2025年12月7日(日) 主日礼拝(合同礼拝・待降節2)
聖書:マルコによる福音書14章43−46節
説教:「裏切られ、逮捕される」 大石啓介
1 ユダと群衆
「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が近づいて来た。」
イエス様がこう語られた「すぐ、…まだ話しておられるうちに」、十二人の一人であるユダが群衆を連れます。彼らはイエス様を捕らえに来ました。
この群衆について、マルコは「祭司長、律法学者、長老たちの遣わした者たち」であると説明します。
すなわち、宗教的指導者たちこそがこの逮捕劇の背後にいて、裏から糸を引いているのです。
そこには、自らは表に立たず弟子を“手駒”として利用する狡猾さ、暴力で支配しようとする卑劣さ、責任を人に負わせる指導者としての腐敗、という宗教的闇が浮かび上がります。
ついに、この世の闇が、神の栄光を覆い尽くそうと働きかけるのでした。
興味深いのは、ここで登場する「群衆 ὄχλος」が、これまで福音書に登場した「イエスに惹かれて集まる群衆」と同じ語で表されている点です。
しかし、ここではまったく異なるニュアンスで用いられています。彼らはイエス様に従うのではなく、権力者の命令に従う群衆として描かれます。
それだけではなく、どうやら彼らは(今までの群衆と違い)イエス様の顔すらよく知らず、ユダの口づけの目印がなければ誰を捕らえるのか判別できないほど、イエス様については無知だったようです。
彼らを(ルカやヨハネの並行箇所から)ローマの兵隊または訓練された(祭司長直属の)神殿警備隊と考えている神学者もいますが、(マルコでは)そうではなく、金で雇われた雑多な者たちであったと考えられます。
この群衆の中には大祭司の僕もいました。しかし、過越の食事の時、安息日や祭日に携えることが禁じられている剣や棒(その他、弓、盾、槍など)で武装していたことから、不信仰な者たちであったとも考えられます。
いずれにせよ、この者たちを導いているのがユダです。イエス様を確実に捕らえるためには、彼が必要不可欠だったのでした。
ユダはこうして「裏切り者の代表」として先陣を切ります。かつてイエス様に選ばれた者でありながら、「裏切り」という選択を自ら選び取り、率先してイエス様を捕まえようとしたのです。
ここに、マルコ福音書の重大なメッセージが示されています。裏切りは「外部から」ではなく、「内部から」起こった。
教会は常に、この危険を自らの内側に覚えていなければならない。
選ばれた者であっても、神の民の中にあっても、罪への誘惑は内側から生まれうるという警告です。
ところで、これらの構図(イエスとユダの対峙)は、私たちをしばしば「神対サタン」という単純な二分法へと誘います。
そして、かつて敗れたサタンが再び戦いを挑んできた。イエス様はそれを予測しており「立て、行こう」と弟子たちを決戦の場へと奮い立たせた――そのようなイメージを抱きがちです。
もちろん、ここで描かれているような「裏切り」、「暴力」、「陰謀」といったものが闇(サタン)の働きと深く関係していますから、こうした構図をイメージするのは神学的に誤りではありません。一部の解説書はこのイメージを支持しています。
しかし、ここで注意すべきことがあります。つまりこの構図によって「サタンがさせたのだから、人間に責任はない」と弁明してはいけないということです。
聖書は創造以来、人間を、自らの罪を他者に転嫁する者たちとして描いて来ました。アダムは「妻が与えたから」と言い、イブは「蛇がそそのかしたから」という。
罪を自分の外へ押し出そうとする姿は、創世記以来の深い人間の傾向です。
しかし聖書は同時に、このような責任転嫁を神が決して認めないことを繰り返し示します(罰の後には愛による受容が必ずあるのですが)。
罪は、どれほど外的要因があったとしても、最終的にはその行為を選んだ本人の責任である。これが聖書の一貫した教えです。
つまり、「サタンが働いた」という事実は、ユダの責任を免じる理由にはならないということです。人は確かに誘惑されます。
しかし、誘惑に応じるかどうかは、その人自身の応答にかかっています。神は、人が自ら選んだ不従順の責任を、他の存在のせいにして免除することはなさいません(自分の弱さや状況や他者に責任を転嫁したくなる弱さを覚えつつ、しかし神は、私たちが真実に向き合い、悔い改めに立ち返ることを求め、その機会を与えていくのです)。
罪の責任をユダ自身が追っていることは、ユダが「十二人の一人」であると紹介されていることによって示されています。
彼は弟子たちの中でも、責任ある立場にあるものであることが、ここに明確にされています。彼は主の教えを聞いていました。
主の御心を知っていました。神の愛と憐れみを最も近くで見てきました。それでも彼は、その知識を持ちながら、自らの意志で主を引き渡す道を選びました。
