読む礼拝


2025年3月9日(日) 主日礼拝 
聖書:マルコによる福音書11章12-14節 
説教:「実のないいちじくの木」 大石啓介

1 呪いの物語?


 エルサレムでの一日目が終了しました(マコ11:1-11)。週の初めの日曜日にエルサレムに入城しそのすべてを見終えたイエス様は、二日目の月曜日になると神殿の清め(マコ11:15-19)のために弟子ともにベタニアを出発されます。

 物語はすぐにエルサレムでの神殿清めへと展開されるわけではなく、ベタニアを出る際に起こった出来事、つまりいちじくの木に起こった出来事に注目しています(それはまるで、エルサレム入城の前準備の時と同じように!)。

 いちじくの木に関する物語は、第一部(11:12-14)と第二部(11:20-25)に分かれており、神殿清めの物語(11:15-19)を挟むようにして収録されています。マタイによる福音書(マタ21:18-22)にも同じ内容の物語が収められていますが、マタイでは区切ることなく一つの物語として、神殿の清めの後(エルサレムからの帰り道の時に)の出来事として語ります。

 そのため、いちじくの木の物語はもともと一つの物語であったと考えられています。しかしマルコによる福音書著者は、物語を収録する際、二分割し、神殿の清めの物語を挟むように編集しています。それはバンズで具材を包み込む構造をしていることから、サンドイッチ構造と呼ばれており、マルコが愛用する手法です。このサンドイッチ構造が用いられる時、バンズも中身も同じテーマを共有する一つの物語群として、関連付けて読んでほしいという著者の意図があります。

 ですから、いちじくの木の物語の本質は、神殿の清めの物語の本質と共鳴し、同じテーマを提供し、強調し合い、補い合うのです。それぞれの物語の本質を解くための「キーワード」、または「答えそのもの」となるのです(その視点を持つだけで、難しい物語に目が開かれていきます)。

 これからエルサレムでの二日目から三日目に渡る三つの物語を三週にわけて取り上げていきます。共通するテーマを持ちつつ展開される物語たちを読み進めていきましょう。

 さて本日の物語は、イエス様が空腹を覚えられたことから始まりました。夜の祈りに集中し、朝食を食べる暇もなかったのでしょうか。空腹の理由は明らかにされていませんが、いずれにせよ、イエス様は食べ物を求めたのです。

 そこで辺りを見回すと、遠くからでもいちじくとわかるほどの葉の茂った木を見つけました。イエス様は葉の繁り具合から、実が残っているかもしれないと期待したのでしょう。しかし近づいて見てみると、葉のほかは何もありませんでした。

 聖書はその理由を「いちじくの季節ではなかったから」と補足します。するとイエス様はその木に向かって「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われます。この言葉を弟子たちは聞いた、との聖書の報告を経て、物語は次の神殿の清めへと移っていくのです。

 神殿の清めの後、2日目はそれで終了します。しかし三日目の早朝、驚くことにあのいちじくの木が根から枯れていたのです。これを見たペトロはイエス様の言葉を思い起こし、この一連の出来事を「呪い」であったと結論付けています。

 そのためでしょうか、本物語は「いちじくの木を呪う」と題されています。また、一見するといちじくには何も否がなく、むしろイエス様の言動にこそわがままであるかのように見える物語です。

「呪い」という題名や、神性を帯びたイエス様の姿ではなく、人間味を帯びた、八つ当たりにも見えるイエス様の言動に、本物語を聴く多くの人が戸惑ったことでしょう。それは福音書記者もそうでありました。マタイによる福音書(マタ21:18-22)は同じ内容の物語を載せておりますが、マルコのそれとは日時も順番も違います。

 ルカによる福音書はこの物語を採用しておりませんが、代わりに「実がならないいちじくの木」のたとえ話をしています(ルカ13:6-9)。形を変え、品を変え、それぞれ独自の見解を示していますが、その苦労は、一見しただけでは、この物語から福音を聞きとることは大変難しいことを意味しています。
ある牧師はこの物語を現実の出来事としてストレートに読むのではなく、次のような見方で見ることを勧めます。

