読む礼拝


2025年7月13日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書13章28-32節 
説教:「いちじくの木の教え」 大石啓介


はじめに

 13章もいよいよ終わりに近づいています。

 イエス様による終末についての教えは、先週、クライマックスを迎えました。そこでイエス様は、終末とは決して絶望のときではなく、「人の子が来られる希望のとき」であることを明らかにしてくださいました。

 私たちは今、その大いなる喜びの余韻の中で、残された二つの教えに耳を傾けようとしています。それらの教えは、これまで語られてきた内容を補完し、さらに深め、私たちの心により確かに刻みつけるように語りかけてくるのです。
 
 本日共に聴きました教えにおいて、イエス様はここで、「いちじくの木から、このたとえを学びなさい」と言われます。

「いちじくの木のたとえ」と聞くと、11章20節以下に記された、二日目の朝の出来事を思い出す方も多いのではないでしょうか。

 イエス様がその二日目の終わりにも、あえて「いちじくの木」を例に取り、本日の教えを語られたのは、偶然ではないと思われます。

 四人の弟子たちが「枯れたいちじくの木の教訓」を思い起こすことを見越して、語っておられたと考えることができます。

 11章の「枯れたいちじくの木の教訓」では、主の審きの厳しさが示されつつ、神に心から信頼して祈り、主の来臨に備えるよう教えられていました。

 そう振り返ってみると、13章以降に語られる終末の教えの中にも、この「枯れたいちじくの教訓」が生かされていることがわかります。イエス様は、たとえ終末の徴(しるし)が現れても、惑わされず、主を信じて祈り、常に備えていなさいと教えておられるからです。

 13章の教えは、11章の教えをより具体的に展開し、「今、何をすべきか」を明確に示しています。主が来られるときに備えができておらず、枯れてしまったいちじくのようにならないように──イエス様は、あらかじめ大切なことを、繰り返し丁寧に教えておられたのです。

 そして本日の箇所も、さらに続く箇所も、いずれも「備え」に関する教えが続いていきます。

 イエス様が、何度も繰り返すように「備え」を語られるのは、終末の時に訪れる苦難の厳しさを、よくご存じだからではないでしょうか。

 語り尽くせないほどの苦難を前にして、イエス様が繰り返し準備を促されるのは、それほどまでに弟子たち、そして私たち一人ひとりを深く憐れんでおられることの証しにほかなりません。

 たとえば、震災を経験した人は、日頃から防災グッズの点検を欠かしませんし、家族や友人にも、同じように備えるよう呼びかけることでしょう。食料、水、薬、充電器、携帯用トイレなど、さまざまなものを前もって準備しておきます。

 私たち人間の知識による備えですらそうであるならば、ましてや神の子であるイエス様が語られる「備え」は、はるかに的確で、万全なものであるに違いありません。

 イエス様が多角的に語られる「備え」への教えは、やがて必ず訪れる終末の苦難を、信仰によって耐え抜くための、私たちにとって本当に必要な指針なのです。そのことを心に留めながら、本日もともに、イエス様の言葉に耳を傾けてまいりましょう。

1. いちじくの木のたとえ

 さて、イエス様はまず、「いちじくの木から、このたとえを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が出てくると、夏の近いことが分かる」と語られました。

「夏が近い」という言葉は、日本人の感覚では、春から夏へと移り変わる穏やかな季節の変化を思い起こさせます。しかし、この言葉が語られた当時のパレスチナには、日本のようにはっきりとした四季はありませんでした。

 気候は主に、冬の雨季と夏の乾季という二つの季節に分けられていたようです(冬:10月半ば〜4月半ば、夏:4月半ば〜10月半ば。後の時代には、春と秋の区別もなされるようになったと言われます)。

 そのため、パレスチナの常識では、冬の雨季に種を蒔き、夏の乾季にさまざまな収穫を得るというのが「常識」なのです。また、いちじくの木は、オリーブのような常緑樹とは異なり、冬には葉を落とし、夏に芽吹いて実を結びます。

