読む礼拝


「あなたがたは、地の塩である」。「あなたがたは、世の光である」。(マタイによる福音書5:13、14)

地の塩


 イエス・キリストは、弟子たちに「あなたがたは地の塩である」と言われました。それは、キリストの言葉を聞く人、キリストに導かれて生きようとする人たちがどれほど貴重で大切かを教えるためでした。

 今でこそ「健康のために取り過ぎを控えましょう」などと悪者扱いされることもある塩ですが、古くから塩は極めて重要なものでした。特に、海から離れた場所や、山あいの町や村では大変貴重で、世界中に「塩の道」と呼ばれる塩を運ぶための道が残っています。

 給料のことをサラリーと呼ぶのも、古い時代のローマで、兵士たちに給料の一部として与えられた「塩」、もしくは塩を買うための給与だったと言われている「サラリウム(salarium)」というラテン語に由来しています。

 今はもうなくなってしまった制度ですが、日本でも、つい最近(1997年4月)まで、塩は勝手に売ったり買ったりすることができませんでした。それは、売る人が値段を勝手につり上げたり、安い外国の塩ばかりになって、いざというときに塩がなかったりということがないようにするためでした。今でも、生活用の塩の供給や緊急時に備えた備蓄のための事業が国によって行われています。

命に関わる塩

 そもそも、生命維持に塩分は無くてならないものです。夏の暑い時期に塩分補給は不可欠ですし、スポーツドリンクなしに激しい運動を続ければ命に関わります。冷蔵庫のない時代、食料の保存には塩はなくてならないものでしたし、塩気のない食事がどれほど「味気ない」ものかは、病院の食事で実感することです。キリストは、キリストの弟子たちは、この世界にとってそれほど大切なものだと言われるのです。

目に見えない塩

 けれどもそれは同時に、弟子たちの目に見えない働きを表してもいます。塩はそのまま食べたりはしません。溶け、混じり、染み入ってこそ役に立ちます。キリストの弟子であることは、看板を出したり、たすきを掛けたり、大きな声で吹聴するようなことではないと言うのです。それは私たちの「隠し味」であって、わかる人にはわかる、わかるときにはわかる、そんな、普段は目には見えないものなのだと言われるのです。

塩気を失った塩

 けれども、それは「見えない」のであって「ない」のではありません。塩は見えなくなってしまいますが、確かに必要な分だけ入っていなければなりません。そうでなければたちまち食べ物は腐り出し、美味しくないと突き返されてしまうでしょう。

 弟子が「塩」としての働きを止めてしまうなら、弟子が弟子であるという意味はありません。弟子たちは、自分がキリストの弟子であることが他の人には分からない時でも、どこまでも弟子であることの本分を全うしなければならないのです。

世の光

 けれども、見えない弟子たちの存在は見えないままには終わりません。キリストは「山の上にある町は隠れることができない」と言われます。山の上にある町は、誰かに見せようとして山の上にあるわけではありません。敵の襲来から身を守るため、低地に蔓延する疫病を防ぐため、不便で水の供給もままならない山の上にやむを得ず人々は住むのです。

山の上にある町

 けれども、それは結果的に、澄んだ空気と、美しい眺望とをもたらし、人々の目印として、助けと救いの希望としての役目を果たすことになります。あそこには人がいる。守りがあり、水かあり、食べ物がある、あそこに行けば助かる、救われる。山の上の町は旅する人々の灯台として、港としての役目を果たすのです。

 山の上にある町の人々は、何か特別なことをしているわけではありません。他の町の人々と同じように働き、生活しているだけです。けれども、その置かれた場所のゆえに、その存在そのものが道に迷う人々、疲れ、飢え渇いた人々にとって、目印となり希望となり導きとなるのです。

なぜ弟子たちが

 弟子たちが塩であり光であるのは、何かしら良いところ、立派なところがあるからではありません。彼ら自身には、この世を腐敗から防ぐ力もなければ、この世を照らす力もありません。「自分たちの中で誰が一番偉いか」を論じ、ついに「イエスを捨てて逃げ去」ることになる弟子たちが、どうして塩であり光であることができるでしょうか。