 つまり、『いちじくに関わる一連の出来事は、イエス様の空腹のゆえに八つ当たり的に起きたものではなく、空腹という事実と葉の繁ったいちじくがそこに生えていたという事実を基にして行われたイエスの行動による譬え話(acted parable)であった。この象徴的行為に含まれている深層意義を読み取らなければ、この物語は、まったく不可解な出来事の記述となってしまう。』

 つまり、本物語をたとえ話、象徴行為として捉え、イエス様がなぜこのような言動をしなければならなかったのかに注目し、なぜいちじくは枯れなければいけなかったのかの原因をいちじくの木の中に探していくのです(その点ではルカによる福音書の見方を参考にするとよいでしょう)。

 そしてイエス様の行動は現実に起こった出来事でありつつ、あくまでも「行動による譬え話」であり、また旧約聖書の預言者たちが普通には有りえそうもないことを行うことによって預言内容を具体的に表し民衆に伝えたという象徴行為(エレ13:1-11,19:1-15,エゼ3:1-11,12:1-16,ホセ1:1以下)と同じであると結論付けています。

 そして14節の御言葉は呪いではなく、預言であると結論付けます。つまりイエス様は、多くの実を約束する葉を豊かに繁らせながらも、実際には一つの実を結ぶ事をしないこのいちじくの偽りの姿に対し、ついに神様の審きが来ることを預言したのだと結論付けていくのです。「呪い」ではなく「預言」である。この視点に倣って、本物語を共に聴いていきたいと思います。
 
2 実のないいちじくの木のたとえ

 いちじくの木は、条件がよければ7-10m程の高さになる木です。早春三月の終わりごろから前年秋に残された芽が成長し、5月から6月頃に成熟する早期の果実と、その年に芽を出し8月から10月頃に収穫される通常の果実の二種類の実を結びます。

 どちらの実にせよ過越祭が開かれる3月から4月の頃はあまり期待できないものでした(マコ11:13)。しかし、いちじくの木の生育習性は変化に富んでおり、冬に葉が落ちてから翌春までに枝に残る実もあります。ですから、収穫の時期ではなくとも、食べることのできる実が残っている可能性は充分考えられたのです。村育ちでいちじくの木の習性をよくご存じであったイエス様は、この残された実を期待して近づかれたのでしょう。

 次に、聖書においていちじくの木がどのようなものを象徴しているのかについて見てみましょう。旧約聖書においていちじくの木はオリーブの木に次いで重要な位置を占めていました(士師9:7以下)。またぶどうの木とともに聖書に登場する際は、繁栄や幸福の象徴として用いられています(王上5:5,ミカ4:4)。

 また律法を守ることは神に喜ばれることで、その喜びはいちじくの実の甘さにたとえられています。しかし一方、預言者たちはいちじくを(ぶどうと同様に)、イスラエルを象徴するものとして用いていているのですが(エレ8:13,ミカ7:1以下,ホセ9:10,16。イザヤ書5章参照)、興味深いことに、彼らは預言の中で、神様の前に罪を犯したイスラエルの姿を、実を結ばないいちじくの木にたとえいます。

 この点は、本物語をたとえ話として聴き、ひも解くうえでとても重要な視座を与えてくれます。つまり、実のないいちじくとは神の前に罪を犯し続ける民、神様の前に悔い改めない民の姿を象徴しているということです。

 このような視点をもって本物語を見直してみましょう。本物語のいちじくの木は、立派に葉を茂らせてはいますが、繁栄や幸福の象徴としてではなく、実のないいちじくの木として登場しています。

 それは、悔い改めることができておらず、未だ神様の前に罪を犯し続けるエルサレムの姿を象徴しています。そしてさらに、イエス様がお求めになった時、実を用意できない姿は、主がお入り用なときに、何も準備ができない怠惰な姿の象徴と言えるでしょう。

 イエス様は突然やって来たのではありません。イエス様の宣教活動は約3年間だと考えられています。三年もの間、ガリラヤを中心に「悔い改めて、福音を信じなさい」と宣教していたのです。

