読む礼拝


「ところが、ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ』と言った。』」(マルコによる福音書6:16)

さて


「さて」と一息をつくようにして、福音書記者マルコは、バプテスマのヨハネの悲劇的な最後について記し始めます。けれども、時系列的に言えば、イエス・キリストが「ガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝え」られ始められたのは「ヨハネが捕えられた後」(1:14)のことでしたから、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」というヘロデ・アンティパスの言葉からすれば、ここに記されるヨハネの最後が、12弟子の派遣の直前ということは考えにくいことです。

 聖書は、バプテスマのヨハネの最後を、過去にさかのぼる形で、十二弟子の派遣に続いて記しているのです。どうしてでしょうか。

ヘロデの世

 それは、キリストの弟子たちが福音のために遣わされるこの世がどのような世界であるかを明らかにするためです。

 その世界は、キリストを前に「この人は大工ではないか」(6:3)とつぶやく世界であり、キリストによって遣わされた者たちを「迎えず」「話を聞きもしない」(6:11)世界です。それどころか、神の言葉によって権力者を戒めた預言者を獄につなぐ世界です。

 そこは、神の言葉を聞こうとしない、信じようとしない、従おうとしない世界、むしろ神の言葉を繋ぎ、神の言葉を語る口を永遠に閉ざそうとする場所なのです。

世と預言者

 それは、神の言葉が悔い改めを迫るからです。人々は、ナザレのイエスについて「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ」「エリヤだ」「昔の預言者のような預言者だ」と言います。ここにあげられているのは、全員、神の言葉を託されて人々に向かって語った預言者です。バプテスマのヨハネは「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」を宣べ、エリヤはイスラエルの王アハブと妻イゼベルと対決します。「昔の預言者」がだれであるかは記されていませんが、三大預言者と言われるイザヤ、エレミヤ、エゼキエルは、「わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた」(イザヤ1:2)、「わたしはあなたを、まったく良い種のすぐれたぶどうの木として植えたのに、どうしてあなたは変って、悪い野ぶどうの木となったのか」(エレミヤ2:21)、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす」(エゼキエル2:3)という神様の言葉を聞き、そして人々に伝えなければなりませんでした。

神の言葉は生きていて力があり

 神の言葉は、人が陥っている罪を知らせ、それゆえの悲惨を伝えます。そして、これまでの考え方、振る舞い方、生き方を捨てて、神様に立ち帰り、新しく生きることを求めるのです。だからこそ、人は預言者の言葉に耳を塞ぎ、背を向け、聞かなかった振りをし、ついには預言者そのもの退けようとするのです。

 ヘロデヤが「ヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていた」のも、ヨハネを通して語られる神の言葉が、自分の生き方を根底から覆すものであったからにほかなりません。彼女は祖父ヘロデ大王によって父アリストブロスが処刑されるという、血で血を洗う権力闘争の中に若き日を過ごしました。権力志向のない前夫ヘロデ・ピリポを見限り、自らヘロデ・アンティパスを口説いてその妻を離縁させ、その後釜に座ります。彼女にとって、神を愛し人を愛することを求める神の言葉は、いかなる手段を用いてでも力と支配を求めようとする自分の生き方に正面から否をつきつけるものに他なりませんでした。

 ヘロデヤは、身分の高い女性なら決してしないはずの踊りを自分の娘にさせてまでも、ヨハネの首を要求し、神の言葉を語る口を閉じさせようとするのです。

二つの道

 ここでは、神の言葉に対する二つの態度が示されています。一方には、神の言葉、聖書に基づいて「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と時の権力者を戒めるバプテスマのヨハネがいます。そんなことを語ったらどんなことになるのか、ヨハネは分からなかったはずがありません。けれども、「最後の預言者」であるヨハネには沈黙という選択肢はなかったのです。

預言者の系譜

 エレミヤは、その預言を聞き咎めた主の宮の司の長パシュルによって逮捕され、打たれ、見せしめとして門の足かせにつながれたとき、「もしわたしが、『主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない』と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません」(エレミヤ20:9)と告白しました。

