2026年4月26日(日) 主日礼拝
聖書:マタイによる福音書28章16−20節
説教:「弟子たちを派遣する」
1 疑いの中、近づかれる主
イエス様は復活後、天に上られるまでの四十日の間、弟子たちと出会い続けられました。
ご自身が確かに生きておられることを示し、彼らの心を開いていかれたのです。
しかし弟子たちは、すぐにそれを受け止めることができたわけではありません。
恐れや疑いを抱きながら、復活の主と向き合っていました。
そのような弟子たちに対して、主は忍耐深く関わられます。
ご自身の傷を示し、聖書を解き明かし、共に食事をされる中で、弟子たちの頑なな心をほぐしていかれたのです。
こうして弟子たちは、少しずつ信仰を回復していきました。
そのような中、十一人の使徒たちは、主の言葉に従ってガリラヤの山に登り、イエス様にお会いします。
そのとき、彼らは主にひれ伏しました。
復活の主を前にして、ただその御前に身を低くするほかなかったのです。
そこには、後に主を礼拝する教会となっていく群れの姿が、すでにかすかに現れています。
しかし聖書は、彼らの姿を理想化しては描きません。
17節、「しかし、疑う者もいた。」
礼拝と疑いが同時に存在している。
これが、復活の主のもとに集められた弟子たちの現実でした。
ペトロも、トマスも、それぞれの弱さの中で主と出会い、立ち上がらされてきました。
しかしここでもなお、疑いは残っているのです。
これが人間の現実です。しかし聖書は、この現実をただ否定するのではありません。
むしろ、この現実の只中に、新たな神の現実が訪れていることを告げています。
イエス様は、そのような者たちに近寄り、語りかけてくださるのです(28:18)。
そして復活の主は、この不完全な者たちをそのまま、神の現実の中に招き、用いられていきます。
2 主の権能と派遣
18節。疑い迷いの中にある弟子たちに向かって、主はご自身の権能を示されます。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」
この言葉は、主ご自身がどなたであるかを示す宣言です。
疑いの中にある弟子たちに対して、主はまずご自身の側の確かさを示されるのです。
ここで言われている「権能」 とは、単なる力ではなく、支配する正当な権威と、それを実現する(能)力の両方を含む言葉です。
そのため、マタイにおいてはこの言葉は「権威」とも訳されています。
こちらの方が分かりやすいかもしれません。
いずれにせよ、主イエスの権威や権能は、天と地におよび、それは世の力や影響力とは異なり、神の御心を実現する、正当な支配を意味しています。
マタイの福音書において(また他の福音書においても)、主の「権威」はこれまでも繰り返し示されてきました。
イエス様は、権威ある者として教え、罪を赦す権威を持ち、悪霊を追い出す権威を現してこられました。
すなわちこのお方は、神の御心を知り、それを完全に行われる方として、その歩みの中で権威を現してこられたのです。
そして今、そのすべてを担う者として、「天と地の一切の権能」が自分に与えられている、と宣言されます。
これまで部分的に現されてきたこの権威が、今やすべてを包括するものとして明らかにされたのです。
この御言葉は、この箇所全体の中心でもあります。主イエスは、復活によって、天と地のすべての権威を持つ王として立てられたことが宣言されたのです。
これは旧約聖書においてすでに約束されていたことでした。
ダニエル書において預言されていたように(ダニ7:9-14参照)、この世界のすべては、このお方の良き支配のもとに置かれました。
ですから、弟子たちがこれから歩む道は、不確かなものではありません。
また、彼ら自身の力にかかっているものでもありません。
すべては、このキリストの権威のもとで進められていくのです。
このことを見失うと、「大宣教命令」は重荷になります。
「行かなければならない」「伝えなければならない」という、人間の責任ばかりが前に出てしまうからです。
むしろ聖書は逆の順序を示しています。
まず、「すべての権威はキリストにある」と宣言される。
その上で、「だから行きなさい」と命じられるのです。
つまり宣教とは、私たちが何かを成し遂げる働きではなく、すでに支配しておられるキリストの御業に参与することなのです。
このようなイエスの権威のもとに、教会は立つのです。
ここに、私たちの現実があります。
そして同時に、慰めがあります。
なぜなら、信仰生活の土台は、私たちの信仰の完全さではなく、主の側の確かさにあるからです。
この御言葉に立つとき、私たちは疑いや迷い、恐れの中にあっても、なお立ち続けることができるのです。
この御言葉こそ、私たちの信仰の確かな土台なのです。
この土台の上にある宣教は、すでに実現している神の救いの中に生きることを告白することであり、その交わりへと人々を招くことなのです。
3 権能に基づく命令と約束
だからこそ、主は次のように言います。