イエス様が自分の思い通りの方ではなかったとしても、裏切った責任は彼にあるのです。
2 ユダの接吻
ユダがとった行動は、最も皮肉なものでした。愛と忠誠のしるしであるはずの「あいさつ」と「接吻」が、裏切りを確実にするための合図となったのです。彼はイエス様を確実に識別するために、群衆に合図を与えました。
「私が接吻(φιλέω)するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように(ἀσφαλῶς)連れて行け」
逃げられれば報酬が得られない。そのような貪欲が透けて見えます。
彼はこの言葉通りにイエス様に近寄り、「先生」と挨拶して接吻するのです。この合図によって何の苦労もなく「人々はイエス様に手をかけて捕らえ」ることができたのです。
「」という言葉がけ。これは弟子が師を敬意を込めて呼ぶ声かけです。
また、このとき(45節)でユダが施した接吻(καταφιλέω)は、原文が示すところでは軽いあいさつではなく、むしろ「熱情的な口づけ」です。
ルカ15章、放蕩息子を喜び迎え入れる父の姿を思い起こさせるような(ルカ15:20)、深い愛情を含んだ行為が、裏切りの道具へと変えられてしまったのです。
これこそ、師に対する侮辱と非礼の極み。ユダは信頼と愛の言動をもって、裏切りを確かなものにしたのです。
3 ユダと向き合う
ここまで読むと、私たちはユダをただの「反面教師」や「極悪人」として遠ざけたくなるでしょう。しかしマルコは、彼を「十二人の一人」と呼び続けます。
彼を弟子として、十二使徒として、イエス様に選ばれた者として描き続けるのです。
そこには、徹底して“内側から生まれた裏切り”を描き出していく、そのようなマルコの意志を感じ取れます。
しかし、それだけではありません。マルコはユダを使徒として描き、イエス様を十字架へと引き渡すことで、神のご計画の前進させた者としても描き出していくのです。
彼の裏切りが神のご計画をより進めていくのです。彼は、神のご計画の「引き渡し」のために「選ばれて」いくのです。
弟子たちの、しかもその中心の十二使徒の内から起こった「裏切り」。この強調は、「聖書の言葉が実現するために」必要なものであったことを、マルコはこの言葉(「十二人の一人」)によって訴っていくのです。
神のご計画は、人間の罪さえも織り込みながら前進していく──これは聖書を貫く重要なテーマです。創世記のヨセフ物語において、物語の最後にヨセフはこう言います。
「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変えて、多くの民の命を救うために、今日このようにしてくださったのです。」(創50:20)
イエス様が黙って接吻を受け止めた逮捕されたのは、すべてをもって私たちを最善へと導く神の御心を受け止めたからにほかありません。
悪を善にかえ、多くの民の命を救う計画に、従っていったのです。
先ほどのサタンの時と同様に、神のご計画だからといってユダの責任が軽くなるわけではありません。
神は人間の罪を利用してご計画を進められるが、罪そのものを肯定したり、免責したりはなさらない。この緊張がこの箇所全体に流れています。
この緊張感の中、私たち一人ひとりが「何をしなければならないか」を問わなければなりません。使徒の罪と神のご計画。このことを考えながら、週の歩みを過ごし、次週を待ち望みたいと思います。
2025年11月30日(日) 主日礼拝(アドベント1)
聖書朗読 マルコによる福音書14章37―42節
説 教 「目を覚まして祈っていなさい」 大石啓介
はじめに
ゲツセマネでの主の祈りを聴きました。イエス様は深い悲しみの中でこう祈られました。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」
それは、死ぬほどの苦しみと(14:34)、「杯(神の裁きによる死)取りのけてください」という願い、そしてその願いを抱えながらも、御心に従順に身を委ねる祈りでした。
今日の箇所(37–42節)は、この祈りが三度繰り返されたことを、非常に丁寧に描き出しています。
しかし、マルコは、イエス様の三度の祈りだけではなく、弟子たちの三度の就寝を並列させています。これによって、「従順」と「不従順」を際立たせる対比構造が実現します。
マルコはこれによって、「イエス様の強さ」と「弟子の弱さ」を比較します。
しかしこの構造によってマルコは、イエス様の光を持って、弟子たち(あるいは私たち人間)の闇を徹底的に批判しようとした訳ではありません。
むしろ、弱さを抱えた弟子を見捨てず、愛し、招かれる主を描きつつ、読者もまた、この招きに与ることができるという喜びの知らせ、つまり福音を告げ知らせているのです。