 イエス・キリストもまた、「ヘロデがあなたを殺そうとしています」との警告に「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう』」(ルカ13:32)お答えになります。

 十字架を前に「イエスを見捨てて逃げ去った」弟子たちも、復活の主に相まみえ、約束の聖霊を受けた後は、大祭司たちに「イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬ」と言いわたされても「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」(使徒行伝4:18-20)と恐れることなく語るに至るのです。

なお喜んで

 この預言者たちとヘロデヤの間に、「その教えを聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたヘロデ・アンティパスがいます。彼はヨハネを獄につなぎます。それは神の言葉を鎖につなごうとすることです。神の言葉の及ぶ範囲を限定し、神の言葉の力を限定した上で、神の言葉の及ばない場所で、神の戒めから自由に、自分の欲望のままに生きようとするのです。そしてそれは私たち自身の姿にほかなりません。

ところが、良い機会がきた

 けれども、人は神の言葉に対してどっちつかずのままでいることはできません。神の国とこの世の国との間、神の支配と罪の支配の狭間で、私たちは神の言葉に従うか退けるかの二者択一を迫られるのです。ヘロデは、「列座の人々の手前」、ヨハネの首を切り落とさざるをえません。神の誉れよりも人の誉れを大事にする者は、遂に神の言葉を退けるほかなくなるのです。

神の言葉は繋がれてはいない

 ヨハネの口は閉ざされます。この世の力は、ひとたびは神の言葉を無にすることができたように見えます。けれども、ヨハネの口が閉ざされたとき、キリストが語り出されます。ヘロデは「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と告白せざるを得ません。

 イエス・キリストもまた十字架にかけられ、死んで葬られます。しかし聖書は、そのイエス・キリストが三日の後によみがえり、天に昇り、神の右に座しておられると証言します。そしてこの証言を信じ受け入れた者たちもまた、この証言を伝え証しする者とされていくのです。

 そして、歴史は、ヘロデ・アンティパスが、自分の兄弟アグリッパI世がローマ皇帝によって王に任じられたことを妬んだヘロデヤによってたきつけられ、同じく王位を要求したためにかえって謀反のかどで訴えられ、ついにヘロデヤと共に追放され、流刑地でその生涯を終えたことを記録しています。

逆十字と剣

 聖書は使徒たちの最後について記していません。けれども、伝承は多くの使徒たちが殉教の死を遂げたことを伝え、その最後の姿がそれぞれの使徒を象徴する徴(アトリビュート)となりました。

「天国の鍵」を与えられたペテロのしるしは多くは「鍵」ですが、同時に、キリストと同じではもったいないとして自ら望んで架けられたとされる「逆十字」もまたペテロのしるしとなりました。多くの手紙を書いたパウロのしるしは「書物(巻物)」ですが、斬首されたという言い伝えから「剣」もまたそのしるしとして用いられます。他の使徒たちも同様です。アンデレはX十字、バルトロマイはナイフ、トマスはやり、タダイはのこぎり、アルパヨの子ヤコブは棒、それぞれの殉教にちなむとされるものがそのしるしとなっています。

最後の勝利

 イエス・キリストによって召され、立てられ、遣わされた者たちは、遣わしてくださったキリストの証言者として、自らもまた苦しみを受け、十字架につけられ、首を切られ、皮を剥がれ、刺され、のこぎりでひかれ、棒で殴り殺されます。それは勝利と栄光とはほど遠い姿です。

 けれどもキリストは言われます。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。

 神から自由であろうとし、神の言葉を繋ごうとする者は自ら滅び、神の言葉によって神に繋がれた者こそが、遂に勝利を得るのです。この約束に信頼したいのです。(2021年7月25日の礼拝説教から)


「イエスは言われた、『預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない。』」(マルコによる福音書6:4)

そこを去って

 イエス・キリストは、どんな医者も治すことのできなかった女性の出血を癒やし、会堂司ヤイロの死んだ娘をよみがえらせました。それは間違いなく、ナザレのイエスが人を越えた存在であること、天地の創造者であり人間の造り主である神と等しい力を持っておられることのしるしです。

