2024年9月8日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書9章1節
説教:「神の国が力に溢れて現れる」 大石啓介
1 あらすじ
旅の初めから福音を宣べ伝えてきた主イエスは、旅の後半を迎えるにあたって、新たなる教えを教え始めます。それは、弟子たちのメシア告白に応答する形で行われたものでしたが、主イエスにこれからも従いたいと願う人々すべてに向けられた教えでした。
主は、ユダヤ人が信じて来た「強い支配者」としてのメシア像を認めつつも、それを越えて、ここに新たなる真のメシアをお示しになります。つまり、人々を救うメシアとは、イザヤ書の「苦難の僕」として救い主であることを人々に告げたのです。
宗教的指導者に虐げられついには死に追いやられる「弱い」メシアが来たと言う告白に、人々は驚き戸惑うのですが、しかしその方こそ神の御言葉である旧約聖書の記述に則った真のメシアでありました。主は、メシアは父なる神の計画に従い、人々の手によって十字架にかけられ死ぬと宣言なさったのですが、その代価によって、神に背いた人々の罪は贖われ、救われると、主はおっしゃるのです。更に主は、復活をも語り、死に打ち勝つ勝利を約束されるのです。
主は、御自身の内においてそのことが示されると伝えます。つまり、救い主メシアは御自身であること、神様の救いの計画が実行されるために、主は十字架の道を歩まれること、これからの旅は死への旅であること、しかし死を克服して復活なさることを、後半の旅の初めに、予め告げ知らせるのでした。
そのことを踏まえて、再度主は弟子たちと群衆をご自身の元に招き命じます。「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」!それは、「命を捨てて従え」と言う命令ではなく、「命を得るために従いなさい」と言う命令でした。
人々は驚きの事実を知り、自分自身の信仰が揺らぐのを経験します。信じてきたことが根底から覆されるわけですから、その動揺ははかり知れません。しかし主と主の御言葉を恥とせず、真実であることを心に留め、信仰を立て直して主に従っていくことが今求められているのです。
人々は今、「神に背いた罪深いこの時代に」生きており、また自分たちも神に背いた罪深い者であることに気づかなければいけません。その時代の未来に待っているのは、滅びであります。神の国、つまり神様の支配がすでに来ているのですから、悔い改めて、福音を信じ、神の国の民となる準備を行わなければならないのです。
2 よく言っておく
8章38節で一度説教を閉じた後、主イエスは、続けて新たな御言葉を人々に授けます。それは、忍耐の先にある、希望の御言葉でした。それが9章1節の御言葉です。日本語訳聖書では「よく言っておく」という言葉で始まる主イエスの御言葉は、ギリシャ語本文で見てみますと、「アーメン」という言葉から始まっていることがわかります。
「アーメン」はヘブライ語に由来を持つ言葉で、ギリシャ語では通例「そうであるように」(γένοιτο)と訳される言葉です。しかしここでは「アーメン」( ἀμήν)という言葉がそのまま採用されています。旧約聖書にその根拠を持つ確かな御言葉、実現される御言葉を語る際に、主は「アーメン」と語るのです(マコ3:26,8:12,9:41,10:15,29,11:23,12:43,
13:30,14:9,18,25,30参照。「アーメン」を日本語に直訳すると「確かに」「本当に」となります)。
「アーメン」はその御言葉に権威と真実性を与えます。そのようにして語られた御言葉は、先の説教を越える驚くべき御言葉でした。
「ここに立っている人々の中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
主はこの御言葉のうちに二つの宣言をなさっています。一つ目は、神の国が力に溢れて現れるということです。
神の子イエス・キリストにより、すでに示された神の国ですが、それは人々の内に隠された形で近づいてきています。神の国が近づいていることに人々が気づかないのは無理もありません。なぜならそれは、主の「弱さ」のうちに示されているからです。人々まだ弱さの内に強さがあることに、目が開かれておらず、主を通して示された事柄が「神の国」の事柄であることに気付けないのです。