闇を包み込む光の物語。それでは早速本日の箇所に耳を傾けていきましょう。
1 三度の祈り
イエス様は弟子たちを残して祈りに向かわれます(37節)。その祈りの回数は三度、「同じ言葉で祈られた」と記されています(39節。三度目には特記されていないが、同じ言葉で祈られたと考えられています)。
ここでナレーターはただ、「同じ言葉で祈られた」と語りますが、事はそう単純ではありません。
なぜなら、これは機械的な繰り返しではないからです。祈りは神様との対話であり、繰り返される祈り(神様との対話)によって、神様が道を示してくださる、そのような様子が描かれているからです。
第一の祈りにおいて、神様との対話が生まれます。まずイエス様は願いを率直に差し出す祈り、つまり杯を取り除いてほしいという切なる叫びを祈られました。
しかし、同時に、最後には御心にそったものでありますようにという願いで祈りが閉じられています。願いながらも、父なる神様に従順であろうとする献身が祈りの姿に現れています。
第二の祈りにより、より対話が進みます。「同じ言葉」(39節)で祈られましたが、諦めや機械的な繰り返しではありません。
願いと御心の緊張を抱えながら、なお忍耐をもって祈り続ける姿です。何度も訴え、聞き届けられるまで祈り続ける。諦めない祈りがここに記されているのです。
こうした継続した祈りは、第三の祈りとなり、その第三の祈りが、神との対話の実りをもたらします。三度目の祈りのあと、イエスは弟子たちのもとに戻られ、こう言われます。
「もうよかろう。時が来た」(41節)。これは、父が応えて下さり、イエスがその御心を完全に受け取ったということです。
イエス様は、従順の道を歩む決意を固められたことを示します。祈りが十分になされたことが示されます。
同じ言葉が繰り返されるうちには、このような経緯があるのです。祈りにおいて、神様との対話において、道が示され、物事が動き出す。ここには祈りの繰り返しの大切さが示されています。
祈りはただ一度祈られればよいということではありません。繰り返し繰り返し、真剣に祈り続けることで、先鋭化されていくのです。
一つの祈りは、だいたい1時間前後続けられたと言います(マコ14:39)。主は苦しみ続けました。本来負うべきではない罪。その重さ。理不尽な責め苦。これからを担うには、相当な覚悟が必要でした。
人となったイエス様は、肉の思いを抑えるために、これらに対し、祈りにおける格闘を続けておられたのです。人間の肉なる思いとの戦いは、サタンの試み以上のものだったでしょう(マコ1:12-13並行)。
このような戦いの末、ついに41節では、36節で「過ぎ去らせて下さい」と願った「この時」が、ついに来たことが告げられます。
これは主の祈りが届かなかったことを意味するのではなく、ましてや敗北したわけでもありません。祈りが聴き届けられた上で、「御心が現れる時が来た」ということを示しています。
繰り返しなされる祈りが、聞き届けられたからこそ、「もうよい」のであり、そこで父の御心が示されたからこそ、主は歩まれるのです。
こうして、マルコの描くイエスの三度の祈りは、従順の深化の三段階を示しています。願い → 祈り続ける → 御心の受容。主の従順は、苦しみと葛藤の中で形づくられているのです。
そのような中、道が開かれていくのです。
2 三度の眠り
このような祈りとは対照的に、弟子たちは三度にわたって眠りこけてしまいます。
ここに、弟子たちの不従順が鮮明に描き出されています。ここには、マルコ福音書の一貫したテーマである「弟子の無理解」の強調があります。
しかし、ここに描かれている弟子たちの姿を、単なる「反面教師」として切り捨てるべきではありません(こうした対比は、マルコがしばしば用いる物語的手法であり、読者に「イエスに倣う弟子とは何か」を問いかける働きをしています。
つまり弟子たちが問われているのでなく、私たち読者が問われているのです)。
イエス様は、祈るべき時に祈りの必要を理解できず、眠り込んでしまう弟子たちの弱さを深くご存知でした。その弱さは確かに信仰的未成熟を示しています。
しかし一方で、イエスの呼びかけは単なる批判ではなく、彼らをなお「弟子」として招き続け、成長へと導くための言葉として響いています。その象徴的な瞬間が、37節の呼びかけです。
「シモン、眠っているのか。一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」
「一時も目を覚ましていられなかったのか」。
イエスはここで、人の肉の弱さを鋭く指摘されています。
ここでイエス様はペトロに向けて語り掛けていますが、なぜなら、ペトロはほんの少し前に「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言い張ったからです。