 けれども、キリストは「だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ」られます。それは、イエスがキリストであるということは、特別な時と場所での奇跡によってではなく、だれもが聞くことのできる福音によってこそ知られ、信じられ、告白されることを望んでおられるからです。

郷里に行かれた

 この福音から除外されているいかなる場所もありません。キリストは、イエスが「気が狂ったと思っ」て「取押えに出てきた」「身内の者たち」(3:21)のいるところ、「外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」(3:31)母ときょうだいたちが住むナザレへと向かわれます。

 キリストは、ひとたびは「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」(3:32)と言い放ち、関係を断ったに思える家族や身内の者たち、郷里の人々にも、神の国の福音を伝えようとされるのです。

 だからこそ「イエスは郷里に行かれた」と聖書は記します。ナザレのイエスは、ナザレに「帰られる」のではなく「行かれる」のです。それは、それが疲れを癒すための帰郷ではなく、救い主としての使命を果たすための伝道旅行だからです。

安息日に会堂で

「安息日になったので、会堂で教えはじめられた」とあります。他の所では、人々は安息日を待つことなくキリストのもとに押し寄せ、会堂に限らず集まりました。けれどもナザレでは「マリヤの子」イエスにわざわざ会いに行ったり話を聞いたりしようとする人はいなかったのです。

 けれども、人々はその教えに驚きます。「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか」。それが誰であろうと、キリストの言葉を聞けば驚かざるをえず、そのわざを見れば、それが人の知恵と力とを越えていることが認めざるを得ないのです。

この人は大工ではないか

 けれども、郷里の人々は口々に「この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」とつぶやき出します。

 この証言が伝えるのは、ナザレのイエスは決して、幼い頃から回りの人々に一目置かれるような「神童」でもなければ、村の出世頭として将来を嘱望されるような期待の青年でもなかったということです。弟子を連れて神の国の福音を語るその姿は、その人となりとを知る人からは「どうして彼が」と思われるような存在だったのです。

 それは、キリストはまことに人間となられたということです。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:6-8)とあかしされる通りです。人々はこのキリストの低さにつまずいたのです。

 マリヤのむすこ、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ナザレのイエスを肉において知っているということが、イエスをキリストとして言い表すことを妨げます。人々は、肉の目に映る生まれや育ち、学歴や職業によって判断したために、マリヤの子であるナザレの大工イエスが、神の子キリストであることを信じることができないのです。

 その時、キリストは「力あるわざを一つもすることができ」ません。神様は、信じない者を信じさせるために奇跡を行いません。イエスをキリストと信じる信仰こそが、奇跡を起こすのです。

空の手としての信仰

 信仰とは、神様が私たちに注いで下さる恵みを受ける「空の手」です。そこに初めから余計なものが入っていたら、恵みを受け取ることができません。この世が作り上げてきたキリストの概念、自分の中に作られているキリストのイメージでイエス・キリストをとらえようとしても、本当の姿をとらえることはできません。この世の物差しを使い、自分の頭で理解でき、説明でき、納得のいくキリストを追い求めようとする限り、私たちはキリストの力にあずかることはできないのです。

まことの神にしてまことの人

 教会は、その歴史の始めから、聖書のあかしするキリストを、人の知恵で理解し、説明しようとする誘惑にさらされてきました。けれども、そうした試みは、それがたとえどれほど真剣に、また、より多くの人々に福音を伝えようとする善良な意図をもってなされたとしても、結局は神の知恵を人間の知恵ではかり、神のわざを人のわざに押し込めてしまうことにしかなりませんでした。

 それゆえ、教会は、聖書の教えから離れてしまった教え、キリストの福音とは異なった福音を退け、信条・信仰告白と呼ばれる文書によって、聖書の教えを守ってきました。私たちが「日本キリスト教会信仰の告白」の中で、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人です」と告白しているのもそのためです。そこには「まことの神にしてまことの人」という、人間の論理では説明し尽くすことのできない「奥義」を、聖書が証しするままに受け入れ、信じ、告白してきた教会の歴史に連なろうとする姿勢が示されているのです。

