読む礼拝


2024年4月21日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書6章35-44節 
説教:「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」

1 命のパン(霊の糧)


 寂しい所にて、「飼い主のいない羊」のようにこの世をさまよい、途方に暮れていた大勢の群衆を、主は深く憐れみ、色々と教えられました。主の説教は、長時間にも及びました。「時もだいぶたち」(マコ6:35)、「夕方になる」まで続けられたのです(マタ14:15)。

 ルカによる福音書によれば、復活された主はエマオ途上にて、「飼い主のいない羊」のような二人の弟子たちに、旧約聖書から初めて、聖書全体にわたる解き明かしを行っております(ルカ24:27)。

 モーセや預言者が語り続けてきた預言の成就が近づいている。いや、すでに実現している。この時も主イエスは聖書を解き明かしつつ、こう宣言されたに違いありません。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マコ1:15)。御言葉を受け、すでに洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けたすべてのユダヤ人は(マコ1:4)、罪の告白と懺悔の声に神様が応答してくださったことを、その時大いに喜んだことでしょう。人々は救いの良い知らせ、「福音」を確かに聴いたのです。

 悔いし砕かれた心に、そして救いを求め飢えた心に「命のパン」である御言葉がしみわたります。群衆の心は息を吹き返しただけでなく、「燃えていた」ことでしょう(ルカ24:32参照)。

 それでも腹の底から出た言葉が、腹の奥底に届き留まるには時間がかかるものです。主は疲れも忘れ、御言葉を語り続け、群衆もまた聴き続けたのでした。

 本日私たちは、6章30節から語られる奇跡物語の続きを読み進めようとしています。前回は、「イエスは…いろいろと教え始められた」と34節にて語られていることに注目して、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」との神様の御言葉を、主イエスが証明なさったことに注目して見ていきました。

 申命記8章3節の神様の御言葉は、荒れ野での試練において、主イエスが悪魔に対して言われた御言葉であります(マタイ4:4、ルカ4:4)。(荒れ野と同じ場所として表現される)寂しい所にて、主イエスはこの御言葉の通り、「命のパン」を与え、群衆を霊的に癒し、さらに生かしていくのです。

 そしてその後、35節以降からの記事が通常「五千人の供食」と呼ばれる奇跡が具体的に展開されていくことになります。本奇跡物語も(今までの奇跡物語のそうであるように)、まず主イエスの御言葉(本物語の場合は教え)があり、奇跡が行われていくという奇跡への過程は変わりません。ですから、主イエスが主人公として語られ、その姿から主イエスの本質を学んでいくことに変わりないのですが、他の奇跡物語と違い、弟子が主イエスの奇跡の業に参与していくという新たな展開が繰り広げられています。

 展開の広がりは、読者に主イエスとは何かを学ぶと同時に、弟子とは何かへの考察を促します。つまり主イエスと弟子という二つのテーマが語られているのです。そこで私たちはそれに倣い、第一に本物語の奇跡を通して主イエスを学び、そして第二に主イエスと弟子達の関係から弟子についても学びを深めたいと思います。

2 日用の糧(肉の糧)

 第一に、41節以下から主イエスについて学びを深めたいと思います。本奇跡物語で語られる奇跡は、今までの奇跡物語が語ってきたこととほぼ変わりありません。単純に語ることが許されるのであれば、主イエスは、病が癒され悪霊が追い出したように、「日用の糧」であるパンを与える奇跡を通して、人々の命を癒したということです。

 病の癒しと悪霊の追放と同等の奇跡の業が、「五千人の供食」と呼ばれる奇跡にも見出されます。しかし、本物語は四福音書すべてに記載されていますから、今までのどの奇跡物語よりも心に刻まれたのでしょう。個人ではなく、群れが癒された経験は、一人一人に主イエスの業の偉大さを刻むのでした。主イエスは、霊と肉が満たされ命を得る人々に対し、「命のパン」によって霊的な癒しを与え、「日用の糧」という肉的な命をも与えてくださる唯一の方であることがここに証しされます。

「命のパン」を与える方は、同時に「日用の糧」をも蔑ろにしない方であることが41節以下には記されています。主は、御言葉のパンと日用の糧が霊と肉で形作られる人に必要不可欠であることをよくご存じでした。霊を強調するために肉を蔑ろにするならば、主の御心に適ったことではないでしょう。霊と共に肉の器を持つ人は、お腹を満たす必要があるのです。