ペトロはその直後に、主の「目を覚ましていなさい」という命令に応えることができなかったのです。「心ははやっても、肉体は弱い」という人間の本質を、ペトロはさらしています。
そして、「シモン」という呼びかけも、彼が「ペトロ(岩)」という名が象徴する堅固さからはほど遠い、弱さのただ中にあることを示しています。
しかし、この弱さはペトロだけのものではないでしょう。
ペトロは代表者として選ばれています。主の苦難が深まり、祈りがよりいっそう深く切実になっていく中で、ペトロを通して、弟子たちの、ひいては人間の肉の弱さが浮き彫りになっていくのです。
しかし、何度も繰り返しますが、これは単に人の弱さを責め立てるためではありません。
「シモン」という呼びかけを、もう一つの視点から見てみましょう。
主は彼の弱さを示すために旧名で呼びますが、それは同時に、親しい呼びかけとして理解することもできます。
この言葉には、非難だけではなく、「あなたを捨ててはいない」という響きがあります。
かつて「サタン」(8:33)とさえ呼ばれた時点からすれば、ここにはすでに重要な変化があります。
ペトロはなお弱い。しかし、もはや退けられてはいない。弱さのただ中にあっても、主は彼を「弟子」として扱い、語りかけ、招いておられるのです。
イエス様は、弟子たちのたどり着く先をも見ています。それゆえに、イエスは弟子たちの弱さを見つつも、その弱さを引き上げるために、導くために、こう命じていくのです。
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」
3 目を覚まして祈っていなさい。
イエス様は、弟子たちの弱さを見て怒りに燃え、彼らを突き放したのではありません。
彼らの「まぶたが重かった」(40節)という、あまりにも人間的な限界を知りつつ、なお「誘惑に陥らないよう、祈っていなさい」と命じられたのです(38節)。
弟子たちが自分の弱さに勝てなかったのは、気合いが足りなかったからではありません。イエス様が言われた通りです。
「心ははやっても、肉体は弱い」(38節)。弱さという現実の前に、「どう言えば良いのか、わからない」ほど、弟子たちは沈黙せざるを得ませんでした。
弱さを克服する力は、人にはない、ということがありありと示されます。
しかし、イエス様はそのような弱さに寄り添い、「大丈夫だ。祈りによって、神の力に自分を置くことができる」と教えてくださるのです。
あだ名ではなく、その人の名前で、イエス様は呼びかけ、弱さを責めるのではなく、祈りへと導き、神に頼る歩みへと招かれるのです。
では、どのように祈ればよいでしょうか。ゲツセマネの主の祈りにその答えはすでに示されています。
36節「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに」。
そして38節では「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」。
これらをまとめてみると、「父なる神様に呼びかけ、御心を祈り、そして誘惑に陥らないように祈る」ということになるでしょう。
おきづきでしょうか。つまりここに、「主の祈り」への招きがあるということです。それこそが肉の弱さを克服するために必要な祈りでした。
弟子たちはこの時、「主の祈り」へと招かれていたのです。
必要な祈りを教え、この祈りを「目を覚まして祈りなさい」という命令に、この時弟子たちは従えませんでした。
ですから、イエス様は「まだ眠っているのか。休んでいるのか。」とおっしゃいます。
これも祈れない弱さへの非難と言えるでしょう。しかし、未だ祈れない弱い弟子たちを見捨てることはなさいません。弟子たちに向かって、「立て、行こう。」と招いてくださるのです。
この命令は、弱さの中にある弟子を起こし、イエスの歩みに再び参与させるための招きです。
弟子たちは三度眠りましたが、イエスは三度祈られました。弟子たちの不従順によってこの物語が閉じるのではなく、イエスの従順によって新たな一歩が切り開かれるのです。
弱さを知りつつもなお共に歩むために、主が差し出された招きの言葉、招きの手なのです。弟子たちが成長しつつあることを主はご存知であり、その先にある成長をご存知でした。
この物語を読む私たちも、弱さのゆえに祈れぬことがあるかもしれません。主の苦難を知りつつも、祈らず眠りこけていることがあるかもしれません。
しかし、もう十分眠ったではありませんか。主は、その弱さを知りつつ、弱さの先にある成長を見ておられます。
「目を覚まして祈れ」との命令と共に、手を差し伸べて「立て、行こう」と招いてくださいます。
目を覚まし、立ちあがろうではありませんか。主の差し伸べられた手をいまこそ握る時です。
その手によって立ち上がり、その手を離さずに進むのです。