後に従い、みもとに近寄り

 彼らが塩であり光であるのは、ただキリストの「みもとに近寄り」キリストの言葉を聞いているからにほかなりません。他の人々が慌ただしく働いているとき、世の人々が遊び楽しんでいるとき、彼らはしばし自分の働きを止め、自分の楽しみを中断して、神の言葉に耳を傾け、神に祈り、神を讃美します。その有り様こそが「光」であり「塩」なのです。

弟子たちがあかしするもの

 なぜならその時にこそ、私たちは、働き続けることが人生のすべてではないこと、遊び楽しむことが人の喜びの全部ではないこと、この世の物差しにおける成功と失敗とが私たちの人生の意味を最終的に決定するものではないことをあかししているからです。この世の中にありつつ、この世を越えたものによって支えられ生きているという一点において、私たちはこの世を腐敗から防ぐ塩、この世を照らし導く光なのです。

キリストの言葉を聞くこと

 人々がその行いを見て天の父をあがめる「よい行い」とは、何にもまさって、私たちが神の言葉を聞くということにほかなりません。そして、神様がキリストを通して私たちにお語りくださる言葉が、何よりもまず「さいわいである」との祝福の言葉であるゆえに、「よい行い」とは、立派な道徳的な行為である前に、私たちがどのようなときにも、祝福に満たされ、喜びと感謝にあふれて生きることができるという、私たちの魅力的な存在そのものを意味しているのです。キリストの祝福にふさわしくあり続けるということ、それが「よい行い」なのです。(2022年8月14日の日曜学校との合同礼拝のために)


「『腰に帯を締め、あかりをともしていなさい』」。(ルカによる福音書12:35)

「父よ」

 「祈ることを教えてください」と願った弟子たちに、キリストは「主の祈り」を教えて下さいました。それは何よりもまず神を「父よ」と呼ぶことへの招きでした。神様は単なる世界の創造者や歴史の審判者なのではない。私たちが祈るのは、私たち以上に私たちのことを知っておられ、私たちが願う以上に私たちにとって良いものを贈ろうとしておられる天の父であることをキリストは教えられたのです。

 だからこそ、この祈りについての教えは、「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか」との「父であるものの譬え」に繋がり、「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(11:11-13)との約束によって結ばれるのです。

聖霊

 キリストが、天の父からの究極の良い贈り物としてあげられたのが「聖霊」でした。神様がお送り下さる数限りない良いものの中で、聖霊こそが最大にして最良、最後にして最善のものであるというのです。

 使徒パウロは「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない」(Ⅰコリント12:3)と教え、「わたしが……このように恵みを受けたのは、……異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである」(ローマ15:16)と証ししました。聖霊とは、私たちにキリストを神の子と信じる信仰を与え、さらにその信仰にふさわしい、きよい生活を生み出すものなのです。

 それは、キリストを信じる信仰とその信仰に基づく生活こそが、神様が私たちに与えようとしておられる最終的な贈り物であるということです。それは、私たちがこの地上において、すでに神の国のいのちを生き始め、天国の生活を始めるということです。そしてそれは、私たちが「神を父として生きる」こと以外ではありません。

思いわずらうな

 キリストは、「何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな」と教えられます。「命は食物にまさり、からだは着物にまさっている」とは、私たちに命を与え、体をお与え下さったお方が、命のための食物、からだのための着物をお与えにならないはずがあるだろうかということです。

 そして言われます。「野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」(12:22-28)。

御国

 神の国の教えはそのまま祈りについての教えと重なります。「あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。」(12:29-32)