「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。」
ここで大切なのは、「行け」ということ以上に、「弟子にしなさい」ということです。
弟子とするとは、一時的に信じさせることではなく、その人がキリストに結び合わされ、キリストに従って生きる者として形作られていくことです。
そのために主は二つのことをお命じになります。
一つは、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けること」。
もう一つは、「あなたがたに命じたことをすべて守るように教えること」です。
洗礼によって、人は三位一体の神の名のもとに置かれます。
それは、神の契約の中に迎え入れられるということです。
そして、御言葉によって養われ、教えられながら、キリストに従う歩みへと導かれていきます。
つまりこの命令は、単なる個人的な伝道の勧めではありません。
教会を生み出し、教会を建て上げていく命令なのです。
使徒言行録において、弟子たちが行っていくのはまさにこの働きです。
人々が加えられ、洗礼を受け、使徒たちの教えにとどまり、交わりを持つ。
そこに、キリストの体である教会が形作られていきます。
そしてこれは、主が再び来られる日まで、この世界において続けられるのです。
これは、教会の働きでもあります。
だからこそ私たちは次のように三位一体の神への信仰を告白しつつ、次のように告白します。
「教会はキリストのからだ、神に召された世々の聖徒の交わりであって、正しく御言を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます。」
そして最後に、主はこう言われます。
「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
「いつもあなたがたと共にいる」。
これは命令ではありません。約束です。
しかも、「世の終わりまで」という、決して途切れることのない約束です。
マタイによる福音書は、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という言葉で始まりました。
そして今、その約束がここで完成しています。
復活の主は、今も生きておられ、共におられるのです。
では、その「共にいる」ということは、これからどのように現されるのでしょうか。
それが、これから見ていく使徒言行録です。
主は天に上られます。
しかし、それは不在を意味しません。
聖霊が与えられ、主は御霊によって、さらに力強く教会と共におられるようになるのです。
使徒言行録とは、弟子たちの働きの記録ではありません。
復活の主ご自身が、その権威をもって、御霊によって働き続けられる歴史なのです。
私たちはこれから、その歩みを共に見ていきます。
それは、特別な人々の物語ではありません。
疑いを抱えながらも、主に礼拝をささげたあの弟子たちの続きです。
そしてまた、私たち自身の物語でもあります。
主は今も生きておられます。
すべての権威を持っておられます。
そして、終わりの日まで、共にいてくださいます。
この主に信頼しつつ、この主の教会として歩んでいきたいと思います。
2026年4月19日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書21章15−19節
説教:「私を愛しているか」
1 愛ゆえの崩れ
復活の主イエスとの出会いによって、女性たちから始まった信仰の回復は、やがて男の弟子たちへと広がり、多くの人々が再び主に立ち帰りました。
そしてその回復は使徒たちにも及び、ついに本日、ペトロにまで至ります。
ペトロの存在はこれまでも折に触れて言及されてきましたが、他の多くの弟子たちが回復にあずかる中で、彼の信仰の回復はなお途上にあるように見えます。
それは、彼が主イエスの復活を信じていなかったではありません。
女性たちの知らせを受けて、いち早く墓に駆けつけたのはペトロでした。
また、ヨハネによる福音書21章1−13節には、湖で漁をしていた七人の弟子たちの中で、岸におられる主に気づき、すべてを後にして湖に飛び込んだペトロの姿が記されています。
彼はなお主を愛し、求めていたのです。
しかし、彼は愛ゆえに苦しみました。
誰よりも主を愛し、主に従おうとしていたからこそ、彼は試みのただ中に置かれました。
そしてそこで、恐れの中で自分を守ろうとしてしまったのです。
ペトロは、呪いの言葉さえ口にしながら、三度も「主を知らない」と言いました。
それは決定的な否認でした。その出来事は、彼自身の心を深く傷つけ、他の誰よりも拭いがたいものとして残っていたのです(マルコ14:72)。
なぜそれほどまでに深く傷ついたのでしょうか。
それは彼が、むしろ誰よりも主を愛していたからです。
同時に彼は、「自分は愛し抜ける」という思いにも立っていました。
主への愛と、自分への信頼とが結びついていたのです。
けれども、その自分が崩れたとき、彼は主を否認してしまいました。
