2025年12月28日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書14章53−65節
説教:「裁判」
1 「不正」な裁判
人々はイエス様を大祭司のもとに連れていきました。
イエス様を連れて来た人々(原文は「彼ら」)とは、「祭司長、律法学者、長老たちが遣わした群衆」(マコ14:43)です。
興味深いことに、逮捕の決定的な役割を果たしたユダは、ここから物語の前面に現れなくなります。
ユダは、自分が重要な役割を担っていると思っていたかもしれません。
しかしマルコの物語において、彼はもはや舞台に立ち続けることを許されません。彼は、神のご計画の前で沈黙させられていくのです。
変わって表舞台に立つのは、これまで背後ですべてを先導したものたち、すなわちイエス逮捕劇の黒幕である「祭司長、長老、律法学者たち」です。
マルコは、彼らが「皆、集まって来た」と記します。その登場の仕方はまるで、「群衆」の騒ぎを聞きつけ、最高法院としてその訴えを受け止める者たちのようです。
夜中に大祭司のもとに押し寄せて来た群衆を追い返すのではなく、むしろ彼らに寄り添い、その声に耳を傾ける――模範的な政治的・宗教的指導者の姿として描かれています。
最高法院の頂点に立つ大祭司もまた、この群衆を受け入れ、ここから正式な審問、すなわち裁きの場が始まっていきます。
しかし聖書は、その「模範的な姿」の背後にある現実を、はっきりと告発します。
表向きは群衆に寄り添い、その訴えに耳を傾ける者たちでありながら、実際には、すでにイエスを死刑にする方針が定まっていました。
その内実を、マルコは次のように記します。
「祭司長たちと最高法院の全員は、イエスを死刑にするために、
不利な証言を求めていた。」
証言台に立った人々の存在もまた、彼らの陰謀をいっそう浮き彫りにしています。
これらの証人たちも、最高法院の息のかかった者たちであったのでしょう。最高法院が求めた「死刑にするための不利な証言」に沿って、彼らは次々と「偽証」を重ねていきます。
証言は数多く挙げられました。現代の裁判と同じように、証人たちは一人ひとり証言台に立ち、イエス様の悪行を訴えます。
当時のユダヤの律法によれば、刑事事件の事実を立証するには二、三人の証人が必要でした(民35:30,申17:6,19:15参照)。
しかし、すべて偽りの証言であったため一致せず、事実を立証することができなかったのです。
この点からも、ここに集う人々一人ひとりの浅はかさと、最高法院の計画の杜撰さが明らかになります。人間の企ての、何と愚かなことでしょう。
それでも彼らは躍起になって言い張ります。
「この男が、『私は人の手で造られたこの神殿を壊し、三日のうちに、
手で造らない別の神殿を建ててみせる。というのを、私たちは聞きました。」
このような証言に対し、司法の場を取り仕切る大祭司はどのように対処したのでしょうか。
大祭司は、これらの証言が偽りであることを理解していました。
しかしそれは、彼が特別に聡明あったからではありません。
なぜなら彼自身もまた、イエス様を死刑にする計画の当事者だったからです。
とはいえ、証言があまりにも一致しなかったためでしょうか。
ついに彼は重い腰を挙げ、イエス様に直接問いかけます。
「何も答えないのか。これらの者たちがあなたに不利な証言をしているが、
どうなのか。」
この問いかけは、あたかもイエス様に寄り添うかのような姿勢を装っています。
しかし、彼の本心を知るとき、その態度はむしろ不気味さを帯びてきます。
仮にこの裁判の記録だけが後世に残されたとするなら、大祭司の裁きは「正当な手続きを踏んだもの」として受け取られたかもしれません。
彼は、露骨な野心や陰謀は書き記されないことをよく知っていたのです。使徒パウロは、コリントの教会に向けて次のように警告しています。
「サタンでさえ光の天使を装うのです。ですから、サタンに仕える者たちが、
義に仕える者を装うことも、驚くには当たりません。」(Ⅱコリ11:14–15)
まさに大祭司は、そのような「装い」を最後まで貫いているのです。
2 「正」なる裁判
それゆえに、イエス様の姿は、真に正しい装いのまま描き出されています。
明らかに不正と欺きに満ちた裁きの場であっても、イエス様ご自身は、終始、神の前に正しい態度を崩されません。
主は裁きを軽んじることなく、語るべきでない時には沈黙し、語るべき時には語られるのです。
大祭司の最初の問いに対して、イエス様は沈黙を守られます。
この沈黙の姿を、多くの注解書は、イザヤ書に描かれる「苦難の僕」と重ね合わせてきました。
神の御心に従い、苦しみを耐え忍ぶ主の姿として理解するのは、確かに妥当であり、また主イエスが苦難の僕であることは疑いようのない事実です。
しかし同時に、ここには、より素朴で、しかし深い姿も見えてくるのではないでしょうか。
それは、神の律法を重んじ、たとえ不正な裁判であったとしても、裁きの場に真摯に向き合う、イエス様の姿です。
主は、感情的に反論することも、自己弁護に走ることもなさいません。
ただ沈黙すべきところでは沈黙し、偽りの証言に加担することなく、律法の前に正しく立っておられるのです。
それゆえに、イエス様は(苦難の僕のように)沈黙を貫きません。
やがて大祭司が、核心に迫る問いを発したとき、はっきりと、ご自身について証言されるのです。
「あなたはほむべき方の子、メシアなのか」
「私がそれである(Ἐγώ(エゴー) εἰμι(エイミ))。
あなたがたは、人の子が力ある方の右に座り
天の雲に乗ってくるのを見る。」
この裁きの場におけるイエス様の御言葉は、福音書全体の中でも極めて重要な意味を持っています。
それは、イエス様ご自身が、公の場で、自らをメシアであると告白される、初めての明確な証言だからです。
イエス様はご自身が「ほむべきかたの子、メシアである」という宣言を、詩編110編とダニエル書7章13節の御言葉を引用しながら行います。
旧約聖書の二つの御言葉によって、イエス様はご自身の御言葉の確かさを法廷に提出するのです。
沈黙と証言、そのどちらもが神の御心に従った行為であり、主は裁かれる者としてではなく、最後まで真理の証人として、この場に立ち続けておられるのです。
3 最高法院の判決と下役たちの無礼、そしてペトロ
しかしこの御言葉を聞いた大祭司は、衣を引き裂いて主に判決を下します。
