読む礼拝


2025年6月29日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書13章14-23節 
説教:「大きな苦難の予告」 大石啓介

はじめに


 イエス様は、終末に備えるには何をすべきかと問いかける弟子たちに、終わりの徴(しるし)について語られました。

 終末が「いつ」来るのかについて、はっきりと明かすことはされませんでしたが、主は「いつ来るか」よりも、「それにどう備えるか」という姿勢の方を重んじられました。

 主が弟子たちに求めたのは、まず、「惑わされないこと」です。どんなに魅力的に思える言葉を語る者が現れても、たとえ「自分こそがメシアだ」と言う者がいても、それに振り回されてはならないのです。

 また、戦争が起こり、地震や飢饉が人々を襲うような状況であっても、「慌てないこと」が大切であると教えられました。なぜなら、これらは終末の苦しみの「前触れ」にすぎず、やがて神の救いが実現するための「産みの苦しみ」だからです。

 こうして主は、神が救いのご計画を着実に進めておられることを示された上で、弟子たちにこう語られます――

「自分のことに気をつけていなさい」。それは、主の名のゆえに憎まれ、迫害される時がやってくるからです。信仰者は、どんな場面でもイエス・キリストを証しする者として立つことが求められています。それは、地方法院や会堂のような公の場だけでなく、家族や友人といった身近な関係の中でも同じです。

 イエス様は、最も近しいところで対立や憎しみが生じること、そして時には命の危険すらあることをも、はっきりと語られました。しかし、その一方でこう約束してくださったのです――「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。

 どんなに厳しい状況であっても、信仰をもって歩み抜く者は、必ず救われる。そのようにして主は弟子たちを励まし、信仰の確かな希望を与えてくださったのです。

 しかしイエス様の徴はそれだけではありませんでした。さらに続けて、「これまでにないほどの大きな苦難」が来ることを予告されます。その苦難は、「神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難」であると主は言われました。

 これはただの脅しではありません。弟子たちがその日が来て慌てふためくことなく備えられるように、主があらかじめ与えてくださった徴なのです。その意味で、本日与えられた御言葉は、マルコによる福音書13章14–23節、「終わりの時」について語られた、イエス・キリストの厳しくも慈しみに満ちた徴です。

1 荒廃をもたらす憎むべきもの

「終末の徴」を示した後、続けて主はこう言われました。

「荒廃をもたらす憎むべきものが、立ってはならない所に立つのを見たら―読者は悟れ―」(マルコ13:14)

 これは非常に謎めいた言葉ですが、その背後には、歴史の中で繰り返されてきた苦難と冒涜の記憶、そして弟子たちに先立って警告を与えてくださるイエス様の深いご配慮が秘められています。

「荒廃をもたらす憎むべきもの」とは、旧約聖書のダニエル書(ダニ9:27、11:31、12:11)に遡る表現です。それは、異教の偶像が神殿という最も聖なる場所を汚すという、神への最大の冒涜を意味しています。ダニエルは、このような冒涜が起きたのち、1335日後に終末が訪れると預言しました(ダニ12:11)。

 実際、このような冒涜的な出来事はイスラエルの歴史の中で繰り返されてきました。

 たとえば紀元前167年、アンティオコス4世エピファネスは、エルサレム神殿にゼウス像を据え、ユダヤ人に偶像礼拝を強制しました。従わない者は激しく弾圧され、多くの血が流されました(この暴政に抵抗して起こったのが、マカバイ戦争です)。

 そのとき、人々は「終末が来た」と感じたことでしょう。この苦難の時代に編集されたダニエル書は、終末的希望と復活の信仰を語り、人々を励ましたのです。

 しかし、終わりは訪れませんでした。

 またイエス様の預言から数十年後、紀元70年には、ローマ軍によって神殿が破壊されるという冒涜的な出来事が現実のものとなりました。マルコ13章2節でイエスが語られた神殿崩壊の預言は、歴史的に成就したのです。しかし、それでも終末は訪れませんでした。

 つまり、主が語られたこの警告は、歴史の中に繰り返し現れる「冒涜の出来事」には完全に当てはまらないのです。イエス・キリストは、もっと根本的で、もっと決定的な「荒廃をもたらす憎むべきもの」を予告しています。

「終末」はこれから来るのです。ですから福音書には、「荒廃をもたらす者が立つ」との予告の後に、「読む者は悟れ」と付け加えられています。

 これは、イエスご自身の言葉とも、著者による注釈とも解釈されていますが、いずれにせよ、重要なのはこの言葉が今もなお生きているということです。

「悟れ」という力強い命令は、単に歴史的探究を求める呼びかけではありません。

 そうではなく、霊的に目を開いて、識別し、見極めなさいという、強く鋭い呼びかけです。読者に向けられたこの警告は、ただ過去の記録としてではなく、現代に生きる私たちへの警告として響く「徴」なのです。

 イエス・キリストは、もっと根本的で、もっと決定的な「荒廃をもたらす憎むべきもの」の登場を、時代を超えて予告しておられます。

 そして、それが「見える」かたちで現れる、とおっしゃっています。「荒廃をもたらす者」は見える仕方で登場します。

 つまり見逃すことはないのです。しかし備えがなければ、対処できないのです。だからこそ、主は「悟れ」と命じ、後に「門番のように目を覚ましていなさい」と続けられるのです(マルコ13:33以下)。

 それでは、その「荒廃をもたらす憎むべきもの」とは、一体どこに立つのでしょうか?

 ダニエル書においては、それは明確に神殿です(異教の像が聖所に据えられるという、神の主権を奪う行為の内に明確にしめされています)。

 しかし今、神殿はすでに崩壊しています。エルサレム神殿なき時代に、それはどこに立つのでしょうか?