その結果、彼は主を裏切っただけでなく、自分自身によって深く傷つけられることになったのです。
その傷の深さゆえに、彼はまだ、主の前に立ち戻ることができずにいたのかもしれません。
そのペトロに対して、復活の主イエスが近づき、語りかけられます。
「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」
主イエスのこの問いは、一見するとペトロの失敗を思い起こさせるもののようにも聞こえます。
「この人たち以上に」と言われるとき、かつての彼の言葉が思い出されるからです。
オリーブ山にて、「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」(マルコ14:29並行)と言い切ったペトロでしたが、現実には三度、主を知らないと言ってしまいました(マルコ14:66-72並行)。
そのことを思えば、この問いは彼の心を深く刺したに違いありません。
しかし主は、彼を責めるためにこの問いを発しておられるのではありません。
むしろ、この問いを通して彼を回復へと導こうとしておられるのです。
「あなたは、わたしを愛しているか」。
この問いは、過去を責めるためではなく、復活のいのちの中へともう一度招き入れる問いなのです。
2 三度の問いかけと、三度の回復
「あなたは、私を愛しているか」
主はこの問いを三度繰り返されます。
これはペトロが三度主を否認したことと重なっています。
三度の否認によって刻まれた傷に対して、主は三度の問いかけをもって応えてくださるのです。
ここで、少しだけ言葉の違いに目を向けてみたいと思います。
日本語ではどちらも「愛しているか」と訳されていますが、もともとの言葉は少し異なっています。
最初の二回、主イエスはより強い意味合いを持つ「ἀγαπάω」という言葉を用いて「あなたは私を愛しているか」と問いかけておられます。
この言葉は、神が人を愛されるときにも用いられる、徹底的に深く与える愛を表す言葉です。
しかし主は三度目になると、より身近で、友人や尊敬する者などに対する、親しみを含んだ愛を表す「φιλέω」という言葉を用いて問いかけられます(もっとも、ヨハネによる福音書では(また新約聖書においても)この二つの言葉は必ずしも厳密に区別されているわけではなく、言い換えられるようにも用いられている。この違いを強く対立させて理解する必要はないが、しかし、新約聖書の愛の用い方についてはいくつも議論がなされている。本日はあえてこの違いに目を留めている)。
大胆に言うならば、ここには、神が求められる愛と、人が実際に持ちうる愛との間の隔たりが、ほのかに示されているようにも思われます。
主はその両方を見据えながら、ペトロに問いかけておられるのです。
この問い対してペトロは、「φιλέω」、すなわち人が友人や親しい者に対して用いる、親しみを含んだ愛を表す言葉で、「私はあなたを愛しています」と答えています。
彼は一度も主が用いられた「ἀγαπάω」という言葉では答えていません。
いや、彼は、「ἀγαπάω」を用いて愛を語ることはできませんでした。
「何があってもあなたを愛します」とかつて彼はそう言い切りました。
しかし自分の弱さと限界を痛いほど「よく知った」彼は、その言葉を自分が守れないことをも、よく知っているからです。
しかしそれでも、「あなたを愛している」と言わずにはいられない。だからこそ、今言える精一杯の愛をもって彼はいうのです。
「あなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
この言葉は、自分を正しく知ったうえでのへりくだりであり、同時に、そのような限界のある自分の愛をも、主が受け入れてくださることへの願いでもあります。
彼はもはや、自分の愛の確かさにより頼んでいません。
ただ、「あなたがご存じです」と言って、主のまなざしに自分をゆだねているのです。
しかしこの三度目の問いは、やはりペトロにとって悲しみを伴うものでした。
自分の弱さと失敗、主を裏切ってしまった事実が、改めて心に迫ってきたからです。
けれどもそのとき、ペトロはこう言います。
「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」。
ここで彼は、「ご存じ」と「よく知っている」という言葉を重ねています。
どちらも「知る」という意味ですが、その中身はより深められています。
ただ「見て」知っておられるというだけでなく、自分の内側まですべて見抜き、「よく」知っておられる方に、自分を委ねているのです。
「私は十分に愛せてはいないかもしれない。それでも、あなたを愛している。このことを、あなたはご存じのはずです」。
そのような信頼が、この言葉には込められているのではないでしょうか。
自分の強さではなく、主のまなざしにより頼む信仰を告白する。
ペトロは今、そのような信仰へと導かれているのです。
3 私の小羊を飼い、私の羊を世話し、飼いなさい