「衣を引き裂く」とは、元来「大いなる悲しみ」(創37:29,34)や「恐怖」(列下18:13-37,19:1)「喪に伏すこと」(レビ21:10)を表す行為でした。
使徒言行録の時代には、「神の名が汚された場合に行われる形式的なものとなっていたようです(使徒14:14)。
特に裁判官においてその義務が負わされていたようです。
ですから、大祭司はこの裁判の場で、「神を冒涜した重い罪」を言い渡す時に、衣を裂いたことは、必ずしも感情的な行為であったとは限らず、形式に則ったものであったとも考えられます。
至って冷静にこの行為を行ったものであるとも言えるのです。
もちろんこの時、大祭司は神を冒涜する発言を聞いて激怒し、衣を裂いたかもしれません。
しかしそこには、ついにイエスを死刑に追い込む計画が実現したという、内心の喜びを否定することはできないのです。
彼は喜んで衣を引き裂き、内心で勝利宣言をしていた可能性もあるのです。
もしそうであれば、彼の罪はますます重たいものになります。
いずれにせよ、大祭司はこれを一人の判断として決定づけるのではなく、当時の法に従い、最高法院に承認を求めます。
こうして「一同は、イエスを死刑にすべきだと決議」し、刑が確定するのです。
彼らは心のうちに勝利を宣言をしたことでしょう。イエス様をついに死刑に追いやった!この大祭司と最高法院たちの興奮が、人々に伝わったのでしょうか。
それはやがて、罪人への暴力を正当化し、人格否定へと加速していきます。
「ある者はイエスに唾を吐きかけ目隠しをしてこぶしで殴りつけ、
「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちもイエスを平手で打った。」
司法の場にとどまらず、それに連なる人々もまた暴力を振るいます。
偽証がまかり通り、正しい証言が精査されることなく軽んじられたまま、罪が確定する裁判。人々はその不正さを疑うことなく、結果に踊らされ即座に暴力へと流れ込む。
私たちはここに、人間の罪の恐ろしさ見なければなりません。
有識者による証言によって善人を罪人へと仕立て上げられる社会。そして、その社会に呼応して暴力を振る人々の姿。現代のSNS社会において、「いいね」の数が多ければ多いほど、たとえ裏付けのない偽証であっても、あたかも真実であるかのように受け取られてしまうことがあります。
そして罪人が建てられ、容赦ない言葉の暴力を浴びせる。
こうした社会を今現在私たちは目撃しているのではないでしょうか。
人々の罪は、決して消えていないのです。
偽証そのものだけでなく、それを煽り、拡散する社会の仕組みに対して、私たちは十分に注意しなければなりません。
このように、主の光によって照らし出された裁判の場面は、人々の罪と、社会を覆う闇とが次々と明らかにされていきます。
ユダヤにおける司法・行政・立法はことごとく穢れていたのです。
このことが明かされたのち、その光は今一度ペトロへと注がれていきます。
ペトロは一度逃げ出しましたが、それでも遠くからイエスの後について行き、大祭司の中庭に入り、下役たちと一緒に火にあたっていました。
ペトロの弟子としての灯火は、まだ完全には消えていませんでした。
本人は熱心に主を追っていたと思っていたことでしょう。
しかし彼は、この灯火さえも消えてしまう経験をすることになります。その伏線が、ここで静かに描かれています。
ペトロは、大祭司の下役たちの中に身を置いていました。
大祭司の下役とは、いわば大祭司にとっての「弟子」にあたる存在です。
イエスの弟子が、大祭司の弟子のうちに潜り込んでいる。彼はそこから抜け出せず、そこに染まっていくのです。
意図せずして彼は、大祭司の弟子の位置に立ち、イエスを平手で打つ下役たちと同じ側に身を置くことになります。
いや、それ以上の裏切りを、彼はこの後に行うことになるのです。
2025年12月21日(日) クリスマス礼拝(合同礼拝)
聖書:ルカによる福音書2章1−7節
説教:「救い主の誕生」
1 Stille Nacht(静かな夜)
世界で最初のクリスマスの物語を、私たちは今、共に聴きました。
驚くべきことに、そこには誰の声も響いていません。
祝福の言葉も、賛美も歓声もありません。
驚くほどの静けさ。それが、世界で最初のクリスマスでした。
この静けさは、ルカによる福音書一章(2:8以下も参照)との対比によって、いっそう際立っています。
つい直前まで語られていた1章は、「幼子の誕生」をめぐる、喜びと活気そして希望の声、また声に満ちた物語だったからです。
マリアの賛歌(Magnificat(マグニフィカト))、ザカリアの預言と賛歌(Benedictus(ベネディストゥス))、そしてエリザベトとお腹の子ヨハネの喜び。
そこでは、老いも若きも、神の御業に出会った人々の声が重なり合い、主を賛美する一つの大きな賛歌が響き渡っていました。
それは、高齢の女性に与えられた命と、乙女の身に起こった奇跡という、二つの出来事と結びつくことでさらに喜びに満ち満ちて、希望の光に包まれた物語でした。
それだけに、本日の箇所は、あまりにも静かです。
本来であれば、賛美の頂点とも言えるはずの「救い主の誕生」の場面。その中心に置かれているのは、「極めて静かな夜(Stille Nacht)」であったとルカは語ります。
この静けさの正体とは、一体何なのでしょうか。
物語を読み進めると、その一因は、ここに描かれている舞台背景にあることが分かります。
長旅に疲れ切った両親。往路の中、彼らに与えられたのは、温かな部屋でも、整えられた場所でもありませんでした。
そこにあったのは、家畜のための空間と、飼い葉桶だけでした。
そのような場所で迎えた出産。新しい命の誕生を、安全に迎えることさえ難しい、きわめて危険で、貧しい状況です。
一見すると、そこに喜びの余地は見当たりません。
むしろ、物語全体を、深い暗闇が覆っているかのようです。
物語冒頭に挙げられた一つの名前が、その暗闇をさらに濃くします。
皇帝アウグストゥス。彼は、広大な領域を支配したローマ帝国の皇帝であり、「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」を築いた偉大な指導者として、歴史に名を残した人物です。
本日の舞台であるシリアやユダヤもローマの属州であり、その支配領域でありました(詳しくは聖書巻末地図8を参照)。
確かに、アウグストゥスの治世の下、大規模な戦争は抑えられ、秩序が保たれました。
