2025年11月16日(日) 主日礼拝
聖書朗読 マルコによる福音書14章32―36節
説 教 「ゲツセマネの祈り」 大石啓介
1 ゲツセマネ
主イエスは、弟子たちとともに祈るため、ゲツセマネという場所に到着しました(聖書巻末地図10参照)。
主は祈りの人でした。命の危機が迫るこの日もその日課をやめることはしませんでした。
いや、この日こそ、祈らなければならなかったのです。
マルコによる福音書は、これまでも、主が人里離れた所で一人祈っておられる姿を描いています(1:35、6:46)。
しかし主は、常に一人で祈っていたわけではありません。主が弟子たちに祈りの大切さを教えてきたことからも、それは明らかです(9:29、11:17、11:24–25、12:40、13:18)。
教えを受けた弟子たちもまた、祈りを実践していたことでしょう。
弟子たちも祈りたいと願っていました。ルカによる福音書では、弟子たちは主に祈り方を教えてほしいと願い出ています。
そこで主が与えられたのが「主の祈り」です(ルカ11:1。マタイ6:5以下参照)。
この祈りは、繰り返し祈られ、学ばれていったと考えられます。私たちがそうであったように、弟子たちもまた、主イエスと共に歩む生活の中で祈りの経験を積んでいったのです。
時には主が一人で祈るとき、その祈りを弟子たちも聞き、最後には「アーメン」と祈ったのかもしれません。
祈りは“聞くこと”によっても成長するもの。祈れないときにきょうだいしまい、親や子ども、そして隣人の祈りの声を聞くことは、大いなる慰めとなります。
弟子たちは互いに祈り合っていたことでしょう。主に従いながら、また仲間(新たな家族)とともに祈り合う歩みをしていたのです。確かに主は一人で祈る時を多く持ちました。しかし、弟子たちとの祈りの時も大切にしていたに違いありません。
また、一同はゲツセマネだけで祈っていたのではないでしょう。オリーブ山は伝統的に祈りの場として知られていたからです(エゼ11:23、サム下15:32)。
命の危機に瀕していた一同は、場所を変えながら、オリーブ山の各所で祈りを捧げていたと考えられます。そして、過越の食事の後、主が引き渡される夜に選ばれたのがゲツセマネでした。
この場所について、ヨハネによる福音書(18:1)は「園」と記しています。ゲツセマネの名が示すように、油を搾るための場所がこの園にあったのかもしれません。
あるいは園の持ち主が祈りの場を提供してくれていたのかもしれません。いずれにせよ、ルカおよびヨハネはこの場所を一同の馴染み深い場所として記します(ルカ22:39、ヨハネ18:2)。
主に危険が迫る中、オリーブ山のどの場所よりも安全に祈りに集中できる場所として選ばれたのが、このゲツセマネでした。しかし、その安全もユダの裏切りによって崩れ去ります。
主イエスは、このゲツセマネで“最後の祈り”を捧げることになると知っておられたのでしょう。主は意を決し、父なる神との対話へと進みます。
それは父と子の一対一の対話であり、その務めは主にしか担えないものでした。主は弟子たちに命じられます。
「私が祈っている間、ここに座っていなさい。」
主はここで休憩時間を与えたのではありません。
ペトロの裏切りを「今日、今夜」と予告したように、主が捕らえられる時は迫っていました。敵対者が今にも襲おうとしている中、見つかって祈りを妨害されないよう、座って姿勢を低くし、周囲を警戒するよう命じられたのです。
主人の帰りを待つ門番のように、弟子たちは見張りの務めを託されました。
2 苦しむキリスト
弟子たちに命じた後、主はペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴います。
「伴う」と訳されたギリシャ語はマルコ福音書で6回使われ、多くは「連れて行く」という意味です(4:36、5:40、7:4、9:2)。
ただ一度だけ「呼び寄せて」(10:32)と訳されています。
ルカによれば、ペトロたちも他の弟子と同じ場所にいましたから(ルカ並行)、三人を特別に離れた場所へ連れて行ったというより、三人を呼び寄せ(秘密裏に)、主に迫る苦しみを見せ、その思いを語り、そして再び弟子のもとに戻し、ご自身はその少し先で祈られたと理解するのが自然かもしれません。
主はこれまでも重要な場面に三人を同行させてきました。
三人は、この世の理では説明し尽くせない出来事を目撃しています。
それは「神の国の秘義」(マルコ4:11)と呼ぶべきものです。
今回も同様に、三人だけにその秘義が示されました。他の弟子たちがこの主の姿と言葉を聞けば、耐えられなかったことでしょう。
主は他の弟子たちの心が乱されないためにこの出来事を隠し、しかし三人には真実をありのままに示されたのです(マルコ4:33–34)。
主は三人を伴うと、「ひどく苦しみ、悩み始められました」。
主がご自身の苦しみをここまでさらけ出したのは、この場面だけです。十字架ですら、主を取り乱させることはできませんでした。
では、主を「死ぬほど苦しい」と言わせた苦しみとは何だったのでしょうか。
主は「この杯を私から取り除けてください」と願うほど苦しんでおられました。
しかしそれは、単に肉体の死や十字架の刑を恐れたためではありません。
では、裏切りの悲しみにうちのめされていたのでしょうか。そうでもありません。主が真に恐れていたのは、差し迫った死が「神の裁きを受けて死ぬ」という意味を持っていたからです。
神に完全に見捨てられる死──永遠に続く孤独、死後なお続く苦しみでした。
本来、主がこのような死を迎えることはあり得ませんでした。主はまったく義しい方です。
しかし「私たちの罪」をすべて背負い(イザ53:4)、贖罪の犠牲となられました。神と共に生きる道ではなく、見捨てられる道を選び取ってくださったのです。
子にとって、父(親)から見放される苦しみは計り知れません。
しかし、本来その苦しみは、罪人である私たちが味わうべきでした。主の苦しむ姿から私たちは学ばねばなりません。
