読む礼拝

「からだを殺すことができても、魂を殺すことができない者どもを恐れるな。」
                      (マタイによる福音書10:28)


恐れるな


 イエス・キリストは12弟子を遣わすに当たって、三度繰り返して「恐れるな」と命じられました。「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威」を与えられたはずの弟子たちが、どうして三度も「恐れるな」と言われなければならないのでしょうか。じっさい、別の機会に派遣された72人の弟子たちは喜んで帰ってきて「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」(ルカ10:17)と報告したのでした。どうしてイエス様は「恐れるな」と命じられたのでしょうか。

十字架につけられたキリストを宣べ伝える

 それは、弟子たちに命じられているのは「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」(Ⅰコリント1:23)ことだからです。「十字架につけられたキリスト」は「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(Ⅰコリント1:23)であって、それを宣べ伝えるようとすれば、「弱くかつ恐れ、ひどく不安」(同2:3)であるほかないものなのです。

 なぜなら、十字架につけられたキリストは、何よりもまず私たち人間の罪を明らかにするものだからです。それは神の義の前に裁かれ、呪われ、滅ぼされるほかない私たち罪人の姿を表します。けれども、自分が罪人であること、贖(あがな)われ赦されなければならない存在であることは、私たち人間にとって、聞きたくないこと、見たくないこと、知りたくないことです。

私たちは、自分が罪人だと思いたくありません。たとえ聖人君子ではないとしてもそれなりに一生懸命に、大きな過ちなく生きてきたと思いたいのです。それを否定し、「悔い改めて福音を信ぜよ」と迫る者たちを煙たく思い、退けようとすることはむしろ当然です。この頑なな思いを砕くためにこそ福音は託されました。だからこそ福音を語ることには恐れが伴うのです。

イエスがキリストであるということ

そして同時に、イエスがキリストであることを証しするとは、「食するひまもうち忘れて、虐げられし人を訪ね、友なき者の友となりて、心砕きしこの人」(讃美歌121番)が救い主であることを証しすることです。それは、私たちの救い、私たちの喜び、私たちの命とは、自分自身が強くなり、大きくなり、強くなり、偉くなり豊かになることの中にはないこと、小さくされた人、弱くされた人、虐げられた人貧しくされた人の傍らにあり、その側に立ち、その人と共に生きることの中にあることを証しすることです。

最も大切な戒めの前に

それは、私たちの神様の前での生き方と共に、隣人の前での生き方を問うことです。私たちが「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」、そして「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」との「最も大切な戒め」に生きているかどうかを問い、生きるようにと招くものなのです。

 それは、自分が大きく、強く、偉く、豊かであると思っている人、今はそうではなくても、いつかそうなりたいと思い、そうなることができると思っている人にとって、耳触りであり、苛立ちと怒りを引き起こすものとならざるを得ないのです。そして、自分が大きくなるため、強くなるため、偉くなるため、豊かになるために隣人の困窮に目をつぶり、時に犠牲にしてきたという後ろめたさと罪責感を持つ者にとって、それは認めることのできない世迷い言なのです。

「恐怖の治療法」

1950年代から1960年代にかけての、アメリカの黒人(アフリカ系アメリカ人)による「公民権運動」の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師の説教の中に「恐怖の治療法」と題されたものがあります。ヨハネの第一の手紙の「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである」(4:18)と共に、マタイ福音書10章26節~31節が引用されている心に残る説教です。

憎しみ・恐怖・罪悪感

そこでは、「憎しみは恐怖に根ざして」おり、その恐怖は「罪悪感」を背景にしているという卓見が示されます。「人種差別は、優先的な経済的特権の喪失、社会的地位の変動、異人種間の結婚、新しい状況への適応などに対する非合理的な恐怖に支えられている」(『汝の敵を愛せよ』新教出版社、1965年、211頁)。「罪悪感にさいなまれた白人少数グループは、もし黒人が権力を握れば、情け容赦もなく年来の積み重なる不正義と残虐行為に対し報復してくるだろうと恐れているのだ」(212頁)、「黒人は彼らに何も恐れる必要はないこと示してやらねばならない。黒人は、過去を許すのであり、しかも喜んで許すからである。黒人は、自分が自分自身と白人の両方のために正義を求めていることを、白人に納得させなければならない」(同)。そして、そのために愛と非暴力による大衆運動を訴えるのです。

ブラック・ライヴズ・マター

現在、世界中に広がっている「ブラック・ライヴズ・マター: Black Lives Matter=BLM:黒人の命は〔/も/が/こそ〕大切〔/問題〕)」の運動も、この公民権運動の延長線上に位置づけることができるでしょう。法的には平等を勝ち取ったはずの黒人が、現在もなお、司法を中心に、教育や医療、職業選択や居住地といった分野で構造的に差別され、その命が軽んじられている。以前から問われ続けてきた問題が、新型感染症の蔓延という状況の中で可視化され、さらに白人警官による黒人の殺害というショッキングな出来事によって世界的に大きな動きとなっています。

マニフェスト・デスティニー

その際、しばしばあげられる「白人至上主義」は、アメリカ合衆国の世界史的な使命の表明として用いられてきた「マニフェスト・デスティニー、Manifest Destiny「明白なる使命〔/運命/大命〕)と共に、アメリカ合衆国のかかえる歴史的な問題であると言えるでしょう。それは、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」という崇高な「独立宣言」によって成立したアメリカ合衆国が、実際には先住民族であるネイティヴ・アメリカンの排除と奴隷制度という現実の上に成り立ってきたという、どう考えても正当化できない根本的な矛盾を正当化するために用いられてきた理屈です。