しかしそれは、「すべての人にとっての平和」とは程遠いものだったのです。
「ローマの平和」は、多くの犠牲と抑圧の上に成り立っていました。
各地における貧富の差は激しく、とりわけ支配される側の人々の生活は、決して楽なものではありませんでした。
皇帝の命令一つで、人々の生活は左右され、容易に揺るがされました。
政治は、支配者の利益のために行われるものであり、支配下に置かれた人はいつも虐げられていました。
その意味では「パクス・ロマーナ」の光は、ローマだけを照らす偽りの光でした。
偽りの光は、確かに、その一か所を明るく照らします。
しかし同時に、光の届かない場所は多く、それどころか闇を、より深くしてしまうのです。
本日の箇所に記されている全領土の住民に下された「住民登録」もまた、名ばかりの平和の影の一部分です。
この「住民登録」は、具体的には人と財産の登録です。
つまり、税をより効率的に徴収し、ローマの平和を維持するためのものだったのです。
ローマ帝国が属州に課した重い税はユダヤ人をますます苦しめることになります。
ヨセフとマリアは、その闇の中に飲み込まれていくのです。
2 暗闇
「ヨセフもダビデの家系であり、またその血筋であったので、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなづけのマリアと一緒に登録するためである」(2:4-5)
ここで唐突に、ヨセフがダビデの家系であり、その血筋であったことが明かされます。
淡々とかかれた記事ですが、これはきわめて重大な記事です。
ダビデとは、かつて神ご自身が「わたしの子」と呼ばれたイスラエルの王でした(サム下7:14)。
そのダビデ王の直系の血筋に属するヨセフでさえ、ローマ帝国の支配の下では命令に従うほかはないという当時の現実がこの一文に示されています。
かつて栄華を極めたイスラエルの姿はここにはありません。ただ、属国として支配され、押さえつけられている現実が、静かに浮かび上がってきます。
また、ヨセフとマリアが歩いた、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムまでの道のりは、直線距離でおよそ約110km、山道や迂回路を考えるなら、150kmほどに及びます。
決して容易な旅ではありません。
妊娠中で、しかも臨月に入っていたであろうマリアを連れての旅は、10日以上かかったと考えられています。
マリアと、その胎内の子にとっては、この旅は命の危険を伴うものでした。
しかし、ローマの平和のために犠牲はつきもの。皇帝の命令は絶対なのでした。
偽りの平和のもとで下された一つの命令が、ヨセフとマリア、そして生まれてくる幼子の心と体、そして命を危険にさらした。
これが、4節、5節にて記されている現実です。このような命の危機が「全領域」に広がっていたのでした。
ヨセフとマリアはなんとか無事にその危機を乗り切ることができました。
しかし、その先には、さらに厳しい現実が待ち構えていたのです。
一行は、無事にベツレヘムに到着します(2:6)。
しかしそこで、月が満ち、お産が始まるのです。
マリアにとって知らない土地での初めてのお産。旅の疲れと精神的不安が彼女を襲います。
ヨセフは必死に、安全に出産ができる場所を探したことでしょう。
ところが、ここでも皇帝の命令(「住民登録」)が三人を追い詰めます。
多くの人がベツレヘムに押し寄せ、「宿屋には彼らの泊まる所がなかったからです」。
暗闇がますます濃くなっていく中、彼らがどこに泊まり、どのようにして初子を産んだのかを、福音書は記していません。
ただ、幼子が家畜の餌入れである「飼い葉桶」に寝かされたことから、その場所は、家畜小屋のような場所であったと考えられます。
馬小屋や牛舎に入ったことがある方なら、そこでの出産がいかに過酷であったかを容易に想像できるでしょう。
光も十分に届かず、きれいな水を確保できたかもわかりません。
へその緒を切るはさみ。消毒のための塩。様々なものが必要でした。衛生状態は決して良くはなかったはずです。
そのような劣悪な状況では、一つの小さな失敗が、母子の命を危険にさらします。
旅での疲れ、精神的不安、劣悪な環境。
まさに、そのすべてが闇に味方し、闇が命を飲み込むその場所で、一つの幼い命が誕生するのです。
3 救い主の誕生 Heilige Nacht!(きよしこの夜)
マリアは、無事に初子の男子を産み、産衣にくるんで飼い葉桶に寝かせました。
ここに描かれているのは、劣悪な環境の中で行われた、きわめて日常的な出産です。
この場面は、奇跡的な出来事として描かれてはいません。
天が開かれることもなく、不思議な徴が現れることもありません。
そこにあるのは、ただ、一つの命を守ろうと必死になった両親の姿と、過酷な現実の中で生まれてきた幼子の姿だけです。
もちろん、ヨセフとマリアにとって、それは誰にも代えがたい、切実で劇的な出来事であったに違いありません。
しかしそれは、聖書がしばしば語るような、目に見える奇跡としての出来事ではありませんでした。
ここで記されているのは、誰もが日々の生活の中で経験する、「生きようとする営み」そのものです。
ですから、ルカはこの誕生を、特別な演出によって際立たせることをしていません。
むしろ、「アウグストゥス」「住民登録」、そして「飼い葉桶」という言葉を並べながら、平和の名のもとにかき消されそうになった人々のうめきと、小さな命の息づかいを、そのまま描き出しています。
ルカはこの出来事を、きわめて静かに語ります。
しかし、その静けさは、決して冷えきったものではありません。
ルカの語り口に宿る、他に類を見ないほどの深い熱を、私たちは見逃してはならないでしょう。
ルカは、この世の現実のただ中に、神がその身を置かれ、私たちを救う道を歩み始められたという福音を、静かに、しかし情熱的に語るのです。
その語り口は、ろうそくの炎の中心で、ひそやかに煌めく青い炎のようです。最も静かでありながら、最も高い熱量を宿す、あの炎です。
ルカが、「アウグストゥス」「住民登録」、そして「飼い葉桶」という言葉を並べたのは、神がこの世の最も低いところに救い主を置かれた、という事実を強調するためでしょう。
それは、誰一人として救いからこぼれ落ちることのない神の御心が、すでにここに示されている、ということなのでしょう。
ルカは、静かに叫びます。