さらに信仰の回復は、それで終わりではありません。
主は続けて、ペトロを再び使命へと向かわせておられます。
主はペトロの告白を受けて、「私の小羊を飼いなさい」「私の羊の世話をしなさい」「私の羊を飼いなさい」と言われます。
ペトロはかつて「人間を取る漁師」として招かれましたが、ここでは「羊飼い」へと招かれています。
ここで主は「小羊」と「羊」と言われます。
弱い者も、成長した者も、そのすべてが託されます。
また「飼う」と「世話をする」という言葉が用いられ、人を養い、導き、支え、守るという牧者の働き全体が示されています。
しかも主は「あなたの羊」とは言われません。
「私の羊」と言われます。
ペトロが預かる羊は主のものです。
だからこそ彼は、支配するのではなく、仕えるのです。
自分の思いで人を導くのではなく、主の御心に聞き従いながら関わっていくのです。
三度、使命が委ねられます。
そこには、赦しと同時に、「あなたに任せる」という主の信頼が込められています。
そして最後に主は、「私に従いなさい」と言われます。
この言葉は、かつてガリラヤの湖畔でペトロが最初に召されたときにも語られた言葉です。
しかし今ここで語られる「従いなさい」は、単なる繰り返しではありません。
失敗と挫折を通り、自分の弱さを知った者に対する、新しい召しです。
かつては自分の決意と熱心さに支えられていた従順が、今や「主よ、あなたはご存じです」と、主により頼む従順へと変えられているのです。
このように見ると、ペトロの回復は単なるやり直しではなく、復活の主との出会いによる新しい創造と言えるでしょう。
復活の主は彼を再び立たせ、新しい歩みへと導かれます。
それは過去への回帰ではなく、復活のいのちにあずかる新しい生です。
ここに復活の力が現れているのです。
ここに私たちは、回復の本質を見ることができます。
回復とは、ただ赦されて元に戻ることではありません。
主との関係が回復され、その主に従って歩み出すことです。
言い換えれば、回復は「主に従う」というかたちをとって現れるのです。
主は言われます。
「私に従いなさい」。ペトロは弱さと失敗を通して、自分に頼ることをやめ、主に委ねて従う者へと変えられました。
「あなたは、私を愛しているか」。
この問いは今も私たちに向けられています。
私たちも十分に愛することのできない者ですが、「主よ、あなたはご存じです」と委ねることはできます。
そのとき主は、私たちを回復させ、使命を与え、従う歩みへと導いてくださいます。
その主が今も問いかけておられます。
主の問いに応えつつ、主に従う歩みへと導かれていきたいと思います。
2026年4月12日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書20章19−23節
説教:「聖霊を受けなさい」
はじめに
「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きておられることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」(使徒1:3)
私たちはイースターを迎え、主の復活を祝いました。
そして今、聖霊降臨までのこの日々を歩んでいます。
復活の主は、一度現れて終わりではなく、繰り返し弟子たちのもとに来てくださり、ご自分が確かに生きておられることを示されました。
しかし同時に、主がかつて語っておられた約束の時も迫っていました。
すなわち、天に上げられる日が近づいていたのです(ヨハネ14:28、14:2,18参照)。
主はこの限られた時の中で、弟子たちを整え、遣わす備えをされました。
神の国について語り、ご自身の言葉を思い起こさせ、彼らを宣教へと備えられたのです。
私たちもまた、聖書が語るこの「四十日」の中に置かれています。
弟子たちはこれから、主が見えなくなる時を地上で歩んでいくことになります。
その中で、主から託された務めを担い、「遣わされた者」として生きていくのです。そして私たちもまた、その同じ流れの中に置かれています。
ですから私たちもまた、「遣わされている」のです。
本日は、ヨハネによる福音書20章21節から23節の御言葉に耳を傾け、この「遣わされる」ということの意味を共に見ていきましょう。
1 聖霊を受けなさい
復活の主はこう言われました。
「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
この箇所は、いわばヨハネ福音書における宣教命令です。
宣教命令の代表として、マタイによる福音書の大宣教命令が挙げられますが、そこでは「すべての民を弟子にし、洗礼を授け、教えること」が中心に語られています(マタ28:16-20)。
しかしヨハネは、「罪の赦し」という角度から、この宣教の本質を示していこうとするのです。
主はこう言われます。
「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、赦さなければ、そのまま残る。」