この「マニフェスト・デスティニー」は、「文明は、古代ギリシア・ローマからイギリスへ、そして大西洋を渡ってアメリカ大陸へ移り、さらに西に向かいアジア大陸へと地球を一周する」という「文明西漸説」に基づいた文明観・歴史観を意味していました。そして、経済的自由主義・政治的民主主義と同一視されたこの文明の担い手であり伝道者として神様から選ばれたのがアメリカ人民であると考えられたのです。当然のことながら、この場合に「アメリカ人民」とは「ワスプ」(WASP:White Anglo-Saxon Protestant=ホワイト・アングロ=サクソン・プロテスタント:アングロサクソン系プロテスタント白人〔男性〕)を意味し、その「崇高」な使命のためにはアメリカ・インディアン(ネイティヴ・アメリカン)や黒人(アフリカ系アメリカ人)の犠牲はやむを得ないものとして正当化されたのです。

それは西部「開拓」、さらには対スペイン、対メキシコ、対フィリピン戦争、ハワイ諸島併合をはじめ、ベトナム戦争、さらにはアフガニスタン侵攻に至るまで、アメリカ合衆国の帝国主義的な領土拡大や、覇権主義を正当化するための言葉となりました。

イギリスでもこの言葉が用いられ、その理念は広い意味でヨーロッパ先進諸国とアメリカによる世界支配、植民地主義の正当化の論理とされました。日本の「八紘一宇」もそのバリエーションといって良いでしょう。この「植民地主義」全体に対する問題提起、アンチテーゼが「ブラック・ライヴズ・マター」のムーブメントなのです。だからこそそれは、アメリカ合衆国にとどまらず、日本を含む全世界に広がっているのです。

「あなたがその人です」

そして、この「メニフェスト・ディスティニー」や「白人至上主義」の形成にあたって、キリスト教もまた大きな責任を負っています。教会は植民地支配をキリスト教の布教活動の一環として正当化し、「インディオや黒人は人間ではない」という理由で奴隷制度を容認したのです。アメリカ独立宣言の起草者の一人で第3代大統領のジェファーソンを始め、アメリカ合衆国の建国の祖たちのほとんどは奴隷所有者でしたし、教会の牧師や長老たちの中にも奴隷を持っていた者が少なくありません。奴隷制度をめぐって戦われた南北戦争に際して、教会は奴隷制度の容認派と否定派に分裂し、それはつい最近まで続いてきたことは私たちの知るところです。

それどころか、北部諸州の奴隷解放政策ですら、奴隷として所有して食事や健康のために配慮するよりも、労働者として雇って賃金だけ支払ってあとは自己責任に任せた方がコストがかからないという経済的理由が大きかったと言われています。

「神様があんたを見て下さるんだよ」

キリスト教は決して無罪ではありません。けれども、こうしたあり方に対して意義を申し立て、虐げられてきた人たちの側に立ち、またそうした人々が自ら立ち上がる力を得てきたのもまたキリスト教でした。

こうした運動の代表者とも言うべきキング牧師は、絶え間ない脅迫、逮捕、テロによって命を脅かされます。そして「表向きは力と勇気に満ちた印象を与えようと努め」ながらも、内実は「意気消沈し、恐怖に打ちのめされていた」とき、「この運動に最も献身的に参加した年配の女性」の一人から次のように励ましを受けるのです。「私は、私らが、あんたとどこまでも一緒にいてあげられるとはいやしません。けれど、よしんば私らがあんたと一緒でなくても神様があんたを見て下さるんだよ」。そのとき「私の中のすべてが、なまのエネルギーの波立つような震えを伴って揺れ動き、よみがえったのだった」(218~219頁)と述懐されています。

平和ではなく、つるぎを投げ込むために

イエス様は、ご自身が、地上に「平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきた」と言われます。それは「不正な利をむさぼり」「偽りを行って」「平安がないのに『平安、平安』と言っている」(エレミヤ6:14)人々に、さばきを告げ、そして同時に救いを告げ、悔い改めを求めるためにほかなりません。

そのとき、「わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである」とは、単に個人と個人の問題ではなく、世代と世代、時代と時代の生き方、価値観の違いでもあるでしょう。アフリカの人々が人間と見なされていなかった時代に、自らを「兄」と見なしてコンゴで献身的な医療活動を行ったシュヴァイツァーが、今日では、アフリカの人々を「弟」と見なしていたことを批判されなければならないのは、それだけ私たちの人権についての感覚が前進したと言う意味でむしろ喜ぶべきでしょう。後の世代によって乗り越えられることこそが先駆者の喜びだからです。

「イエスが主であるとは何を意味するか」

それぞれの世代がそれぞれの使命と課題を託されて神様の前に召されています。そこには同じ答えがあるわけではありません。イエス様は、私たち一人一人に「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われるからです。そのとき、私たちは声を合わせて「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と言い表します。

けれども、同時にそこでは、その時代、その社会の中で「イエスが主であるとは何を意味するか」(ボンヘッファー)が問われます。そのとき、イエス様は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい」(同16:24)と言われるのです。ナザレのイエスがキリストであるということの中身を、ペテロはペテロの、パウロはパウロの、具体的な歩みをもってなさねばならないのです。

そしてそこにこそ、私が私であることの意味、かけがえのない一人の生涯の意味があります。その意味を知らされ、その意味が自分を越えた目に見えない世界からのものであることに気づくとき、恐れは消え去るのです。
               (2020年6月21日の礼拝説教から)