読む礼拝


「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(ヨハネによる福音書15:1)

わたしは~である

 命のパン、世の光、羊の門、よい羊飼い、よみがえり、道、真理、命。様々な言葉でご自身のことを示されたイエス・キリストが、最後にご自身をなぞらえたのは、ぶどうの木でした。



 イエス・キリストは、ラザロのよみがえりを信じることができないマルタに、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」(ヨハネ11:25)と力強く宣言されました。

 また、最後の晩餐でトマスから「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」と問われたとき、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(14:6)とお答えになりました。

「わたしは命である」それは、ある意味で「ナザレのイエスとは誰か」という問いに対する最終的、決定的な答えだと言えるでしょう。



 けれども、イエス様はご自身を「命」であると言われた後、一連の「わたしは~である」の最後の言葉として、「わたしはまことのぶどうの木である」と言われるのです。

 イエス様は、「命」と言っただけでは足りないかのように、そして私たちが自分勝手に「命」について考え始めたりしないように、「命」の中身について教えてくださるのです。そして、そのときの「命」とは、まずなにより「木」の命であると言われるのです。

 地から水と養分を吸い上げ、天から光を受けて命を生み出し、食物として自分自身を与えて他の命を生かす、それが聖書の語る「命」なのです。それは他の命と共なる命、他の命を生かす命、与える命なのです。

ぶどうの木

 そしてイエス様は、ご自身を他の植物ではなくぶどうになぞらえられます。建築資材として地中海世界にその名を知られたレバノン杉ではなく、繁栄の象徴であるナツメヤシでもなく、見た目がすぐれているとは決して言えず、そのまま食べても酸っぱいだけでけっして美味しいとは言えないぶどうの木に、イエス様はご自身をなぞらえられたのです。

 イスラエルにおいて、ぶどうは単なる食用の果実ではありません。それは、井戸を掘っても水が出ない土地で、地中のわずかな水分を吸い上げてくれる天然の井戸なのです。

 発酵してできるアルコール分は、ぶどうの果汁を腐らせないための防腐剤の役割を果たします。それは酔うためのものである以上に、いのちを支えるためのものなのです。イエス様は、ご自身をいのちと喜びの源であると言われ、私たちはそのいのちと喜びを分かち合う者たちであると言われるのです。

ぶどうの木としての神の民

 旧約聖書では、ぶどうの木はイスラエルの民の象徴として用いられてきました。たとえば詩篇80篇には「あなたは、ぶどうの木をエジプトから携え出し、もろもろの国民を追い出して、これを植えられました。あなたはこれがために地を開かれたので、深く根ざして、国にはびこりました。」(詩篇80:8-9)とあります。

 けれども、同時に、預言者イザヤは「わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。」(イザヤ5:1-2)との神様の嘆きを記します。

 神様によって選ばれ、救われ、救いに対する感謝の実(み)を期待されていた神の民は、神を愛し人を愛すること、「みなしご、やもめ、寄留の他国人」を守り配慮するという神様の御旨から離れてしまったのです。

 預言者イザヤが「万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。」(5:7)と告げる通りです。

まことのぶどうの木

 神の民イスラエルは、ついに神様のみこころにかなう良いぶどうの木となることができませんでした。それゆえ神様は、「まことのぶどうの木」としてイエス・キリストをお送りくださったのです。

 イエス様が「わたしはまことのぶどうの木」と言われるとき、それは、「真実な」「偽りのない」「本物の」という意味です。それは、「実を結ぶ」ぶどうの木、神様に喜ばれ、人を喜ばせ、自ら喜びに溢れる良き実を実らせるぶとうの木なのです。

 イエス・キリストは、神様に愛された神の子として、「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」との祈りのうちに、神様の御心にかなう歩みを、十字架の死にいたるまで歩み通されました。「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」(ピリピ2:9)とあるように、神様は「まことのぶどうの木」との称号をイエス様にお与えになるのです。

あなたがたはその枝である

 そしてイエス様は、この「まことのぶどうの木」との称号を、「あなたがたはその枝である」との宣言によって、私たちにもお与えになります。キリストにつながり、キリストのうちに留まり続ける限り、わたしたちもまた「まことのぶどうの木」として、神様に喜ばれる良い実を結ぶことができると言われるのです。

 イエス様と私たちとの関係は、羊飼いとその羊以上の関係、一つに結び合わされ、切っても切れない、同じ命を分かち合い、同じ命が通い合う関係なのです。

わたしの父は農夫である

 けれども、その命は外側からは隠されています。イエス様がここで念頭においておられるワイン用のぶどうは、食用のぶどうのように見た目が良いわけではなく、食べて美味しいわけでもありません。それは、摘まれ、砕かれ、絞られ、醸(かも)され、熟成されて始めてわかる命なのです。

 この命のために、父なる神様はわたしたちを手入れされます。それはその意味が分からない者には、虐待とさえ見えるほどものです。せっかく伸び始めた若枝を数本残してあとは切り取り、たくさん付いた房をわずかばかり残して摘み取ります。けれどもそれは、地中からの養分と太陽の恵みを集中し、凝縮するためにほかなりません。

もっと豊かに実らせるために

 神様は、私たちが、あれもしたい、これもしたい、それもできる、どれも欲しいと、際限なく欲望を膨らませる中、本当に私たちにとって意味のあるもの、本当の命につながるものを残してくださるのです。それは私たちにとって時に痛みであり苦しみです。どうして夢がかなわないのか、なぜ希望が砕かれるのかと私たちは困惑します。けれどもその時、神様は私たちの永遠の命のための手入れをしておられるのです。