 その問いに答えるためには、「荒廃をもたらす憎むべきもの」が何を奪おうとする存在なのかに目を向ける必要があります。

 ある牧師はそれを、「神の座を奪おうとするもの」と定義しています。それは場を求めるのではなく、人の心における神の主権、神の栄光、神の礼拝の座を狙うのです。

 その意味で、イエス様が13章22節で語られる「偽メシア」や「偽預言者」もまた、「神の座を奪おうとする存在」と言えるでしょう。

 人々を惑わせ、「できれば、選ばれた人たちを惑わし」、自分を崇拝させ、自分を神としようとする者たち。それらが登場し、世を混乱させるであろうことを、イエス様は前もって弟子たちに警告しているのです。

2 極限の中の命令

 さて、主イエスは弟子たちに、極限の状況下でどのように行動すべきかを、具体的に教えられました。

「ユダヤにいる人々は山へ逃げよ」、

「屋上にいる者は下に降りてはならない」、

「家の中にある物を取りに戻ってはならない」

 と、次々に命じられます。

 これらの命令は一言で言えば、「その時が来たら、ためらわず、後ろを振り返らずに逃げなさい」ということです。

 これは、旧約聖書の中で神がソドムとゴモラの滅びに際してロトの家族に告げた命令を思い起こさせます。「振り返ってはならない」というあの命令です。

 主イエスの言葉も同じように、躊躇なく逃げることを第一とするようにと命じています。主がそのように徹底するのは、選ばれたものが生きるためでしょう。

 主は、そのために、その日に起こる内容の詳細は語らず、“その時が来たら即座に従うべき命令”が与えられるのです。

 弟子たちが、この命令に正しく従い、逃げ延び、そして逃れた先で信仰をもって生き抜くためには、日ごろからの備えと霊的訓練が不可欠です。

 もし、危機が迫った時になって初めて主の言葉を思い出し、行動に移そうとしても、それでは遅すぎるのです。それは、主の御心を軽んじてきたことの表れと言えるでしょう。

 ですから、私たちは平時から主の御言葉に親しみ、刻みつけておかなければなりません。特に注目すべきなのが、主がここで命じられる「祈りなさい」という言葉です。イエス様は続けてこう語られます――。

「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女に災いがある。このことが冬に起こらないように、祈りなさい」(マコ13:17-18)
 
「このことが冬に起こらないように祈りなさい」(13:18)と主は命じられます。

 事態が軽く済むように祈ることが求められます。もちろん、自分のため、また自分たちだけに祈るのではないでしょう。「隣人を自分のように愛する」私たちですから、隣人のためにも祈るのです。

 しかし、最も重要なのは、この命令の深層にある、主の深い配慮と愛です。「祈れ」という命令を下す主御自身が、すでに祈っておられることを私たちは忘れてはいけないでしょう。

 この命令は、主が私たちの苦しみを決して他人事として見ておられないと言うこと、私たちと共に心を痛めておられるという事実を示す言葉なのです。

 そして同時に、それは主ご自身が、「苦難を割け、命を守ること」を望んでおられるという明確なメッセージでもあるのです。

 そのことをよく示すのが、「祈れ」という命令の前に置かれた「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女に災いがある」(マコ13:17)という御言葉です。

 これは単なる事実の指摘のようにみえますが、実はそうではありません。ギリシア語原文においてこれは感嘆詞であり、主の深い悲しみの呻きを表しています。

 つまりイエス様は、この大いなる苦難の中で、最も弱い者たち――逃げることもままならぬ身重の母親や子どもたち――の姿を思い浮かべ、その悲惨さを腹の底から嘆いておられるのです。

 主イエスの嘆きと祈りに倣い、わたしたちもまた、祈るのです。

3 希望の光、教会の務め

 このように、主はただ未来を警告されたのではありません。主は私たちの苦しみを思い、嘆き、命が守られることを祈り、そして弟子達にも同じように祈り求めるよう命じられたのです。

 そこには、これらの警告を包み込む愛があります。そして、この深い愛の中で語られた「予告」は、同時に確かな希望のしるしでもあります。主はこう語られました―― 「主がその期間を縮めてくださらなかったなら、だれ一人救われなかったであろう」(13:20)

「大きな苦難」の日々において、「神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難」に見舞われると、主は言われます。

 そのような日々は、本来であれば、「誰一人救われない」ほどに続く、恐ろしいものでした。神の義の前には、「荒廃をもたらす憎むべきもの」だけではなく、人々もまた、滅ぼされてしかるべきなのです。

 しかし「主がその期間を縮めてくださった」のです。それは神の義において本来当然であったはずの裁きを、神が憐れみによって差し控えられたという出来事です。

 ここには、神の義と神の愛が、十字架において交差し、救いの歴史が今も生きているという福音が含まれています。ここに、滅びを免れる「選ばれた者たち」への希望が語られます。

 では、「選ばれた者たち」とは、誰のことでしょうか。それは、旧約の民イスラエルに限られたものではありません。キリストによって新たに召し出された、全世界の神の民――つまり、教会です。

 教会が神に選ばれているというこの真理は、私たちに希望を与えます(選ばれた民の範囲を人は知りません。しかし教会の門は今も開かれ、誰もが出入りできます)。

 選ばれた者たちは、救いのために何もしなければよいと言うことではありません。そこには主の命令に従うという責任があります。

 救いに向けて自分たちも主と共に歩かなければいけません。

 そこで、主イエスは弟子たちに対し言われます。「その時、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。」教会はどのような時にも、真の神を知る、ただ一人の神の子イエス・キリストが示す道を信じ、その道のみを歩むのです。

 さらにイエス様は続けます。

「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、気をつけていなさい」。

 教会は「気をつけていなさい」という命令に従うことが求められています。「気を付けていなさい」、このギリシア語を直訳すれば、本来「見続けよ」という命令になります。

 つまりイエス様はここで、「荒廃をもたらす憎むべきもの」が現れないか、立ってはならない所に立っていないか――見続けなさい、とイエス様はおっしゃるのです。

終わりに

「悟れ」「逃げよ」「祈れ」そして「気を付けよ」。本日語られたイエス様の御言葉は、霊的な即応性と備え、そして愛に根ざした配慮の教えであることをここに覚えたいと思います。