 エルサレムからは遠く離れたガリラヤでの宣教でしたが、エルサレムにもその御言葉は届いておりました。エルサレムに近いエリコの道端ではバルティマイのような信仰者が生まれ、エルサレムからは律法学者とファリサイ派の人々がわざわざ足を運ぶほど、イエス様の名は知れ渡っていたことがその証拠です。

 イエス様がどのような方なのかを知る人々は、イエス様がエルサレムに入城する準備を整え、イエス様が来る際に子ろばを用意し、また自分の上着を敷き、なつめやしの木を切って道に敷き、その準備をしました。そのような準備をする人々と、いちじくの木はあまりにも対照的であったのです。

 その木は神様の前に悔い改める事にも、イエス様の宣教にも、イエス様の登場に無関心でありました。自分自身の季節を生きることにのみ集中し、主がこられる時のための準備を怠っていたのです。そのようないちじくの姿は、マルコによる福音書13章33節以下の物語から言葉を借りるならば、「目を覚ましていなかった」と言うことができるでしょう。

3 いちじくの木への言葉

 いちじくの木は、遠目からもそれとわかるほど、立派に葉が茂らせておりました。しかしそれはうわべだけであり、肝心な実をつけておりませんでした。ルカによる福音書13章6節以下に、「実がならないいちじくの木」のたとえがあるのですが、そこには次のように語られています。

 ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて育て、実をさがしたが見つからないので切り倒すように園丁に命じます。三年も実らなければ、もうだめではないかというのです。そのとき、園丁は「ご主人様、今年もそのままにしておいてください」ともう一年、最後の努力を傾けてみるから、待ってほしい、と頼むのです。

 このたとえに登場する園丁はイエス様のことです。主人は神様です。神の厳しい審判が迫る中、イエス様は許しを乞います。鬼気迫った状況です。時が来ても実がつかないいちじくは切り取られてしまいます。いちじくの木は、与えられた一年間の猶予の中で、実をつけなければいけないのです。

 本物語ではルカのたとえより一歩進んでおります。つまり一年後のいちじくの姿が描かれているといえるでしょう。一年後も実を実らせなかったいちじくの木は、園丁であるイエス様によってついに「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われてしまうのです。

 それは、イエス様が実のならない責任の罰を与える為に木を呪ったのではなく、実を結ばない木の没落を預言したということになります。そして預言通りに木は根元から枯れてしまうのでした(「根元から」枯れていたという表現は、完全な破壊(ホセ9:16,ヨブ18:16,28:9,31:12)を意味します)。

 いちじくの木に起こった出来事が、これからエルサレムに起ころうとしています。しかし、エルサレムにはまだ猶予が残されておりました。イエス様はいちじくの木の出来事を通して差し迫っている神様の裁きを警告(詩90:6-7,ヨエル1:12)し、悔い改めを促します。

 エルサレムはこの二日目にイエス様がお示しになったことを通して悔い改めが必要なことを悟り、灰をかぶりつつ、罪を悔い、主なる神さまへ赦しを請わなければなりません。そしてそれはイエス様の再臨を待つ私たちもそうでありましょう。

 今自分たちの罪を悔い改めるのでなければ、突然主が来られた時に弁明はできないのです。イエス様はこの後、13章33節にて、いつ家の主人が帰って来てもいいように、準備をしておく必要性を説きます。そこでは信仰的に「目が開かれること」から発展した「目を覚ましていること」に力点が置かれます。

 私たちは常に、イエス様の到来を準備し、いつイエス様が来られても良いように信仰的な身支度をし、信仰的に目を覚ましておかなければいけません。主の再臨を信じる私たちは、そのような準備のもと、生きていくのです。

 イエス様はこの後、20節以下にてこの象徴行為について解説するのですが、いちじくの木に起こった出来事がイスラエルの没落を象徴するものであると解説は省かれております。それを越えた説教、つまりこの出来事の積極的な意義である、実を結ぶ信仰の教説を教えられるのです。

 それは、「悔い改めて、福音を信じよ」という主の宣言の、「福音を信じなさい」ということに重きが置かれた説教となります。

 しかし、「悔い改め」が説かれていないわけではなく、「悔い改め」が前提であることは変わりありません。個の悔い改めがなければ、イエス様が語る20節以下の説教をも理解することは困難でしょう。