なぜ、この罪の赦しが宣教と結びついているのでしょうか。それは神のご計画が、罪の赦しによって起こる救いだからです。
主ご自身が示されたとおり、罪の赦しは救いそのものと結びついています。
罪の赦しの結果、病は癒やされ、悪霊は追い出されています。
だからこそ主は、すべての人を救うために、この務めを弟子たちに託されたのです。
罪の赦しによって与えられる救い、これこそが宣教の目的です。
この点において、ヨハネが語る宣教命令は、マタイ福音書において「すべての民を弟子とし、洗礼を授け、教える」(マタイ28:16-20)と語られている内容と本質的に変わるものではありません。
角度は異なりますが、いずれも神の救いを指し示しているのです。
弟子たち、そして私たちは、この神の救いの御業にあずかる者として、そのことを証しするために、自らも主の名によって、罪の赦しを与え、人々をこの救いへと招くのです。
しかし、それは弟子たちが自分の力で人の罪を赦せるようになる、ということではありません。
罪を赦す権威は、マルコによる福音書で見てきたように、人の子である主イエスにのみ与えられていました(マルコ2:10)。
罪の赦しはあくまでも「主の名によって」なされる業です。
赦しの主権は、主ご自身にあります。
罪の赦しに基づく宣教は、本来人間には成し遂げることができないのです。
だからこそ主は、宣教命令に続いて、息をふきかけて言われました。
「聖霊を受けなさい」
2 聖霊を受ける
ヨハネによる福音書は、聖霊を強く意識して語る福音書です。
ここで聖霊は「弁護者」と呼ばれています。
主イエスに代わって、しかし主と切り離されることなく、弟子たちのもとに来てくださる方です。
主が語られたことを思い起こさせ、彼らを真理へと導いてくださる方です(ヨハネ14:15-31)。
この聖霊こそが、宣教の働きの源です。
聖霊が主と弟子たちを結びつけることによって初めて、宣教が力あるものとなり、罪の赦しを実現していきます。
聖霊は、父なる神様が、イエス様の名によって遣わされる方です(ヨハ14:26)。
そのため、聖霊を受けた弟子たちもまた、主の名によって、その赦しを告げ知らせる者とされるのです。
弟子たちは、自分の知恵や力でこの務めを果たすのではありません。
主ご自身が、聖霊によって彼らと共にいてくださるのです。
蛇足かもしれませんが、それは同時に、弟子たちが自分で新しい教えを作り出す必要がない、ということでもあります。
彼らが語るのは、ただイエス・キリストの御言葉です。
主が語られたことを、聖霊が思い起こさせ、いまここで生きた言葉として語らせてくださるのです。
そしてこの聖霊は、ヨハネによる福音書によれば、「平和」と深く結びついています。
この平和は、かつて主が「私は平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」(ヨハネ14:27)と語られた、その平和です。
それは、端的に言えば、罪の赦しに基づく、神との和解の平和です。
この挨拶は、弟子たちがすでにその平和の中に入れられているという、力強い宣言です。
さらにこの平和は、聖霊が与えられる約束と結びついて語られています。
主は、「父はもう一人の弁護者をお与えくださり、その方がいつまでもあなたがたと共にいる」(14:16)と語られました。
またその方は、「あなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるようになる」(14:17)とも言われています。
「私は平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」という御言葉は、聖霊の約束と共に語られています。
ですからこの平和は、聖霊によって与えられる、主ご自身の平和です。
そこではもはや、恐れに支配されることなく、心は確かにされ、喜びへと導かれていきます。
それは主が天に上げられた後にも、絶えず弟子たちを包み続ける平和です。
この平和は、聖霊を受けた者に与えられ続けるのです。
主が復活後の出会いの中で繰り返し「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19,21)と語られたのは、ただ一般的な挨拶をしたのではありません。
主はこの御言葉によって、恐れの中にある弟子たちの心を落ち着かせるだけでなく、ご自身が与える平和の中に彼らを置こうとしておられるのです。
そのように平和を与えられた者として、弟子たちは喜んで主を宣べ伝えていきます。
そして、この聖霊と平和にあずかる者が告げる罪の赦しは、さらに命へとつながっていきます。
罪の赦しは、人を平和にし、生かすために与えられるのです。
そのことを示すかのように、主は弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)と言われました。
この出来事は、創世記の御言葉を思い起こさせます。
主なる神が「その鼻に命の息を吹き入れられた。