目からうろこが落ちる

 ダマスコ途上で神様によって地に打ち倒されたパウロは、神様につかわされたアナニヤの伝えた神の言葉によって「目からうろこのようなもの落ち」ます。神様は失敗や挫折というショック療法によって私たちの中の偏見や先入観といった余計なものを打ち砕いて取り除き、み言葉によって、まことの人イエスがまことの神キリストであることを私たちのうちにあらわしてくださるのです。

福音は止まらず

 キリストは故郷の人々の不信仰を「驚き怪しまれ」ます。けれども、故郷への伝道をあきらめてしまわれたわけではありません。キリストはなおも「付近の村々を巡り歩いて教えられ」、「12弟子を呼び寄せ、ふたりづつつかわ」されます。それは直接伝えることができないなら周辺から、自分が語ってもだめなら他の人から伝えようとしておられるかのようです。

 私たち自身、家族や身近な人々への伝道に困難を覚える者たちです。けれども、主ご自身さえ郷里での伝道に困難を覚えられたこと、しかしそれを越えて伝道されたこと、そしてついに「主の兄弟ヤコブ」が教会の柱となったことは、大きな慰めであり励ましです。

つえ一本

 キリストは弟子たちを遣わすに当たって「汚れた霊を制する権威」を与えると共に「つえ一本のほかには何も持たないように」命じられます。それは、キリストのあかしのためには特別の準備、よそ行きの服装、取り繕った自分は必要ないということです。キリストがそうであられたように、私たちもまたまことの人、ありのままの自分として福音の使者となり、ただ神の言葉の権威だけが私たちをキリストの使者として立たせるのです。

 それは、人間が前もって予測でき、準備できるようなものによっては、神の国の福音を伝えることはできないということでもあります。いかに緻密な計画を立て、装備を調え、資金を準備しても、人のプログラムが神の救いの計画を前進させることはできません。なぜなら、神様の計画は、人間のあらゆる想定を超えるがゆえにこそ、人を救いうるものだからです。

そこにとどまっていなさい

 だからこそキリストは、弟子たちに「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい」と言われるのです。よりよい条件の良い家を探してはならないということです。

 それは、単に弟子たちにとって快適な家と言うことではないでしょう。弟子たちが自分たちで考える「伝道のため」によい立地や条件は、福音の前進のためには不要であるとキリストは言われたのです。なぜなら、「十字架につけられ死んで葬られ」たキリストの復活こそが福音だからです。

 私たちが絶句し、立ち尽くし、放心するほかないような出来事のただ中で、しかしそれにもかかわらずなお支えられているということ、自分自身の力、人の知恵では不可能なところでなお立ち続け、ついには前進することさえできるということこそが福音だからです。

弱いところに完全に

 パウロは「彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」(Ⅱコリント10:10)と言われるような、人間的には伝道の妨げとしか思えない「肉体のとげ」を身に帯びていました。パウロは、この肉体のとげを「離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈」(12:8)ります。ところが、主の答えは「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」というものでした。パウロは、そのとき、自分は自分のままでよいこと、病気や障碍、弱さや欠け、過ちや罪でさえもが、神様の手の内にさえあるならば、最後にはキリストの福音の前進のために用いられることを知りました。

 パウロは語ります。「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」「キリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」。これがキリストの弟子、神の国の福音の証し人の姿なのです。(2021年7月18日の礼拝のために)


「ヨセフはパロに答えて言った、『いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう』」。(創世記41:16)

二年の後


 聖書の記述には濃淡があります。数日の出来事に数頁が費やされる場合もあれば、数年から十数年、それ以上にわたる出来事が一行で記されることもあります。けれども、聖書に登場する人物にとって時間は同じように流れています。取り立てて出来事が記されることのない年月もまた、信仰者、神の民にとってはかけがえのない時間なのです。

 何気なく「二年の後」とありますが、出来事の記されていないこの二年間が、ヨセフにとってどのような時間であったかを考えるとき、それがしばしば「ヨセフ最大の試み」と言われている意味がわかります。