神の下される「死」がいかに恐ろしいかを。いかに私たちは罪深いのかを。私たちは時に、死に憧れることがあります。
現実からの逃避として死を願うこともあります。
しかしその思いは、主の苦しみを前にすると恥じなければならないでしょう。本当の死は美しくも名誉でもありません。死後なお続く「ひどい苦しみ」なのです。その中では、苦しみも悩みも消えることはありません。
「死」を恐れるためにも(そしてそこからの復活がいかに幸いなことか知るためにも)、私たちは主の苦しみから目をそらしてはなりません。
「ここを離れず、目を覚ましていなさい」との命令に聞きしたがわなければなりません。目覚めて主を見つめねばなりません。
主は三人に命じ終えると、弟子たちと距離を置かれます。
ルカによれば、その距離は「石を投げて届くほど」(ルカ22:41)。それは、(豊島北教会の)講壇から礼拝堂入口までの距離でしょうか。すぐに駆け寄ることができる距離でした。
しかし決定的に遠い距離でもありました。弟子たちは「その場を離れるな」と命じられているからです。主が倒れようと悶えようと、許可なく距離を縮めることはできません。
まるでここから先の苦しみを一人で担おうとしておられるかのようです。
しかし同時に、その距離は「少し先」でもありました。近づくことはできなくとも、主の姿を目に焼き付け、主の祈りに耳を澄まし、心に刻みつけるには十分な距離でした。
つまり、命じられた通り「目を覚まして」さえいれば、主の苦しみの幾ばくかを共有できる距離だったのです。
その距離感を考える時、「目を覚ましていなさい」という命令は特別な命令であると考えることができます。この命令について整理していきましょう。
まず私たちが思い浮かべるのは、13章でしょう。「目を覚ましていなさい」という命令は、すでに13章の門番の教えにおいて、弟子たちに命じられた命令だったからです(1章前の出来事!)。
13章において門番は、主人の帰りを、目を覚まして待つようにと、命じられました。
弟子たちはここに、門番として立てられていますが、しかし、門番の役割は、主人の帰りを待つだけではありません。
弟子たちは、周囲を警戒するように命令されています(14:32参照)。祈りの場を守ることも、弟子たちの役割となります。
さらに、この命令には13章とは別の意図もあったように思われます。なぜなら、主人は「少し先」にいるからです。いつ帰って来るかはわからない、しかし、傍にいるという状況において、弟子たちは、主の動向も見張る必要があります。
「目を覚まして」主人の苦難を見続ける事、これもまた、弟子たちにこの時課せられた使命でした。
さらに次のことも当てはまるでしょう。主は過越の食事の際、裏切り者が出ることを予告しました。警戒は外だけでなく内にも向けられねばなりません。
同労者が裏切り者にならないよう、互いを見張る必要があったのです。
弟子たちは見張りとして立てられ、「目覚めて」その任務を果たさなければならなかったのです。
3 御心のままに
弟子たちは、(少なくとも最初のうちは)この命令を厳格に守っていました。そのため、主の姿と祈りの言葉が記録され、私たちのために残されています。最後にその祈りの言葉を見ていきましょう。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」
ここで主は初めて父なる神を「アッバ」と呼ばれます。これは、幼子が父を呼ぶときの言葉です。日本語でいえば「お父さん」「パパ」に近いでしょう。
主はこのとき、幼子のように父を呼び、「あなたは何でもおできになります」と父を立て、そして自分の願いを申し上げている、と言えます。そうであるならば、まるで、父に甘える子ども(幼子)の言葉のようです。
いずれにせよ、主の苦しみは弱さを帯び、弱音が響いています。
しかし、この弱い祈りを否定してはならないでしょう。
なぜなら、親に甘えてはいけない子どもなどいないからです。まして神の子は純粋そのものです。主の甘えは、父に全幅の信頼を寄せる子の呼びかけです。
その純粋さに対して、「こう願ってはいけない」と誰が言えるでしょうか。
もしこの弱音を否定するなら、私たちは父なる神に祈ることができなくなるでしょう。
これもまた祈りであることを認めねばなりません。弱さを祈ること、弱さの中で祈ること──このときの主の祈りは、幼子の祈りなのです。
そして、その幼子の祈りを聞いてくださるのが父なのです(マタイ7:7–12)。
幼子のようになって「杯を取り除いてほしい」と切に祈らねばならないほど、主は苦しまれました。“死”を取り除いてほしいという願いが溢れるほどに弱り、幼くなられたのです。
天を仰ぎ見ることすらできない状況に主はおられました(ルカ18:13)。
しかし主は、この祈りを父が聞いてくださることを確信していました。
ただし、父が必ず願いを叶えてくださるという傲慢さは微塵もありません。それゆえに主は、「私の望みではなく、御心のままに」と祈られたのです。
この祈りこそ純粋で美しい祈りです。自分の言葉を聞いてくださる神への信頼と、神の御心を第一に願う心が見事に一つとなっています。
この祈りは、私たちの祈りの基本です。弟子たちは、祈りの“両方向”──神への信頼と御心への信頼──を共に見る必要があります。
主は「この杯を取りのけてください」と心の深いところから叫ばれました。
しかし同時に、「御心のままに」と身を委ねられました。ここに、祈りの本質があります。
弱さのままに父の前に出つつ、なお御心に従う。願いと従順とが同じ祈りの中で出会う。
その祈りの道を、主は私たちの前に開いてくださいました。
この主に従い、今、祈りの時へと向かいましょう。
2025年11月9日(日) 主日礼拝
聖書朗読 マルコによる福音書14章26―31節
説 教 「あなたがたは皆、私につまずく」 大石啓介
1 あなたがたは皆、私につまずく
過越の食事の終わりに、一同はハレルの詩編を歌いました。これは詩編113〜118編の中から、特に後半(詩115〜118編)を指します。
