体が聖霊の働きに満ちていたことを語っています(ルカ1–2章)。

 このように、主の歩みは初めから終わりまで、聖霊と共に進められていました。

 もちろんそれは、主が力を欠いておられたからではありません。

 むしろ主は、人としてこの地に来られ、御父に従う歩みの中で、聖霊に満たされて働く道を歩まれたのです。

 そしてこの歩みは、弟子たちにとっての模範でもあります。

 すなわち、自分の力によるのではなく、神に従い、聖霊により頼んで歩むということです。

 しかしそれは単なる手本にとどまらず、主ご自身が聖霊を与えてくださることによって、私たちのうちにも実現されていく歩みなのです。

 ところで、イエス様は、「エルサレムで待て」とも語られています。

 マルコによる福音書に親しい私たちは、なぜイエス様はこの時、ガリラヤではなくエルサレムで待つように命じられたのか、疑問に思うことでしょう。

 しかしそれは決して矛盾しているものではありません。

 ここで強調されているのは、エルサレムが、主の十字架と復活によって、罪の赦しと永遠の命がはっきりと現された場所であり、福音の中心であるということです。

 ガリラヤで御言葉と神の国の教えを受けてきた弟子たちは、今やエルサレムで起こった出来事(つまり主の死と復活)に立たされ、その出来事を中心として歩みを進めていきます。

 そのためエルサレムは、神の救いの御計画が成就し、そこからすべての民へと福音が広がっていく出発点でもありました(主が「エルサレムから始めて」(ルカ24:47)と語られたとおりです)。

 つまりエルサレムは、単に一つの場所ではなく、福音の原点であり中心です。ルカが描こうとしているのは、この中心から始まり、やがて地の果てにまで広がっていく神の働きです。

 しかしその広がりは、この中心から離れて進むのではありません。

 むしろ、この出来事に立ち続けることによってこそ、福音は広がっていくのです。

 それは単に場所にとどまるということではなく、主の十字架と復活という福音の中心から離れないことを意味しています。

 もしこの中心を離れるなら、どれほど熱心に働いたとしても、それはもはや主の働きではなくなってしまいます。

 だからこそその場所に聖霊が降ると言えるでしょう。

 主は、「あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を受ける」と語られていくのです。

 ここに示されているのは、水の洗礼にとどまらない、聖霊による洗礼の必要です。

 水による洗礼は、罪の清めを指し示すしるしであり、悔い改めへと導くものでした。

 しかしそれは、なお約束を指し示す段階にとどまるものでした。

 洗礼者ヨハネが語ったように、「より力ある方」が来られ、その方によってこそ、真の意味での清めが成し遂げられるのです(ルカ3:1-20参照)。

 すなわち、罪の贖いはキリストご自身によって成し遂げられ、その恵みが、父と子と聖霊の名による洗礼において示され、与えられていきます。

 そして今、そのキリストの成し遂げられた救いが、聖霊によって人の内に実際に働く時が来ているのです。

 言い換えるならば、しるしにとどまるのではなく、そのしるしが指し示していた現実に生きるということです。

 もししるしのところで立ち止まってしまうなら、福音の全体にあずかることはできません。

 人の内側にまで働きかけ、造り変えるのは聖霊のみです。

 この聖霊によって、人は知恵と力を与えられ、キリストの成し遂げてくださったことを悟り、心からの悔い改めへと導かれます。

 そしてそのようにして整えられた者が、この福音に立ち続けながら、キリストを宣べ伝える者とされていくのです。

 最後に、その約束はすぐに実現したわけではないことを覚えたいと思います。

 弟子たちは、いつ与えられるのかを知らされないまま、主の姿が見えない中で待たなければなりませんでした。

 それでも彼らが待つことができたのは、約束が与えられていたからです。

 しかもその約束は、約束を必ず成就する方(つまり主イエスご自身)の言葉でした。

 弟子たちはすでに、主が十字架と復活を通して、その言葉を成し遂げられたことを見ていました。

 もっとも、その意味をすべて理解していたわけではありません。

 実際この後、「今こそ国を回復してくださるのですか」(使徒1:6)と尋ねているように、理解はなお十分ではなかったのです。

 それでも彼らは、主の約束に信頼してとどまり続けました。

 それが「待つ」ということでした。ただ時間を過ごすのではなく、主の言葉に信頼して立ち続けることです。

 弟子たちがその時何をしていたのかは、使徒言行録を進めていくなかで明らかにされるでしょう。

 そしてそれは、私たちにも求められている歩みです。

 私たちは自分の見通しや力によって動こうとしますが、主はまず「待て」と言われます。

 このワンクッションが大切なのです。

 私たちはしばしば、待つことができず、自分で動き出してしまうからです。

 しかし、待つことは消極的なことではありません。

 主に従う積極的な信仰の歩みです。

 主は今も生きておられ、その言葉は決して空しく終わることはありません。

 だからこそ私たちは、動き出す前に、主に従って待つのです。

 主の約束に信頼して、とどまり続けるのです。

 そのとき主ご自身が、その約束を必ず現実として成し遂げてくださいます。