 主は以前、「惑わされるな」「慌てるな」「耐え忍べ」と命じられました。それは弟子として、福音を告げる者の基本的姿勢でした。

 そして今回はそこに、四つの命令が加えられます。終末の徴を語る際に、繰り返されるこの命令には、厳しくも深い愛が込められています。

 主は、「すべてを前もって言っておいた」(23節)と語られました。究極の苦難においては、弟子たちが生き残ることを望んでおられる主の思いがあります。

 この御言葉が前もって与えられたのは、私たちが慌てず、惑わされず、耐え忍びながら、必要な時には逃げ、生き延びるためです。

 教会は、そして私たちは、主の命令に従い、愛と希望をもって応えるよう招かれています。神の民としての教会は、福音を証ししつつ、現実を見続け、状況を悟り、祈り、備えながら生きていく共同体です。

 いざという時には逃げて生き延び、なお耐え忍ぶようにと、主は命じられています。どうか主の御言葉にとどまり、目を覚まし、祈り、証しの歩みを続けてまいりましょう。

 主が前もって語ってくださったことに信頼しつつ、終わりの時に備えましょう。その時、私たちは慌てず、惑わされず、主に選ばれた者として、真実に歩むことができるのです。


2025年6月22日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書13章1-13節 
説教:「終末の徴」 大石啓介

1神殿の崩壊を予告する


 主イエスの最後の一週間、その二日目にあたる場面を、私たちは今日読み進めています。

 神殿の境内では、宗教的指導者たちとの激しい論争が繰り広げられました。彼らからの問いかけは、単なる罠として機能していただけではなく、主イエスの神学的確信に鋭く迫るものでもありました。

 しかしイエス様は、彼らの挑戦を見事に退け、その一つ一つを通して「権威ある教え」を力強く語られたのです。

 この教えは、宗教的指導者たちの信仰を問い直すだけでなく、今を生きる私たち一人ひとりの信仰をも問いかける、普遍的なものでした。

 キリストに従い、また従いたいと願う弟子たちに向けて語られた御言葉として、私たちもまた耳を傾けていく必要があるでしょう。それは、境内の外で語られる御言葉も同様です。

 今、私たちはイエス様の御言葉の前にいるのです。特に本日の御言葉は、弟子たちに向けて語られたものです。だからこそ、私たちはここで語られる一つひとつの言葉に、今まで以上に、より真剣に、緊張感を持って、耳を傾けていきたいと思います。

 さて、イエス様が神殿の境内をあとにされる時、一人の弟子がその背中に向かってこう語りかけます――「先生、ご覧ください。なんと見事な石、なんと立派な建物でしょう」。

 彼が見とれたのは、神殿の建物でした。ヘロデ大王がユダヤの宗教的指導者の意見を取り入れて建て始めたこの建物は、すでに30年にわたる工事を経て、ほぼ完成していました。

 ガリラヤ出身の弟子たちにとって、年一度の過越祭の時に見るこの神殿は、圧巻であったことでしょう。感動していたのは、弟子たちだけではありません。

 ユダヤ人たちもまた、この神殿に関しては、大変満足していたのでした。近くから見ても、遠くから見ても、誰もが認める「素晴らしい建物」がそこにあったのです。

 この弟子は、建物全体だけではなく、積み上げられている大理石の一つにも心奪われていたのでしょう。彼は石にまで言及しています。

 彼は自分のうちに起こった感動を抑えておくことができませんでした。この弟子は感動のあまり、先生ともこの感動を共有しようと働きかけていくのでした。

 それは、大変素朴で純粋な思いでした。しかし、そこにはイエス様によって砕かれ、正されなければならない人間的な視点があったのです。

 人が見て「素晴らしい」と思うものと、神の御前で「本当に価値あるもの」とは、しばしば異なるのです。弟子たちは外側の栄光に目を奪われていましたが、主はすでにその内側にある腐敗を見抜いておられました。

 イエスはその弟子に向かって、神殿の輝かしさの背後にある現実を告げられます。2節。「この大きな建物を見とれているのか。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」

 これは、紀元70年に実際に起こるエルサレム神殿の崩壊を預言した言葉であると同時に、神の御心に反する人間の計画は必ず滅びるという普遍的な真理を象徴するものでもあります。

 思い出してください。神の臨在の場、「祈りの家」と呼ばれるべきこの神殿は、人の罪と不正によって汚され、「強盗の巣」となっていたのです(11:17)。弟子たちは、それをまさに前日に主イエスと共に目撃していたはずです(11:15以下)。

 それなのに、彼らは再び神殿の外見的な煌びやかさに心を奪われてしまいます。あるいは、二日目の主イエスの活躍に気をよくして、一日目の出来事などすっかり忘れていたのでしょうか。

 いずれにせよ、目の前の「真実」には盲目となり、「見た目の印象」だけにとらわれていたのです。

 そこでイエスは、弟子たちに、そして今を生きる私たちにもこう語りかけておられます。「目に見えるものだけに心を奪われてはならない。」この出来事は、私たちに大切な教訓を与えています。

 たとえどれほど壮麗に見えるものであっても、それが神の御心に基づかない限り、それは決して永遠には続かない。人間の手による計画も、制度も、いつかは崩れ去る。だからこそ、私たちの信頼は「目に見えるもの」にではなく、「御言葉」と「御心」にこそ、しっかりと置かれるべきなのです。

2 しるしと徴

 さて、舞台はオリーブ山へと移ります。イエス様は、神殿の方角を望むように腰を下ろされました。そこへ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人の弟子たちが近づいてきます。

 彼らは、「密かに」イエスに問いかけたと福音書は記しています。この「密かに」は、英訳では「private」と訳されています。

 つまり、五人だけのプライベート空間を意図的に用意したのです。彼らが他の弟子たちを差し置いて、先にイエス様に尋ねようとした理由について、しばしば指摘されるのは、「他の弟子よりも優位に立とうとしたのではないか」ということです。

 確かに、これまでの彼らの振る舞いからすれば、その可能性は否定できません(例:マルコ10:35–37など)。しかし一方で、ここには彼らなりの「使徒としての責任感」もあったのではないでしょうか。