イスラエルの人々はこの詩編を、神の救いの御業を思い起こしながら、感謝と喜びをもって歌いました。それゆえこの時は、出エジプトの救いを再確認し、主の恵みを賛美する、祝福と慰めの時でした。
しかし、この夜の弟子たちはどうだったでしょうか。彼ら彼女らの心は重く沈んでいたに違いありません。
なぜなら、食事の席で主は、「あなたがたのうちの一人が、私を裏切る」と言われ、さらに「これは私の体」「これは私の血」と、ご自身の死を今までよりもリアルに(あるいは裂かれたからだと流された血という一種の残酷さによって)予告されたからです。
弟子たちは衝撃を受け、動揺していました。賛美の声もいつもより小さかったことでしょう。弟子たちには、これから起こる救いの御計画をまだ理解することができなかったのです。
食事を終えた一行は、エルサレムの城壁を出て、キドロンの谷を越え、オリーブ山へ向かいます。その道すがら、主は沈黙を破って語り出されました。
「あなたがたは皆、私につまずく。」(27節)
この言葉は、弟子たちを責める叱責ではありません。むしろ、深い悲しみの中にある弟子たちに対して、主が現実を告げ、希望の方向へ導くための言葉でした。
主は、弟子たちの「つまずき」が、神の御計画のうちにある出来事であることを示されます。
「私は羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう。」
これはゼカリヤ書13章7節の預言です。預言者ゼカリヤは、神の救いの完成を語る中で、主なる神ご自身が羊飼いを打ち、その結果として羊が散らされることを語りました。
それは悲劇的に見えて、実は救いの始まりでした。イエスはここで、この預言がご自身と弟子たちにおいて成就することを示されます。
つまり、「つまずき」さえも神の支配のもとにあるということです。主は弟子たちの離反を隠さず語りますが、それは絶望の予告ではありません。その直後に、「しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(28節)と言われたからです。
主の死と復活の予告は、すでに三度語られていました(8:31、9:31、10:33–34)。ここではその約束が、より個人的なものとして弟子たちに語られます。主は、彼らの「つまずき」と「散らされる」現実を越えて、再会の希望を与えておられるのです。
それゆえ、主のこの言葉は、単なる警告ではなく、「希望を前提とした預言的な言葉」なのです。
2 ペトロの反論
しかしペトロは、その希望の言葉よりも、「つまずく」という部分に強く反応しました。
「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」(29節)。
これはペトロの誠実な信仰告白でもあります。彼は主を誰よりも愛していました。
すべてを捨てて従い、会堂長ヤイロの娘のよみがえりや山上の変貌にも立ち会った特別な弟子でした。主から叱責を受けたこともありましたが、それだけ主に心を向けていた証拠です。
だからこそ、「つまずく」という言葉は、彼には到底受け入れがたいものでした。
「つまずく」と訳されるギリシャ語(σκανδαλίζω)は、単に「間違う」「失敗する」ではなく、「信仰の妨げに遭い、主から離れてしまう」という意味です。
つまりペトロは、「私の信仰は絶対に倒れない」と主張しているのです。その熱心さと愛は本物でした。しかし、主はその信仰が神の御計画の中で試され、砕かれることを知っておられました。
3 主の応答とペトロの否認の予告
主はペトロに向かって、こう言われます。
「よく言っておく。今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、私を知らないというだろう」(30節)。
ここでも「よく言っておく(アーメン、あなたに言う)」と強調されています。つまり、これは確実に起こる出来事であるということです。
「知らない」と訳された言葉は、ギリシャ語で「ἀπαρνέομαι」。「徹底的に否定する」「全く無関係を装う」という強い表現です。
この語は、8章34節で「自分を捨て、わたしに従いなさい」と言われた「捨てる」と同じ語根です。つまり、主を信じて従う者が、自分を捨てる代わりに、主を捨ててしまう。
ここにペトロの悲劇があります。この悲劇が、三度繰り返されるというのです。三度とは、徹底に十分な回数です。三度も否定したならば、もはや弁解はできないのです。
それでもペトロは強く主張します。
「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(31節)
この言葉には、殉教をも覚悟する真剣な信仰が感じられます。ペトロだけでなく、他の弟子たちも皆、同じように誓いました。
しかし、その信仰はまもなく試され、砕かれます。夜が明ける前に、彼らは皆、散らされるのです。
4 つまずきと神の恵み
では、なぜ彼らの信仰は砕かれたのでしょうか。彼らの信仰が弱かったからでしょうか。
そうではありません。彼らの信仰は、私たちの多くよりもずっと強かったはずです。
しかし、その強ささえも、神の前では完全ではありませんでした。神は弟子たちの弱さをあらわにし、その中でご自身の力と恵みを示されます。
神は、人の犠牲を求める方ではなく、救いを成し遂げる方です。人の愛や誓いではなく、神の愛によって救いが実現するのです。
ペトロの愛は真剣でしたが、まだ「自分が愛する」という側に立っていました。しかし、やがて彼は、自分が愛する前に「神に愛されていた」ことを知るようになります。
ヨハネ福音書21章で、復活の主が「あなたは私を愛するか」と三度問われたとき、彼は泣きながら答えました。
「主よ、あなたはすべてをご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはご存じです。」