 そのため、いちじくの木はパレスチナ全土で季節の変化を告げる木として親しまれていました。いちじくの木が新葉と新芽を現す時、冬の終わりを告げる希望のしるしとして人々に周知されていました。

 イエス様は、このユダヤ人が親しくするいちじくの木の特徴を通して、戦争や地震、飢饉といった世の悲惨な出来事によって終末を読み取ろうとするのではなく、人の作為によらず、神様が秩序をもって備えられた季節の移り変わりの中に、終末の徴を見なさいと教えておられます。すなわち、芽吹くいちじくの木を見て、人の子の到来を悟りなさいというのです。

 さらにイエス様が、冬ではなく「夏」、すなわち収穫の季節を終末の比喩として用いられたのは、終末が恐れや絶望の時ではなく、命の実りの季節──「喜びと希望の時」であることを、私たちに伝えるためにほかなりません。

 私たちはこうしたいちじくの木のたとえから終末を捉える必要があるのです。さらに、イエス様は次のように語ります。

「それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」

 イエス様がおっしゃる「これらのこと」とは、5節から25節にかけて語られた、数々の苦難や暗黒の時を指しています。それは、19節に記されているように、「創造の初めから今までになく、今後も決してないほどの苦難」が訪れる時でもあります。

 しかしイエス様は、そうした大いなる苦難を経験する時こそ、絶望を抱くのではなく、希望に溢れていなさいと教えられるのです。

 なぜなら、救い主である「人の子が戸口に近づいている」徴に他ならないからです。苦難の中において、目を閉じ、耳を塞ぐ必要はない。むしろ、耳と目と心を開いて、救い主が近づくのを待ち望め、と主は励ましてくださいます。救い主は、必ずその戸をただいてしてくださることでしょう(黙3:20参照)。

2. この時代は決して滅びない

 30節に参りましょう。

 救い主の到来という希望を伝えた後、続けてイエス様は「よく言っておく」、つまり「アーメン、あなたがたに言う」といいます。

「今から伝えることは特に重要である」ことを前もって伝えつつ、以下の教えを語り始めるのです。

 まずイエス様は、「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」と言います。これは、29節の「これらのこと」、つまり5〜25節にかけて語られたあの苦難のことを指す言葉です。

 イエス様は再び、「大いなる苦難」が必ず起こることを強調されています。しかしそのことがすべて起こらなければ、「この時代は滅びない」とイエス様は断言されます(「滅びない」という言葉は直訳すると、「過ぎ去らない」です)。

「この時代」という言葉は、「いま生きている人が死なないうち」という意味ですが、これは当時の弟子たちだけではなく、読者にも向けられた言葉として響いています。

 未だ滅びを経験していない私たちもそれゆえに、戦争やその噂、災害や飢饉、そして迫害にあったとしても、惑わされてはいけません。それは「終わりではない」ということを今一度心に刻みましょう。

3. 私の言葉は決して滅びない

 続けてイエス様は31節にて、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と語られます。

「アーメン」から始まる一連の教えの中心にあるのが、この御言葉です。ここでイエス様は、単に「終末に天地が滅びる」と宣言しているのではなく、天地の有限性と「私の言葉」の永遠性とを対比しておられるのです(参照:イザヤ40:6–8、51:6、詩編102:25–27)。

 これは、本日ともにお読みしたイザヤ書と響き合う御言葉です。イザヤ書40章では、過ぎゆく世の空しさを歌いつつ、変わることのない神の言葉の確かさを賛美されています。

 またこの御言葉は、22〜23節に語られたイエス様の言葉とも響き合います。22節以下には、偽メシアや偽預言者の言葉に惑わされず、前もって与えられた「私の言葉」を信じなさい、と語られているからです。

「滅びない言葉」とは、まさにイザヤ書が語る「神の言葉」に他なりません。イエス様は、御自身を遣わされた父なる神が、すべてを委ね、権威を与えてくださっていることをよくご存じでした。

 その神の権威に信頼しつつ、イエス様は「私の言葉」として、揺るぎない約束を語っておられるのです。私たちはその言葉にこそ、信頼するよう招かれているのです。

 続く32節では、イエス様がこう語られます。「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」ここでは、「子」として地上を歩まれるイエス様の制限が語られているように見えるかもしれません。