「神は、命が誕生するという喜びのうちに、救い主を送ってくださった。生誕という、人の根源にある喜びを、さらに深めてくださった。それは、大声で叫ぶ賛美を超えた先にある、言葉を失うほどの喜びだ。」
触れられるほど近くに生まれる新しい命。力強い泣き声。冷え切った夜に、そっと差し出される温かな小さな手。
子と両親の初めて出会い。それは多くの感動を生みます。
ましてや、クリスマスの出来事は、苦しみのただ中で起こりました。
悲しみの底に沈み、涙さえ枯れてしまったそのときに、訪れた幸せ。
もしかしたら失われていたかもしれない命を、その腕に抱きしめるときの感動は、言葉にすることのできないものであったでしょう(もしかしたら、命を失った経験をお持ちの方も、この中におられるかもしれません。そのような方にとって、クリスマスに生まれた命は、なおさら大切に思われるのではないでしょうか)。
命の誕生。
それは、社会や環境に左右されるほどに儚いものです。
しかし、それゆえに、高貴であり、大切なものなのです。
命は、自分にも他人にも、決して軽んじられてはなりません。
それは人の心を揺さぶる感動であり、人々に与えられる希望、愛そのものであります。
子どもとの出会いは、語りつくせない幸いに溢れているのです。
そして、その幸せのただ中に、さらに深い喜びが増し加えられて与えられる――これが、クリスマスです。
それは、極めて儚い命が、救いと結びつき、永遠の命へと結びつけられていく瞬間。救いの道のスタート。その命はやがて復活へと結びつけられ、喜びを伴った永遠の生命へと導かれていきます。
神は静かに、しかし確かに、救いを始められた。この事実が、イエス・キリストの誕生の中にあるために、クリスマスは感動と希望に包まれているのです。
結婚、そして出産という命が受け継がれていく恵みの物語(詩編127:3)のただ中に増し加えられた救いの喜び。救い主の誕生は、「きわめて静かな夜」に、「きわめてきよいかたちで」起こりました。
まさに、Stille Nacht, Heilige Nacht――「きよしこの夜」(讃美歌109番)の賛美がふさわしい出来事、それがクリスマスです。
この、きわめて静かな夜の、きわめてきよきクリスマスへ、私たちは招かれています。この出来事を通して神様は私たちにこう語りかけておられます。
「あなたの命は、喜びである。その命は今、永遠へと招かれている」。
私たちはその声に応えて、静かに、しかし最も熱く、主に賛美をささげてまいりましょう。
2025年12月14日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書14章47−52節
説教:「聖書の言葉が実現する」
1 そばに立っていた者
使徒ユダの裏切りにより、イエス様は捕らえられました。
その直後、「そばに立っていた者の一人が、剣を抜いて大祭司の僕に打ちかかり、片方の耳を切り落とし」ます(14:47)。
衝撃的な事件にもかかわらず、マルコはこの出来事を説明することなく、淡々と物語を進めます。そして最後に「弟子たちは皆イエスを逃げてしまった」と記し、この場面を締めくくるのです。
マルコは、この行動をとった人物が誰であったのかを明らかにしません。
他の福音書を読むなら、彼が誰であったのかは知られていますし、片耳を切り落とされた僕の名すら記録されています。
つまり、初代教会ではよく知られた人物だったのでしょう。
しかしマルコは、あえてその名を伏せています。また、他の福音書が描くような「イエスを守るためだった」という動機にも触れません。
ここに、マルコの独自の意図を読み取る必要があります。
まず、「そばに立っていた者」とは十二使徒のことを指す言葉であると考えられています。
3章14節でイエス様は、十二人を「自分のそばに置くため」にお選びになりました。
つまり、この「そばに立っていた者」とは、ユダを除く残りの使徒たちの誰かであったと考えられます。裏切りが使徒から生まれたように、剣を抜いた者もまた、使徒から出てきたのです。
では、その動機は何だったのか。
他の福音書は「イエスを守る意図」を明確に記します。
しかし、マルコの物語の流れを読むと、むしろ彼が「遅すぎる行動」をとっていることがわかります。
イエス様が捕らえられた後に剣を抜くのは、救出のための戦いというより、恐れと混乱の中で振るわれた衝動的な行動と見る方が自然です。
実際、マルコが描く弟子たちの行動は、わずか二つの言葉に集約されています。
つまり、「ある者が剣をふるった」。
「そして皆、イエスを見捨てて逃げた」。
この二つをつなげて読むなら、剣は「救出のため」ではなく、「逃げ出すための活路を開くため」に振るわれたと理解することも可能です。
伝統的な解釈ではありませんが、マルコの叙述の流れに照らせば、十分説得力がある読み方です。
マルコはこの一撃を称えることもなく、犯人の名すら書かず、普遍化しています。
それは、弟子の失敗を特定の誰かに帰すのではなく、すべての信仰者に共通する弱さとして描くためでしょう。
そばにいたものが離れていく様が生々しく描かれています。弟子たちの弱さをマルコは強調してきました。
主が逮捕された時、弟子たちは真っ先に逃げ出していった。その逃走の活路を開いたのが、使徒の一撃だった。そう読み取ることは、たとえそれが伝統的な解釈とは違うものだとしても、一理あるのです。
2 群衆
しかし、弱さが描かれているのは弟子たちだけではありません。
イエス様を捕らえた群衆もまた、別の種類の「弱さ」をさらけ出しています。
それは、主の教えを日常的に聞きながらも、正しい判断を失ってしまうという、この世の闇と言える弱さです。
イエス様は群衆に向かって次のように言います。
「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。私は毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなた方は私を捕らえなかった。」(14:49)
「剣や棒を持って」捕らえに来たことの強調(43,48節)は、「強盗にでも向かうように」やってきた群衆、あるいはそうさせた権力者たちの心配が、いかに見当はずれなことか、いかに大袈裟な防備であるかを示しています。
イエス様は「時は来た」とおっしゃり、父のみこころのままに受け入れておられるのです。
群衆の武力も、使徒の剣も、この時には何の意味もありません。神の御心の時に生きるイエス様の前に、人間的な防備も攻撃も、ただ愚かさとして浮かび上がります。