忘れてしまった

「二年の後」という言葉の前には「ところが、給仕役の長はヨセフを思い出さず、忘れてしまった」(40:23)とあります。ヨセフは、無実の罪で牢屋に入れられた給仕役の長の夢を解いて、濡れ衣が晴らされ、地位が回復されることを伝えました。そして「あなたがしあわせになられたら、わたしを覚えていて、どうかわたしに恵みを施し、わたしの事をパロに話して、この家からわたしを出してください」(40:14)と願ったのです。

 そこに「わたしは、実はヘブルびとの地からさらわれてきた者です。またここでもわたしは地下の獄屋に入れられるような事はしなかったのです」との訴えが加えられていることから考えても、ヨセフがどれほどこの給仕役の長の取りなしに期待をかけていたかがわかります。けれども「給仕役の長はヨセフを思い出さず、忘れてしまった」のです。

ヨセフ最大の試み

 ヨセフは給仕役の長からの知らせをどれほど切実に待っていたことでしょう。今日か、明日か、彼は指折り数えて牢屋の扉が開く日を待っていたに違いありません。そしてパロの前でどのように弁明すべきか何度も何度も頭の中で繰り返したことでしょう。けれども、いつまで待ってもその日は来なかったのです。

 給仕役の長も悪気があったわけではないでしょう。それは夢を見たパロに早速ヨセフのことを話したことからも明らかです。けれどもおそらくは自分のことで精一杯で、思い出したくもない牢屋での出来事のことなど頭に浮かばなかったのではないでしょうか。

 けれども、それはヨセフにとって、ただ給仕役の長から忘れられたということではなかったはずです。それは何よりも、自分は神様からも忘れられ、見捨てられてしまったのではないかという不安と恐れをもたらすものだったのではないではないでしょうか。この「空白の二年間」が「ヨセフ最大の誘惑」と呼ばれるゆえんです。

神の道と人の道

 こうしたヨセフの思いを全く意に介しないように、聖書は淡々と「二年の後」と記します。しかしそれは、神様の無頓着さではなく、むしろ神様の恵みとの確かさと救いの揺るぎなさとを示しているのではないでしょうか。

「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8-9)とイザヤ書で語られる通りです。

 そして、この人間的には無駄に過ぎ去ったとしか思えない二年間があったからこそ、ヨセフがパロの夢を解き、エジプトの宰相になるという出来事が起こったのです。ヨセフは、そのことを理解したに違いありません。だからこそヨセフは、エジプト王パロの前に恐れることなく、また驕ることもなく立つことができたのです。

パロは夢を見た

 古代の人々にとって、夢は神様が人間に何事かを告げる手段と考えられ、特に王の見る夢は、国の将来を告げるものと考えられました。王が夢の中で「ナイル川のほとりに立っていた」のはそのためでしょうし「朝になって」「心が騒」ぐのも、それがエジプト全土に関わることであることを理解したからにほかなりません。だからこそパロは「人をつかわして、エジプトのすべての魔術師とすべての知者とを呼び寄せ」るのです。

解き明かしうる者がなかった

 神様はイスラエルだけではなく、エジプトをも支配しておられます。この事実は、エジプトの人々がエジプトの神々を信じ崇め、エジプトの王が自分自身を神になぞらえていたとしても変わることはありません。だからこそ神様は、これからエジプトに起こることを夢を通してパロに知らせ、エジプトの人々、近隣の人々、そしてヨセフとその一族とを救おうとされるのです。

 けれども、ヨセフによる解きあかしを聞いてしまえば、それ以外には解釈のしようがないほど分かりやすいパロの夢を、だれも解き明かすことができません。「エジプトのすべての魔術師とすべての知者」はそれほど愚かで知恵がなかったのでしょうか。ただ口を揃えて「分かりません」と言うほかなかったということなのでしょうか。そうではないでしょう。

 むしろ賢く知恵があったからこそ、こんな解きあかしをしたら王はどう思うだろうか、怒って自分を罰するのではないかと恐れたり、王に喜ばれるような解きあかしをしようと忖度したりしたために、逆にどれもパロを納得させることができなかったということではないでしょうか。