あのとき、ペトロはようやく、神の愛に包まれることの意味を知ったのです。
パウロは愛についてこう語ります。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリント13:4–7)
ペトロに欠けていたのは、この「すべてを信じ、望み、耐える」愛だったのかもしれません。
けれども、その欠けの中でこそ、神の愛が満ちていきます。弟子たちの「つまずき」は、神の愛が現れるための出来事でした。
イエス・キリストとの歩みの中で、「つまずき」は避けられないことでした。弟子たちは皆、倒れ、逃げ出しました。
しかし、そのすべてを見越した上で、主は彼らを見捨てず、「ガリラヤで会おう」と約束されました。人間の弱さを越えて、神の救いの御業は進みます。「つまずき」は終わりではなく、恵みの始まりです。
主は今も言われます。「あなたが倒れても、私はあなたを見放さない。あなたが弱くても、私の恵みはあなたに十分である。」
この恵みの言葉に、私たちもまた「アーメン」と応えたいのです。
2025年11月2日(日) イエス様日礼拝(合同礼拝)
聖書朗読 マルコによる福音書14章22―25節
説 教 「主の晩餐」 大石啓介
1 主の晩餐
過越の食事の途中、イエス様は、弟子の中に「裏切り者」がいるというと宣言されました。
その宣言に、食卓の空気は凍りつき、弟子たちは不安と動揺の中に沈黙し、誰もが自分の心を疑いました。
しかし、その重い沈黙を破るように、感謝をささげる声が響きます。——つまり、食事が再開されたのです。
裏切り者がいる中で、どうして感謝をもって過越の食事が続けられるでしょうか…。場の空気はお祝いとは程遠いところにあったと予想されます。
しかし、イエス様は、何事もなかったように、過越の食事を続けられました。その沈黙のただ中でさえ、イエス様の愛がなお、すべてを受け入れる方向へと動いていたのでした。
イエス様の目的は、その宣教の初めから、排除ではなく、招きでした。イエス様は、正義を重んじ、悔い改めを促すものの、決して誰一人として退けることなく、すべての人を福音へと招かれます(マコ1:15)。
イエス様は罪を裁く力のある方ですが、それ以上に強く、赦しへと導かれる方です。
現にイエス様は、弟子の裏切りも不忠もご存じでした。しかしそれを越えて、すべてを包み込む愛をもって弟子たちと共に、過ぎ越しの食事をなさっているのです。
イエス様は、どのような闇の中にある者をも食卓に招き、共にいてくださる方です。ヨハネによる福音書の言葉を借りるならば、イエス様は「弟子たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」のです(ヨハネ13:1)。
たとえ人が不忠実であっても、イエス様はなお忠実であり続けます(Ⅱテモテ2:13参照)。
この愛が、過越の食事の初めから終わりまでを貫いています。そして、「イエス様の晩餐」の内に、契約となってより鮮明に示されていくのです。
「イエス様の晩餐」は、イエス様の無条件の愛と交わりが、どんな時にも、どんな者にも、変わらずあることを確かにする、新しい契約。
本日は、弟子達と、そして今も私たちの間でも有効なその契約について、共に見ていきましょう。
2 パンの啓示・血の契約
一同が食事を再開しているとき、イエス様はパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えました。この動作は、ユダヤの家庭において食事の際に日常的に行われていた感謝の儀式でした。当然、過越の食事でも行われていたのです。
ユダヤの家庭において、食事の開始時の「祝福」と「パン裂き」は、重要な宗教儀礼でした。当時のパンは丸く焼かれた薄いパンで、切るのではなく「裂く」もの。
家長がそれを取り、神に祝福をささげ(εὐλογήσας)、裂いて分け与えるのが習わしでした。この行為には、もともと二重の意味があります。つまり、
1神への感謝 ― パンの源である命を与える神への賛美。
2交わりの始まり ― パンを共に裂くことによって、食卓の仲間が一つに結ばれる。
したがって、パン裂きはもともと「命の源への感謝」と「共同体の一致」のしるしでした。イエス様は、家長としてこの儀礼に倣いました。そういう意味では、特段珍しくない光景であったと言えます。
しかし、イエス様はこのパンを「ご自身の体」として裂き、弟子たちに与えられました。これは全く一般的ではなく、イエス様独自の解釈です。
そのため、「パン裂き」はまったく新しい意味を持つようになります。
イエス様はここで、「体(σῶμα)」と言っていますが、それは単なる肉体のことではなく、イエス様ご自身の存在全体、すなわち命そのものを意味します。
つまりイエス様は、パンを裂くことにおいて、ご自分の命を裂かれたんのです。これが何を意味するのでしょうか。
マルコによる福音書の文脈において、「裂く(κλάω)」という動詞に注目すると、この動詞は単なる分配ではなく、受難の暗示として読まれていることがわかります。
例えば、五千人・四千人の給食の奇跡(6:41,8:6)にも同じ動詞が登場し、その時点ですでに「ご自身を与える」行為として、パン裂きが伏線として提示されています。
イエス様は、罪なきお方であったにも関わらず、すべての人の罪を負って、十字架の刑に処せられます。十字架上にて命が咲かれていくのです。
こういう意味で、「裂かれるパン」とは、紛れもなく、「十字架上で裂かれるイエス様の命」の象徴であると言えます。
しかしイエス様はここで、今までのように、十字架の死を単に予告したかっただけではありません。イエス様は「パンを裂き」、弟子たちに「与えた(ἔδωκεν)」のです。
つまりイエス様は、ご自身で、ご自身の命を裂いて、これを与えようとしている、ということになります。
イエス様はパン裂きの行為を、「神への感謝」と「交わりの始まり」として行うだけでなく、ご自身の犠牲的愛と救済の出来事として再解釈されたのです。
