2024年12月1日(日) 主日礼拝(合同礼拝)
聖書:マルコによる福音書10章1-12節
説教:「男と女」 大石啓介
1 はじめに
本日から、クリスマスを待ち望む待降節(アドベント)に入ります。そのような時に、日曜学校の皆さんがつくってくださったアドベントクランツに火を灯し、日曜学校の皆さんと共に、アドベント第一週目の礼拝を捧げることができることを喜ばしく思います。
これから一か月間、わたしたちはアドベントの時を過ごすのですが、この期間は、ただ単純に、教会を飾り付け、クリスマス前夜の物語を読んで賛美する、クリスマスイベントを準備する期間ではありません。アドベントの時は、聖書に記された神様の愛を心に刻む時であります。
神様の愛を知るために、聖書すべてを読み、その上で福音書に記されたイエス様を改めて仰ぎ見、イエス様の御言葉に思いを馳せ、神の子イエス・キリストがこの世にお生まれになった真意に思いを馳せることがこの時期の過ごし方であると言えるでしょう。
しかしこの一か月で皆様とそれを成すことは、大変難しいことです。ですから、ルターをもって「小さな聖書」と言わしめたヨハネによる福音書3章16節の御言葉を今一度心に留め、この言葉を胸にアドベントの時を過ごし、礼拝において神様の愛を知る一か月としたいと考えております。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
それでは本日も、イエス様の内に示された、神様の愛を学んでいきましょう。
2 出発と妨害
イエス様は今まで、ガリラヤ地方を中心に様々な場所に赴き、神の国が近づいたこと、「悔い改めて、福音を信じなさい」と教えました。
イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々が行うどのような説教よりも、人々の心に神様の愛を伝える説教を行い、新しい教えによって人々を導いてまいりました。
それだけではなく、病に倒れた人を癒し、悪霊を追い出す奇跡を行い、神の国に約束された救いの出来事を知らせていったのです。
そのようなイエス様の宣教の旅も、後半を迎えました。イエス様は後半の旅をはじめるにあたり、御自身がこの世に生まれた理由をお話になりました。イエス様の目的は、ただ御言葉を宣べ伝え、教育し、倫理観を教え、病から人々を解放し、悪霊を追い出すことではありませんでした。
自らをいけにえと捧げ、人々の罪を贖い、人々と神様の和解を実現し、人々を救う救い主として地上にお生まれになったことを告げたのでした。イエス様の旅の後半は、まさに独り子をお与えになったほどに世を愛された神様の愛を証しする旅であったのです。
ここからの旅は、イエス様にとっては十字架の死へと向かう旅でありました。しかしイエス様は、神様の愛を示すために、その道を進みます。それは同時に、弟子たちにも厳しい試練の時が迫っているのです。それゆえに、イエス様は今まで以上に弟子教育を熱心に行っていかれるのです。
ところで、神様の愛を証明しようとする時、そこにはサタンの妨害が入るのが常です。再開したイエス様の旅は開始早々、ファリサイ派の人々による妨害にあいます。ファリサイ派というのは宗教的指導者の1人で、イスラエルの神様を信じる敬虔な人々でした。
しかし、イエス様が神様の子であり、神様の御心に従って教えていることを認めていませんでした。それどころか、悪質な質問をしてイエス様を陥れようと画策し、イエス様に何度も挑戦します。それはまるで荒れ野で誘惑したサタンのようでした。
ファリサイ派の人々は当時世間をにぎわせていた「ヘロデ王の離婚と結婚」に関する問いをもって、イエス様に挑戦します。当時世間は、領主のヘロデ・アンティパスとへロディアの離婚と結婚の話題でもちきりでした(6章11節以下参照)。
洗礼者ヨハネはこれに否を唱え、聖書の律法違反であるとヘロデ王に悔い改めを訴えかけたのです。これに怒ったヘロデ王は、洗礼者ヨハネを捕らえました。そして、洗礼者ヨハネは妻ヘロディアの策により、処刑されてしまうのです。
この一連の出来事は、瞬く間に世間に広がり、賛否両論の意見が出ました。果たして、離婚すること、その後他の人と結婚をすることが、許されるのかどうか。許されるのであれば、それはどういう理由においてなのか。その答えに世間が注目していたのです。いつの時代にも有名人の離婚と結婚というのは一大ニュースになるものです。
