2025年5月4日(日) 主日礼拝(合同礼拝・日曜学校日)
聖書:マルコによる福音書12章18-27節
説教:「復活について」 大石啓介
1 復活はないと言っているサドカイ派
言葉尻を捕えて陥れようと画策したファリサイ派やヘロデ党の人々を見事退けたイエス様の前に、今後はサドカイ派の人々が尋ねて来ました。サドカイ派とは、エルサレム神殿を中心とする祭司的・貴族的階級にいる立場の人々でした。
ローマ帝国支配下のユダヤにおける最高裁判権を持った宗教的・政治的自治組織であるサンヘドリンの多数を占め、むしろ政治的団体に近い宗派でありました。そのためでしょうか、サドカイ派はこの世の権力者との結びつきが強く、世俗主義・現実主義を特徴としています。
宗教の面で言えば、彼らは、モーセの権力を重んじ、旧約聖書(タナク)の中でも、「モーセ五書」(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の「律法(トーラー)」)を特に重んじていました。
「モーセ五書」に明白に成文化されているものしか拘束力はないと信じていたため、彼らは、旧約聖書に収められた「預言書」(ネビーイーム)や「諸書」(ケスービーム)を認めてはいたのですが、それらを基準にして律法を解釈することはしませんでした。
更に彼らは、ファリサイ派とは違い、モーセ五書を根拠としない父祖の伝承についても義務的に守るべきものとは考えておらず、極めて保守的であったと言ってよいでしょう。
また、使徒言行録には「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めている」(使徒23:8)と紹介されています。このことからサドカイ派は現実主義といった特徴を有していたと言ってよいでしょう(したがって彼らは、現実を越えた形而上学的存在をいっさい認めないという点で、今日の多くの人々の心情に通じるものがあると言えます)。
そのような彼らがイエス様に近づいてきたのです。それは、「復活について」尋ねるためでした。彼らはイエス様を「先生」と呼び、まるで弟子のようにふるまっていますが、イエス様の教えを乞いたいと願って、敬意と信仰的関心をもってイエス様に近づいてきたのではありません。18節にあるように彼らは、「復活はない」と断言していました。
なぜなら、復活への言及はモーセ五書にはなく、それは後期の思想においてはじめてあらわれるものだったからです(ヨブ19:25,イザ25:8,26:19,ダニ12:1-3等)。彼らがイエス様に近づいたのは、自分たちの主義主張を通すためでした。
それは、文脈的に考えれば、ファリサイ派やヘロデ党の人々と同様に、イエス様の言葉尻を捕えて陥れようとして近づいたということができるでしょう。そのような彼らが、イエス様の前に立ちはだかります。彼らは、準備した二枚の手札をもってイエス様に勝負に挑むのでした。
2 レビレート婚(と結婚)について
さて、サドカイ派の人々がまず初めに切った手札は、モーセの律法の権威でした。彼らはこれを盾に「復活はない」ことを主張します。つまりこういうのです。
「モーセは私たちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄のために子をもうけなければならない。』」19節の二重鉤括弧内で言及されているのは、いわゆる、レビレート(レビラト)婚と呼ばれる規定です。
この規定の根拠は、古くは創世記にまでさかのぼります(創25:5)。またレビレート婚が定められたのは、申命記の時代のことであり、新天地に入る前に、モーセがイスラエルの民に向かって神の律法を再確認した時でした(申25:5以下)。
申命記の時代、人々の間では、「死後、人格はただ子孫の生の中に、そして子孫の生をとおしてのみ存続する」と考えられていました(L・ウィリアムソン)。そのために、一族の血筋を絶やさないことも「生きる」ことだと考えられていたのです。
医療が発達しておらず、長寿が約束されていない時代に、「死んだ兄弟の名を継がせ、その名をイスラエルから絶やしてはならない」(申25:6)と考え、また、これから神様から与えられる土地を、その土地を与えられた一族が責任をもって管理し続けるために、一族の血筋を絶やさない事は何よりも重要なことだと考えられていたのです。こうした中、レビレート婚は、イスラエルにとって必要な規定の一つと見なされていたのです。
注目したいのは、当時のレビレート婚は夫を先に亡くし、子どものいない未亡人女性を助けるための規定でもあったという点です。
古代社会では、女性は、父親・兄弟・夫などに依存する生活をしていました。ですから未婚の女性や夫に先立たれた女性は、非常に厳しい状況の中に置かれたわけです。
安定した居場所を失った彼女たちに残された道は、奴隷になるか餓死するか(娼婦になるか)のいずれかだったともいわれています。そのため、子どもを残さずに死んでしまう事は呪いと等しいとさえ考えられていたのです(士11:37-38,創30:1以下、サムエル上1:16以下参照)。
しかし、レビレート婚によって、彼女は亡くなった夫の名で子どもを産む機会を得ることができ、存在と居場所とを確保することができました。律法の内に、レビレート婚が規定されたりしたことは、イスラエルの民がこの世において「神の民として生き(続け)る」ために与えられたものであり、また選択した生き方でありました。イスラエルの民は男女共に、この規定を受け入れていたのです。
こうしたレビレート婚の法的権威のもとに、サドカイ派は復活を否定します。彼らはこう主張しているのでしょう。
つまり、「イスラエルの民がユダヤ人と呼ばれるようになった今でも、神の民として生きる私たちは、律法の下に子孫を増やし、名を残し生をつないで、生き続けてきた。それなのに、もし復活がありえるのであれば、レビレート婚をしてまで守り続けきた、先祖代々の命の連鎖に何の意味があるのか。
復活があるのであれば、それはこの規定を否定することになるのではないか。それこそ、モーセの律法に背く思想であり、神様への背信ではないか」と主張するのです。サドカイ派は特に、血縁を大切にした貴族階級の人々で構成された宗派でしたので、復活を認めることができなかったのでしょう。
彼らはさらに、二枚目のカードを切ります。復活後の結婚を題材にして、復活はないと主張するのです。彼らは、「復活がある」と仮定した場合、次のような不具合が生じるというのです。レビレート婚によって7人の兄弟の妻となった女性が、子を残さずに死んで、復活した場合、復活後は誰の妻になるのか。彼らはこの問いに答えよとイエス様に詰め寄ります。