次に、イエス様は杯を取り、パンと同じように感謝をささげ、弟子たちに与えられました。弟子たちがそれを飲み干した後、イエス様は言われます。
「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。」
イエス様はここで、この杯をご自身の血にたとえています。パンはイエス様のからだ、杯はイエス様の血、つまり、イエス様はご自身の全てを弟子たちに与えられると言う意味になります。
さらに注目すべきは、単に「血」と言われているのではなく、「私の契約の血」と言われている点です。
「契約の血」とは、聖書全体の中でも特別な表現であり、旧約の背景を踏まえなければ、その重みを十分に理解することはできません。
この表現は、本日共に読みました出エジプト記24章に記されている「血の契約」の場面を思い起こさせます。
モーセが犠牲の血を祭壇と民に振りかけ、「これはイエス様が…あなたがたと結ばれる契約の血である」(出24:8)と言った、あの厳粛な場面です。
イスラエルがイエス様なる神様との交わりを回復したあの契約――それが今、キリストによって新しい形で更新されます。
あの時の救いが実現しようとしているばかりではなく、キリストの血によって結ばれる新しい契約は、一部の人のためではなく、「多くの人のため」、すなわちすべての人に及ぶ普遍的な救いの契約です。
パンの時に示された「命の分与」が、この血によって確かな契約として刻印されます。こうして過去の救いの出来事は、イエス・キリスト(の自己犠牲)によって更新され、新たな契約のうちに生きる者へと弟子たちは変えられていきます。そのうちに、救いが実現するのです。
3 イエス様の宣言——終末への希望
しかし、これで終わりではありませんでした。イエス様の晩餐はこの後、弟子たちを未来の希望へと招いていくのです。弟子たちと契約を交わした後、最後にイエス様は次のように宣言されます。
「よく言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
イエス様が「ぶどうの実から作ったものをもう飲まない」と言われたのは、別れの悲しみを語るためではありません。むしろ、再び「神の国で新たに飲むその日」が必ず来るという、希望の約束を語るためでした。
イエス様のみ言葉は、神の国で催される祝宴が前提となっています。その祝宴は、イザヤ書25章6節以下にこう記されています。
「万軍のイエス様はこの山で/すべての民のために祝宴を催される。/それは脂の乗った肉の祝宴熟成したぶどう酒の祝宴。/…イエス様は…死を永遠に呑み込んでくださる。/イエス様なる神はすべての顔から涙を拭い/その民の恥をすべての地から消し去ってくださる」。
イエス様はその日が来ることを確信し、「アーメン」ともって宣言されたのです。
イエス様は、ご自身の死をもって終わりとするのではなく、その先にある命の祝宴を見つめておられました。
ですから、一連の流れは、「別れ」ではなく「再会」によって閉じられるのです。最後の晩餐は単なる「別れの食卓」ではなく、「再会の約束の食卓」となります。
私たちもまた、この約束を信じて「アーメン」と応えていくのです。
神の国が来るまで、この契約は有効です。この継続性は、今も聖餐の恵みに与るものの上にもこの契約が有効であることを意味しています。
この時、象徴的に語られたイエス様の裂かれた肉と流された血は、十字架上において現実のものとなったのですから、この契約はますます生き生きとして私たちと結ばれています。この時の誓いが、今も果たされているのです。
イエス様は再び私たちをその食卓に招き、共に新しい杯を取ってくださることでしょう。
それまでの間、私たちはこの地上で、イエス様の死と復活を覚え、感謝をもってパンを裂き、杯を分かち合います。
それは、イエス様が来られるその日まで――イエス様の愛と救いの業を告げ知らせる、希望の食卓なのです。
教会は今もその希望の食卓に与っています。私たちは、与えられた肉と血によって、一つの体に与るよう招かれています。
イエス様の裂かれた体は、分裂ではなく一致を生み出します。イエス様の体と血に与る者として、一つの体へと造り変えられていくのです。
——裂かれることによって、ひとつにされる。これが、十字架の愛の秘義です。
一つのパン、一つの杯を食することによって、私たちはイエス様と結ばれ、互いにも結び合わされます。
裂かれた体と流された血は、分裂のしるしではなく、新しい交わりを創造するしるしなのです。
このパンと杯を前にするとき、私たちはイエス様の裂かれた愛において、すでに一つなのです。
2025年10月26日(日) 主日礼拝
聖書朗読 マルコによる福音書14章17―21節
説 教 「過越の食事」 大石啓介
1 過越の食事
木曜日の夕方、イエス様は十二使徒たちと共にエルサレム市内に入り、二階の広間に到着されました。
先に遣わされた二人の弟子たちにより、過越の食事の準備はすでに整えられていたため、すぐに過越の食事が始まります。
過越祭(ペサハ)の始まりを告げる過越の食事は、「セーデル」と呼ばれ、古くからの式次第に従って進められます。
まず初めに第一のワインが杯に注がれ、聖別の祈りがなされます。その後、第二のワインが杯に注がれ、出エジプトの物語が朗読され、救いの出来事が想起された後、食事が始まるのです。
その食事の途中、イエス様は次のように言われました。
「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」
「裏切ろうとしている」—この言葉を直訳すると、「引き渡そうとしている」となります。これはマルコによる福音書において重要なワードとなります。
なぜならこの言葉が、神の救いの御業と、人間の罪の両方を照らす中心的な語彙だからです。
まず、この「引き渡す」が神様を主語とする時、それは神様の救いの計画が前進することを意味しています。