 そして休息もまた必要です。御言葉が与えられたからと言って、空腹を我慢しなければいけないわけではなく、ましてや清貧を求められてはいないのです。御言葉と福音だけでは倒れてしまう肉の弱さを人は持っていることは残念なことですが、その弱さにおいて人は、主が与えて下さる命に頼り、主はその弱さを守ってくださるのです。

 弱さを覚える人々に対し、主イエスは父なる神の御心にそって「命のパン」である御言葉と同時に、肉のためのパンを与えてくださいます。主が与える霊と肉の癒しは、5千人(またはそれ以上の人々)を越えて12籠に溢れんばかりに与えられます。

 これは、主イエスの業の偉大さをこれまで以上に強調し示すのと同時に、主イエスの愛と父である神様の愛は、すでに召された人々を癒すだけではなく、これから新たに加わるであろう人々を満たすほどに与えられることを示しています。この奇跡によって私たちはますます「神の子イエス・キリスト」を目撃するのです。

3 弟子たちの参与

 さて、このような主イエスの奇跡に加えて、物語が伝えるもう一つのテーマを最後に見ていきましょう。本奇跡物語は、今までの奇跡物語とは違い、主イエスの奇跡の業に弟子たちが参与する姿が描かれていきます。弟子たちは未だ完成に至っていないとは言え、マルコによる福音書は弟子たちの従順さを描いてきました。弟子たちの中の12使徒は宣教の業を託され、成し遂げた姿が描かれています。弟子たちは着実に成長していたのです。

 弟子たちは、本物語において、群衆と共に主イエスの御言葉を聴いていたに違いありません。主イエスの御言葉と福音の中に留まり続ける時間は、なんと平安で心地よい時間でしょうか。この甘美な時間が、いつまでも続くことを誰もが願っていたに違いありません。

 しかし時が過ぎ、日が傾きかけたのを見て(ルカ9:21)、弟子たちは現実的に迫る問題に捕らわれ、不安を露わにしつつ、主イエスに投げかけます。

「ここは寂しい所で、もう時も遅くなりました。人々を解散し、周りの里や村へ行ってめいめいで何か食べる物を買うようにさせてください」(マコ6:35f)。

 弟子たちの提案は、至極もっともな提案でした。弟子たち自身も疲れていたのはもちろんでしょうが、何より主イエスの身を案じたことでしょう。「先生のご負担にならないように」と、彼らが配慮した可能性も考慮しなければいけないでしょう(多くの註解書において「弟子の無理解」を前提として、この時の弟子の行動を無思慮で無理解な行動であると避難する傾向がありますが、「弟子の無理解」というテーマを基に、弟子たちの行動をなんでも無理解であると非難することは避けた方が良いでしょう)。

 現に主は、弟子達の判断が正しいことを示すように、五千人の供食の奇跡を終えた後、群衆をすぐに解散させています(マコ6:45)。しかし弟子たちの理解は不十分であることを主は見抜いておられました。

 弟子たちは福音を聞くことで命は得られないと考えていたのでしょう。福音を聞くことと食事を摂る事を分けて考えていたのです。しかし福音は、現実を忘れさせてくれるぶどう酒ではなく、主イエスの御言葉は、その場しのぎの幻想ではありません。

 主イエスの福音は現実の中に響き渡ることで「命」を与えることを忘れてはいけないでしょう。「命のパン」と「日用の糧」は同時に与えられなければいけません。主イエスは、この機に弟子たちを試しつつ、さらに奇跡の業に参与させることで弟子たちを訓練するのでした。

「あなたがたの手で食べ物を与えなさい」(原文に近い訳を採用するならば「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」)、この命令に弟子たちは動揺します。

 先ほども申しましたように、弟子たちは現実世界に捕らえられていました。多くの奇跡を目撃したにも関わらず、最も現実的な応答を、弟子たちはします。「私たちが二百デナリオンものパンを買いに行って、みんなに食べさせるのですか」。一デナリオンは当時の労働者の一日の賃金ですから、二百デナリオンは二百日分の賃金です。

 一説によれば、二百デナリオンという金額は弟子たちが常時準備していた現金を指していると言われています。しかしこれだけの大金をはたいたとしても、5千人分のお腹を満たすほどのパンには届かない金額でした。このことから、弟子たちはいたって冷静に応答し、「最低限の用意はありますが、それでは彼らを満足させることは無理です」と答えたということになるでしょう。