イエス様は続けて、彼らの無関心を指摘します。
イエス様は毎日、神殿で教えておられました。公の場所で、神の国の福音を語り、悔い改めを説いていました。
主は聴衆の中に、この群衆がいたことを知っておられます。しかしこの群衆たちはイエス様を認識していなかったのです。
無関心以外なにものでもないでしょう。人間的な一時的な救いに揺れ動く群衆もまた愚かな者たちとしてこの場に登場しているのです。
3 裸の青年
さらに、次の物語もまた、その一端を担う物語と言っても良いでしょう。逮捕劇の混乱のさなか、マルコはきわめて奇妙な場面を挿入します。
「ある若者」が「亜麻布一枚をまとって」イエスに従っていましたが、人々に捕らえられると、亜麻布を捨てて裸で逃げていった──という短い記述です。
この若者が誰であるかについて、多くの解釈が提案されてきました。
その一つに、古くから「これはマルコ自身ではないか」という伝承があります。
確証があるわけではありませんが、マルコが物語の中に自分を暗示的に登場させる可能性は十分に考えられます。
「読者は悟れ」(13:14)という語り手の挿入を思えば、マルコが物語にさりげなく現れるという手法は不自然ではありません。
もしこの若者がマルコ自身であるとすれば、この記述は単なる事実の報告以上の意味を帯びてくるでしょう。
彼は「亜麻布一枚」をまとっていました。
亜麻布は当時、高価な布であり、また聖書の文脈では、純潔、礼拝、あるいは洗礼といった聖なる事柄と結びつけて用いられることのある素材です。
一方、「裸」という表現は、必ずしも完全な裸体のみを指す言葉ではありません。
聖書においては、不十分な衣服、みすぼらしい姿、さらには比喩的に、無防備さや窮乏、徹底した貧しさを表す場合もあります。
旧約では、貧しい者は「裸」であり、義しい者が衣を与えることが求められていると語られています(イザヤ58:7、エゼキエル18:7,16、トビト記4:16参照)。
そう考えると、この若者は、もともと自分自身で十分な備えを持っていた者というよりも、与えられたものによって生かされていた存在として読むこともできるでしょう。
彼は亜麻布をまとっていましたが、その布は、彼自身の力で獲得した信仰の証というよりも、誰かから与えられ、支えられてきたものの象徴であったのかもしれません。
しかし、決定的な危機の瞬間に、彼はその亜麻布を残し、何も持たずに逃げ去ります。
マルコは、その行為を評価も弁明もせず、ただ淡々と描写します。そこには、「信仰を身にまとっているつもりでいた者」が、極限の場面で自分の無防備さをさらけ出し、逃げ去っていく姿が映し出されているようにも見えます。
もしこれがマルコ自身の体験を反映したものであるならば、それは自己告白と反省の物語として読むことも可能でしょう。
自分は知っている、信じている、弟子たちとは違う――そう思っていた者が、実際には弟子たちと同じように、いやそれ以上に、恐れの中で逃げ去ってしまった。
そのような痛みを、マルコはこの短い挿話に託しているのかもしれません。
もっとも、聖書はこの若者の正体も、内面も語りません。
それゆえ私たちは、ここで断定することを慎みつつ、この物語を「読む者自身を映し出す鏡」として受け取ることが求められているのでしょう。
信仰を身にまとっているつもりでいながら、試練の中でそれを手放してしまう弱さ――この若者の姿は、弟子たちと同様に、そして私たち自身と同様に、人間の現実を静かに示しているのです。
ここには、マルコ自身の心の痛みが重ね合わせられているかもしれません。
「自分は主を裏切らない」「自分は知っている、信仰がある」。
しかしその自負は、決定的な局面で簡単にはがれ落ちる。
弟子たちと同じように、いや、弟子たち以上に、自分の弱さが露呈し、裸となって逃げ去った。
そうした自己告白的な響きが、この短い挿話ににじんでいます。
つまりこの若者は、「信仰の理想を身にまとっているつもりでいた者」の象徴でありながら、その正体が暴かれると何も持たずに逃げ出す。
私たち自身を映し出す鏡でもあるのです。
マルコがこの場面を挿入したのは、「弟子たちの失敗」と「自分自身の失敗」を重ね合わせ、読者にもその弱さを認めさせるためであるとも考えられます。
4 聖書の言葉が実現する
弟子と群衆、そして裸の青年の弱さを見てきました。
しかし、これらによって彩られたゲツセマネでの結末は、ただ絶望的な展開を示すのではありません。
ここで重要なのは、主イエスの御言葉がこの物語全てを覆っているということです。
ここまで見てきたように、ゲツセマネから逮捕の場面に至るまで、登場人物たちは誰一人として「立派」ではありません。
弟子たちは剣を振るい、そして逃げ去りました。
群衆は恐れと誤解の中で暴力に頼りました。
亜麻布一枚をまとった若者は、その最後の拠り所さえ捨て、裸で逃げていきました。
マルコは、これらの弱さや失敗を美化しません。弁解も与えません。ただ、ありのままに描き出します。
しかし、この物語が絶望で終わらないのは、イエス様が語っておられる言葉があるからです。
「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」(14:49)
これは一貫してイエス様が語って来た御言葉でした。
人間の側から見れば、そこにあるのは裏切りと逃走、恐れと混乱だけです。
しかし神の側から見ると、そのすべてが、御言葉の成就へと用いられていきます。
弟子たちの不従順も、群衆の暴力も、若者の裸の逃走さえも、神の計画を妨げることはありませんでした。
むしろ、神はそれらを織り込みながら、ご自身の救いの御業を前に進めていかれたのです。
ここに、福音の逆説があります。神の救いは、人間の強さや忠実さによって成り立つのではありません。
人間の弱さ、失敗、逃走のただ中でこそ、神の言葉は確かに実現していくのです。
私たちもまた、弟子たちと同じように、信仰を誇りながら逃げてしまう者です。
群衆のように、恐れから誤った選択をしてしまう者です。
亜麻布一枚をまとった若者のように、最後の拠り所だと思っていたものを手放してしまう者です。
しかし、それでもなお、神の言葉は失敗しません。
「聖書の言葉が実現する」。
それは、人間の弱さを超えて、神が主語であり続けるという宣言です。
この確かさの中で、私たちは自分の弱さを否定する必要も、隠す必要もありません。
ただ、その弱さを携えたまま、主の前に立ち続けるよう招かれているのです。