 しかし、この一節だけを取り上げて、「知らないことがあるなら、イエス様は全知の神ではないのではないか」と子の神性を疑ってしまうのであれば、聖書全体の証言を見誤ることになります。

 むしろ私たちは、この事実の中に、神が「子」として生きることを選ばれた意味を読み取らねばなりません。すなわち、神が人として生きられたという驚くべき出来事にこそ、目を向けるべきなのです。

 人となられた神──その神が、私たちと同じ制限の中に身を置いてくださったという事実は、まさに福音の核心です。初代教会は、この出来事に深い感動と賛美をもって応えました。フィリピの信徒への手紙2章6節以下にその信仰が歌われています。

「キリストは、
 神の形でありながら、
 神と等しくあることに固執しようとはせず、
 かえって自分を無にして、
 僕の形をとり、人間と同じ者になられました。」

 イエス様は、神としての権威をお持ちでありながら、自らを制限の中に置き、人として、私たちと共に生きてくださいました。制限のある人生をあえて選ばれたのです。

 その制限の中にあって、なおイエス様が成し遂げようとされたもの──それは、すべての人の救いに他なりません。ご自身の命を犠牲にしてまで果たそうとされたのが、この救いの御業だったのです。このあと私たちは、イエス様のうちにその深い愛のかたちを見ることになるでしょう。

 たとえば、イエス様はご自身の故郷では奇跡を行うことができませんでした(その原因は人々の不信仰でした)。また、「右と左に座る者が誰か」は、ご自身も知らないと語られました。

 ご自身を神やメシアだと主張するのではなく、ただひたすらに父に信頼する「子」として、人としての歩みを貫かれたのです。そしてついには、十字架にかかり、死に、葬られていかれます。

 こうした「子」としての制限は確かに存在しますが、しかし、それらは救いの成就において何の妨げともならなかったことを、私たちは深く知らねばなりません。

 むしろ、これらの制限こそが、救いの道を切り拓くために、神が選ばれた方法だったのです。救いの完成においては、これらの制限は意味を失います。制限を超えて、なお神の「然り」が実現する。

 その中にこそ、神の権威、そしてイエス様の真の権威があるのです。「私の言葉は決して滅びない」という言葉は、真実です。私たちは、この言葉に信頼し、自らを委ねることができるのです。

結び

 いちじくの木が芽吹き、葉をつけるのを見て、人々が夏の訪れを知るように、私たちもまた、日々の中に神の御手のしるしを見出し、やがて来る「人の子」の到来を悟るようにと、イエス様は教えてくださいました。そして同時に、イエス様はこう語られました──「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と。

 自然の営みさえも、時に応じて確かな変化をもたらすのです。ましてや、天地よりも確かで永遠なるイエス様の言葉は、私たちがどれほど揺れ動く世界に生きていようとも、変わることのない「真のしるし」として、私たちを導いてくださいます。

 この御言葉に信頼して歩む者にとって、終末は恐れるべき時ではなく、いのちが芽吹く「夏」のような、喜びと希望の時です。どんな苦難や闇の中にあっても、主の言葉は光となり、進むべき道を照らしてくださいます。

 だからこそ、私たちは日々の生活の中で、イエス様の言葉に耳を傾け、その声を聞き分ける者でありたいと願います。多くの声が飛び交うこの時代にあっても、羊が羊飼いの声を聞き分けるように、私たちの救い主イエス・キリストの声を信じ、従い抜く者でありたいのです。