全地を支配しておられる神

 ヨセフはそうではありませんでした。パロが「あなたは夢を聞いて、解き明かしができるそうだ」と言ったとき、きっぱりと「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」と答えます。それは、自分は神である、少なくても神の末裔であると主張するエジプトの王に向かって、あなたは神ではありません、と告げることです。あなたの上に、あなたとこの国を支配しておられる神がおられます。そのお方によらなければ、あなたにもこの国にも平安はありません、ヨセフはそう言い切るのです。

 自分が夢を解く力を持っているのではなく、神様が夢によってお告げになり、その意味を示して下さる、大切なのは夢を解く力ではなく、神様の支配を信じ、信頼しているかどうかである、ヨセフはそう語るのです。

 そこには超大国エジプトの絶対君主への恐れも、媚びへつらいもありません。彼は神様の支配を信じ、信頼して生きているがゆえに、誰をも恐れることなくその前に立つことができ、語るべきことを語ることができたのです。そしてそれゆえにこそ、彼はパロに信頼され、国の将来を委ねられる者となることができたのです。

夢の解き明かし

 ヨセフが解き明かしたファラオの夢は二つとも、七年の豊作と七年の飢饉についてのものでした。そしてヨセフは、この夢を神様からの警告として、そして対処のための猶予として受け止めます。それはエジプトとその周辺の人々の命と生活とを守るために、神様が統治者として立てたパロに語りかけて下さり、示しを与えて、来るべき飢饉に備えさせようとしていて下さる、神様の恵みのわざであるというのです。

 ヨセフの夢の解き明かしは、単なる未来予知ではありませんでした。それは神様の愛と憐れみに基づく、人々への愛の働きでした。だからこそヨセフは、単に夢の意味を解き明かすだけでなく、パロからの委託を越えて、夢の解き明かしに基づく具体的な政策の提言を行うのです。

神の恵みの支配

 ヨセフがそのような具体的で適切な提言をすることができたのは、夢に示された神様の愛と憐れみのみ心を理解したからです。神様が何のためにパロに夢を見せたのか、それによってパロに何をさせようとしておられるのか、何をどうすることが神様のみ心にかなうことなのか、それをヨセフは正しく掴んだのです。

 そして、ヨセフがそのように神様のみ心を理解することができたのは、何よりもまず、彼が神様の愛と恵みの支配を信じていたからです。アブラハムの子孫である自分や自分の家族だけでなく、神を自任するパロも、無理やり連れて来られて奴隷とされ、濡れ衣を着せられて囚人とされているこのエジプトの国も、そこに暮らす多くの人々も、すなわちこの世界全体を神様は支配し、守り、導いておられることを彼は信じているのです。

 それだけではなく、ヨセフは、世界を支配しておられる神様は、世界を愛し、人々を愛し、その命を守り、生活を支える、愛と恵みに満ちたお方であることを信じて疑わないのです。だからこそ、ヨセフは「神がパロに平安をお告げになりましょう」と語ることができたのです。

 そして、この神様の愛と恵みへの信頼を育んだものこそ、あの「空白の二年間」だったのではないでしょうか。たとえ、その時にはその意味がわからず、神様が沈黙され、自分のことを忘れてしまったように思えるときにも、神様は決して忘れることも、見捨てることもなさらないこと、私たちの信仰の成長と終わりの日の救いのために、見守り、支え、導いて下さっていること、神の愛と恵みとをヨセフは学び知ったのです。

祝福を告げる言葉

 神様がその御心を示してくださるのは夢に限りません。神様は様々な出来事を通して私たちに語りかけて下さいます。そしてその解き明かしは、人の知恵によってではなく、神様ご自身が与えて下さいます。

 けれどもそれは天から声が聞こえるという仕方で与えられるとは限りません。むしろそれは、私たちが神様の愛と恵みの支配を信じて生きていく中、経験する様々な出来事の意味を、み言葉と祈りの中で思い巡らす時に、後から少しずつ示されていくという形で与えられるのではないでしょうか。