すると人は生きる者となった」(創世記2:7)とあるとおりです。
神の息によって人が生きる者とされたように、今、主は聖霊を与え、弟子たちを新しく生かされるのです。
罪の赦しによって与えられる平和は、この新しい命の中にあるのです。
主は今も、聖霊によって私たちのただ中に来て、「平和があるように」と語っておられます。
この平和にあずかり、罪の赦しによって与えられる新しい命の中に、共に歩んでいきたいと思います。
2026年4月5日(日) 復活日礼拝(合同礼拝)
聖書:ルカによる福音書23章56b節−24章10節
説教:「主イエスの復活の証人」
1 週の初めの日曜日
金曜日、イエス様は十字架につけられ、息を引き取り、墓に葬られました。
イエス様の死は確かに確認されました。
それは、人間の目から見れば、すべてが終わりを告げる出来事でした。
女性たちは丁寧に埋葬し直すために、三日目の日曜日の朝、墓へと向かったのでした。
ルカによる福音書はこの場面を、「週の初めの日」「明け方」「早く」と、時間を重ねて丁寧に描いています。
しかしここで強調されているのは、女性たちの熱心さや早さではありません。
そうではなく、彼女たちがようやく動き出したその時には、すでに神の御業は終わっていた、ということです。
墓に着いたとき、すでに石は転がされ、墓は空であり、主は復活しておられました。
復活は誰かの目の前で劇的に起こった出来事としてではなく、静かに、しかし決定的に起こります。
つまり、人間の行動に先立って、神の側で完了しているのです。
ここに、私たちに与えられている希望の根があります。
私たちはしばしば、「もう終わってしまった」と思うところに立ちます。
取り返しがつかないと思うこと、遅すぎたと思うこと、どうすることもできない現実に直面することがあります。
しかし復活の出来事は、そのような私たちの理解に対して、はっきりと語りかけます。
『あなたが終わったと思っているそのところで、神はすでに働いておられる。』
女性たちは、死んだ主に仕えようとして墓に向かいました。
それは誠実な行動でした。
しかしその誠実ささえも追いつかないところで、神はすでに新しい現実を始めておられたのです。
私たちもまた、そのような神の働きの中に生かされています。
この礼拝に集っているのも、私たちが何かを成し遂げるためではなく、すでに備えられている神の御業に気づかされるためです。
では、その気づきはどのように与えられるのでしょうか。
2 神の現実
墓に来た女性たちは、空の墓を見て途方に暮れます。
そのとき御使いが現れて、こう語ります。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。」
この言葉は、誤りを正すための厳しい戒めや安易な慰めでもありません。
彼女たちの前提そのものを覆す神の御言葉です。
女性たちは決して間違ったことをしていたわけではありません。
ごく自然で、正しい理解に基づいて行動していました。
イエスは確かに死に、葬られたのです。
しかしその「正しさ」そのものが、ここで通用しなくなります。
なぜなら、神の現実が、この世の現実をすでに先へと進めておられるからです(「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」マコ2:21-22参照)。
死は確かに私たちの現実として未だにあります。
しかしそれは、もはや決定権を持つものではなくなりました。
なぜなら、「あの方は…復活さった」からです。
そしてその現実は、御言葉によって私たちに知らされます。
3 思い出す
御使いはさらにこう語ります。
「まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。」
ここで求められているのは、新しい知識ではありません。
「思い出すこと」です。
イエス様はすでに「人々の罪を贖うため、苦しみを受け、十字架につけられ、三日目に復活すること」を語っておられました。
しかし弟子たちは、そのときには理解できませんでした。
けれども今、その出来事が現実となったとき、御言葉を思い出すことによって、その意味が見え始めます。
ここに、信仰の本質があります。
信仰とは、何か新しいものを発見することではありません。
すでに語られていた御言葉によって、現実を読み直すことです。
女性たちは、墓が空であるという事実だけでは理解できませんでした。
しかし主の御言葉を思い出したとき、その出来事の意味が開かれたのです。
そして彼女たちは立ち上がり、弟子たちのもとへ戻っていきます。
見聞きしたことを伝えるためでした。
ここに、復活の証人が生まれます。
しかし、その知らせを受けた使徒たちは、それを「たわごと」のように思い、信じることができませんでした。
復活は、それほどまでに人間の理解を超えた出来事なのです。
それでもペトロは立ち上がり、墓へと走ります。
そして中をのぞき込み、不思議に思いながら帰って行きました。