 本日の箇所を通して、改めて悔い改めた心で御言葉を聴き、次の説教に向かいたいと思います。


2025年3月2日(日) 主日礼拝 
聖書:マルコによる福音書11章8-11節 
説教:「ホサナ」 大石啓介

1 信仰体験(はじめに)


 イエス様は「神様がすべてを整えて下さる」という確信のもと、エルサレム入城の準備を進めていきました。イエス様はその準備を弟子達にも手伝わせ、命令を受けた弟子たちもまた素直に従い行動します。

 マルコによる福音書11章1-7節を見ると、実に丁寧にエルサレム入城の準備が整えられていったということがわかります。その準備は、神様とイエス様、そしてイエス様と弟子たちの良き関係の中で整えられていきました。

 弟子たちはエルサレム入城の準備の中で(主の命令に従う時)、「主がお入り用なのです」という御言葉通り、主なる神様がすべてを準備してくださっていることを知ることになります。この体験を弟子たちの信仰体験と言うことができるでしょう。

 これまでもたくさんの信仰体験を弟子たちは経験してきました。この体験は、イエス様の御言葉や命令に従う時に起こります。弟子たちはこの経験を通して成長し、信仰が与えられていったのです。そして、神様がイエス様をイスラエルの人々を救う新しい王として立てて下さったと確信することができました(この信仰はまだ熟してはいません)。

 そしてこの弟子たちによって、エルサレムの入場の最後の準備が整えられます。つまり、自分の上着を掛けることで、エルサレム入城の準備が整うのでした。王の入場の現場に居合わせるだけではなく、その準備に携わることは何と幸せなことでしょうか。

 弟子たちはこの瞬間を忘れることができなかったでしょう(四福音書すべてが喜びをもってこの物語を語っていることからもそのことがうかがえます)。

2 多くの人々(信仰者の群れ

 さて、全ての準備が整った時、ついにイエス様が子ろばにまたがります。イエス様は今までご自身の足で歩んできましたが、ここでは神様の用意した子ろばに乗って進みます。今まで人を乗せたことのなかった子ろばは、バランスを崩しながらも慎重にゆっくりと前に進んでいったことでしょう。その光景を、たくさんの人々が目撃していました。

 ちょうどエルサレムでは、三大祭り(春の過越祭(ペサハ)、夏の五旬祭(シャブオット)、秋の仮庵祭(スコット))の一つ、過越祭というお祭りが開催される時期だったからです(過越祭はニサンの月の十四日、あるいは十五日の夜から始まる一週間のお祝い。現在では3月から4月に行われる春の祭り)。

 過越祭のときはパレスチナ全域から、このエルサレムに、神様を信じるたくさんのユダヤ人が集まるため、エルサレムは街の中も途中の道も、人々で溢れかえっていたのです。

 子ろばに乗ってエルサレムに入ろうとするイエス様の姿はたいへん目立っていたことでしょう。現場に居合わせた人々の中には色々な思いがあったはずです。しかし聖書は、目撃者すべての人々の思いを取り上げるのではなく、一部の人々、つまり聖書の語る「多くの人々」にのみスポットをあて、その人々の様子を取り上げていきます。

 聖書がスポットを当てたこの人々こそ、栄光の光を見つけることができた人々でした。「多くの人々」として紹介されている群れは、あのバルティマイのように「この方こそ、旧約聖書が預言したイスラエルを救う王様である」と確信した信仰者の群れであったということができます。

 この信仰者の群れを構成していたのは、弟子たちを始め、ガリラヤから一緒に旅を続けてきた人々ということができるでしょう。しかしその他にも、直近ではエリコから新たに合流した人々(マコ10:46)、そしてエルサレムから出迎えた人々もいたと考えられます。「前を行く者も後に従う者」がいたという9節の表現は、そのことを表しています(ヨハネ12:18)。