「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」(ヨハネ1:39)、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」(ヨハネ13:7)とのキリストの弟子たちへの言葉は、そのまま父なる神様の私たちへの言葉なのです。この言葉に信頼して歩みたいのです。(2021年7月11日の礼拝のために)


「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた『恐れることはない。ただ信じなさい』」。 (マルコによる福音書5:36)

また舟で向こう岸へ


 イエス・キリストは弟子たちと共にゲラサ人の地に渡られました。そこで悪霊に憑かれている人から悪霊を追い出されましたが、ゲラサの人々は「この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめ」ます。追い出された悪霊が豚の群れに入って、「がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった」ことに驚き、貴重な財産である豚がこれ以上失われることを恐れたためです。

 湖の向こう岸も、自分の救い、自分の財産が一番である人々ばかりだったのです。向こう岸に渡るとは、自分のいる場所や環境を変えることではありません。それは自分の考え方を変え、これまでの生き方を越えて行くということなのです。

大ぜいの群衆

 イエス・キリストがカペナウムに戻られると、再び「大ぜいの群衆がみもとに集まってき」ます。けれどもキリストはそのまま「海べにおられ」ます。われ先に自分の救いを求めようとする群衆に、キリストはご自身をお任せになりません。群衆は群衆のままでは、神の国に入ることができないからです。キリストは、名前を持たない群衆が一人一人の名前をもった信仰者となり、弟子となるのを待っておられるのです。

会堂司のひとり

 そこへ、一人の会堂司が来て、イエス・キリストの足もとにひれ伏します。会堂司とは、単なる建物の管理人ではありません。会堂は、当時の地域社会の宗教的な中心であっただけでなく、学校であり、裁判所であり、役場でもありました。その最高責任者である会堂司は、その地域の名士であり、ローマ帝国がユダヤを支配していた時代には、行政長官としての役割も果たしていたと言われます。地位も、名誉も、財産も申し分のない人物なのです。それが、今、ナザレの大工、マリヤの子イエスの足もとにひれ伏すのです。

足もとにひれ伏し

 それは、ヤイロにとってはきわめて異常な行為、危険でありさえする振る舞いです。ナザレのイエスはすでに、安息日を無視する危険人物としてマークされていました。本来、取り締まる側の会堂司にとって、その足もとにひれ伏すなどということは、自分の地位を失いかねない危険な行為だったはずです。周りの者たちはこぞって反対したにちがいないのです。

 じっさい、会堂司の家から来た人々の「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」(5:35)との言葉には、ヤイロにはナザレのイエスとの関わりをもって欲しくないという本音が見え隠れしています。

しきりに願って

 けれどもヤイロは危険を顧みません。なぜなら、今や彼はその地位も名誉も財産も何の役にも立たない状況の中にいるからです。おそらく、娘の病気のために、ヤイロは使えるものは全て使ったはずです。お金も人脈も権力さえ使ったかもしれません。けれどもそれは役に立ちませんでした。ヤイロは初めて、娘の病の前に、彼がこれまで築き上げてきたものは何一つ役に立たないこと、今まで自分が大事だと思っていたものが見せかけのがらくたに過ぎないことに気がついたのです。そして、そうした人の目には尊いと見えるものが、実際には愛する者の命を救う為には役に立たないこと、それどころか、むしろ妨げにさえなることを知らされたのです。

 もしヤイロが会堂司でなければ、もっと早くナザレのイエスに助けを求めることができたかもしれません。けれど彼の自信とプライドが、助けを求めることを妨げます。どう思われるかという世間体に縛られて、素直に行動することができません。子どもを助けたいという最も単純であるはずの思いを、まっすぐに貫くことができません。彼の地位や名誉や財産が、邪魔をしているのです。その意味で、彼の娘は、そして彼自身もまた、地位や名誉や財産の犠牲者なのです。