ここには、すぐにすべてを理解した人はいません。確信に満ちた人もいません。
しかしそれでも、人々は動き始めています。
御言葉に押し出されるようにして、復活の現実に巻き込まれていくのです。
4 すでに始まっている神の現実の中で
私たちもまた、この人々と同じところに立っています。
自分の理解や経験に基づいて、「これが現実だ」「これが限界だ」と思い込んでいます。
しかし神は、その現実のただ中で、それを覆す新しい現実をすでに始めておられます。
すぐに分かるわけではない。すぐに信じきれるわけでもない。
しかしそれでも、御言葉に導かれて歩み出していく。
その中で、少しずつ見え始めるのです。
復活の希望とは、そのような歩みの中で、すでに神が始めておられる現実に、あとから気づかされていくことです。
復活は、「いつか良くなる」という未来の話でも、来世の話でもありません。
「もしかしたらそうかもしれない」という願いでもありません。
主はもはや、死の中にはおられない。――それが現実です。
だからこそ、御使いは今、「なぜ捜すのか」と問うのです。
それは、「いつか良くなる」という期待ではありません。
すでに決定的なことが起こっている、という事実に、御言葉によって気づかされていくことです。
この方に結ばれている者の人生もまた、同じ現実の中に置かれています。
たとえ私たちが「終わった」と思うところにあっても、そこが神にとっての終わりではない。
むしろ、そこから新しいことが始められているのです。
だから私たちは、絶望の中にあってもなお、望みを持つことができます。
それは自分の力によるのではありません。
すでに神がなしておられることに基づく希望です。
女性たちは、復活の現実を完全に理解したから証人になったのではありません。
すでに起こってしまった現実に出会い、その中に巻き込まれた者として、証人とされたのです。
私たちも同じです。
復活を説明できるからでも、揺るがない確信があるからでもありません。
迷い、つまずきながら、それでも御言葉によって現実を示され、その中に生かされている者として、私たちは証人とされていきます。
主は生きておられます。
そしてその現実は、今も変わることなく、私たちのただ中にあります。
この主の御言葉に聞き続け、やがて目を開かれた者として、それぞれの場所へと遣わされていきましょう。
復活の主が、私たちの先に立っておられるからです。
2026年3月29日(日) 主日礼拝
聖書:ルカによる福音書24章36−43節
説教:「触ってよく見なさい」
1 霊(πνεῦμα)
「あなたがたに平和があるように。」
主イエスは、弟子たちの真ん中に立ち、このように語られました。
エルサレムに集まっていた弟子たちは、復活の主との出会いについて、その時の喜びと驚きを語り合っていました。
そこにはマグダラのマリアをはじめとする女性たちもいたことでしょう。
そのただ中に、主ご自身が立たれたのです。
しかし聖書は、このとき彼らが喜びに満たされたとはすぐには語りません。
むしろ、彼らは取り乱し、心に疑いを抱いたと言うのです。
なぜでしょうか。
それは、彼らが目の前におられる主を、「霊」(πνεῦμα)のようなものだと捉えたからでした。
「自分達の真ん中に現れる」というあまりにも突然の出来事に、彼らは主の現実を受け止めることができなかったのです。
ここで語られる「取り乱し」(ἔμφοβος)は、神の出来事に触れたときに人が覚える、深い恐れに由来するものです。
実際、同じ言葉が、空の墓で天使に出会った女性たちの「恐れ」にも用いられています。
その恐れが、彼らの心に疑いを生じさせました。
主は本当に生きておられるのだろうか。目の前にいるのは本当に主なのか。
復活とは、霊的な存在としてよみがえることなのか…彼らは、「復活」が分からなくなっていたのです。
主は「平和」を告げておられるのに、彼らの心は平和からほど遠い状態にありました。
そのような弟子たちに、主はここでも近づき、語りかけられます。
「なぜ、取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか。」
この御言葉は、彼らの心を鋭く問うものです。
しかしそれは、ただ責めるための言葉ではありません。
恐れと疑いの中にある彼らを、そこから引き出すための言葉です(ルカ24:25)。
これまでも主は、幾度となく「恐れるな」と語ってこられました。
このときの言葉もまた、その延長にあると言えるでしょう。
恐れに支配されている心を、平和へと立ち返らせるための語りかけなのです。
2 触ってよく見なさい
だからこそ主は続けて言われます。
「私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたは見ているとおり、私にはあるのだ。」
主はご自身の手足を見せ、霊ではないことを明らかにされます。
当時、「霊」には手や足がないと考えられていました。
だから主は、ご自身の手と足を見せることによって、自分が単なる「霊」ではないことを示されるのです。