 そのように応える弟子たちに向かって主は次にこう命じます。

「パンは幾つあるのか、見て来なさい」。

 弟子たちは素直に応じ、「確かめて来て」、「五つあります。それに魚が二匹です」と言いました。自分たちの手の内にある「日用の糧」をも確認した弟子たちは(二百デナリオンと共に)、自分たちの持てるすべてのものを確認したのでした。それは自分たちには十分であるが、人々を養うには少なく感じられるほど少なく頼りないものに思えました。

 しかし主イエスは、弟子たちの手の内にあるものを用いて、五千人に食べ物を与えていくのです。主イエスは「あなた方の手で、食べ物を与える」ことができることを証しされるのです。

 主はまず、「あなた方の手」つまり弟子たちの手によって、食卓を整えるようにと命じます。「飼い主のいない羊」状態であった群衆は、弟子たちによって組に分けられ、食事の席につくのです。五十人、百人と秩序だった食卓が整えられたのちに、主イエスはまず五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで恵みを与えて下さった神様を祝福されます。

 そして、一般的に行われる食事のようにパンと魚を割き、弟子たちに渡します。これらはことの重大さを思わせるそぶりではありません(ですから、このことと聖餐を結びつける必要はありませんし、特にこの行為を、未陪餐会員を聖餐に与らせるための根拠としてはならないでしょう)。一般的な食事の風景が広がっているのです。しかしその現実的な食卓が、奇跡が起こる食卓となるところに、現実と福音のつながることが証しされます。現実が福音と結ばれた時、「人々は皆、食べて満腹した」のでした。

 その手に持つものは少なく、大勢の癒しに結びつくことに思いは及ばない私たちですが、しかし私たちが用意し整えた食卓を用いて、すべてを満たしてくださる主イエスがいる事を覚えて、感謝しつつ備えをするものでありたいと思います。


2024年4月7日(日) 主日礼拝(合同礼拝)
聖書:マルコによる福音書6章30-34節 
説教:「飼い主のいない羊


1 「飼い主のいない羊」

 12人の使徒たちによってイエス様の福音はますます広く、多くの人々に宣べ伝えられました。イエス様の元に戻った彼らは、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告しました。主に派遣された者たちは、主の下に集いそれぞれの成果を報告する。それは日曜日ごとに教会に戻り、イエス様の元に集まるキリスト者にとっても大切な役割の一つと言えるでしょう。

 宣教の働きを担う弟子たちをイエス様は身元にて労り、休ませてくださるのです。

 一同は舟に乗って、自分たちだけで寂しいところに移動しました。寂しい所とは、元々、町や村から離れた人がいない場所という意味です。イエス様は寂しい所によく出かけ、独り祈られました(マコ1:35)。ここに行こうとしていたのかもしれません。また寂しい所は荒れ野とも表現されることもあります。荒れ野という表記で思い出されるのは、洗礼者ヨハネがいた場所です。聖書の世界には、様々な「寂しい所」があったのでしょう。

 イエス様一行が向かうその場所を特定することは難しいのですが、いずれにせよ、人里を離れた場所に行き、静かに休むことにしたのです。今の場所では相変わらず出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからでした(イエス様は使徒たちに宣教を任せて休んでいたわけではないことがこの一文からわかります)。イエス様一行は移動しましたが、しかしその思いは適いませんでした。

 福音を聞いた多くのユダヤ人が、「大勢の群衆」となってイエス様とその一行の下に集まってきたのです。群衆は、寂しい所に舟に乗って出かけていくイエス様一行の姿を見て、イエス様一行だと気づき、方々の町から徒歩で駆け付け、先回りしたのでした。徒歩で舟に追いつくぐらいですから、必死だったのでしょう。

 群衆の必死さは、福音に裏付けられたものではありませんでした。群衆は福音という良い知らせを聞いて集まったのですから、心満たされ喜び勇んで、イエス様のお話を聞こうと集まってきたのではありませんでした。また病気を癒してほしいとか、悪霊を追い出してほしいといった願いを持っていないようです。また不躾にイエス様を試してやろうと意気込んできたわけでもありません。今までの群衆はそうでした。

 しかし、本物語の群衆の雰囲気は全く別物です。聖書は、群衆はまるで「飼い主のいない羊」のようであった、とたとえています。群衆は迷子の羊のようにおびえ、弱り、疲れと悲しみに打ちひしがれ、どうして良いのか途方に暮れていたのです。