ユダヤ教社会では結婚は創世記2章24節が示す通り、一夫一婦制が基本です(旧約聖書において一夫多妻制を採ったイスラエルの家父たちは多くいましたが、結婚に関する神様の最初の意図は、一夫一婦制です。
それは新約聖書の時代に回復する段階に入ったと考えられます。旧約聖書の時代に一夫多妻は時代の必要に応じて黙認されることもありましたが、多夫一妻は認められません)。一人の妻が七人の男を娶ることは認められないのであれば、誰の妻となるのでしょうか、とイエス様に問うのです。
聖書的根拠を示し、主張して、質問する。サドカイ派が行った一連の流れは(現実離れした極端な問いではありますが)、筋が通っており、説得力があるように見えます。しかし、イエス様は彼らの大きな間違いに気づきます。
3 イエスの答え
イエス様は、次のように答え、彼らの質問の空しさと無意味さを指摘します。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」彼らは聖書も神の力も正しく理解していないために、復活について「思い違い」をしていたのです。
ルールを間違っていたらゲームが成り立たないように、復活についての正しく理解していなければ、復活についての議論などできません。
誤った主張に向き合い、そこからでる問いに答えることは、丁寧な対応に見えても、正しい対応とは言えません。正しい対応とは、根底にある誤りを指摘し、正しい道を教え、導くことでしょう。
イエス様は根本から間違っているサドカイ派の問いを退け、「復活がある」ということ、それが神様の力によるものであり、神様のみこころに適う事であり、それが聖書によって証しされていることを示していくのです。
そのためにイエス様はまず、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになるのだ」と教えられます。
復活とはただ死者が蘇生することでも、また地上的・人間的な生活に戻るということではない、ということが語られます。復活とは、そこに神の力が働き、その後の生も含めて「全く新しい存在の仕方」になることであると、イエス様は教えます。
「めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになる」とは、男女の性別から解放されて、性に苦しめられることのない生き方が実現する、と言う意味ではありません。
昨今の問題視される男女の性課題の回答をここに求めてはいけないでしょう。カール・バルトは、「よみがえりにおいては自然の欠陥を除去することが問題であって、自然そのものを除去することが問題ではない」と言っています。
復活においては、地上的生のいっさいの重荷・問題性から解放されたものとして生きる、ということが言われているのであって、男・女という被造物的規定がなくなることではないのです。
素晴らしいものとして創造された被造物の規定はそのままに、復活において、地上的生の一切の重荷・問題性から解放される、復活の体が与えられていくのです。
パウロが復活の体について、「この朽ちるものは朽ちない者を着、この死ぬべきものが死なないものを着る…」と表現していますが、それはまさにこのことを示しているのでしょう(Ⅰコリ15:53以下)。
罪びとである人間が、死の後においても、復活によって、天の御使いのように生きていくことが可能なのは、神の力が働くほか有りえません。それゆえに復活は希望であります。それを否定することは、神の力を知らないからに他なりません。
更にイエス様は、復活の根拠を、モーセの書の『柴』の箇所の神の御言葉によって示します。イエス様が引用したのは、出エジプト記3章6節の『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』という御言葉です。
この御言葉は、神様が初めてモーセに語り掛け、その聖なる御名を啓示された場面の御言葉です。この御言葉は誰もが知る、聖書の中心的聖句と言ってよいでしょう。
イエス様は、(サドカイ派が示したレビレート婚の箇所のような)ほじくり出さなければわからない片言によってではなくではなく、モーセ五書の中でも、サドカイ派たちも認めざるをえない中心の聖句、出エジプト記3章6節の神の自己啓示の言葉によって復活があることを示します。
「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という出エジプト記3章6節の御言葉は、出エジプト記3章14節の「私はいる、という者である」という、同じく神の自己啓示の御言葉と結び合せて理解することがもとめられるでしょう。
この御言葉によって神様は、死んでいった先祖代々が信じて来たイスラエルの神である、ということを語っているのではありません。
神様はご自身を、人間と無関係に自存する神としてではなく、人間にかかわりをもち、ともに在し、救いの約束を成就する方であると自らを紹介しています。
つまり、神様とは、人と共に生きてくださる神様なのです。ある牧師はこう言います。
『神様がある特定の人間の神となられたとすれば、この神による関係は、何ものによっても、すなわち死によっても破棄されることはないのです。
神は永遠の神であり(イザヤ40:28,ロマ16:26)、「人はみな神に生きる」(ルカ20:38)。そのために、人は死んでも「わたしはあなたの神である」という言葉のゆえに、生きるのです』(佐藤司郎)。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」とイエス様が強く断言される時、死によって終わる生は考えられなくなります。
神と共にある生は、たとえ肉体が死を迎えようとも、復活によって御使いのように生きる希望へと紡がれていきます。神と共にあるとき、生は死で終わるのではなく、御使いのように生きる生へと続いていくのです。そこに復活の希望があります。
復活があるという希望は、個人の生を尊重します。それは、神と共に生きた人々とまた出会える希望を私たちに与えてくれます。このような生があることをイエス様は示してくださるのです。
ヨハネによる福音書の有名な物語の一部を引用して、説教を閉じたいと思います。
「イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、親でも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています。」(ヨハネによる福音書11章25節)