読む礼拝

「イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。」
               (マルコによる福音書1:13)


 マルコは、マタイやルカのように、誘惑の内容について記しません。ただ「サタンの試みにあわれた」と記すだけです。けれどもそれは、マルコが誘惑の中身について知らなかったということではないでしょう。むしろ、キリストの受洗から宣教の開始までを一息に語ることによって、マルコは誘惑の意味を示しているのです。

 聖書は「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった」と記します。それからとは、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったとき、天が裂けて、聖霊がはとのように下って来るのをごらんになったとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」との天からの声をお聞きになったときからということです。

 イエス様は、荒野の試みを受けてから「あなたはわたしの愛する子」と呼ばれたのでではなく、「愛する子」と呼ばれてから荒野の試みを受けられたのです。聖書の語る試みとは。神の子とされるためのテストではありません。それは合格とされたものたちに与えられるトレーニング、訓練の時なのです。

 ヘブル人の手紙は『わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである』と旧約聖書の箴言3章11節以下を引用して「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである」(12:5-7)とあかししています。私たちは神の子であるにもかからわずにではなく、神の子であるからこそ試みを受け、神様の心にかなわないからではなく、神様のみ心にますますかなう者とされるために訓練を受けるのです。それは、私たちの悔い改めのときであり、私たちが福音を新たに聞き直す信仰者としての新生のときなのです。

 そして、マルコはこの試みを一行、一言で語り尽くします。それは、私たちがそのただ中にあるときには、永遠に続くかと思える試練のときも、後から振り返るならば、ほんのひとときのものに過ぎないということにほかなりません。荒野の試みには40日という日数が定められています。試練には必ず終わりがあるのです。そして、その試練の後に、イエス様は「時は満ちた、神の国は近づいた」と力強く、喜びに溢れて語り出されます。

 「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル12:11)。      (2018年2月18日の受難節第一主日礼拝説教から)


「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」
               (マルコによる福音書8:34)


 「あなたこそキリストです」と言い表したペテロたちに、イエス様は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきこと」を教えはじめられます。

 弟子たちにはそれが理解できません。「ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ」ます。救い主が苦しむはずがない、捨てられるはずがない、死ぬはずがない、そうペテロは信じて疑いません。もちろんそこにはイエス様に対する尊敬と愛があります。けれどもそこには同時に、弟子たちの救い主に対する誤解、私たちの神の救いに対する無理解が示されています。

 私たちにとって救いとは、自分の問題が解決されることであり、自分の願いが叶うことです。そこでは、いつも「自分」が問題なのです。けれども、みんなが「自分」の救い、「自分」の願いを追い求めるなら、どうしてそこに「みんな」の救いがあるでしょうか。私たちが「誰が一番偉いか」を論じ続ける限り、そこには本当の救いはありえないのです。

 だからこそ、イエス様は「もしわたしの前にひざまづくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」との悪魔の誘惑を「サタンよ、退け、『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と退け、「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」とのゲッセマネの祈りをもって、神のみこころの実現を選び取られたのです。

 ペテロは、イエス様を「わきへ引き寄せ」ました。自分は動かず、変わらず、神様の方を自分が願う通りに動かそう、変えようとするのです。それは自分を真ん中に置き、神様を脇へ追いやる人間の自己中心の罪そのものです。イエス様は「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とペテロを叱責されます。そして「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」と教えられます。そのとき、捨てるべき「自分」とは「わたしの思いのままに」という自己中心の罪にほかなりません。そして負うべき「十字架」とは、神様が私たち一人一人に負わせたもう、私たちにはその理由が分からない、しかし神様にはお考えのある苦しみ以外ではありません。

 それは、生まれながらの私たちには不可能なこと、考えることさえできないことです。だからこそ、イエス様は「わたしに従ってきなさい」と言われるのです。私のためのキリストのみ苦しみを思い、私のための十字架を見上げる時に初めて、私たちは十字架への道を、しかし復活と永遠の命に至る道を歩むことができるのです。
     (2018年2月25日の受難節第二主日礼拝説教から)


「『わたしの父の家を商売の家とするな』」。
               (ヨハネによる福音書2:16)


 イエス・キリストがエルサレムに上られて最初に目をとめられたのは、「牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいる」様子でした。そして「なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえ」されました。

 イエス様は、神殿でささげるための動物の販売や両替そのものを悪いことだと見なされたのではありません。それらは神殿に詣でる人々のために必要でした。遠くから動物を運んでくることは大変でしたし、ギリシャの神々やローマ皇帝の彫られた貨幣を献げることはできなかったからです。

 ところが、いつしかこうした人々は、人の足元を見て法外な値段や手数料をふっかけるようになりました。しかも犠牲の動物の検査を担当する祭司たちと結託して、外から持ち込まれた動物に対してはわずかな傷やしみを口実に受け取りを拒否させるようにして、実際上人々が彼らからしか犠牲の動物を買えないようにしてしまいました。そして、この宮での営業権は大祭司一族が独占し、莫大な利益を得ていたのです。しかもこの商売が行われていたのは、「異邦人の庭」でした。神殿の至聖所を中心に、祭司の庭、イスラエルの男子の庭、イスラエルの女子の庭と続く先に、唯一異邦人にも入ることの許された「異邦人の庭」があり、彼らはそこで商売を行っていたのです。