 イエス様が「神殿は一つ残らず崩れ落ちる」と語られたそれは、彼らにとって衝撃的な一大事でした。「神殿の崩壊」は、ユダヤ人としてのアイデンティティを揺るがすような出来事です。

 だからこそ、弟子たちの中でも古参であり、リーダー格とも言えるこの四人は、まずイエス様に個人的に、確かに聞いておきたいと願ったのではないでしょうか。そしてその答えを、責任をもって他の仲間たちと分かち合うつもりだったのかもしれません。

 弟子たちのこの問いには、軽はずみな興味本位ではなく、信仰者としての備えを求める真剣な姿勢が感じられます。彼らは、「主の言葉を正しく理解し、正しく備える」ことが、キリストに従う者の責任だと悟り始めていたのです。

 一節では、建物の荘厳さに感嘆していた弟子たちですが、四節の言葉からは打って変わって、必死さと真剣さ、そして緊張感が伝わってきます。

「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。それがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。

彼らはイエス様の言葉を疑ってはいません。弟子として、主の言葉を正しく受けとめ、理解し、備えたいという真剣な姿勢がここには表れています。

 特に注目したいのは、「徴」と訳されているギリシャ語 σημεῖον(セーメイオン)の用法です。この語は、マルコ8章12節にも登場します。そこでは、イエス様が「天からのしるし」を求めるファリサイ派に対して、「この時代には決してしるしは与えられない」と厳しく退けました。

 同じ単語が使われている以上、形式的に見れば、弟子たちもまた「しるしを求めている」ように見えるかもしれません。しかし、ここには決定的な違いがあります。

 8章における「しるし」は、イエスのメシア性を疑い、確証を求める不信仰からの要求でした。一方、13章で弟子たちが求めている「徴」は、主の言葉を信じた上で、その成就に向けて備えるための理解と覚悟を求めるものです。

 実際、イエス様は彼らの問いに、奇跡的なしるしや超常的な啓示を与えたわけではありませんが、具体的な出来事の予告と、信仰によって備えるための指針を与えています。

 すなわち、「徴」は、恐れや疑いを煽るためではなく、信仰者が心備えを整えるために与えられるのです。四人が求めたのはこの「徴」でした。イエス様は、この真剣さを認め、答えていくのです。

3 徴:偽メシア、戦争、自然災害

 イエス様はまずこう語ります。

「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ『私がそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争のことや戦争の噂を聞いても、慌ててはならない。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に自信があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである』。

 イエス様はこの御言葉を、単なる予想ではなく、神のご計画の中で、必ず起こる出来事として語られています。イエス様は、偽メシアの到来、戦争や地震、飢饉など、さまざまな災厄をひとまとめにして語られました。

 私たちの理解では、これらはしばしば区別されます。というのも、戦争は人間の罪や欲望の結果であるのに対して、自然災害は人の力では制御できない外的な出来事だと考えられているからです。

 しかし聖書においては、これらは単に偶発的な出来事ではありません。むしろ、戦争も自然災害も、人間の罪と不信仰のゆえに生じる歴史的な帰結として、神のご支配のもとにある現実とされています。


 戦争や民族間の争いは、人間の傲慢さと不信によって引き起こされる悲劇である一方、旧約聖書ではしばしば神の裁きとして描かれています(申28:49–52,イザ10:5–6,エレ 25:8–9,アモ1–2章,ハバ1:5–11など。詩編46篇も参照)。

 また、地震や飢饉といった自然災害も、堕落した被造世界が呻いている現実(ローマ8:22)として描かれています。つまり、こうした出来事すべてが、神の主権のもとにあるというのが聖書の視点です。だからこそ、イエス様はそれらすべてを「産みの苦しみ」として一つにまとめ、神の国の到来を指し示す徴として語られたのです。

 イエス様はこれらすべての出来事を、ただの苦しみでも破壊でもなく、神の国の到来に先立つ、希望に満ちた苦しみとして語るのです。災厄の最中にあるとき、それを希望と見ることは容易ではありません。

 しかし、神様は、人の罪による争いも、自然の脅威も、すべてをご自身のご計画の中で用いて、歴史を御心の方向へと導いておられます。それは旧約におけるイスラエルの歩みの中にも明らかなことです。また、イエス・キリストの十字架と復活において最も明らかに示されました。神は、苦しみを通してさえも救いを実現されるお方なのです。

 だからこそ、イエス様は言われます。

「惑わされないようにしなさい」

「慌ててはいけない」。

 なぜなら、これらは「世の終わり」ではないからです。イエス様が語られたこれらの出来事――偽メシア、戦争、災害、飢饉――は、単なる破壊や混乱ではありません。それは、新しい秩序、神の国が生まれようとしている“産みの苦しみ”なのです。

 もっと言うならば、神ご自身が、これらの苦しみのただ中においても、喜びへと導く救いの御業を今まさに行っておられるということです。

 イエス様は、そのことを確信しておられました。だからこそ、彼は「世が終わろうとしている」とは言いません。むしろ、「新しい命が始まろうとしている」と語るのです。

4 徴:迫害

 それでは、ただ「新しい命が始まろうとしている」ことに安心し、「惑わされないように気をつけ、慌てず落ち着いている」だけで良いのでしょうか。

 そうではありません。イエス様は、さらに一歩踏み込んで、弟子たち一人ひとりに降りかかる困難について語られます。具体的には、弟子たちが迫害を受けることです。

 主は言われます。「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。」

 なぜなら、「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれ、また私のために総督や王たちの前に立たされ、証しをすることになるからである。」

 これらの出来事は、初代教会に実際に起こった歴史的事実の予告でありながら、同時に、すべての時代のキリスト者が直面しうる普遍的な試練の姿でもあります。

 このことはより身近にキリスト者に迫ります。なぜなら迫害は、戦争や自然災害よりも、より身近なものだからです。実際に、キリスト者の歴史は、迫害の歴史でもありました(使徒言行録およびパウロ書簡参照)。