2025年12月7日(日) 主日礼拝(合同礼拝・待降節2)
聖書:マルコによる福音書14章43−46節
説教:「裏切られ、逮捕される」 大石啓介
1 ユダと群衆
「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が近づいて来た。」
イエス様がこう語られた「すぐ、…まだ話しておられるうちに」、十二人の一人であるユダが群衆を連れます。彼らはイエス様を捕らえに来ました。
この群衆について、マルコは「祭司長、律法学者、長老たちの遣わした者たち」であると説明します。
すなわち、宗教的指導者たちこそがこの逮捕劇の背後にいて、裏から糸を引いているのです。
そこには、自らは表に立たず弟子を“手駒”として利用する狡猾さ、暴力で支配しようとする卑劣さ、責任を人に負わせる指導者としての腐敗、という宗教的闇が浮かび上がります。
ついに、この世の闇が、神の栄光を覆い尽くそうと働きかけるのでした。
興味深いのは、ここで登場する「群衆 ὄχλος」が、これまで福音書に登場した「イエスに惹かれて集まる群衆」と同じ語で表されている点です。
しかし、ここではまったく異なるニュアンスで用いられています。彼らはイエス様に従うのではなく、権力者の命令に従う群衆として描かれます。
それだけではなく、どうやら彼らは(今までの群衆と違い)イエス様の顔すらよく知らず、ユダの口づけの目印がなければ誰を捕らえるのか判別できないほど、イエス様については無知だったようです。
彼らを(ルカやヨハネの並行箇所から)ローマの兵隊または訓練された(祭司長直属の)神殿警備隊と考えている神学者もいますが、(マルコでは)そうではなく、金で雇われた雑多な者たちであったと考えられます。
この群衆の中には大祭司の僕もいました。しかし、過越の食事の時、安息日や祭日に携えることが禁じられている剣や棒(その他、弓、盾、槍など)で武装していたことから、不信仰な者たちであったとも考えられます。
いずれにせよ、この者たちを導いているのがユダです。イエス様を確実に捕らえるためには、彼が必要不可欠だったのでした。
ユダはこうして「裏切り者の代表」として先陣を切ります。かつてイエス様に選ばれた者でありながら、「裏切り」という選択を自ら選び取り、率先してイエス様を捕まえようとしたのです。
ここに、マルコ福音書の重大なメッセージが示されています。裏切りは「外部から」ではなく、「内部から」起こった。
教会は常に、この危険を自らの内側に覚えていなければならない。
選ばれた者であっても、神の民の中にあっても、罪への誘惑は内側から生まれうるという警告です。
ところで、これらの構図(イエスとユダの対峙)は、私たちをしばしば「神対サタン」という単純な二分法へと誘います。
そして、かつて敗れたサタンが再び戦いを挑んできた。イエス様はそれを予測しており「立て、行こう」と弟子たちを決戦の場へと奮い立たせた――そのようなイメージを抱きがちです。
もちろん、ここで描かれているような「裏切り」、「暴力」、「陰謀」といったものが闇(サタン)の働きと深く関係していますから、こうした構図をイメージするのは神学的に誤りではありません。一部の解説書はこのイメージを支持しています。
しかし、ここで注意すべきことがあります。つまりこの構図によって「サタンがさせたのだから、人間に責任はない」と弁明してはいけないということです。
聖書は創造以来、人間を、自らの罪を他者に転嫁する者たちとして描いて来ました。アダムは「妻が与えたから」と言い、イブは「蛇がそそのかしたから」という。
罪を自分の外へ押し出そうとする姿は、創世記以来の深い人間の傾向です。
しかし聖書は同時に、このような責任転嫁を神が決して認めないことを繰り返し示します(罰の後には愛による受容が必ずあるのですが)。
罪は、どれほど外的要因があったとしても、最終的にはその行為を選んだ本人の責任である。これが聖書の一貫した教えです。
つまり、「サタンが働いた」という事実は、ユダの責任を免じる理由にはならないということです。人は確かに誘惑されます。
しかし、誘惑に応じるかどうかは、その人自身の応答にかかっています。神は、人が自ら選んだ不従順の責任を、他の存在のせいにして免除することはなさいません(自分の弱さや状況や他者に責任を転嫁したくなる弱さを覚えつつ、しかし神は、私たちが真実に向き合い、悔い改めに立ち返ることを求め、その機会を与えていくのです)。
罪の責任をユダ自身が追っていることは、ユダが「十二人の一人」であると紹介されていることによって示されています。
彼は弟子たちの中でも、責任ある立場にあるものであることが、ここに明確にされています。彼は主の教えを聞いていました。
主の御心を知っていました。神の愛と憐れみを最も近くで見てきました。それでも彼は、その知識を持ちながら、自らの意志で主を引き渡す道を選びました。
イエス様が自分の思い通りの方ではなかったとしても、裏切った責任は彼にあるのです。
2 ユダの接吻
ユダがとった行動は、最も皮肉なものでした。愛と忠誠のしるしであるはずの「あいさつ」と「接吻」が、裏切りを確実にするための合図となったのです。彼はイエス様を確実に識別するために、群衆に合図を与えました。
「私が接吻(φιλέω)するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように(ἀσφαλῶς)連れて行け」
逃げられれば報酬が得られない。そのような貪欲が透けて見えます。
彼はこの言葉通りにイエス様に近寄り、「先生」と挨拶して接吻するのです。この合図によって何の苦労もなく「人々はイエス様に手をかけて捕らえ」ることができたのです。
「先生」という言葉がけ。これは弟子が師を敬意を込めて呼ぶ声かけです。
また、このとき(45節)でユダが施した接吻(καταφιλέω)は、原文が示すところでは軽いあいさつではなく、むしろ「熱情的な口づけ」です。
ルカ15章、放蕩息子を喜び迎え入れる父の姿を思い起こさせるような(ルカ15:20)、深い愛情を含んだ行為が、裏切りの道具へと変えられてしまったのです。
これこそ、師に対する侮辱と非礼の極み。ユダは信頼と愛の言動をもって、裏切りを確かなものにしたのです。
3 ユダと向き合う
ここまで読むと、私たちはユダをただの「反面教師」や「極悪人」として遠ざけたくなるでしょう。しかしマルコは、彼を「十二人の一人」と呼び続けます。
