読む礼拝

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」
           (ローマ人への手紙12:5)


 SFの傑作として知られ、映画「ブレードランナー」の原案ともなったフリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の中で、体力・知力において人間にまさり、感情すら身に着けるに到ったアンドロイド(映画では「レプリカント」)と人間を区別する「唯一」の違いは、「共感」する力があるかどうかだという描写があります。

 それが下敷なのかもしれませんが、最近のアメリカのTVドラマの中で、元警察の人質交渉人で人間行動学を大学で教える主人公が、ヴァーチャルリアリティ(仮想現実)の世界から戻ってこれなくなった人を現実世界に連れ戻す仕事の依頼にきた元上司と対話するこんなシーンがありました。

 「10代の子は毎日どれぐらいスマホを使うでしょう。9時間よ。16時間超えちゃう子もいる」。「その見返りとして、世界を持ち運ぶことができる。どんな情報も道具もみんなスマホの中にある。そんなに悪いことか」。「悪いわ。一番大切なものを使わなくなっちゃうから」。「何かね」。「共感よ。人を観察して、心に寄り添うことを忘れてしまった」(Reverie:『レヴェリー 仮想世界の交渉人』シーズン1第1話)。主人公は、現実の苦しみゆえに仮想現実に閉じこもってしまった人たちを、相手の苦悩に寄り添うことを通して現実の世界へと引き戻します。

 娯楽小説というよりはむしろ哲学小説であるSF小説の大家や、人気がなければすぐに打ち切りになる海外TVドラマシリーズの脚本家が、人間が人間であるとは、人の痛みを自分の痛みとし、人の喜びを自分の喜びとすることができるということだというのです。逆に言えば、人の痛みが分からず、人の苦しみが理解できなくなってしまうなら、それは人間が人間であることをやめてしまうことだという痛切なメッセージでもあります。

 けれども、私たちは自分の痛みには敏感でも、他人の痛みには鈍い存在です。人が喜べば嫉妬し、人が悲しめばそれが自分ではないことにほっとするような、それどころかいい気味だとさえ思ってしまうような、歪み、ねじれた心の持ち主であることを認めざるを得ません。

 どうしたら、もっと真っ直ぐで、もっと健やかで、喜ぶことにも悲しむことにも歪みや陰のない、人が人であることをそのままに生きることができるのでしょうか。

 決して人格円満とは思えない使徒パウロが「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と書き送ることができた理由、欠けや破れの目につく聖書の登場人物たちが、にもかかわらず、人の喜びを自分の喜びとし、人の悲しみを自分の悲しみとして、真っ直ぐに、生き生きと、そして魅力的に生きている秘密は何でしょうか。

 それは、何よりも、聖書が、「この人を見よ」指さすイエス・キリスト、その人にあると言わなければなりません。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」。これはパウロが当時の讃美歌引用してピリピの教会に書き送った手紙の一節です。

 クリスマスの物語が語るように、イエス・キリストはベツレヘムの馬小屋におむつをあてられた赤ちゃんとして登場します。そしてゴルゴタの丘の十字架の上で「もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」とののしられながら、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫します。けれども最後に「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と息を引きとられるのです。

 聖書は「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」と記し、キリストが3日目によみがえったと証言するのです。

 聖書は、キリストの誕生と死と復活とを「イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」(ヘブル人への手紙)と理解します。

 そして「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(同)と勧めるのです。

 福音書は、「内臓」から生まれた言葉で、文語訳聖書では「腸(はらわた)痛む」、口語訳聖書では「深く憐む」、新共同訳聖書では「同情する」と訳された「スプランギソマイ」をイエス・キリストにだけ用いています。人間が失ってしまった「共感」する力を、神様がイエス・キリストにおいてこの世界に実現してくだった。そのイエス・キリストの「共感」「同情」によって、私たちは慰められ、救われ、生きる力を与えられた。そして私たちもまた「共感」する力を回復し、人間であることを取り戻すのであると訴えているのです。

 「レヴェリー」の主人公マラは、自分の名前についての人工知能との対話の中で、「マラ、いい名前だね、ヘブル語で「苦しみ」という意味だ」との、人工知能の限界を示すようなセリフに、「Hを付けるとアラビア語で「喜び」の意味になるわ」と返します。人は苦しみを喜びに変えることができる、そしてそれはその苦しみに寄り添い、共に苦しんでくれる存在によってであるというメッセージが伝わる場面です。

 映画「ブレードランナー」はその最後の場面で、共感の能力を持たないレプリカントと、なお共にいようとする主人公の姿が描かれます。その結末は描かれませんが(そしてそれは原作者の考えとは違ったものであるようですが)、そこに示される一抹の希望が、映画を原作とはまた違った意味で傑作としています。

 共感の力を失い、人間であることを失った者が、どうしたら共感の力を取り戻し、人間であることを取り戻すことができるのか、映画やドラマの根本にある聖書的なメッセージに耳を傾けたいと思うのです。そしてその原点としてのイエス・キリストの姿を、聖書を通して知ることができればと願うのです。
        (2018年10月14日のオープン礼拝説教から)