「飼い主のいない羊」というたとえから、群衆の様々な状況がわかります。皆様も「飼い主のいない羊」がどのような状況に捕らわれているかを想像しながら物語を読み進めてみてください。

 たとえば、「飼い主のいない羊」は狼などの外敵に対し無防備です。羊の性質を見ればわかるように、羊は自らを守る力を持っていません。ですから、「飼い主のいない羊」にたとえられた群衆は、命の危険にさらされていたということができるでしょう。それは戦争や疫病や飢饉が人々を襲い、死が間近に迫っていたというわけではありません。群衆の生活は苦しいものでしたが、生活はできていましたし、「ローマの平和」と呼ばれる時代でしたから、戦争などで苦しむこともなかったのです。

 しかし、群衆は心穏やかに、喜んで生活することは非常に難しかったのです。相次ぐ増税と宗教的腐敗、そしていつまで続くかわからない他国の支配。群衆の心は飢え乾き、救いを求めていたのでした。ある牧師はこの危機を「霊的な貧困・霊的な危機」と呼んでいます。簡単に言うことが許されるなら、それは「心が苦しんでいる状態」と言えるでしょう。

 マルコによる福音書は、これまでも苦しむ群衆を取り上げていました。群衆は病の癒しと悪霊追放を求めてイエス様の元に集まっています。苦しみは身体的貧困、つまり病や悪霊に原因があると考えていたのでしょう。イエス様は群衆の願いに応え奇跡を行うのですから、今までの奇跡は、身体の病と悪霊追放に集中して行われています(もちろん、そこからも信仰につながるのですが)。しかし本物語は一切身体的貧困からの救いは求められていません。群衆は徒歩で舟の速度を上回り、先回りするぐらい身体は元気なのです。

 しかし心は深く傷つき、満たされていませんでした。群衆は、心の傷に気づいていたのですが、何を求めて良いかわかっておりません。心の傷、心の渇きを癒すのは何なのでしょうか。答えを求めてさまようのです。

 羊たちの飼い主、つまり群衆を指導し、導く人はどこに行ったのでしょう。群衆を治める人々は立てられなかったのでしょうか。決してそうではありません。実は群衆の間に指導者がいました。王に祭司に教師に洗礼者。群衆を導く飼い主は確かに立てられていたのです。
しかし彼らこそ、群衆の霊的貧困、心の病の原因でした。当時はヘロデ・アンティパスという領主がおり、王と名乗ってガリラヤ周辺を支配していました。王は悪い羊飼いでした。羊たちを養うことをしなかったのです。私利私欲のために働き、羊の世話をすることなど一切考えていませんでした。それどころかかえって羊を苦しめる政策をし、羊を押さえつけていたのです。

 それでは宗教的指導者や教師はどうだったでしょうか。ローマ帝国の支配下にあるとはいえ、ユダヤ人の宗教は許されていましたから、宗教的指導者が立てられ、宗教を教える教師たちもたくさんおりました。しかし指導者たちの多くは、自分たちの地位や尊厳を守るために神の言葉を利用し、病にある人、悪霊に取りつかれた人、そして罪人に寄り添わず、迷い出た羊を探すことのしない人々でした。もちろん、真面目に聖書に聴き、主なる神さまの道を歩んでいた人がいたことは確かですが、しかし彼らが堕落していたのは、真の教えをしたイエス様を受け入れるのではなく、殺そうとしたことからも明らかです。彼らもまた悪い羊飼いでした。

 そのような悪い羊飼いに変わって良い羊飼いもいました。洗礼者ヨハネは、堕落した王と宗教的指導者に代わって人々を正しく神様のもとに導くため、荒れ野にて、悔い改めの洗礼を説いたのです。人々は彼の言葉に心打たれ、希望を抱き、彼を慕って集まったのです。洗礼者ヨハネこそ自分たちを導いてくれる。そう期待した矢先、彼はヘロデ王によって捉えられ、ヘロデの妻へロディアの陰謀によって処刑されてしまいます。良い羊飼いを失った群衆は、飼い主を失い、深い嘆きの谷に落とされることになります。群衆はそこで絶望を味わったことでしょう。ついには路頭に迷い、誰を信じてよいのか、どこに行けばよいのかを見失っていたのです。

2 深く憐れまれた

 そのような群衆の下に、嘆きの谷に、イエス様の御言葉が響き渡ったのでした。12使徒たちが伝える福音は、群衆の光となりました。羊が口笛に素直に集まるように、群衆はイエス様の声の下に集まってきたのでした。