向こう岸へ

 彼はそのことに気がつきます。そして、これまで無視し、馬鹿にし、敵視さえしてきたイエス・キリストの言葉と振る舞いの中に、光と希望とを見出すのです。そして、自分の力と知恵を頼りにし、人にどう見られるかを気にしながら形を整えてきたこれまでの人生をかなぐり捨てて、単純に神のもとに跪き、恥も外聞もなく人を愛するという本当の人間らしい生き方を取り戻すのです。ヤイロもまた、イエス様の言葉に導かれて、こちら岸から向こう岸に渡ろうとするのです。

一緒に出かけられた

 ヤイロの「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」との願いにキリストはお応えになります。たとえ敵対するグループに属する者からであろうと、その求めを退けることはありません。

 イエス・キリストは人を集団の齣としてではなく一人の個人として見て下さいます。だからこそキリストの弟子の中には本来なら不倶戴天の敵であるはずの取税人から熱心党までがいるのです。そして、みんなの意見とか上の意向とか場の空気であるとか、人をかけがえのない個人から顔の見えないない群衆へと変えてしまう一切の力に逆らって、私たちを神の前に立つ一人として召し出して下さるのです。ヤイロはまさにその召し出しに応えたのです。

長血をわずらっている女

 だからこそキリストは「群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった」女をそのままにしておくことをなさいません。「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていた」ある意味では謙遜な、しかし一方では自分自身に対する評価が低すぎる一人の女性の、尊厳と誇りとを回復しようとされるのです。

 キリストは、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われます。弟子たちは、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」と言いますが、その心の中に思っていることさえ見抜かれる(2:8)お方が、自分に誰がさわったのかお分かりにならなかったはずはありません。キリストは、この女性が自ら名乗り出、自分の前に立つことを求めておられるのです。

みまえにひれ伏して

 この女性はキリストの前に「恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げ」ます。この女性について「多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった」と記されていますが、この女性は、その長患いの中で、ただ健康を失っただけではなく、社会との関係を失い、人との関わりを失い、自信を失い、誇りを失い、生きる力そのものを失ってきたのではないでしょうか。

 キリストはただ健康を回復させるだけではなく、この女性の生きる世界全体を回復しようとしておられるのです。「安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」とは、彼女が身体的だけではなく、社会的にも、霊的にも完全に癒され、本当の健やかさに生きることができるようなったとの宣言なのです。

「あなたを救った」信仰とは、キリストの救いを確信するとともに、その確信を神様と人の前で言い表し、キリストの祝福の言葉をいただいて歩み出す、この女性の振る舞い全体を指して語られたのです。

ただ信じなさい

 キリストがヤイロに求めたことも同じでした。この女性とキリストのやりとりを、ヤイロはどれほど気をもみ、心配し、不安を抱きながら見ていたことでしょう。自分と一緒に歩んでくださっているはずのキリストが、自分のことなど忘れているかのように、死にかけている娘のことなど気にかけておられないかのように、長血の女の癒やしと救いとに時間を使っておられるのです。それは、波が舟の中に打ち寄せてきているのに、眠っておられるキリストの姿を目の当たりにした弟子たちと変わりません。

眠っているだけである

 そして、そのヤイロに「あなたの娘はなくなりました」という、最も恐れていた知らせが届きます。けれども、キリストは「恐れることはない。ただ信じなさい」と命じられ、「子供は死んだのではない。眠っているだけである」と言われます。キリストはここでヤイロに、もう一度「向こう岸に渡る」こと、自分の経験を越え、この世の常識を越えて、イエス・キリストの言葉を信じて従うことをお求めになるのです。

「タリタ、クミ」

 キリストは「ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにな」りません。それは、これから向かう会堂司の家が、人の命を傷つけ、損ない、奪う悪しき力がその力を振う場所、人々を泣かせ、叫ばせ、騒がせる場所であること、嵐吹くガリラヤ湖と同じであることを意味するでしょう。

 そして、「静まれ、黙れ」との声をもって嵐を静められたキリストは、同じように、「タリタ、クミ」「少女よ、起きなさい」の言葉によって、ヤイロの娘を起き上がらせます。それは同時に、ヤイロ自身の、そして長血の女の信仰者としての立ち上がりでもあったでしょう。このイエス・キリストの招きとみ言葉に信頼したいのです。(2021年7月4日の礼拝のために)