マルコによる福音書の中でイエス様は、「人の子が人々の手に引き渡される」(9:31)、「祭司長たちと律法学者に引き渡される」(10:33)と父なる神のご計画を予告しています。
そして最終的に、「弟子たちのうちの一人で、共に食事をしている者が、イエス様を引き渡し」(14:18)が予告されます。それが実現し、イエス様は十字架の死へと「引き渡される」のです。
この連続する「引き渡し」の過程そのものが、神のご計画の成就、すなわち人類の救いの実現を示しているのです。
ところが、この「引き渡す」が人を主語とする時、意味は全く異なります。その行為は、神と人との交わりを根底から断ち切る罪の行為として描かれます。
人が自らの欲や恐れによって主を「引き渡す」とき、そこには神の御心に背を向ける反逆があるのです。
この反逆は「災い」と呼ばれ、「生まれなかったほうが、その者のためによかった」とまで言われてしまいます。
実際、古代末期において「共に食卓を囲む者を敵に引き渡す」と言うことは、嫌悪と憤慨の対象でした。食卓を共にすることは、命を分かち合い、友情を確認する行為だからです。
その関係を裏切ることは、単に主君や友人への背信ではなく、交わりそのものへの冒涜に他なりません。詩編41編10節が語るように(「私のパンを食べていた親しい友が、私にかかとを上げた」)、この言葉の現実化が、今イエス様の目の前で起ころうとしている。
ですから、日本語訳聖書の「裏切る」と訳は、単なる意訳ではありません。
2 心を痛める者たち
引き渡しは今、裏切りという形を持って、実現されるのです。この二重性――「神の御業としての引き渡し」と、「人の罪としての引き渡し」――それがマルコ14章における出来事の緊張を生み出しています。
ユダはイエスを「引き渡す」ことによって、神の計画を進める一方で、同時に最も重い罪を犯しているのです。
つまり、同じ「引き渡す」という行為が、神においては救いの御業であり、人においては裏切りと断絶の罪となる――ここに、神の主権と人間の自由、神の計画と人の責任という深い神学的パラドクスが潜んでいます。
このような中、大変「心を痛める」者たちがいました。それが弟子たちです(14:19)。この「心を痛める」という言葉は、マルコによる福音書10章22節の、あの富める青年がイエス様の言葉を聞いて「悩みつつ立ち去った」時にも使われています(「悩みつつ」がそれ)。
つまりこれは、単なる悲しみやショックではなく、心の奥深くを突き動かされる痛みを意味しています。
どうして弟子たちはこの御言葉に、大変傷ついたのでしょうか。
それは、仲間の中に裏切り者がいるという外的な衝撃から来るものではなかったようです。
弟子たちは自分自身の中に裏切りの傾向があることに気付いたのです。弟子たちは、口々に、「私のことでは。」と口にしたのはそのためでした。
自分自身の内側から湧き上がる痛み、つまり、自らもまた裏切り者になりうるという恐れと不安が、まず彼ら彼女らを襲ったのです。
彼ら彼女らは、その可能性を十分に秘めていましたし、実際すべての弟子たちが最終的には主イエスを「裏切って」しまいます。
弟子たちが口々に「まさか私のことでは」と尋ねたのは、「そうではない」と否定してほしかったからでしょう。
こうした態度は、弟子たちの弱さであり、愚かさと言えます(渡部信夫先生はこうした弟子たちの態度を、自己の裏切りの可能性を抹殺しようとする「さそい水」、弟子たちの自己弁護と見ています)。
しかし同時に、より深い所で、先達たちの信仰に目を向けなければならないでしょう。この態度は、主の言葉を自分自身のこととして受け止める、信仰的な鋭さでもあるのです。
主のまなざしの中で、自分の弱さと不確かさを突きつけられ、弟子たちは自らの心を見つめ直さざるを得ませんでした。
けれども、それは主の言葉を他人事ではなく自分事として受け取る信仰があったからこそ可能な態度です。厳しい御言葉を前にして、まずは、自分の心で苦しむ。弟子たちは、仲間のうちに犯人を探すのではなく、自分自身のうちにその可能性を探しました。
その謙虚さは、信仰的に評価されるべきではないでしょうか。その不安と恐れの中で、彼らは主に答えを求めます。――「主よ、私は大丈夫でしょうか。」
そのような弟子たちに向かって(いや、そのような弟子たちだからこそ)、イエス様はこう答えるのです。
「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。人の子は、聖書に書かれてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」
これは、主の答えです。
弟子たちは胸を撫で下ろしたことでしょう。―「自分ではなかった」。しかし安堵も束の間、次のような疑問が弟子たちを襲ったことでしょう。
では、「十二人のうちの誰がそのようなことをするのか」。しかし、犯人探しはついにかなうことはできなかったようです。弟子たちはついに、沈黙してしまいました。
一方、ただ一人、胸をかきむしられる思いをした者がいました。裏切りの首謀者、ユダです。
主イエスの言葉を聞いた時、彼は(彼だけが)、「自分のことだ」と気づいたに違いありません。
しかし彼もまた、他の弟子と同じように沈黙を貫きました。ユダにとって、悔い改めと罪の告白の最後のチャンスでした。しかし彼はそれを選び取らなかったのです。
安堵、不安、恐れ、葛藤。さまざまな思いが沈黙のうちに見られます。そのような沈黙を打ち消したのが、主の晩餐なのです。
3 神のご計画と人の罪
イエス様は最後まで裏切る者の名を明かされませんでした。イエス様は裏切る者が誰なのかご存じでした。
意図的に隠しておられたと考えられます。なぜなら、この「裏切り」がユダ一人の問題ではなく、すべての弟子たちに共通する罪の現実を示していたからです。
確かに、直接イエスを祭司長たちに引き渡したのはユダでした。
しかし、「引き渡される夜」、弟子たちは皆、主のもとから逃げ去ってしまいます。こっそり付いて行った弟子や、再び戻ってきたペトロでさえ、結局は逃げ出してしまいました。