パウロはこのような言葉を残しています。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」。この御言葉を覚えておきたいと思います(Ⅰコリ1:25)。先ほども触れましたが、特に8章の最後で語られる御言葉の内に、僕として、「弱さ」において来られたメシアが示されているにも関わらず、未だに人々は盲目でした。「キリストは、弱さゆえに十字架につけられま」すが、「神の力のゆえに生きておられ」ることに目が開かれなければいけません(Ⅱコリ13:4)。
弱さの内においても、人の強さよりも強い神様が、力が溢れて来た日に何が起こるのかを想像しなければならないでしょう。主が「神の国が力に溢れて現れる」と宣言されるのですから、その日は確実にやってくるのです。
力ある神が来られた時、罪を背負ったままの旧約聖書の人々はどうなったでしょうか。神の国が力に溢れて現れた時、罪を背負ったままの人々はどうなるのでしょうか。その時には「神に背いた罪深い時代」に生きていたのでは遅いのです。ですから主は、その日主に恥じられぬよう、今から準備をせよとおっしゃいます。今こそ、義なる神の前に畏れをもって立ち、主と主の御言葉に従わなければなりません。
しかし主は、この一節を、単なる忠告と批判の御言葉として語っていません。主は、愛と希望の御言葉として語ります。そのことは、もう一つの宣言をみることで明らかになるでしょう。つまり、「ここに立っている人々の中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」という宣言です。
「神に背いた罪深いこの時代に」、福音を携え、悔い改めを説き、福音の中に生きるように人々を招く方が、主であることを今一度思い出したいと思います(マコ1:15)。そのような主が目の前の人々に向かって「決して死なない」者がいるとおっしゃるのです。
この御言葉は8章35節の御言葉と深く結びついております。つまりそれは、主に従う者は救われ、命を得るゆえに、決して死なない、という宣言でもあります。前回の説教でもお話ししましたが、この命は、単純な生命活動のための命ではありません。神様の息によって生かされる、真の命であり、真の生き方です。
信仰、希望、そして愛溢れる生き方に与ることができる命であります。死にたいと願う命とは全く別物の、生きたいと願う命に与るのです。その命は決して尽きることなく私たちを活かし、なおかつ生きることに喜びと、愛と平和と平安が与えられる生き方を、主は約束されます。主はそのような命に私たちを招いておられます。
この約束は、「ここに立っている人々」に向けられています。ここで用いられる「立つ」と言う言葉は、漠然と立つという意味ではありません。ギリシャ語においてこの言葉は、「祭儀の時に神の前に〈立つ〉」という意味で用いられる言葉です。主の御言葉を聞く事、それは「神の前に立つ」ことを意味します。そのためこの御言葉は、礼拝において主の前に立つ者に与えられる御言葉であり、その人たちに「命」を約束する御言葉なのです。
もちろん、人は塵で作られたものですから、いずれ朽ち果ててしまいます。しかしそれを越えたよみがえりの命があることを、主は宣言されるのです。主の御言葉は、ただ宣言に終わらず、弟子たちと群衆、そして私たちは御言葉が主の内に実現されるにされるのを見るでしょう。約束の成就を信じて、「決して死なない」と言う宣言を恥とせず、主とその御言葉に従い歩む私たちでありたいと思います。
3 繰り返し思い返せ
この御言葉を最後に、後半冒頭の説教は終わり、9章2節から再び物語は前進します。9章1節の御言葉は、その章分けの通り、9章2節以下の物語とつながりをもっているのですが、実は、9章1節の御言葉は、共観福音書であるマタイ、ルカでは、「死と復活」に関する教えの締めの御言葉となっています。
マルコによる福音書は、「死と復活」の説教の最後としてではなく、独立した御言葉として分けて捉えているのです。その心は、この一節が、特にこれから先の物語と深くかかわることを読者に知らせるためでしょう(のちに、マルコによる福音書が章分けされる際に、この御言葉は9章の冒頭の御言葉として取り扱われ、9章2節以下に語られる物語にかかる一節として取り扱われることになります)。
もちろん、他の福音書が宣べ伝えるように、8章の終わりの説教の内容を、本日の一節が担っている事実は変わりません。ですからこの一節は、8章最後の御言葉と9章以下の物語を引き継ぐ、架け橋の役割をも担っていると言えるでしょう。マルコによる福音書は伝えるのです。この御言葉をもって、これから先の物語を刮目せよ!