 しかし、主は言われます――

「そのとき、何を話すか心配することはない。語るのはあなたがたではなく、聖霊だからである。」これは力強い励ましです。聖霊がその場において語るべき言葉を与えてくださる。だからこそ、どれほど困難な状況であっても、私たちは沈黙せずに証しを立てることができるのです。ペンテコステの時に確認した聖霊を待ち望む姿勢が大切なのだ、とイエス様はおっしゃいます。

 けれども、イエス様の言葉はさらに深刻さを帯びます。

「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子は親に反抗して死に至らせるだろう。」

「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」

 ここでは、迫害が公的な領域にとどまらず、家庭や親しい関係の中にまで及ぶことが語られています。これは、信仰が人から好かれるためのものではなく、ときに最も近しい者との間にさえも緊張や衝突を引き起こすものであるという現実を私たちに突きつけています。

 イエス様は、「わたしの名のために」信仰を守る者は、すべての人に憎まれることがあるとおっしゃいました(13節)。

 その言葉は、信仰者にとって最大の葛藤が、しばしば家庭や隣人との関係の中にあることを示しています。

 偽メシアの到来や戦争、自然災害は確かに心を騒がせる出来事です。また、法廷や会堂において信仰の証しを立てることは、勇気を要する挑戦です。

 しかし、これらの場面でイエス様は「死」を語っておられません。むしろ、最も深刻な場面として語られるのは、「兄弟が兄弟を」「父が子を」「子が親に反抗して死に至らせる」という、家庭や親しい関係の中での断絶と裏切りです。

 かくいう、イエス様を死に追いやるのも、最も信頼を置いた十二使徒の一人、ユダの裏切りでありました。

 これは、私たちにとっても大切な問いかけではないでしょうか。戦争や災害のような大きな出来事に目を奪われるあまり、隣人や家族との関係に生じている軋轢や痛みを見落としてはいないでしょうか。

 神の御前で信仰を証しするとは、弁明することだけではなく、愛をもって隣人に仕えることでもあるはずです。

 イエス様が「死」を語られたのは、他でもない家庭や隣人との関係においてでした。そこにこそ、信仰者の覚悟が最も問われるのだと示しておられるのです。

「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めと、ここでの警告は、実に深くつながっています。

 イエス様はこれらの苦難を語られたあと、最後に希望に満ちた約束を語られます。

「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 この御言葉は、どんな試練の中にあっても信仰を手放さない者に、神の救いは確実に与えられることを保証するものです。今日の箇所は、未来に起こる困難や迫害を恐れる弟子たちに、揺るがぬ信仰と備えを持つように促すイエス様の御言葉です。

 神のご計画は、単に歴史を支配するだけではありません。人間の罪と破壊のただ中にも働き、新しい創造へと導くのです。だからこそ、私たちは「徴(しるし)」を見て恐れるのではなく、それらの出来事を通して成し遂げられる神の救いの完成に期待し、信仰と覚悟をもって備えることが求められているのです。

 今私たちの周りにも、終わりを思わせるような災害や戦争、分裂や混乱があります。世の中は不安定で、人の言葉に惑わされることも少なくありません。

 しかしイエス様は、「そのときこそ、しっかりと目を開き、物事を捉え、しっかり立ち、しっかり愛せ」と言われます。苦しみのただ中でこそ、福音の真実が輝くのです。目に見えるものに心を奪われず、目には見えない神の御心に心を据えましょう。

 私たちも、今この時代を生きる弟子として、終わりのしるしに恐れず、迫害にたじろがず、主の御言葉に信頼して歩んでいきましょう。そして、どのような時代にあっても、主が必ず守り、導いてくださるという信頼のうちに――。

「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。この約束に支えられながら。


2025年6月8日(日) 聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝
聖書:マタイによる福音書28章16-20節 
説教:「すべての民をわたしの弟子に」 大石啓介

1 はじめに


 イエス様は復活された後、40日間にわたり弟子たちと共に過ごされ、神の国について語られました(使徒1:3)。そして、「聖霊が降ると、あなたがたは力を受け、地の果てに至るまで私の証人となる」(使徒1:8)と約束され、天に上げられました。

 その後、弟子たちはエルサレムに留まり、祈りつつ日々を過ごします。そして、復活日から数えて50日――それはユダヤの暦で「五旬祭」と呼ばれる祭りの日、彼らが一つ心で祈っているときに、突然激しい風のような音が天から響き、炎のような舌が分かれて現れ、ひとりひとりの上にとどまったのです。

 それが聖霊降臨の出来事です(使徒2章)。聖霊が降ると、弟子たちは新しい力に満たされ、恐れを乗り越え、大胆にイエス・キリストの福音を宣べ伝え始めました(使徒2:14)。そこから、全世界に福音が広がっていったのです。

 教会は、この日を記念として、ギリシャ語で「50日目」を意味する「ペンテコステ」と名付け、特別に覚えてきました。またこの日は「教会の誕生日」として覚えられています。

 人々の力ではなく、聖霊の力によって生まれた教会。本日は、教会の源流にある出来事に目を留めるのではなく、さらにその中心にある復活のイエス様との出会いに目を向けたいと思います。

 特に今日、私たちが心に留めたいのは、マタイによる福音書28章に記された復活の主の言葉と命令です。そこには、聖霊降臨の出来事の意味、そして今を生きる私たちの歩みに繋がる大きな示唆があるのです。

2 ガリラヤへ

 弟子たちはガリラヤに生き、イエス様の指示された山に登りました。彼らが山に登ったのは、復活したイエス様は、十字架と復活という人類救いのクライマックスを経たあと、マリアを介して弟子たちにこう命じられたからでした――「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう」(マタイ28:10)。

 イエス様の命令ですから、これは単なる場所の移動を意味するのではありません。そこには信仰的に深い意味があるのです。つまりそれは、信仰の原点への帰還であり、弟子たちに対する新たな使命の再確認――すなわち「再召命」だったのです。

 復活のイエス様との新たな出発は、宣教の原点であるガリラヤから始まります。イエス様は公生涯の初めに、ガリラヤで福音宣教を宣言し、弟子たちを呼び出し、神の国を宣べ伝え、病を癒し、罪を赦されました。あの場所、あの出会い、あの言葉から、すべては始まったのです。