つまり、この「裏切り」はユダ一人の心に限らず、弟子たちすべての心のうちに潜んでいたのです。
もしここで、イエス様がユダの名を明かされていたなら、弟子たちはどうしたでしょうか。
おそらく彼ら彼女らは、「自分ではなく彼が罪を犯したのだ」と思い込み、他者の罪に目を向け、自分の罪を見失ってしまったに違いありません。
その結果、悔い改める機会を失い、福音の中に生きる道を閉ざしてしまったでしょう。
イエス様は、そうさせたくなかったのです。主の目的は、弟子たちを断罪することではなく、悔い改めへと導くことでした。
それゆえ、名を明かすことなく、「あなたがたのうちの一人が、私を裏切ろうとしている」(濁点は説教者による)と語られたのです。
この一言によって、イエス様は弟子たち一人ひとりの信仰的良心に訴えかけられたのです。
もちろん、この御言葉は、何よりもユダの心の奥深くを突き刺したに違いありません。この罪は、許されざるものなのです。
しかし、他人事ではないのです。主のこの教えは、弟子たち全員になされた普遍的な物でした。それはつまり、今を生きる私たち一人ひとりに向けられた言葉でもあります。
わたしたちもまた、いつ主を裏切るかわからない者たちです。物語を通して、御言葉の前に立たされ、自己の悔い改めと罪の告白に導かれています。
しかし今一度確認しておきたいのは、主の目的は、弟子たちを混乱と不安の中に陥れることではないということです。弟子たちの混乱と沈黙は神のご計画の一つに過ぎず、全体ではありません。
「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉に、今こそ立ち帰らなければならないでしょう。悔い改めと、福音とに招くこと、それが主の目的なのです。
このような混乱と沈黙の中、主は、過越の食事を再開されます(慣習では、「救いの契約」と「救いの完成」をそれぞれ祝うために、杯が交わされます)。
そこにて主は、ご自身を贖罪の犠牲として捧げることを宣言されます。つまり、すべての罪をその身に受けて、贖いの犠牲となり、救いが実現されることを宣言されるのです。
すべての弟子たちは、その食卓へと招かれていくのです。ユダも例外ではありません。主は弟子たちすべてが、この食卓に与ることを望んでおられるのです。
つまり、救いの約束に与ることを望んでおられるのです。
2025年10月19日(日) 主日礼拝
聖書朗読 マルコによる福音書14章12―16節
説 教 「過越の食事の準備」 大石啓介
1 木曜日
本日から、マルコによる福音書の講解説教を再開したいと思います。
私たちは2年半、マルコによる福音書を読み進めてきました。「悔い改めて、福音を信じなさい」(マコ1:15)という主の呼びかけから始まった宣教の旅も、いよいよ最後の一週間へと歩みを進めています。
日曜日—主イエスは小ロバにのってエルサレムに入場されました。
月曜日—神殿を清め、
火曜日—時の宗教的権力者との論争が展開され、弟子たちへ教えも深まりました。
水曜日—主イエスを殺す策略が進み、埋葬の準備が整えられました。
そして木曜日が始まります。
木曜日の朝、主イエスとその一行は、引き続き、ベタニアまたはオリーブ山のどこかに滞在していたのでしょう。
十二使徒の一人ユダの裏切りによって、主の身辺はますます危険になっていました。その日が来るまで、一行はできる限り、身を潜めていたのです。
そのような中、除酵祭の第一日目、すなわち過越の小羊を屠る日 がやってきました。一行は、過越の食事の準備を始めなければいけませんでした(出12:1-13、14-28、申16:1-17参照)。
過越の食事は、エルサレム市内で行われなければならないと定められています。
この日には、エルサレムに住む家庭はもちろん、過越祭のためにエルサレムに集まった人々も、それぞれの家で一匹の小羊を犠牲として捧げることになっていたのです。
市内各所には臨時の祭壇が設けられ、祭司たちは出張してその犠牲を聖別し、奉献しました。小羊はまず犠牲として捧げられ、その後家に持ち帰って料理され、過越の食卓に並べられます。
こうした状況を背景に、弟子たちは 「過越の食事はどこで行うのか」 が気になったのでしょう。過越の食事を行わないことはあり得ない。
しかし、それならば、エルサレムのどこで行うのか。ただ場所を確保すればよい、というわけではありません。
主イエスを始め、十二人の使徒、また他の多くの弟子達が一斉に食事を行うための場所でなければなりません。またこれだけの人数です。調理場もそれなりのスペースが必要でしょう。
さらに加えて、主の安全が守られなければなりません。今から探してそのスペースを確保することができるのか。そういった疑問と不安から、弟子たちは主に尋ねます。
「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」(14:12)。
この問いに対して、イエス様は二人の弟子を「都」エルサレムへ使いに出されます。
もちろん、過越の食事の準備のためです。イエス様はここで、エルサレムで過越の食事を守ろうとする固い意志を示されます。
しかし、それだけではありません。ここでさらに強調すべきことがあります。
それは、過越の食事の準備が、弟子たちが動き出す前に、すでにイエス様によって備えられていたという事実です。
弟子たちは命じられて動きますが、実際には、主がすべてに先立って整えていたのです(ここにも、主の堅い決心が見受けられます)。
2 主の用意
イエス様は、二人にしるしと言葉を与えました。その「しるし」は、「水がめを運んでいる男」です。
当時、水がめを運ぶのは女性の仕事でした。ですから、男性がそれを担っているのは極めて珍しい光景でした。
だからこそ、それが弟子たちにとっての明確なしるしとなったのです。このしるしはとてもわかりやすく、弟子たちはすぐに見つけることができたでしょう。