私たちはこの構成により、「死と復活」の説教と9章1節の御言葉ともに、9章2節以下の物語に目を向けていくことになります。9章2節の「六日の後」、と言う言葉で区切ることのできない連続性が9章1節には暗示されていることを忘れてはいけないでしょう。これから、主イエスに従う旅の途上で、繰り返し立ち返り、思い返していきたいと思います。
「よく言っておく。ここに立っている人々の中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
この希望に、私たちも「アーメン」と応え、主に従いたいと思います。
2024年9月1日(日) 主日礼拝(合同礼拝)
聖書:マルコによる福音書8章36-38節
説教:「罪深いこの時代」 大石啓介
1 十字架
「神の子・イエス・キリストの福音」の物語を読み進めています。物語は、マルコによる福音書8章31節から、ついに後半を迎えました。第二幕の幕開けは、イエス様の「死と復活」に関する教えから始まります。
ある牧師は、マルコによる福音書の前半で語られる福音を「神の国の福音」、後半の福音を「十字架の福音」とたとえています。そのため、後半冒頭(8章31~9章1節)で語られる十字架の教えは後半全体をつらぬく重要なテーマだということでしょう。
マルコによる福音書は、冒頭から「福音」を宣べ伝えるイエス様を描いてまいりました。福音とは神の国の到来、つまり神様の支配の内に実現される、人々にとっての「良い知らせ」のことです。
神の国の到来に具体的に起こされる「良いこと」とは何なのか、イエス様はご自身を通して人々に示されます。福音宣教の旅の前半、イエス様は、奇跡による救いや新しい家族の形成とその交わりを通して、「神の国の福音」がいかに幸いなことかをお示しになりました。
後半、イエス様の宣べ伝える「福音」は、より深い意味を帯びてきます。ある意味、ここから語られる福音こそ、私たちが受け入れ、聞かなければならない、そして悟らなければならない福音です。
その福音とは、「死」と「復活」の福音、つまり「十字架の福音」と呼ばれるものです。イエス様は、イエス様が十字架にかけられ、死ぬこと、そして復活することは、神様からの福音であり、人々にとって良い知らせである、と教え始めるのです。
ローマの死刑の中でも最も残酷で最も罪の重い人が架けられる「十字架」と、神様からの良い知らせである「福音」がどうして交わるのでしょうか。イエス様が人々を不幸に陥れるサタンのような存在で、十字架にかけられることが人々の平和のために必要であり、それが神様の計画だった…とでもいうのでしょうか。決してそうではありません。
イエス様は罪なき唯一の人であり、人々を救うキリスト(メシア)であり、真の愛であり、真に義なる方、そして人に仕える「人の子」でありました。神様もイエス様を「愛する子」と認めておりますし、汚れた霊さえもイエス様を「神の聖者」であることを認めています。
では、罪とは無縁のイエス様が、なぜ罪人の頭が受ける十字架に処せられなければならないのか…この難問に、ペトロを始めとする弟子たちは戸惑います。そのような弟子たちに対し、イエス様はイザヤ書を引用し、「主の僕」と救い主「メシア」を結合させ、その答えとします。
さらに、群衆を寄せ集めて、すべての人々に「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と命じるのです。今すぐに理解できなくとも、従う中で示される答えがあることを、イエス様は教えられます。
続いてイエス様は、「私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それ救う」という希望を語ります。これは、「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従」うことによって、あなたの命は救われるという教えです。イエス様が弟子たちと群衆に特に伝えたかったのは、8章35節の御言葉でしょう。イエス様は十字架の後も続く「命」に目を向けるようにと、人々を導くのです。
2 命(Ψυχή)
イエス様に従うことによって、命を得ることができるという教えの後に、36節にてイエス様は、「人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか」と語ります。イエス様はここで、全世界と人の命を比較して、一人一人に備わる命の大切さを語っています。更に続けてイエス様は37節にて「人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」と語ります。
お金をどれだけ払っても、命は買い戻すことはできません。日本にも『命あっての物種』ということわざがあるように、36節と37節の御言葉は、宗教を問わず、全時代全世界を通して人々に受け入れられる大切な教えであることは疑いようのないことでしょう(イエス様の時代にも、命の大切さを説く、似たようなことわざが存在していたようです)。
命に関するなじみある教えを語り、イエス様はここで、「命」について教えられます。イエス様は35節から37節にかけて「命」(Ψυχή)という言葉を4度用いているのが、ギリシャ語本文からわかります。マルコによる福音書全体で8回用いられている「命」(Ψυχή)のうち、その半分がここで用いられているのです。それゆえに十字架の死を語るのと同じくらい「命」(Ψυχή)に力を込めて語っていることが明らかです。