 多くの信仰者たちは、子ろばに乗ってエルサレムに入城するイエス様を見て、この方こそ救い主メシアであり、イスラエルを救う王であり、この人によって新しい王国が立てられる、と確信し歓迎したのです。そのため信仰者たちはすぐに行動します。

 ある者は、自分の上着を道に敷きます。この行為は、イスラエルの王様の即位をお祝いする行為です。旧約聖書の証言の中に、上着を道に敷くことで、王の即位の儀式を行ったという記事があります(王下9:13)。人々は旧約聖書の儀式に則り、自分たちなりの王の即位式を行ったといえるでしょう。

 一方、野原から葉のついた枝を切って来て道に敷く人々もいました。この行為は、当時「恭順」、つまり「命令につつしんで従う態度」を現していました。ここで敷かれた枝は、ヨハネによる福音書によれば、なつめやしの木だったようです。なつめやしの木は、デーツを実らせることで有名ですが、まっすぐな背の高い木であります。

 詩編92編はこれを「正しい者」の象徴として取り扱っています(詩編92:12-14)。また、神殿の装飾の図柄にも採用され(王上6:29、32,エゼ40:16,41:18)、他にも仮庵の祭りと呼ばれる祭りで、なつめやしの枝をもって喜び祝う事から(レビ23:40)、「優美」、「勝利」、「祝福」の象徴とも言われていました。

 そのようななつめやしの枝を地面に敷くことは、王の即位を祝うとともに、この王に忠誠を誓うという意味が込められているのです。人々は、それぞれの行為によって、イエス様を、イスラエルに救いをもたらす王様として歓迎し、この方についていくことを示していくのです。

3 ホサナ

 信仰者たちは続けて讃美によって「王の入場」を祝います。

「ホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。」
 
「ホサナ」と言う言葉はヘブライ語であり、直訳すると「どうか主よ、救ってください」と言う意味を持つ言葉です(詩118:25)。

 つまり主なる神さまへの祈りの言葉であると言うことができるでしょう。しかし、出エジプトやバビロン捕囚からの解放を経験したイスラエルの人々は、「救いを願う時、神様がかならず助けて下さる」という経験のもと、「ホサナ」という言葉を、喜びの讃美の中に用いるようになっていくのです。

 つまり、「今、救ってください」と救いを祈る言葉としてだけではなく、「今、救ってくださる」と救いを確信する言葉として「ホサナ」が用いられていくのです。信仰者たちが叫んだこの詩は、独自の詩ではありません。これは詩編118編の25節、26節からの引用です。

 詩編118編は「個人の喜びの詩」に分類される詩です。この詩はエルサレム神殿に入る礼拝者たちの詩でありました(詩118:19以下)。礼拝のために長い旅をしてきた人々が、神殿に足を踏み入れたときに喜びをもってこの詩をうたっていたようです。

 そのため、詩編118編26節の「主の名によって来る人」とは、本来礼拝者のことを指しています。礼拝者たちは、自分自身に救いと祝福があるようにと祈りと、そしてまた救いを与えてくださる神さまに感謝して、讃美の言葉として「ホサナ」とうたっていたのです。

 ところが本物語の信仰者たちは、この詩編を、自分たち巡礼者のためではなくイエス様のエルサレム入城のために捧げています。彼ら彼女らは、巡礼者の神殿到着よりも、もっと大切な預言者の言ったメシアの神殿到着のために讃美の詩を捧げているのです。自分たちのためではなく、王のために、つまりイエス様のためにこの詩を捧げたのでした(マラ3:1「…あなたがたが求めている主は/突然、神殿に来られる」)。

 さらに続けて人々は、次のようにうたいます。

「我らの父ダビデの来るべき国に祝福があるように。/いと高き所にホサナ。」

 これはどこからの引用でもありません。前の言葉を発展させたものと言えます。イエス様を王と認めただけではなく、さらにイエス様によって治められる王国が来ることを讃美します。

「父ダビデの木たるべき国」というセリフは、バルティマイによって語られた「ダビデの子」という言葉と符合します。人々は、ダビデ王の子孫から救い主として王が表れるという神様の約束を信じていました。信仰者はイエス様にその姿を見ます。ついに来るべき王が来て、それとともにダビデの王国が始まった、と実感したのです。