次に、「言葉」ですが、それは次のようなものでした。
「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をする宿屋はどこか』と尋ねています」(14:14)
この言葉をそのまま伝える時、弟子たちの道はさらに開かれ、導かれて行きます。
そのような彼らに、答えが与えられていくのです。彼らは「席のきちんと整った二階の広間」にたどり着くのです。
こうして弟子たちは、主の命令に従い、また主の言葉を信じたため、「席のきちんと整った二階の広間」にて、過越の食事の準備を整えることができました。
一見すると、これは主イエスの霊的予見の力によるもののように思えます。
しかし、この箇所で強調されているのは、「主がすでに用意されていた」ということです。そのことを示すのが、この短い箇所に実に3回も登場する「用意する」という言葉です(14:12,15,
16)。
これは、この物語の主要テーマの一つです。この言葉によって、すべては「過越の食事」のため、つまり小羊の犠牲のために用意されたものであり、それを用意したのは、紛れもなく主イエスご自身であることが、強調されています。
さらにこのことは、エルサレム入場前の準備(11:1-6)の出来事と関連して理解できます。
互いを見比べると、実に多くの共通点があることに気付きます。
あの時は、主イエスは、王としてエルサレムに迎え入れられために、準備を整えておられました。今回の場面では、小羊として屠られる準備を整えておられたのです。
いずれにせよ、強調されているのは、すべては主が用意されたということです。
主が用意周到に準備なさったのは、過越の食事を行える「席のきちんと整った二階の広間」でした。この場所が直接教会を示していると断定することは時期尚早です。
聖霊が降る前であり、教会は生き始めていません。しかし、この場所で最後の晩餐が行われ、主が血とからだを差し出されたところに、教会の胎動が始まっていること、そしてそれを主ご自身がご用意してくださったことは、見逃してはならないでしょう。
主は、「弟子たちと一緒に過越の食事をする」(14:14)為に、これらすべてを用意されました。ここにもう一つの重要なテーマが隠されています。
それが「過越」という言葉です。よくよく見るとわかるのですが、「過越」と言う言葉はこの短い箇所の中に4回も登場します(4:12に2回,14,16)。
この事実は、「過越」が物語全体の中心的テーマの一つであるということを示しているといってよいでしょう。
3 過越
では、過越とは何か。
それは、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放された夜を記念する、救いの出来事の記念です。出エジプト記12章で、神はモーセを通して命じられました。
「この月はあなたがたの第一の月であり、一年の最初の月である」(出12:2)
つまり、イスラエルの新しい歴史の始まりが、この夜から始まったのです。この日を記念として祝う祭りであると言えるでしょう。
より具体的には、神は、エジプトを打つ日の前日、イスラエルの民に、一家ごとに傷のない一歳の雄の小羊を取り、それを屠り、その血を家の入口の柱とかもいに塗るように命じられました(出12:5–7)。そして神は言われました。
「その夜、私はエジプトの地を行き巡り、…初子を打つ。…あなたがたがいる家の血は、あなたたちのしるしとなる。私はその血を見て、あなたたちのいる所を過ぎ越す」(出12:12–13)。
神の裁きは、血のしるしによってその家を過ぎ越した。この「過ぎ越す」という言葉から、「過越(すぎこし)」という名が生まれました。
血のしるしによって民の命が守られる。それは贖いと救いの原型となり、この出来事をイスラエルは毎年思い起こし、祝うようになったのです(出12:14,申16:2)。
では、著者はこの記念日を忘れないよう訴える為に、「過越」という言葉を強調するのでしょうか。
そうではありません。
著者は、あの出エジプトの救いが今、主イエスのうちに再び実現しようとしていることを、強調しているのです。
神がエジプトの地で、血のしるしを見て民を過ぎ越されたように、今、イエス・キリストの血が新しい契約のしるしとなり、神の怒りと死の力を過ぎ越させる。
ここに「新しい出エジプト」が始まろうとしている。そのことを強く訴えているのです。
イエス様ご自身が「ほふられる小羊」となり、罪と死の支配から人を解放する新しい救いの出来事が、この夜から始まります。
弟子たちは、その歴史的瞬間へと招かれて行くのです(主がわざわざ14節で「弟子達と一緒に過越の食事を」と言うのは、弟子たちをこの救いへと与らせるためでしょう)。
過越の出来事は、もはやエジプトからの解放の記念ではなく、罪からの解放の現実として、主イエスのうちに成就します。マルコはこのことを、「過越」という言葉の反復を通して、読者に深く刻みつけようとしているのです。
4 弟子たちの応答
弟子たちは、この招きに従って、主の言葉の通りに歩みました。
「弟子たちは出かけて都へ行ってみると、イエスが言われたとおりであった」(14:16)
ここに信仰の歩みの原型を見ることができます。
彼らはすべてを理解していたわけではありません。
しかし、主の言葉を信じ、その言葉に従って歩むとき、主の備えの中に導かれていったのです。
信仰とは、完全に理解してから従うことではありません。また、ただ待つものでもありません。
主のしるしと御言葉を信じ、一歩を踏み出す中で、その真実を体験していくことです。そして、主がすでに用意しておられた場所にたどり着くまでが信仰です。
同じように、私たちの信仰の歩みも、主が先に備えてくださった道を歩むことです(マコ1:2-3参照)。私たちは、自分で信仰の席を整えるのではなく、主が整えてくださった食卓に招かれるのです。
主のしるしを探し、言葉を携え、信頼して、主が用意してくださるその場所(ゴール)まで歩んでいきたいと思います。