 弟子たちはその最初の場所へと招かれます。私たちもまた、弟子たちと共に「心のガリラヤ」に立ち帰る必要があります。イエス様との出会いを思い起こし、召しを受けた原点に立ち返る。そのとき、私たちの新しい歩みが始まるのです。

「再」出発ですから、「白紙からの出発」ではありません。「ガリラヤへの帰還」はただの帰路ではなく、すでに与えられたキリスト体験を振り返る旅となるでしょう。

 ガリラヤへ戻る道中、弟子たちは様々なイエス様との体験を思い起こすことになるでしょう(その上で、弟子達はこの土台の上に何で家を建てていくのかに注意しなければなりません(Ⅰコリ3:12-17))。すでにイエス・キリストという土台は与えられているのです(Ⅰコリ3:11。マタイ7:24-27参照)。イエス様の愛と恵みに再び出会う旅、それがガリラヤへの旅となります。

 しかし、それだけではありません。各地において、イエス様との交わりが思い出されるたびに、弟子たちは後悔に見舞われることでしょう。裏切り、逃亡、失望――弟子たちはそれぞれに、主を見捨てた記憶を抱えていました。彼らの失敗は、まさに主の十字架へとつながっていったのです。

 復活の主の手と足と脇には、あの十字架の傷跡が残されています(ヨハネ20:24以下参照)。過去は消え去るものではないのです。消せない過去が、犯してきた罪が、一人一人を責めるでしょう。悔い改めと罪の告白の旅、それがガリラヤへの旅なのです。

 しかし、路頭に迷うことはありません。目的地ははっきりとしています。旅の先で主が待っていること、そこに希望があります。それは何よりも、罪の赦しを意味します。

 過去は、主との出会いによって、主の愛によって包み込まれ、赦され、変えられていくものです。現実を喜びに変え、栄光の未来へとつながるのです。

 イエス様は、弟子たちのすべてご存じの上で、「ガリラヤへ行きなさい」と語られます。主が招かれる、これが大切です。主が招いて下さらなければ、弟子たちはあのユダのように、罪に取り込まれ、死んでいたことでしょう(使徒1:17-18)。

 イエス様は、弟子の歩みを否定するためではなく、たとえそれが失敗や裏切りに満ちていたとしても、主の恵みによってそこからもう一度立ち直る機会を与えるために、この命令を下します。主は、失敗と傷を抱えた弟子たちを再びご自身の道に招かれ、「あなたがたはもう一度始めてよい」と宣言してくださるのです。

 これは私たちにとっても大きな慰めと励ましです。どれだけ私たちが失敗しても、過ちを犯しても、主はそこからもう一度始める機会を与えてくださるのです。
 
3 山上の派遣命令

 マタイによる福音書では、弟子たちはガリラヤのある山に登り、復活の主と出会います(28:16–20)。聖書において「山」は、神の御言葉が語られる特別な場所です。たとえば「山上の説教」(マタイ5–7章)は、人々に新しい倫理と生き方を告げる場でしたし、モーセもまたシナイ山で神の律法を授かりました。ここから新たな生き方が与えられていくのです。

 この山でイエス様が語られたのは、もはや自分たちだけの信仰に留まるのではなく、「すべての民を弟子とせよ」という大いなる宣教命令でした。注目すべきは、弟子たちがイエス様を前に「ひれ伏したが、疑う者もいた」と記されていることです(28:17)。

 復活の主に出会ってもなお、疑いがあった。しかしイエス様は、そんな不完全な弟子たちにこそ、近づいて語られたのです。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、行きなさい。」(28:18–19)。

 イエス様はここに、ご自身の権能を示します。「天と地」それは被造物すべてを意味します。「権能」とは、権威、支配する力、命令する権利を意味します。正当な支配者としての権利と力ということができます。

 つまり、「天と地の一切の権能」とは「天地全体を納める主権」と言い換えることができるでしょう。イエス様は神様から正式にすべてを納める権威を委ねられた方なのです。まさに神の子イエス・キリストと呼ぶにふさわしい方なのです。

 ここでは、復活と権威の確かさへの「証拠」は一切示されていません。ルカによる福音書やヨハネによる福音書では、イエス様の顕現に加え、傷跡を見せ、魚を食べる記事を残し、イエス様が肉体をもって復活なさった描写が事細かに描かれています。

 それによって復活の事実が証明されていくのですが、同時に復活の初穂となったイエス様の権威が主張されます。しかし、マタイによる福音書はあえてそうした描写を省いています。

 マタイ福音書における信仰とは、「顕現」と「御言葉の権威」に立脚する信仰なのです。「見たから信じる」のではなく、「語られたから従う」に重みが置かれているといっていいでしょう。御言葉が語られる場所にこそ、復活の主が現れる。その信仰に立つとき、私たちの歩みもまた新しくされていく、マルコによる福音書はそう確信していたのでしょう(それは、ヨハネ20:29における「見ないで信じる人は幸いである」との御言葉に通ずるものがあります)。

 このようにして、主イエスは弟子たちを派遣されました。復活のイエス様が語られた宣教命令には、驚くべき広がりがあります。「あなたがたは言って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」――これは人種や民族、言語や文化の垣根を超えた普遍的な使命です。

 弟子たちは、自らの弱さを抱えながらも、この命令に従って歩み始めました。彼らは神の力と導きによって、歴史を変えていったのです。大いなる視野の広さ、そして大いなる権能の下に発せられた宣教命令は、のちに「大宣教命令」として知られていきます。その大きさは、時代を越え、私たちにも今、響いているのです。

4 インマヌエル

「大宣教命令」を受けた私たちは、ここでもう一度原点に立ち返る必要があります。それは、「インマヌエル――神が共におられる」という御言葉です(マタイ1:23)。

 この言葉は、主イエスの誕生のときに語られたものでしたが、マタイによる福音書の最後、復活の主の言葉「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)と美しく響き合い、全体を貫く主題となっています。