世間が注目する中、ファリサイ派の人々はイエス様に「夫が妻を離婚することは許されているでしょうか」と問います。ファリサイ派の人々は、まるで教師に質問する優等生のようなふるまいをしながらイエス様に近づいてくるのですが、イエス様に従う気は微塵もありません。
この問いによってイエス様を試そうとしたのです。この問いには二つの罠が仕掛けられていました。質問に「離婚してはいけない」と答えれば、第一の罠が発動します。
聖書の申命記には、「離縁状を書いて離縁することができる」と規定されていますから(申命記24章1-4節:これは元来妻を保護し、ある程度の自由を保障しようとするものであった)、「離婚してはならない」と答えたならば、それは聖書の教えを知らず、また律法を守らない不届き者だというレッテルを張り、イエス様を陥れようと彼らは考えていたのです。
では逆に「離婚してよい」と答えたら、どうなるのでしょうか。その時は第二の罠が発動します。「離婚してよい」と言うのであれば、ヘロデ王の結婚を人々の前で認めることになり、洗礼者ヨハネとは違って、ヘロデ王に立ち向かわない弱虫、権力を恐れる者と言うレッテルを張ることができる、と考えたのでした。世間にはこのような悪知恵が働く人がいることを覚えておかなければならないでしょう。口車に乗らないように、注意しなければいけません。
ファリサイ派の人々の意図を、イエス様はご自身の霊の力ですぐに見破ったことでしょう。回避することはできましたが、しかしイエス様は、ファリサイ派の質問を退けるのではなく、彼らの問いに向き合い、対話へとつなげ、根本的間違えを正そうされるのです。
まずイエス様は「モーセはあなたがたに何と命じたか。」と問い返します。これは、聖書において(当時)モーセが書いたと考えられていた五つの書物(創世記~申命記)で、モーセは何と教えているか、という問いです(それは同時に、わたしから答えを聞き出す前に、自分で聖書に問うてみたのか、という含みのある問いです)。
聖書はどういっているのか。そしてあなたはそれをどう読むのか、イエス様は問いかけています。
そこで律法学者たちは、申命記24章1―4節に書かれた御言葉を基に「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えます。彼らは、聖書に規定されている律法をよく学び、律法の御言葉を神様の言葉として信じ、守っていましたので、すぐに該当する聖書の箇所を見つけ出し答えます。彼らは、自信をもって答えたに違いありません。
なぜなら、旧約聖書に記された律法に明らかにそう記されているからです。彼らはこう主張するのですが、しかし彼らは間違っていました。彼らは、聖書全体を通して語られている神様の御心を捉えることができていませんでした。律法の一部の規定のみを取り上げ、それをすべてだとすることは誤りなのです。
そこでイエス様は、「あなたがたの心がかたくななので、モーセはこのような戒めを書いたのだ」と返します。離婚の規定は神様の愛の結果生まれたものではなく、人間のかたくなさ、つまり罪の結果生まれたものであることをまず指摘します。
そして、一部の規定しか見ていないファリサイ派の目を、聖書全体に向けるために、「天地創造の初め」を思い返しなさいと迫るのです。そして離婚を語る前に、結婚とは何か、そして男女と何かについて、学び直しなさいとおっしゃるのです。
3 男と女
結婚のこと、そして男女のことは、天地創造にてすでに規定されていました。それは律法の制定よりもずっと前からあった規定です。
本日共に聴きました創世記1章27節には男女のことが規定されています。神様は、天地創造の七日間の間に、人を神の似姿として男と女に創造されました。神の似姿が男と女に分かれるのは、人が一人ではなく他者と共に生きる者である事を示しています。
創世記が語る男と女は、どちらか一方をねたみの対象、所有の対象として見る視点は全くなく、互いに異なる者として補い合うための存在として描かれていることを忘れてはいけません。二人が互いにとって恵みであるような相互関係を受け入れるためにあるのです。