彼を弟子として、十二使徒として、イエス様に選ばれた者として描き続けるのです。
そこには、徹底して“内側から生まれた裏切り”を描き出していく、そのようなマルコの意志を感じ取れます。
しかし、それだけではありません。マルコはユダを使徒として描き、イエス様を十字架へと引き渡すことで、神のご計画の前進させた者としても描き出していくのです。
彼の裏切りが神のご計画をより進めていくのです。彼は、神のご計画の「引き渡し」のために「選ばれて」いくのです。
弟子たちの、しかもその中心の十二使徒の内から起こった「裏切り」。この強調は、「聖書の言葉が実現するために」必要なものであったことを、マルコはこの言葉(「十二人の一人」)によって訴っていくのです。
神のご計画は、人間の罪さえも織り込みながら前進していく──これは聖書を貫く重要なテーマです。創世記のヨセフ物語において、物語の最後にヨセフはこう言います。
「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変えて、多くの民の命を救うために、今日このようにしてくださったのです。」(創50:20)
イエス様が黙って接吻を受け止めた逮捕されたのは、すべてをもって私たちを最善へと導く神の御心を受け止めたからにほかありません。
悪を善にかえ、多くの民の命を救う計画に、従っていったのです。
先ほどのサタンの時と同様に、神のご計画だからといってユダの責任が軽くなるわけではありません。
神は人間の罪を利用してご計画を進められるが、罪そのものを肯定したり、免責したりはなさらない。この緊張がこの箇所全体に流れています。
この緊張感の中、私たち一人ひとりが「何をしなければならないか」を問わなければなりません。使徒の罪と神のご計画。このことを考えながら、週の歩みを過ごし、次週を待ち望みたいと思います。
2025年11月30日(日) 主日礼拝(アドベント1)
聖書朗読 マルコによる福音書14章37―42節
説 教 「目を覚まして祈っていなさい」 大石啓介
はじめに
ゲツセマネでの主の祈りを聴きました。イエス様は深い悲しみの中でこう祈られました。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」
それは、死ぬほどの苦しみと(14:34)、「杯(神の裁きによる死)取りのけてください」という願い、そしてその願いを抱えながらも、御心に従順に身を委ねる祈りでした。
今日の箇所(37–42節)は、この祈りが三度繰り返されたことを、非常に丁寧に描き出しています。
しかし、マルコは、イエス様の三度の祈りだけではなく、弟子たちの三度の就寝を並列させています。これによって、「従順」と「不従順」を際立たせる対比構造が実現します。
マルコはこれによって、「イエス様の強さ」と「弟子の弱さ」を比較します。
しかしこの構造によってマルコは、イエス様の光を持って、弟子たち(あるいは私たち人間)の闇を徹底的に批判しようとした訳ではありません。
むしろ、弱さを抱えた弟子を見捨てず、愛し、招かれる主を描きつつ、読者もまた、この招きに与ることができるという喜びの知らせ、つまり福音を告げ知らせているのです。
闇を包み込む光の物語。それでは早速本日の箇所に耳を傾けていきましょう。
1 三度の祈り
イエス様は弟子たちを残して祈りに向かわれます(37節)。その祈りの回数は三度、「同じ言葉で祈られた」と記されています(39節。三度目には特記されていないが、同じ言葉で祈られたと考えられています)。
ここでナレーターはただ、「同じ言葉で祈られた」と語りますが、事はそう単純ではありません。
なぜなら、これは機械的な繰り返しではないからです。祈りは神様との対話であり、繰り返される祈り(神様との対話)によって、神様が道を示してくださる、そのような様子が描かれているからです。
第一の祈りにおいて、神様との対話が生まれます。まずイエス様は願いを率直に差し出す祈り、つまり杯を取り除いてほしいという切なる叫びを祈られました。
しかし、同時に、最後には御心にそったものでありますようにという願いで祈りが閉じられています。願いながらも、父なる神様に従順であろうとする献身が祈りの姿に現れています。
第二の祈りにより、より対話が進みます。「同じ言葉」(39節)で祈られましたが、諦めや機械的な繰り返しではありません。
願いと御心の緊張を抱えながら、なお忍耐をもって祈り続ける姿です。何度も訴え、聞き届けられるまで祈り続ける。諦めない祈りがここに記されているのです。
こうした継続した祈りは、第三の祈りとなり、その第三の祈りが、神との対話の実りをもたらします。三度目の祈りのあと、イエスは弟子たちのもとに戻られ、こう言われます。
「もうよかろう。時が来た」(41節)。これは、父が応えて下さり、イエスがその御心を完全に受け取ったということです。
イエス様は、従順の道を歩む決意を固められたことを示します。祈りが十分になされたことが示されます。
同じ言葉が繰り返されるうちには、このような経緯があるのです。祈りにおいて、神様との対話において、道が示され、物事が動き出す。ここには祈りの繰り返しの大切さが示されています。
祈りはただ一度祈られればよいということではありません。繰り返し繰り返し、真剣に祈り続けることで、先鋭化されていくのです。
一つの祈りは、だいたい1時間前後続けられたと言います(マコ14:39)。主は苦しみ続けました。本来負うべきではない罪。その重さ。理不尽な責め苦。これからを担うには、相当な覚悟が必要でした。
人となったイエス様は、肉の思いを抑えるために、これらに対し、祈りにおける格闘を続けておられたのです。人間の肉なる思いとの戦いは、サタンの試み以上のものだったでしょう(マコ1:12-13並行)。
このような戦いの末、ついに41節では、36節で「過ぎ去らせて下さい」と願った「この時」が、ついに来たことが告げられます。
これは主の祈りが届かなかったことを意味するのではなく、ましてや敗北したわけでもありません。祈りが聴き届けられた上で、「御心が現れる時が来た」ということを示しています。
繰り返しなされる祈りが、聞き届けられたからこそ、「もうよい」のであり、そこで父の御心が示されたからこそ、主は歩まれるのです。
こうして、マルコの描くイエスの三度の祈りは、従順の深化の三段階を示しています。願い → 祈り続ける → 御心の受容。主の従順は、苦しみと葛藤の中で形づくられているのです。