神の国からの逆算

 それは、すでに神の国に生きている自分の姿から逆算して、この地上の生涯を生きるようにとの教えにほかなりません。神様の前に立っている自分、神様から地上の生涯の報告を求められている自分、信頼と委託とに応えることができず、ただ叱責と処罰を待つだけの自分、それにも関わらず、キリストの十字架のゆえに、ゆるされ、救われ、それどころか、祝福と「よくやった」とのお褒めの言葉を頂いている自分の驚くべき姿から逆算するとき、私たちは、この愛と憐れみとに限りなく富んでおられるお方のために生きる以外にはないことに気がつきます。

主人の帰りを待つ

 そして私たちがこの主のために生きようとするとき、そこには同時に二つのことが示されます。

 一つは、今主人は目の見える所にはおられないということです。その姿は見えずその声は聞こえません。懸命に働いても主人の褒め言葉はなく、問題が起こっても直接主人の指示を仰ぐことはできません。気が抜けたり、仕事の質が下がったりしても当然の情況です。そしてもう一つは、にもかかわらず私たちは必ず主人と相まみえるということです。主人は必ず帰ってきます。そして、不在のあいだの仕事ぶりはきちんと評価され、怠慢は叱責されます。

 主人の姿は見えなくとも、いなくなったわけではありません。姿の見えない主人のために、主人がそこにいるかのように働くこと、それがわたしたちの信仰だとキリストは言われるのです。

結婚式の帰りに

 主人の不在は、旅行や商用のためではありません。それは、当時の人々が知っている最も大きな喜びの出来事である結婚式のためです。当時の結婚式は、終了時間は定まっていません。主人の帰りがいつになるか僕たちには分からないのです。けれどもそれは、主人の帰りがどれほど遅くなろうと、それは何か問題が起こったり、事件や事故に巻き込まれたためではないということです。僕たちは心配したり恐れたりする必要はないのです。主人の帰りが遅いのは、尽きることのない喜びのゆえであること、笑顔に溢れて帰ってくる主人を迎えることが確実であることが僕たちには前もって分かっているのです。

再臨

 この、喜びに満ちた上機嫌の主人だからこそ、「帯をしめて僕たちを食卓に着かせ、進み寄って給仕(奉仕)をしてくれる」という、常識的に考えたら決してありえない出来事が起こるのです。

 あなたがたを待っているのは祝福であり喜びであって、叱責や処罰ではない、天の父はその祝福と喜びをあなたがたひとりひとりと分かち合おうとされているとキリストは言われるのです。

 それは、この主人の帰還は、単なる日常の回復ではないと言うことでもあります。主人と僕との関係、仕えられる者と仕える者との関係がひっくり返るのです。それは、キリストの「あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである」との教えと、その根拠である「食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている」とのキリストのへりくだりと、「わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう」(22:26-30)との約束が実現するということです。それは神の国の到来そのものなのです。

腰に帯を締め、あかりをともしていなさい

 このキリストの再臨、神の国の到来を待つ姿こそが信仰です。キリストの姿が見えないことを、キリストがおられないかのように失望したり嘆いたりするのではなく、また無気力になったり、さらには自堕落になったりするのでもなく、いつキリストの前に立ってもよいように備えて生きること、神の国がすでに来ているかのように生きることが信仰をもって生きるということであるとキリストは言われるのです。

神の国から生きる

 それは、私たちがこの世から生きるのではなく、神の国から生きるということです。この世の生き方、この世の考え、この世の価値を土台とし基準とし目標として生きるのではなく、神の国の生き方、神の国の考え、神の国の価値を土台とし基準とし目標として生きることをキリストは教えられるのです。

 今この地上で悩み、疑い、苦しみ、迷って、ふらふら、あくせく、イライラ生きている自分の視点ではなく、すでに救われ、すでに赦され、すでに永遠のいのちと祝福とに生きている神の国の自分の視点から生きることをキリストは教えて下さっているのです。

 そして、それこそが、わたしたちが自分に託された賜物と使命、わたしたちの人生そのものを、生き生きと、喜ばしく、感謝と希望を持って生きるための道なのです。(2022年8月7日の礼拝のために)