「あなたは、私の言葉を信じるか。」──この問いに、今日、私たちは信仰をもって応えていきましょう。


2025年7月6日(日) 主日礼拝(合同礼拝)
聖書:マルコによる福音書13章24-27節 
説教:「人の子が来る」 大石啓介

はじめに


「終わりの時が来る前に、どんな徴があるのですか?」──そのような弟子たちの問いかけに、イエス様は「終末の徴」について語り始められました。

 イエス様はまず、戦争やその噂、そして地震や飢饉といった出来事について、「それらは終わりの徴ではない」と、はっきり言われました。それらは確かに大変な出来事です。

 でも、それだけで「終わりが来た」と早合点してはならない、というのです。

 それどころか、イエス様は、キリスト者として生きる私たちに、もっと深いレベルでの試練があることを教えてくださっています。それは信仰のゆえに受ける困難です。

 家族や友人との関係、社会の中での立場──そうしたところで信仰が試される日が来る、と語られます。

 しかし、その生活を必ず聖霊が守り、導いてくださるとの約束してくださいました。だから、あきらめず、忍耐をもって信仰生活を続けなさい、と命じていかれるのです。

 イエス様は続けて、もっと大きな「苦しみ」がやって来ると予告されます。「荒廃をもたらすものが立つ時」、天地創造の時から今までになかったような、そしてこれからも起こらないほどの、激しい苦難があると言われました。この苦しみは、信仰者だけではなく全世界を覆いつくすものとなります。

 イエス様は、「その時が来たらすぐに逃げなさい」と弟子たちに語られました。つまり、「終わり」は、ただ漠然とした精神的なものではなく、現実に起こる出来事として、目に見える形でやって来るのです。

 だからこそ、備えていなければならない、とイエス様は教えておられるのです。そのような時が必ず来ることをイエス様は前もって語り、日々祈りつつ、備えておくようにとおっしゃるのです。

 これらの教えの中で、イエス様が一貫して強調しておられることは、「惑わされないように」ということでした。世の中には、「これが終わりだ」と思わせるようなことがいくつも起こります。そうした時に、偽の救い主や預言者が現れて、人々を混乱させようとするのです。

 でも、そういうときこそ、私たちはイエス様の教えにしっかりと立ち、揺らがずに神様を礼拝する者でありたいと願います。

 こうしてイエス様は、日ごろから教えに従い、祈りつつ備え、もし苦難が来たとしても惑わされず、信仰の道からそれないように気をつけなさいと教えてこられました。

 そしてここから、これまで語られてきた厳しい現実──信仰者にふりかかる試練や、かつてない苦しみ──そのすべての先にある、一筋の光を語られます。24節から始まる場面では、天地さえも揺れ動くような大きな変動が描かれます。

 しかし、その壮大な出来事の中で、イエス様は終わりを告げるのではなく、「希望の始まり」を告げられるのです。

 それは、「人の子」が来られるという約束です。まさにここからが、今までのメッセージの中心です。イエス様が全体を通して伝えようとされた、希望が語られます。私たちは今、その希望の光の中に立っているのです。

1 希望の詩

 イエス様は、続けてこう語られました。

「それらの日には、このような苦難の後/太陽は暗くなり/月は光を放たず/星は天から落ち/天の諸力は揺り動かされる」

 一見すると、これまで語られてきた大いなる苦しみが、ついに全宇宙にまで広がっていく様子が描かれているように思えるかもしれません。まるで世界そのものが終わってしまうかのような、恐ろしく、暗いイメージです。

 しかし、イエス様の本当の意図は、単なる「宇宙の終わり」を告げることにあったのではありません。イエス様は確かに、天地が大きく揺れ動くような激動の時を語られましたが、その詩的な言葉によって伝えたかったのは、悲惨や絶望ではなく――「ついに、主の日が来る」という希望のしるしだったのです。

 なぜそう言えるのでしょうか? それは、この詩がイエス様ご自身のオリジナルではなく、旧約聖書の預言者たちの言葉を引用し、織り合わせて語られているものだからです。

 たとえば、24節に出てくる「苦難(θλῖψις)」という言葉は、イザヤ(8:22)、エレミヤ(10:18)、ミカ(2:12)、ハバクク(3:16)、ゼファニヤ(1:15)、ゼカリヤ(8:10)など、多くの預言者たちが、終末や審判の時を語る中で繰り返し用いてきた言葉です(いずれも七十人訳に基づきます)。