それは、命を正しく理解している人々が少なかったからでしょう。人々は、本当の命の意味を知らないために、自身の命を失う危険にさらされていました。38節にてイエス様は、今の時代を「神に背いた罪深いこの時代」と表し、神に背いて生き、自己中心的に生きる罪深さゆえに命を失う危機に瀕している人々を暗示しています。命を得るために、イエス様とその御言葉に従わなければならないのです。
また、イエス様の語る命は一般的に知られている命を越えた意味を含んでいます(辞書によると、命とは「人の生命活動を維持するために必要なもの、生物が生きていくための力となるもの」となっています)。イエス様の語る「命」(Ψυχή)を理解するためには、私たちは創世記の御言葉にまでさかのぼる必要があるでしょう。聖書は一般的な意味を越えて、より深い意味で命を理解しております。
それは、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」という創世記2章7節の御言葉に基づいています(創2:7)。つまり、人の命の根源は、神様の「息」(Ψυχή)である、と聖書は語ります。
人の命は神の息に由来するという聖書の教えは、聖書全体を通して語られる大切な教訓です。イエス様が「命」(Ψυχή)を大切にせよとおっしゃる時、それは、命が神様からのものであることを思い出すようにと命じているのです。
また、命とは、生き方そのものを指す言葉でもあります。ルカによる福音書は、同じ物語を語る際、「命」を「自分自身」と置き換えて語っています(ルカ9:25)。
「自分自身を失うなら、何の得があろうか」。
イエス様は、自分自身を見直すように促し、人々一人ひとりの生き方そのものを問うておられます。自分は神に背いて人生を生きていないか、神様を忘れ、自己中心的に生活しているのではないか、その問いを繰り返し問われるのです。神様とつながりを忘れ、自分勝手に生きていれば、命は失うことになるということであります。では、神様とのつながりはどうやって生まれてくるのでしょうか。
それはやはり、「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」という御言葉に従うことでしょう。そのことにおいて、新しい命を得るのはもちろん、自分自身を救う生き空を獲得できるのです。
命は自分自身のものではなく、神様から与えられ、神様によって養われるものです。そして何より、神様が養ってくださるものです。それゆえに、神様から離れたままでは、いずれ命は尽きてしまうのでしょう。命を失ってしまえば、全世界を手に入れても空しく、またその時になって買い戻そうとしても後の祭りなのです。
ですから今、命をつながなければいけません。そのためには、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエス様に従う事、また、イエス様のため、そして福音のため自分の命を失うことが求められていくのです。それが唯一の道であると、イエス様はおっしゃいます。
神の子であり、救い主であるイエス様に従うことによってのみ、人の命は神様の息と結びつけられます。命を得るためには、これ以外の道はないことを、イエス様は教えておられるのです。
3 神に背いた罪深いこの時代
続けてイエス様は、イエス様とその御言葉を恥とする人々の辿る道を次のように語ります。
「神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」(マコ8:38)
「神に背いた罪深いこの時代」それは、「神様に背くがゆえに時代そのものが命の危機に瀕している」と言い換えることができるでしょう。これは、時代をつかさどる社会や人々への厳しい批判でもあります。この批判を受け、人々は神様に背く罪深い時代に生きていること、また自身も神様に背く罪深い存在であることを自覚しなければならないのです。
この罪の芽映えの中に、イエス様は宣教の初めから語られる「悔い改めて、福音を信じなさい」という御言葉が生きてきます。人々は、イエス様とその言葉を受けて、恥じることなく、今こそ、信じなければならないのです。
ところで、イエス様はここに、人の子は栄光のうちに天使を連れて来臨する、と宣言されます。終末論的な響きを含む御言葉ですが、その日には隠されたことのあらわになり、この世の評価基準の偽りが明らかにされ、イエス様のおっしゃっていたすべてのことが真であることが明らかにされます。
イエス様はその日、「私を否定する者を私も否定する」という宣言をしています。これはさらに言うならば、終わりの日に命を失うことになる、と言う宣言でもあります。しかしこれは、単なる否定ではなく、主眼とすることころは、神に背く罪深い世にあってイエス様に従うことを強く促すことにあります。
その時が来ては手遅れになる。だから、今私を信じて従いなさい。厳しい言葉の内には、イエス様の愛に基づく強い願いが隠されていることがあることを見逃してはいけないでしょう。31節以下の教えは、大変難解で、また大変厳しい批判を含むものです。しかしそれは、深い愛情の上にかけられる言葉です。
命の危機に瀕した愛すべき者のために投げかけられる厳しい言葉です。その言葉に耳を傾けず、目を背けるのであれば、命が失われてしまうのです。そのことをイエス様は望んではおりません。イエス様の愛の説教を私たちは心して聞き、胸に刻むこと必要があるでしょう。
罪深いこの時代に響く、イエス様の愛の御言葉を胸に、私たちはこれからもイエス様に従うものでありたいと思います。