 イエス様は大勢の群衆の「飼い主のいない羊」のような有様を見て、「深く憐れみ」ます。ギリシャ語原文で「深く憐れむ」という動詞は、もともと「腸(はらわた)」という内臓を表す単語から生まれた動詞です。当時、腸(はらわた)は命が生れる場所と考えられていました(男性の場合、創世15:4,サム下7:12。女性の場合、創世25:23,イザ49:1)。また内臓は、動物と人間の「内部」を指すこともあり(ヨナ1:17,2:1,詩22:4)、多種多様な感情、特に憐れみの座と考えられていました(イザ16:11,63:15,ルカ1:78主など)。つまりイエスは群衆の状況を見て、御自身も「腹の底から」「心の底から」、憐れんだということができるのです。

 また聖書が描く「憐れむ」とは、単に他人の苦しみや悲しみを知り、可哀そうに思ったり、同情したりすることを指す言葉に留まりません。聖書は、神様が人を「憐れむ」姿を、自らを低くして人格的に人に寄り添う神様の愛として表現しています。神の子であるイエス様も同様に、苦しむ人、悲しむ人の傍に行き、その心をすべて見て、すべて受け止めるのです。それだけではなく、共に居て寄り添い、愛をもって接し、そして苦しみと悲しみから人々を解放するために働いてくださる方なのです。

 心の底から憐れむイエス様が、群衆のすべてをご存じであることは言うまでもないでしょう。イエス様は「願う前から、必要なものをご存じ」(マタ6:8)である神様の子ですから、群衆の様子を見ただけで、霊的な力をもってすべてを悟ったのでした。それは群衆の苦しみ、悲しみ、悩み、すべてを受けとめたという意味と共に、群衆を苦しみから解放するための必要さえも、悟ったのです。

 群衆の心を開放するのは、奇跡でも悪霊払いではありませんでした。また食べ物のパンを与える事でもありませんでした。群衆にはまず御言葉が与えられなければいけなかったのです。霊的貧困からの解放は、御言葉によってのみなされることがここに記されます。

 申命記の有名な御言葉に、このようなものがあります。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申8:3)。ヨハネによる福音書は、イエス様を「言」と表現し(ヨハネ1:1ff)、

 また「命のパン」であると表現しています。イエス様ご自身も「命を与えるのは霊である。…私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である」とヨハネによる福音書6章63節で語っています。このことが示すように、イエス様の御言葉は、人々の命を保証するのです。イエス様が与えて下さる命とは、いずれ死を迎える肉体の命ではなく、自由で豊かで祝福された霊の命です。

 群衆を深く憐れまれたイエス様は、「いろいろと教えられ」ました。「いろいろと」という表現は、多くのことを、噛んで含めるように、熱心にという意味です。イエス様はこのような心をこめた説教において、悲惨な人々と出会い、「命のパン」である御言葉を与えるのです。

3 今も働いておられるイエス様

 イエス様はこの後、「飼い主のいない羊」を生み出した世界に対し、たちむかっていかれます。罪や死に打ち勝ったイエス様は、復活なさり、天の国に帰られました。そして今も神様と共に働いておられます。そのため、イエス様の歩みは今も続き、生きて働いておられるイエス様は、今も「飼い主のいない羊」の群れの所に来てくださるのです。イエス様は今も「飼い主のいない羊」を見て、深く憐れみ、御言葉を響かせてくださるために働いておられるのです。教会はそれが実現している場所と言えるでしょう。

 礼拝において聖書の御言葉が語られる時、私たちはイエス様の御言葉を聴いているのです。つまり私たちは今、「命のパン」をいただいています。私たちは讃美と祈りで応え、イエス様と対話します。ここにイエス様との豊かな命の交わりがあるのです。霊的貧困はここに満たされていくのです。

 キリスト者は、弟子として、また使徒として、福音の宣教にこれからまた派遣されていきます。人々をイエス様のもとへと導く宣教の使命は今も続いているのです。多くの人々が未だに「飼い主のいない羊」のような状況にあり、「霊的貧困」に見舞われているのは、この世にも、今も主イエスの御言葉を必要としている人々がいるのです。「命のパン」に満たされた人は、喜んで「命のパン」を分け与えるのです。それは5千を超えて有り余るほどのパンとなって人々を満たしていくことになるでしょう。