そのような中、道が開かれていくのです。
2 三度の眠り
このような祈りとは対照的に、弟子たちは三度にわたって眠りこけてしまいます。
ここに、弟子たちの不従順が鮮明に描き出されています。ここには、マルコ福音書の一貫したテーマである「弟子の無理解」の強調があります。
しかし、ここに描かれている弟子たちの姿を、単なる「反面教師」として切り捨てるべきではありません(こうした対比は、マルコがしばしば用いる物語的手法であり、読者に「イエスに倣う弟子とは何か」を問いかける働きをしています。
つまり弟子たちが問われているのでなく、私たち読者が問われているのです)。
イエス様は、祈るべき時に祈りの必要を理解できず、眠り込んでしまう弟子たちの弱さを深くご存知でした。その弱さは確かに信仰的未成熟を示しています。
しかし一方で、イエスの呼びかけは単なる批判ではなく、彼らをなお「弟子」として招き続け、成長へと導くための言葉として響いています。その象徴的な瞬間が、37節の呼びかけです。
「シモン、眠っているのか。一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」
「一時も目を覚ましていられなかったのか」。
イエスはここで、人の肉の弱さを鋭く指摘されています。
ここでイエス様はペトロに向けて語り掛けていますが、なぜなら、ペトロはほんの少し前に「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言い張ったからです。
ペトロはその直後に、主の「目を覚ましていなさい」という命令に応えることができなかったのです。「心ははやっても、肉体は弱い」という人間の本質を、ペトロはさらしています。
そして、「シモン」という呼びかけも、彼が「ペトロ(岩)」という名が象徴する堅固さからはほど遠い、弱さのただ中にあることを示しています。
しかし、この弱さはペトロだけのものではないでしょう。
ペトロは代表者として選ばれています。主の苦難が深まり、祈りがよりいっそう深く切実になっていく中で、ペトロを通して、弟子たちの、ひいては人間の肉の弱さが浮き彫りになっていくのです。
しかし、何度も繰り返しますが、これは単に人の弱さを責め立てるためではありません。
「シモン」という呼びかけを、もう一つの視点から見てみましょう。
主は彼の弱さを示すために旧名で呼びますが、それは同時に、親しい呼びかけとして理解することもできます。
この言葉には、非難だけではなく、「あなたを捨ててはいない」という響きがあります。
かつて「サタン」(8:33)とさえ呼ばれた時点からすれば、ここにはすでに重要な変化があります。
ペトロはなお弱い。しかし、もはや退けられてはいない。弱さのただ中にあっても、主は彼を「弟子」として扱い、語りかけ、招いておられるのです。
イエス様は、弟子たちのたどり着く先をも見ています。それゆえに、イエスは弟子たちの弱さを見つつも、その弱さを引き上げるために、導くために、こう命じていくのです。
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」
3 目を覚まして祈っていなさい。
イエス様は、弟子たちの弱さを見て怒りに燃え、彼らを突き放したのではありません。
彼らの「まぶたが重かった」(40節)という、あまりにも人間的な限界を知りつつ、なお「誘惑に陥らないよう、祈っていなさい」と命じられたのです(38節)。
弟子たちが自分の弱さに勝てなかったのは、気合いが足りなかったからではありません。イエス様が言われた通りです。
「心ははやっても、肉体は弱い」(38節)。弱さという現実の前に、「どう言えば良いのか、わからない」ほど、弟子たちは沈黙せざるを得ませんでした。
弱さを克服する力は、人にはない、ということがありありと示されます。
しかし、イエス様はそのような弱さに寄り添い、「大丈夫だ。祈りによって、神の力に自分を置くことができる」と教えてくださるのです。
あだ名ではなく、その人の名前で、イエス様は呼びかけ、弱さを責めるのではなく、祈りへと導き、神に頼る歩みへと招かれるのです。
では、どのように祈ればよいでしょうか。ゲツセマネの主の祈りにその答えはすでに示されています。
36節「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに」。
そして38節では「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」。
これらをまとめてみると、「父なる神様に呼びかけ、御心を祈り、そして誘惑に陥らないように祈る」ということになるでしょう。
おきづきでしょうか。つまりここに、「主の祈り」への招きがあるということです。それこそが肉の弱さを克服するために必要な祈りでした。
弟子たちはこの時、「主の祈り」へと招かれていたのです。
必要な祈りを教え、この祈りを「目を覚まして祈りなさい」という命令に、この時弟子たちは従えませんでした。
ですから、イエス様は「まだ眠っているのか。休んでいるのか。」とおっしゃいます。
これも祈れない弱さへの非難と言えるでしょう。しかし、未だ祈れない弱い弟子たちを見捨てることはなさいません。弟子たちに向かって、「立て、行こう。」と招いてくださるのです。
この命令は、弱さの中にある弟子を起こし、イエスの歩みに再び参与させるための招きです。
弟子たちは三度眠りましたが、イエスは三度祈られました。弟子たちの不従順によってこの物語が閉じるのではなく、イエスの従順によって新たな一歩が切り開かれるのです。
弱さを知りつつもなお共に歩むために、主が差し出された招きの言葉、招きの手なのです。弟子たちが成長しつつあることを主はご存知であり、その先にある成長をご存知でした。
この物語を読む私たちも、弱さのゆえに祈れぬことがあるかもしれません。主の苦難を知りつつも、祈らず眠りこけていることがあるかもしれません。
しかし、もう十分眠ったではありませんか。主は、その弱さを知りつつ、弱さの先にある成長を見ておられます。
「目を覚まして祈れ」との命令と共に、手を差し伸べて「立て、行こう」と招いてくださいます。
目を覚まし、立ちあがろうではありませんか。主の差し伸べられた手をいまこそ握る時です。
その手によって立ち上がり、その手を離さずに進むのです。