 こうした預言者たちは、それぞれの時代において、迫りくる災いのただ中で、まるで宇宙全体が嘆き悲しむような思いをもって、自らの苦難を叫び、神の救いを心から祈り求めました。

 その祈りの中で生まれたのが、こうした詩のような言葉だったのです。ですから、イエス様がここで語られた詩もまた、「悲しみの絶頂で叫ばれる救いへの希望の詩」として受け取ることができるのです。

 続く「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ちる」という表現もまた、イエス様の新しい言葉ではありません。旧約聖書、特にイザヤ書の中で、すでに語られていた預言の言葉なのです。

 たとえばイザヤ書13章では、バビロンの滅亡を預言する中で、「太陽が昇っても暗く、月もその光を放たない」(13:10)とあります。これは「主の日」、すなわち神のさばきの日に、悪しき都バビロンが罰せられるという預言でした(13:9–11)。

 また34章では、「天の全軍は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その全軍は枯れ落ちる」(34:4)と語られています。これはエドムに対する審きの預言です。

 こうした宇宙的な表現、すなわち太陽や月、星に異変が起こるという描写は、イザヤだけに限られません。エゼキエル書(32:7–8)、ヨエル書(2:10、2:31、3:15)、アモス書(8:9)など、他の預言者たちも、都市や王国に対する審き語る際に、このような壮大な自然の変動を伴うイメージを用いています。

 つまり、これらの表現は単なる自然現象の予告ではなく、「神がご自身の力をもって歴史に介入される時」、すなわち「人の子」の到来、終末の時を予兆する象徴として語られてきたものなのです。

 また、25節に出てくる「天の諸力は揺り動かされる」という表現は、そのままの言葉では旧約聖書には出てきませんが、神がご自身を現されるときに天地が揺れ動く場面は、旧約の随所に見られます。

 たとえば、神様がご自身を現されたとき、大地が揺れ動いた――そんな場面が、士師記(5:5)や詩編(18:7、114:7)、アモス(9:5)、ミカ(1:4)、ハバクク(3:6)、ナホム(1:5)、ヨブ(9:6)などに記されています。

 いずれも、神様が近づかれる時の、天地の震えるような荘厳な光景です。ですからこの箇所もまた、まさに神の臨在に全宇宙が震える――そうした「終末の希望」が、嘆きの詩のように描かれているといえるでしょう。

 つまりイエス様は、24節と25節において、旧約の預言者たちの言葉を語り直しながら、終末の希望を語り、「今の時代」を生きる弟子たちに、「目を覚ましていなさい」「備えなさい」と呼びかけておられるのです。

 旧約聖書に則って語られたこの御言葉は、確かに、前回までの教えよりもさらに深刻な終末の徴でした。しかし、イエス様が繰り返し終末を語り、その深刻さを段階的に教えていかれるのは、弟子たちを恐れさせ、言うことを聞かせるためではありません。

 むしろ、終わりを「待ちこがれる終わり、熱望される目的地」(シルヴァノ・ファウスティ)として語り、その希望へと導くためだったのです。そしてついに、教えはクライマックスを迎えます。

2 人の子が来る

 イエス様は26節で、こう語られます。

「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」

「その時」とは、24節で語られた「苦難の後」のことです。世の中が闇に包まれるような出来事のあとに、「人の子」が来られる、とイエス様は語ります。

「人の子」とは、ダニエル書に登場する終末の救い主を表す言葉であり、イエス様がご自身を指して用いられた表現です。

 その名には、「メシア」、つまり「キリスト(救い主)」としての意味が込められています。イエス様はこう言われているのです。「神の子であり、救い主である私が来る」と。

  しかも、イエス様はただ来られるのではありません。「大いなる力」を帯びて来られる、と言われます。それは単なる奇跡の力というよりも、「支配する力」、つまり王としての主権のことです。

 その支配は、権力や恐怖によるものではなく、神の国の秩序と愛を実現する、正義と平和に満ちた支配です。

 さらにイエス様は、「栄光」を帯びて来られるとあります。この「栄光」は、まばゆい光のようなものであり、旧約聖書で語られてきた「神の臨在の輝き」、すなわち神ご自身がそこにおられるというしるしなのです。

