2024年11月3日(日) 主日礼拝(合同礼拝)
聖書:マルコによる福音書9章33-37節
説教:「いちばん偉い者]
1 いちばん偉い者
イエス様と弟子達は、ガリラヤを通って、ある目的地に向かう途中、カファルナウムのとある家に到着しました。カファルナウムは、旅の前半に一行がよく訪れた場所です。カファルナウムにはガリラヤ伝道の拠点となる「家」がありました(それは一番弟子ペトロの家だと考えられています)。9章33節でイエス様が入られたカファルナウムの家も、同じ場所だったと考えられています。
フィリポ・カイサリヤからガリラヤを通り、とある目的地へ向かう旅は、とても時間がかかる旅でしたので、一行はカファルナウムの家でつかの間の休息をとる予定だったのでしょう。しかし、イエス様は、家に入るとすぐ弟子たちに「道で何を論じ合っていたのか」とお尋ねになるのでした。
弟子たちが話し合っていたのは、「誰がいちばん偉いか」という事でした。34節に「言い合っていた」とありますから、「12人の使徒の内誰かだ」、「その中でも一番初めに弟子になった人が一番だ」、「いや、年功序列で年齢の高い人が一番だ」、「いや、一番イエス様の傍にいたあの人が一番だ」「いや、イエス様と一緒に高い山に登った三人のうちの誰かが一番だ」と、様々な意見が飛び交い、白熱した議論が行われたようです(マルコ2:6,8,8:16,17参照)。
弟子たちは真剣に話し合っていたのですが、しかしその内容については、素直にイエス様に報告することができませんでした。代わりに弟子たちはイエス様の質問に、沈黙をもって答えたのです。
なぜ、弟子たちは黙っていたのでしょうか。真剣に話し合う内容としてはあまりにも幼稚で恥ずかしい内容だと考えたからでしょうか。どうやらそうではないようです。弟子たちは、「死と復活の福音」を聴いてからというもの、イエス様の御言葉や質問に対し、答えることができずにいました。
なぜなら、新しい福音を恐れ怖がっていたからです。32節には、御言葉に対して「怖くて尋ねられなかった」弟子たちの姿が描かれています。イエス様を救い主「メシア」だと告白した弟子たちは、今やイエス様の言葉を怖がっています。イエス様の御言葉を前に、弟子たちの耳と目は固く閉ざされてしまったかのように動きません。
弟子たちはイエス様を見失っていたのでした。それはまるで、もの言わせず、耳の聴こえない霊に取りつかれたかのような状態であったということができるかもしれません。イエス様を見よとしない彼らの目と耳は、自分たちが想像する強い救い主メシアと言う理想に向けられていました。
しかし、沈黙をもって答えようとする弟子たちの思いは適いません。イエス様はご自分の霊の力で、弟子たちが何を話していたのかを知り、彼らの耳と目と口を開こうと、イエス様は座ります。イエス様は疲れたからでもなく、落ち着いてくつろいだ話をなさるために座ったのではありません。
ユダヤでは、説教のような、権威をもって教える場合には、座って教えるのが一般的でした。イエス様はそれに従い、教える姿勢を取ったのです。学校で教師が教団に立つのと同じであります。そして、弟子たちの中心核となる12人の使徒たちを集め、次のように教え始めるのでした。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」
イエス様は、これが一番になる方法だと教えます。ここで注目したいのは、イエス様は「一番になりたい」と言う思いを、否定していないということです。イエス様はいちばんになる方法を教えておられるのです。
しかし、その方法は誰もが予想しなかった全く新しい方法でした。この世の常識では、「すべての人の先になり、すべての人を仕えさせるもの」が一番です。例えば王様がその筆頭に挙げられるでしょう。しかしイエス様はその全く逆の方法を教えています。「すべての人の後になり、すべての人に仕える」、それこそが一番になりたい者が目指すべき目標であるというのです。
2 子を受け入れる
御言葉を聴いても未だ黙している弟子たちに、イエス様は続いて例えをもって説明を行います。イエス様は家にいた一人の子どもを連れて来て、十二人の真ん中に立たせこういうのです。
「私の名においてこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」
この御言葉の意味について、いくつかに分けてみていきましょう。
まずは、「子どもを受け入れる者」との御言葉です。この御言葉は35節の命令を補足する御言葉として語られています。つまりイエス様は、「すべての人の後になり、すべての人に仕える」と言うのは、「子どもを受け入れる者」になるということであると、説明なさるのです。