男女の違いは、肉体的なレベルにおいて神の愛が刻印されることを示すものなのです(ここで、誤解のないようにお伝えしますが、聖書は性の問題を取り扱っているわけではありません。男女の性、また結婚ついては、大変ナイーブな問いですが、
しかし聖書が男女をもって伝えようとしていることは、このことを通して神の愛が示され、さらに二人が一体となる結婚によってさらに深く愛を知ることができるようになるためです。愛はこの二人の関係によってこの世に示されていくのです)。
完成した天地は極めて良いものでありました(創1:31)。きわめてよい天地の下、父なる神様と人との関係は成り立っており、神様は人を愛し、人は神様を愛しておりました。天地創造の場所には、愛の交わりがあったのです。そのようなきわめてよい天地において、神様が男と女を結び合わせて下さり、二人は父と母から離れて、結ばれ一体となっていく存在となります(創2:24)。
このことにおいて創世記は、人の存在の神聖さと結婚の神聖さの根拠を語ります。つまり、人がいること、男と女としていること、そして二人が神様によって結び合され一体となる事柄は、創造の初めから神様の御心に適った「きわめてよいもの」でありました。それゆえに結婚とは、本来、創造の頃から定められた「きわめてよい」ものであり、天地創造の神様の愛を示すものでもあります。それゆえに、結婚はとても大切な契約です。
イエス様は「神が結び合せてくださったものを、離してはならない」と続けて語ります。イエス様は「離婚はしてはいけない」と直接答えませんが、「きわまえてよい」結婚を引き離すのが「離婚」ですから、間接的に離婚を否定しております。
しかし、イエス様はここで離婚を絶対していけないといっているわけではありません。もし離婚をするならば、「神が結び合せてくださったものを離す」という行為と同等であることを覚えなければいけないと教えるのです。その反省、罪意識の中においてはじめて離婚を語ることができます。ファリサイ派の人々は、その意識なく、律法の規定にあるという理由だけで物事を判断していたのですが、根本的な解釈の違いをイエス様はご指摘なさるのです。
4 弟子達との対話
ファリサイ派の人々との対話の後、今度は弟子たちが再びこのことについて尋ねます。イエス様はこの時、「妻を離縁して他の女と結婚する者は、妻に対して姦淫の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男と結婚する者も、姦淫の罪を犯すことになる」と伝えます。
ここでも、離婚よりも結婚がテーマです。イエス様は繰り返し、弟子達にも結婚を汚すことが罪だと語ります。律法の根源にある神様の御心を今一度捉え直さなければいけません。
人間の考えからするならば、離婚した方がよい場合もあるでしょ。モーセも許す場合があるぐらいですから、世の中には、正当な理由であれ、そうでないであれ、正しい結婚生活を送れず、離婚を選択しなければいけない場合もあります。
しかしイエス様は本来そうではなかったことを強調されます。男女の関係、そして結婚の意義が今問われています。モーセの権威に勝るイエス様の御言葉を心に刻まなければいけないでしょう「神が合わせられたものを、人は離してはならない。」
この言葉を失うなら、人は欲望のままに見境なく結んではほどき、離れていくことを繰り返すでしょう。そうならないために、男女や結婚に込められた神様の御心を心に留め。従っていかなければならいません。
厳しい御言葉が続いています。そのたびに、人々とわたしたちの罪が明かされます。しかし罪人の罪の告白を聴き、罪の内に苦しむ人々を救ってくださり、愛してくださる神さまがいることを私たちは知っています。独り子を与えて下さった方の愛を知るわたしたちは、その神の子であるイエス様が悔い改めの御言葉の根底に、愛があることを忘れてはいけません。
厳しさだけに目を留め、愛を忘れるならば、聖書の御言葉を正しく聴くことはできません。もし私たちが神様の愛、キリストの愛を忘れた時、礼拝や説教、教会は意味のないものとなってしまうでしょう。そうならないためにも、聖書をよく読み、よく学び、イエス様が示してくださる神様の愛の内に、歩んでいきたいと思います。