 私たちの世界を照らしてきた太陽も、月も、星も、やがてその光を失います。どれほどまぶしく見えたとしても、それは限りある光、過ぎゆく輝きです。

 しかし、イエス様が帯びて来られる「栄光」は決して消えることのない、永遠の光です。すべての光が消えたあとに、ただ一つの真の光として、私たちはその栄光を見ることになるのです。

 その栄光を帯びた「人の子」は、「雲に乗って来る」とあります。この「雲」も、旧約聖書においては、神の臨在を象徴するものでした。

 出エジプトの時、神様は雲の柱となってイスラエルの民を導かれました(出13:21)。また、ソロモンが神殿を献げたときにも、神の栄光は雲の中に満ちあふれました(王上8:10-13)。

 このように、「雲に乗って来る」とは、まさに神がご自身を現される、神顕現の出来事であるといえるのです。
 
 つまり、26節に語られる一つひとつの言葉──「人の子」「大いなる力」「栄光」「雲に乗って」──そのすべてが、イエス様こそが神であり、神ご自身が終わりの日に来てくださるのだということを、力強く語っているのです。

 そして、その神であるイエス様は、ただ来られるのではなく、私たちを集めるために来てくださることが、27節で語られていきます。驚くべきことに、「人の子」がこの世を治めるその時、そのお方がまずなさること──それは、弟子たちを招き集めることなのです。

「その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。」

 世界の混乱を静めるよりも先に、ご自身を信じる者たちを呼び寄せ、守り、救ってくださるのです。イエス様は神様の使者である天使をも用いて、これを成し遂げてくださいます。

 しかもその力は、地上だけでなく、天にまで届くと言うのです。今地上において信仰生活を行う者だけではなく、すでに天に召され眠っている者たちの所にも、この力は及ぶのです。

 ここに、私たちは「人の子」、すなわち主イエス・キリストの深い愛を見ることができます。すべての終わりを前にして、主は何よりもまず、ご自分のものを心にかけ、守り、集めようとしてくださる。それが「選ばれた者たち」に与えられている約束であり、ゆるぎない喜びなのです。

3 マラナ・タ 

 この希望を知る使徒パウロは「マラナ・タ(主よ、来てください)」(Ⅰコリ16:22)と叫びました。またヨハネの黙示録は、世の終わりを「花嫁と花婿が出会う時」として描いています(黙示録22:17以下)。

 その日ついに、「来てください」と叫ぶ花嫁──新たなイスラエル、すなわち選ばれた民──のもとに、「しかり、私はすぐに来る」(22:20)と応えてくださる花婿、イエス・キリストが来てくださるのです。

 この希望に生きる者こそ、キリスト者と呼ばれます。この希望に目が開かれ、備えて生きるのがキリスト者です。そのようにして「最後まで耐え忍ぶ者」に対して、主は必ず「人の子」として来てくださり、「地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から呼び集めてくださる」──そのような確かな希望が、今、語られているのです。」

 そしてイエス様はこれから、ご自身の生涯と十字架と復活を通して、終末に起こるすべてのことを「あらかじめ」私たちに示してくださいます。

 十字架の死と復活。それを希望として受け止める私たちであれば、この週末の時も希望として受け止めることができるでしょう。必ずくる終末、しかしそれを「希望」として語るイエス様に従う私たちは、その日を「恐れる」のではなく、「希望」のうちに待ち望むのです。

 主イエス・キリストは、必ず来てくださいます。そして、その時、私たちは主の光の中で、まことの命にあずかるのです。

 もちろんそれは、ただ自堕落に、楽観的に過ごすことではありません。日頃から主の教えを守り、祈り、備えておくことが重要です。

 この後、イエス様はそのことを二つの教えの中で繰り返します。それが、「いちじくの木の教え」と「目を覚ましていなさい」という教えです。この二つの教えをもって、終末の徴の教えは終わりを迎えます。

 教えは本日クライマックスを迎えましたが、この後に語られる御言葉にも備え、次の一週までの歩みを続けたいと思います。