さらに主は、「触ってよく見なさい」と言われます。
ただ見るだけではなく、実際に触れて、その確かさを受け取るように求められるのです。
触れることによってこそ、その存在の現実は、よりはっきりと知られるからです。
ところで、この「触れなさい」という御言葉は、かつてマリアに語られた言葉と対照的に見えます。
主はマリアに「触れるな」と言われました。
しかしそれは、主を自分のもとにとどめておこうとする心を正すための御言葉でした。
あのときは「触れないこと」が、信仰に関わっていたのです。
それに対してここでは、「触れること」が、信仰へと導くために必要でした。
主は、人の状況に応じて、最もふさわしい仕方で御言葉を与えてくださるお方なのです。
そして主は言われます。
「私だ」(ἐγώ εἰμι)。
からだの確かさは、そのまま命の確かさです。
主は、ご自身が確かに生きておられることを示すために、「私だ」とはっきり語りかけておられるのです。
手と足、肉と骨をもつこの私こそが、あなたがたと共にガリラヤを歩み、十字架につけられ、死んで葬られたあのイエスであり、しかし今、復活してここに生きているのだと、力強く断言されるのです。
3 からだの復活
この主の御言葉に応えて、私たちは使徒信条において、「からだの復活」を信じると告白します。
ハイデルベルク信仰問答もまた、問57にて、次のように語ります。
問い:『「身体(からだ)のよみがえり」は、あなたに、どのような慰めを、与えますか。』
答え:『わたしの魂が、この地上の生活を終わると、ただちに、頭(かしら)であるキリストに受け入れられるだけでなく、このわたしの身体が、キリストの御力によって、よみがえらされ、再び、わたしの魂と結合され、キリストの栄光ある体と同じ形に変えられるということであります。』(『改革教会信仰告白集』より)
そしてこの復活の希望は、永遠の命に関する問答へと続きます(問58)。
復活の教理は、この後さらに深められていきます。
しかし、弟子たちと共に復活の主に出会ったばかりの私たちは、今日は、この「からだの復活」がもたらす喜びを心にとどめつつ、先に進みたいと思います。
つまり、私たちが喜びをもって受けいれたいことは、神様が人間のからだを軽んじておられないということです。
それは、「この私」が(このからだをもって生きる私自身が!)、神様に受け入れられるということです。
それはまた、復活が単に遠い将来の出来事ではなく、今、ここで、神様が私たちに近づいてくださり、私たちの存在そのものに関わってくださる出来事である、ということでもあります。
主イエスが、「霊」としてではなく、からだを持つお方として復活されたことを知る、というのは、このような喜びに包まれるということです。
それは単に、死者の復活という喜びを超えた、喜びがあります。
実際、弟子たちは復活の主と出会い、喜びに包まれました。
しかし同時に、「喜びのあまり、まだ信じられず、不思議がった」とも語られています。
御言葉としるしに触れても、悲しみの中では信じられず、喜びの中にあってもなお信じきることができない…。
聖書に登場する人々の、なんと人間的な姿でしょうか。
そしてそれは、私たち自身の姿でもあるのではないでしょうか。
しかし、ハイデルベルク信仰問答問58の答えにおいて示されるように、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった」出来事に触れたのですから、彼らが「信じられず、不思議に」思うのも仕方のないことなのです。
それほどこの神様が与えてくださる喜びは計り知ることができません。
だからこそ、主はさらに弟子たちに寄り添われます。「ここに何か食べ物があるか」と言われ、差し出された焼き魚を、その場で食べられたのです。
外見だけではなく、その内においても、確かなからだをもって生きておられることを示されたのです。
しかし、弟子たちはその光景を見ても、すぐに「分かった」「信じた」とはなりません。
それほどに、「からだの復活」ということは、私たちにとって容易に受け取れるものではないのです。
この後、主はさらに御言葉を重ね、聖書を悟らせるために、彼らの心を開いていかれます。
こうして初めて、彼らの心は開かれていくのです。
私たちもまた、同じ歩みを経なければ、本当の恵みにたどり着くことはできないでしょう。
復活とは何か、からだの復活とは何か、それが私たちにとってどのような益となるのか…そうした事柄を、聖書から、主の御言葉から辿る歩みが、これから始まろうとしています。
そのような歩みを始める私たちにも、今も生きて働いておられる主がいてくださいます。
主は天の父の右に座しておられますが、聖霊を送って私たちと共にいてくださり、教会に御言葉を託しておられます。
それゆえに、礼拝において語られる主の御言葉こそ、復活を知るための確かなしるしです。
私たちはこれからも、教会において主と出会い、その御言葉に触れ、主を仰ぎ見るものとして歩み続けたいと思います。