 イエス様は公生涯において、言葉と行いによって、神がどのようなお方であるかを具体的に示されました。そしてそのお方は、今も生きておられ、私たち一人ひとりと共におられます。私たちは、過去の出来事として主の歩みを思い起こすのではなく、今ここに生きる主としてお迎えするのです。

 ここで思い起こしたい言葉があります。「温故知新」。古きをたずねて新しきを知る。これは中国の思想家・孔子の言葉に由来する四字熟語ですが、私たちの信仰にも通じるものがあります。過去を振り返るのは、単に懐古のためではありません。かつて神がなされたことを見つめ直すことで、今を生きる力を得て、これからの課題や試練に備えるのです。

 私たちもまた、イエス様の歩みと教えに立ち返り、それを深く学びながら、新たな時代と向き合っていく者でありたいと思います。しかし、私たちは決して、過去の偉大な教師の教えだけを頼りに、孤独に歩むのではありません。イエス様は約束されました。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。この御言葉は、今を生きるすべての信仰者にとっての希望であり、支えなのです。

 ユダヤ教では、律法を学ぶ者の間に神の臨在(シェキナ)があるとされています。しかしキリスト教においては、主イエスご自身が「インマヌエル」、すなわち「神が共におられる」存在として、信仰者たちの間におられます。洗礼活動を通して伝道に励む信仰者の場、つまり教会は、まさに主の臨在の現場なのです。

 だからこそ、私たちの「温故知新」は、単なる知識や記憶では終わりません。それは、生きておられるキリストとの交わりによって支えられた、日々新しい信仰の実践へとつながっていくのです。教会の礼拝、祈り、交わりの中で、私たちはこの主の臨在に触れ、新たな力を与えられます。そこから、希望に生きる歩みが始まっていくのです。

 私たちは今、さまざまな困難や課題に直面しています。社会の不安、心の孤独、病の苦しみ、人間関係の痛み――そうした現実のただ中にあっても、主イエスは「わたしは共にいる」と語ってくださいます。この御言葉が、どれほど力強い支えとなることでしょうか。

 どうか私たち一人ひとりが、復活の主イエスとの出会いを深め、原点であるガリラヤに立ち返り、新たな使命に生きる者とされますように。失敗も、過ちも、恐れも、疑いさえも、主の御手の中で新しくされ、赦され、用いられていくのです。

 この恵みを今一度思い起こし、耳と目と心を開いて、本日の御言葉に立ち返りましょう。そして、主が新たに備えてくださる道へと、共に踏み出してまいりましょう。

 主は今も、生きておられます。そして、あなたと、教会と、世界と共におられます。インマヌエル――その約束を胸に、私たちもまた、日々のガリラヤを歩んでまいりましょう。



2025年6月1日(日) 主日礼拝(合同礼拝)
聖書:マルコによる福音書12章41-44節 
説教:「やもめの献金」 大石啓介

1 イエス様のまなざし

 本日の御言葉は、「イエスは献金箱の向かいに座っていた」という一節から始まります。

 一連の論争と教えがひと段落し、イエス様は腰を下ろされ休まれたのでしょうか。そうではありません(マタイ8:20参照)。イエス様が座られるとき、そこにはいつも深い意味があります。

 たとえば、マルコによる福音書9章35節――弟子たちが「誰がいちばん偉いのか」と言い争っていた時、イエス様は十二人を呼び集めてこう教えられました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。この教えは、イエス様が座して語られた御言葉でした。

 さらに、マルコ福音書4章にも注目しましょう。そこでもイエス様は腰を下ろされ、群衆に向かって「よく聞きなさい」「聞く耳のある者は聞きなさい」と語りかけ、たとえ話を用いて神の国の秘義を解き明かされました。

 また、四つの福音書はその姿を繰り返し記しています。マタイ5章1節、マルコ9章35節、ルカ5章3節、ヨハネ8章2節――どの場面においても、イエス様が腰を下ろされるとき、そこには大切な教えが語られているのです。

 このように、聖書が「イエスは座っておられた」と記すとき、それは単なる姿勢の記録ではありません。イエス様が座るとき、そこでは重要な教えが語られます(当時のラビたちは座って教え、その弟子たちは、座してその教えを聞きました)。私たちは特に心して、共に座って教えに耳を傾ける準備をしなければならないのです。

 聖書は更に、(イエス様は)「群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」と記します。イエス様は、目の前の一人ひとりの行動を、じっと、深く見つめておられたことが報告されています。 

 それは、単なる観察ではありません。心を見抜く、主のまなざしでありました。私たちはこの視線から、何が真実の価値であり、何が神のみこころなのかを学んでいきたいと思います。そのためにまずは、イエス様が見ていた状況を一つずつ確認していきましょう。

 さて、イエス様が腰を下ろして見つめておられたのは、献金を捧げる群衆の姿でした。この群衆は、37節にあるように「イエスの教えに喜んで耳を傾けていた」人々です。

 そして今日の物語からは、その群衆の中には実にさまざまな人々――裕福な者から、生活に困窮するやもめに至るまで――がいたことがうかがえます。イエス様は大勢の金持ちが献金をたくさん入れているのをご覧になりました。

 しかし本物語では、イエス様はこの金持ちたちに特別な関心を寄せていません。イエス様の目に留まったのは、一人のやもめでした。このやもめは、女性でありました。つまり、夫を亡くした未亡人、または親に先立たれた未婚女性であったと考えられています。いずれにせよ、身寄りのない貧しい女性であったことがうかがえます。

 次に群衆が献金を捧げていた献金箱について見ていきましょう。この献金箱は、神殿の境内の婦人の庭に置かれた、13個の献金箱を指します。この献金箱は、盗難防止のために、ラッパ状に作られた形にちつくられています。そのため、「ラッパ」と名付けられていました。

 13の献金箱の内、7つは定められた租税を受け入れるために、5つは特定の目的をもつ献金のために、あと1つは一般的な自由献金のために用いられていました。イエス様はこの13個目の献金箱、つまり一般的な自由献金を入れる献金箱の向かいに座っていたようです。自由献金は、神殿の維持のため、また貧しい者たちを救済するために用いられていました。