当時は、「父母を敬え」と言う律法を筆頭に、子どもには親に従う生き方が課せられていました。子どもが大切にされていなかったわけではありませんが、「子どもの人権」については考えられておらず、子どもはすべての人の後にいるものであり、すべての人に仕えるような存在であると認識されていたようです。
当時の常識から考えれば、子どもは、「いちばん偉い者」となるために受け入れる存在としては、一番遠い存在です。しかし、イエス様はその子どもを受け入れてこそ、「一番偉い者」であるのだと語るのです。
またその教えは、当時の律法の教えに即して次のように考えることができます。つまり、子がその純粋さをもって、律法の命令に従い、親に従い、親に仕え、親を愛し、親を信頼してその命令に従うように、あなた方も子どものようにすべての人の後になり、すべての人に仕えよという意味です。(もちろんすべてにおいてこどものようになれ、と命じているのではありません(Ⅰコリ14:20))。
3 神の子であり人の子であるイエスを受け入れる
次に、「私の名において子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである」という御言葉に注目しましょう。ここでは「イエス様を受け入れる事」が強調されています。イエス様は、「私の名において」行うことは「私を受け入れる」ことになるのだと語ります。
名は体を表すという言葉の通り、名はその人のすべてを現わしています。ですから、イエス様の名において物事を行う時は、イエス様のすべてに信頼し、イエス様の御心に沿って行動することを意味します。
そのため、イエス名において、イエス様の教えを従順に守る人は、イエス様を受け入れていることにほかなりません。子どもを受け入れることは、この世の基準を受け入れるのではなく、イエス様が新たに設置した基準を受け入れることであると教えられるのです。
更にこの言葉にはより深い意味が含まれています。なぜなら、この命令を、神の子であり人の子であるイエスキリストがおっしゃるからです。イエス様は、神の独り子であり、父なる神様に仕える「神の子」であります。そのような神の子が地上に下り、イエス様は生涯を、人に仕える「人の子」として歩まれています。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙にて、主イエスの生涯を次のように賛美しています。
「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず/かえって自分を無にして/僕と形を取り/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ/へりくだった、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。」(フィリ2:6-8)
そのイエス様が「子どもを受け入れよ」と命じる場合、一方ではこの世で子どもを受け入れる信仰者のあり方を教えられ、もう一方では、神の子を受け入れる事へとわたしたちを促します。「子どもを受け入れる」と言うもう一つの大切な要素はここにあります。それは、イエス・キリストを神の子として受け入れるということです。
神の子イエス・キリストは、人々の救いのために働く神様の御心の実現に向けて、歩みをすすめています。すでに「死と復活の福音」は語られ、その道の先に十字架と言う苦難が待ち構えようとも、子としての役割を全うなさり、父のみこころに従うことが明かされました。
イエス様は、父なる神さまの御計画と命令に従い、父を愛し、父を信頼し、父の命令に従順に仕えていくのです。弟子たちはそのような「神の子」イエス・キリストを受け入れるように促されます。
それゆえに、37節の後半の御言葉へとつながっていくのです。つまり、イエス様を受け入れることは、イエス様をお遣わしになった父なる神様を受け入れることにほかなりません。神様の救いの計画は、御子によって実現されます。神の子を受け入れることは、神の子のすべてを受け入れることは、その父である神のみこころをも受け入れるのです。
それは端的に「死と復活の福音」を受け入れる事にほかなりません。それは、神様の御計画に従って、十字架の死に向かって歩むイエス様を救い主メシアである受け入れることです。イエス様の歩みが、この世では愚かなことと言われようと、死をもって人々を救う救い主、神の御心に従順である神の子、人に仕える人の子としてイエス様を受け入れることが、「いちばん偉い者」なのです。
イエス様を受け入れる時、わたしたちは「いちばん偉い者」になれると約束されます。イエス様はそのことを、子どもを通してお示しになりました。日曜学校との合同礼拝を守るこの時、教会と言う「家」に集まる私たちを呼び、子どもたちを真ん中に置き、受け入れることを命じたイエス様のみこころに心を留め、この一週間を歩みたいと思います。そして、イエス様が示してくださった「いちばん」を得るために、日々励みたいと思います。