 それはすなわち、ローマの支配のもとにおかれていたイスラエルが、今、自分たちの民の中から立った自分たちの王によって治められ、イスラエルの主権と自由と栄光とを回復する、との確信に至ったのです。それはまさに新しい時代の幕開けであり、神様の支配の始まりであり、よって神の国の始まりを意味していました。

「神の国が来た」という群衆の喜びは最高潮に達し、その喜びは天にいます父なる神様に向けられます。「いと高きところにホサナ」と叫ぶのです。いと高きところに、とは天に住む聖なる神さまに、ということです。その神様が「今、救ってくださるように」と願い、また「今、救ってくださる」という確信が捧げられます。それをもって讃美は閉じられていくのです。

4 一日目の終わり

 ところで、信仰者に歓迎されたイエス様は、エルサレムに入り、そしてそのまま神殿へと赴きました。神殿の境内に入られたイエス様は、周囲を一瞥します。

 その後すぐ、イエス様は十二人を連れてベタニアへと出て行かれて一日目が終了します。神殿の清めは翌朝にまわされましたが、一日目の最後に、イエス様が神殿すべてを見回したことには大きな意味があります。

 なぜなら、エルサレムの現状を王なるイエス様がご覧になったからです。思い返していただくと、イエス様は、この一日目の初めに(ゼカリヤの預言の通りに)オリーブ山にて足を止め、エルサレムを遠くから一望しています。

 そして一日目の最後に、近くからもすべてを見たのです。つまり、この一日目に、遠くから近くから、内からも外からもイエス様はエルサレムのすべてをご覧になったのです。イスラエルの新しい王がすべてをご覧になったのですから、エルサレムはもう逃れることはできません(創11:5以下,18:16以下参照)。王の目に映るものが、都市の未来を決定づけます。

 時が来たのです。もう弁解はできません。

 王が来られることを知りつつ準備せず、王が求めた時にその実を提供できない木は枯れてしまう(マコ11:20)。同じように、エルサレムはこれから神殿を中心に清められていくのです。

 しかしすでに夕方になりました。そのために、イエス様はベタニアに退かれるのですが、それは一時の休息のためではありませんでした。イエス様は夜におこなわなければならないことがありました。それは、これまでと同様、人知れず祈りにおける戦いの中に身を投じることでした。イエス様は、昼はエルサレムにて、夜は祈りにてすべての人々の救いのために働かれるお方、その姿は真の意味でイスラエルを救い統治する王でした。

 その王は、政治的な革命を通してではなく、すべての中心となる神殿革命(礼拝革命)を行い、仕られるためではなく仕えるために来た方、そして多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た王です。この王こそが、イスラエルを救う真の王です。

 イエス様の歩む道は、栄光の道であると同時に、十字架の道であることを忘れては、キリストの本質を見失うことになるでしょう。それは人々の予想をはるかに超えた王でした。人々はそれゆえにこの王につまずき、王の到来を正しく讃美しながら、十字架に引き渡すという罪を重ねてしまうのです。

 しかし、躓いた人々を攻め立てることを私たちはしてはいけないでしょう。なぜならこの時、人々にはまだ聖霊による導きがなかったからでした(ヨハネによる福音書参照)。聖霊による導きなくしては、人は誰もイエス様の本質を知ることができません。そのため、彼ら彼女らがこの出来事の意味を知るのは、聖霊降臨の日となります。知るすべを与えられていない人々をどうして責めることができましょうか。

 私たちが問われているのは罪深い人々を探し出すことではなく、すでに結末を知る私たちが、イエス・キリストを知る者として、同じ罪を繰り返さない事、そしてなぜイエス様が苦難を歩まなければならなかったのかに目を向けることです。開かれた目と耳でその答えを理解し、悟ることです(マコ8:18)。

 そのためにもこれからはより真剣にイエス様の御後に従い、自分の十字架を背負いつつ、エルサレムにて語られる御言葉を聴き、イエス様が成すすべてのことを見、その御心を知るための旅を続けたいと思います。