 自分をささげて神様に仕えるのではなく、神様を利用して自分の利益を求めるようなあり方をイエス様はおゆるしになりません。神様は、モーセを通して「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7)との戒めをお与えになりました。イエス様は、私たちが神様の名を使って、結局は自己の利益追求にしか過ぎない手前勝手な「正義」を神の正義として主張すること、神様が受け入れて下さっているはずの隣り人の祈りと信仰を妨げることを退けられるのです。

 イエス様は、神様に背を向けて座り込み、人の顔色をうかがい、自分の損得勘定ばかりしているような私たちのあり方、生き方そのものを私たちの内から追い出して、隣人と共に神様の前に立ち、神の栄光をたたえ、自分自身を献げて生きるあり方へと立ち帰らせようとしておられるのです。

 「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(Iコリント6:19-20)。 
        (2018年3月4日の受難節第三主日礼拝説教から)


 
「さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである。」
                    (創世記12:10)


 「その地にききんがあった」と聖書はこともなげに記します。けれどもそれは驚くべきことではないでしょうか。なぜなら、その地とは、神様がアブラハムに「行きなさい」と命じられた地であり、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」と約束して下さった地だからです。

 神様を信じれば全ての問題が解決するというわけではありません。信仰の世界は「それから二人はいつまでも幸せに暮らしました」というおとぎ話の世界とは違います。「祝福」は「幸福」とは違うということを神様はアブラハムにお示しになるのです。

 アブラハムには最初そのことがわかりません。アブラハムは祭壇を築くことをやめてしまいます。祈ることをしなくなります。そして神様の言葉と導きによってではなく、自分の知恵と力とによって事態を解決しようとし始めます。

 それはきわめて常識的な判断と、斬新なアイデアです。冷静な情報分析と的確な判断、そして果断な行動とで、アブラハムは自分と妻、一族郎党とその財産とを守ります。それどころか権力者の厚いもてなし受け、贈り物を得て財産を大きく殖やします。アブラハムの計画は大成功です。神様の言葉よりも人の知恵の方が役に立つのです。

 けれどもそこには落とし穴があります。それは妻サラとサラとの間に生まれるはずの跡継ぎと引き替えの成功です。もっとも大切なものと、そこから始まるはずの未来とが危機に陥ります。そしてアブラハムは、もはや事態をコントロールすることができません。人間の計画はいつも「想定外」の出来事によって頓挫し、いっとき大成功と見えたものは、長い目で見れば大失敗であったいうのが常なのです。人は自分の見える範囲しか見ることができず、自分を中心にしてしか物事を考えることができないからです。そのとき人は万策尽きて天を仰ぐことしかできなくなってしまいます。

 けれどもそのとき神様が介入されます。聖書は「しかし神は」と記すのです。神様はこの世の常識を越え、私たちの思いを越えて、新たな、驚くべき、救いと恵みの出来事を起こして下さることができるからです。

 信仰者となるということは、試練に遭わないということではありません。試練の中にあってなお不思議に守られ、思いがけない導きを受け、思いを越えた救いが与えられるということ、そのたびに神様の存在と、神様の愛とを知り、ますます神様への信頼と神の国への希望が増し加わえられるということ、それが神を信じて生きるということなのです。
    (2018年3月11日の「伝道を覚えての礼拝」説教から)


「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。
                         (ヨハネによる福音書12:24)


 ギリシャ人がイエスのもとを訪れます。それは、ご自身が「すべての国民の祈りの家」となろうとしておられることが、異邦人にも受けとめられたことのしるしです。イエス様は「人の子が栄光を受ける時がきた」と言われます。ご自身を通して、全ての人が神のみもとに行くことができるようになることがキリストの栄光なのです。

 しかし、その栄光は十字架の栄光です。誉れと賞賛を得る道ではなく、捨てられ殺される道をキリストは選び取られます。なぜなら、自分の栄光ではなく神の栄光を求めることこそが、神の子の栄光だからです。そしてそれこそ、私たちが神様への不従順、その罪によって失ってしまったまことの人の栄光にほかなりません。

 私たちはどんな時にも自分の栄光、自分の利益を求めて止まない存在です。自分の立場、自分のメンツに固執して、本当に正しいこと、真実になすべきことに目をつぶってしまいます。言い訳がましく、自分を正当化し、人を傷つけ、踏み付けにしても自己保身をはかろうとします。祭司長、律法学者、パリサイ人、ピラト、民衆、ユダ、そしてペテロ……、十字架は、そのような私たちの全ての人間の罪をあぶり出します。そして、私たちがそれほどまでに自分を守ろうとし、自分を誇ろうとする背後には、まことの神様、本当の創り主に背き、離れ、自分の力と知恵で生きようとして、ついにかなわない私たち人間の底知れない不安と恐れがあります。

 キリストは、まさにそのような私たちの自己中心の罪、自己主張の罪を、十字架の死に至るまでの従順によってあがなおうとされるのです。それは、いかなる時にも神様の真実と愛が失われることがないことを確信している、神のひとり子にのみ可能なみわざです。

 神を信じればこそ自分を捨てることができます。神の真実を知ればこそ自分の立場に固執する必要はなくなります。自分の小さな世界に死んで、神様の大きな永遠の世界に生きることができるのです。

 イエス様は、ただ一人でその神の世界に生きようとはなさいません。イエス様は「全ての人をわたしのところに引き寄せる」ために十字架に死んで、そしてよみがえられたのです。私たちは、十字架へ引き寄せられ、そして復活と永遠の命へと引き寄せられているのです。このみ手にいっさいを委ねること、それが一粒の麦として死んで、豊かに実を結ぶようになるということなのです。
      (2018年3月18日の受難節第五主日礼拝説教から)