 また、全ての献金は祭司らによって吟味される必要がありました。祭司は、献金を入れる様子を観察し、その金額を公表していたそうです。これは元々、会計上不正がないようにするためのものであったようですが(王下12:9ff)、いつしか金持ちの自己啓示の機会として用いられるようになっていきました。

 多くの献金が集められる一方、金持ちはいくら献金を払ったかを競い合うようになっていたのです(マタ6:2参照)。一方、少ない捧げ物をするものは、公の場で祭司に嘲笑されることもあったことが古代の文献に記録されています。このような状況が日常的に行われていたのでしょう。

 イエス様は、祭司のように献金の様子をご覧になっていたのでしょうか。そうではありません。イエス様がご覧になっていたのは、献金を捧げる姿の背後にある、神様への愛と誠実さ、そして信仰でした。

 イエス様のまなざしは、献金の金額には注がれておりません。物語の語り手は、献金額の細部にまで触れていますが、イエス様は決してそれについて語っておられないことに注意したいともいます。イエス様の関心は、44節で語られる通り、「有り余る中から入れた」か「乏しい中から持っている物を全て、生活費を全部入れた」かのみです。裕福な額であっても、乏しい額であっても、イエス様には関係ないのです。

2 招き

 さて、神殿の境内にて行われていた献金の様子をご覧になったイエス様は、弟子たちのみを呼び寄せました。本物語の教えは、弟子たちに特別に与えられたものだったようです。それは同時に、先の教えとは違い、群衆への注意喚起ではないということをも意味します。今から聴く教えは、特に弟子たちが心して聴かなければならない教えなのです。

 イエス様は「よく言っておく」と言って、教えを始めています。「よく言っておく」と訳された言葉は、原文では「アーメン」です。私たちもこれまで幾度となく出会ってきた言葉であり、イエス様が大切な真理を語られるとき(特に弟子たちに対して)、これを強調するために用いられる表現です。イエス様は今回も「アーメン」と高らかに宣言し、それに続く教えをしっかりと聴き、弟子としてのあるべき姿を心に留めよと命じています。

 さらにこの「アーメン」にはもう一つの意味があります。それは「然り」、「そうです」、「その通りです」という強い肯定を意味する言葉です。イエス様はここで、一人のやもめの行為を「アーメン」と肯定し評価されています。

 イエス様が「アーメン」つまり「然り」と言って、肯定されるほどに素晴らしい行為はないでしょう。ですから私たちは、ただイエス様の御言葉を聴くだけではなく、ますます目を開いて彼女の行動を見なければいけません。

 一言も話さない彼女から何を聞き、何を見なければならないのか。イエス様が肯定された、この隣人の行動にも目を向けるのを忘れないようにしましょう。「耳を開いて聞き」、「目を開いて見る」ことが求められています。では、やもめは何をしたのでしょうか。

3 やもめの献金

 やもめはレプトン銅貨2枚、すなわち一クァドランスを献金箱に入れたと聖書は報告します。この金額は、当時の一日分の給料の64分の1に相当します。今で言えば、数百円、または数十円くらいの価値の献金となります。お金持ちが多額の献金をするなか、やもめは銅貨2枚のみを入れたのです。

 祭司は嘲笑い、周りもそれに同調したことでしょう。しかし、イエス様はそれを見て、「誰よりもたくさん入れた」と評価されるのです。

 イエス様は何をもってこのやもめを評価されたのでしょうか。イエス様は44節にてこう語ります。

「この人は、乏しい中から持っている物すべて、生活費を全て入れた」。

 この言葉には、大切なことが詰まっています。イエスさまが見ておられるのは、どれだけたくさん持っているか、ではありません。やもめの「心」です。どれだけ愛をもって、信頼して神様にお捧げしているか。そこを大切になさるのです。

 貧しいやもめが捧げたのは、確かにほんのわずかな額でした。しかし、彼女は持っているものすべてを神様と隣人のためにささげたのです。

「生活費(βίος:ビオス)」と訳される言葉は、命に直結する所有物、財産、身分などを意味する言葉です。つまり彼女が捧げたのはただのお金ではなく、彼女にとっての命そのものだったのです。

 これはバルティマイが投げ捨てた上着と同じ意味を持ちます。彼女は自分の命を、神様のため、また隣人のために注いだのです。それだけではなく、自分自身の生活、命、未来、そのすべて神様にゆだねていくのです。

 私たちがこの物語から学ぶべき最も大切なこと、それは「献金」という行為の背後にある「心」の問題です。イエス様は、額の大小ではなく、その人がどれだけ神様を愛し、隣人を愛しているか、どれだけ神様を信頼し、自分を委ねることができているかを見ておられました。

 彼女はそれができていたのです。イエス様はそこを評価され、弟子たちにそれを見るようにと教えるのです。この姿に物語の核心があり、福音の本質があるのです。

 イエス様が求めるのは、神様を愛し、その愛に応えていくことです。神様を愛するとは、私たちの生き方そのものを神様への応答として用いることです。献金は、たしかに神様を愛することの一つのかたちです。

 でも、それがすべてではありません。私たちはそれぞれ、神様から与えられている賜物を持っています。時間、力、知識、友情や愛情、祈り、言葉――それらすべてを神様に返していくことが、愛の表現となるのです。

 だからこそ、私たちはこのやもめの姿を心に刻む必要があります。彼女は何も語りませんでした。でも、その行動が、何よりも雄弁に神様への信頼と愛を語っていました。

 皆さん一人ひとりも、それぞれの方法で神様を愛することができます。勉強に励むことも、誰かを思って祈ることも、家庭や友人との関係を大切にすることも、すべて神様への応答であり、献げ物です。大切なのは、「神様の愛を知った者としてどう生きるか」ということです。

 私たちもまた、彼女のように、神様が与えてくださった賜物を持って、その愛に全身全霊で応えていくのです。

 今日の物語を心にとめつつ、やもめのように静かに、でも確かに神を愛し、隣人を愛する歩みを、私たちもまた始めてまいりましょう。