手入れしてこれをきれいになさる

 それゆえに、イエス様は「わたしにつながっていなさい」「わたしの中にいなさい」と命じられます。けれども、それは私たちがキリストとの何か神秘的な合一を体験しなければならないということではありません。

 イエス様は「わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい」と言われます。イエス様とつながるとは、キリストの言葉にとどまることなのです。キリストの言葉を私たちの喜びとすること、いのちをすること、導きとすること、そしてその応答としてイエス・キリストの御名によって父なる神様に求めること、祈ることなのです。み言葉を聞くことと祈ること、それがイエス様につながるということなのです。

実を豊かに結ぶようになる

 そのとき、私たちは「実を豊かに結ぶようになる」とイエス様は言われます。けれども、それは、いわゆる人生の成功者となることでも、自分が望み願っているような人生を歩むことでもありません。神様は、私たちが自分自身のものだと思っていた、けれどもそのままでは変質し、腐敗し、失われてしまう私たちの人生を、ご自身の御手に摘み取り、私たちの古い人の形が無くなるまでに砕き、それを、人に命を与え、潤し、喜ばせ、福音の香りを放つ「よいぶどう酒」へと造りかえてくださるのです。この恵み深い父なる神様の御手に私たちの全てをゆだね、その愛に満ちたお取り扱いに信頼する者たちでありたいのです。 (2021年5月9日の礼拝のために)


「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」(ヨハネによる福音書10:11)

わたしは~である

 ヨハネによる福音書には、イエス・キリストが自分自身について語った印象的な言葉がいくつかあります。たとえば

「わたしは命のパンである」(6:35、51)。
「わたしは世の光である」(8:12、9:5)。
「わたしは羊の門である」(10:7、9)。
「わたしはよい羊飼いである」(10:11、14)。
「わたしはよみがえりであり、命である」(11:25)。
「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)。
「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1、5)。

 それぞれに心に残る言葉ですが、光、よみがえり、命、道、真理という哲学的、宗教的な言葉ばかりではなく、パン、門、羊飼い、ぶどうの木といった具体的、日常的な言葉によって自分自身を表現しているところに、イエス様がどのようなお方であるのかが透けて見えます。キリストは、最も身近な私たちの日々の生活から、永遠、無限といった普段は考えもしない、けれどもある意味では一番大切な事柄に至るまで、私たちと関わってくださる方であるというのです。

羊飼い

 けれどもそのとき、イエス様はご自身のことを「羊飼いである」と言われます。イエス様は、わたしは「教師である」、わたしは「指導者」である、とは言われませんでした。もちろんイエス・キリストは、すべての教師にまさる教師であり、いかなる指導者よりもすぐれた指導者であられます。けれどもイエス様はご自分をそのようには呼ばれません、それはイエス様が教師であり指導者であるのは、どこまでも「羊飼い」としての教師であり、「羊飼い」としての指導者だからです。

 イエス様は、真理を示しつつ、しかし後は自分でその真理を目指して歩みなさいと背中を押すことしかできない教師ではありません。まして、弾の届かない場所から、部下に突撃を命じるような指導者でもありません。

 イエス様は、羊飼いの姿を「羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行く」(10:3-4)と表現されます。それは、その声を知り、その名前を知り、生活の丸ごとを共にする羊飼いと羊との関係こそが、イエス様と私たちとの関係であるということです。

 単なる教えでもなく、また手本でもなく、まして単なる命令ではなく、心と心の通い合う関わりの中で、命と喜びとを共にしつつ、イエス様は道を示し、真理を示し、ついに命へと導いてくださるのです。いついかなる時でも、またどんな場所においても、イエス様は私たちと共にいてくださる。私たちの先頭に立って導き、私たちの傍らにあって支え、私たちのしんがりを守ってくださる。イエス様はなによりもまず私たちの「羊飼い」なのです。

良い羊飼い

 そしてイエス様は、ご自身を「良い」羊飼いであると言われます。それは、イエス様が腕の良い羊飼いであって、羊を導き、養い、守ることにおいて優秀であるということではありません。イエス様は、数多くの「良い羊飼い」たちの一人なのではありません。またナンバーワンの羊飼いということでもありません。オンリーワンの、比較を絶したただ一人、唯一の羊飼いなのです。なぜなら、イエス様は「羊のために命を捨てる」羊飼いだからです。

 もちろん、当時も羊を守るために家畜泥棒や野獣によって命を失う羊飼いがいなかったわけではありません。けれども彼らは不幸な犠牲者ではあっても、自ら望んで命を捧げたわけではありません。律法は、羊飼いは、羊の損害に対して、それが不可抗力であったことを証拠によって示せば、損害を賠償する責任がないことを規定しています(出エジプト記22:13)。神様は、羊飼いが自分の命を救うために羊を見捨てることを、やむをえないこととして認めているのです。

命を捨てる

 けれども、イエス様はそうなさいません。イエス様は、人が人としての限界のゆえにできないこと、私たちがそうしたいと思い、そうできればと切に願いつつなお叶わないことを、私たちのためにして下さるのです。イエス様は、雇い人として、すなわち商売、ビジネスとして、損得を計算した上で、私たちが何らかの利益を生み出す限りにおいて私たちを養うのではありません。イエス様は「わたしの求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身なのだから」(Ⅱコリント12:14)との使徒パウロの言葉のごとく、否、その言葉さえ越えて、私たちを愛し、養い、守り、導いてくださるのです。

わたしの羊

 イエス様は「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている」と言われます。そしてそれは「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じ」知り方であり関係であるというのです。

 それは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」との天からの声に、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)と祈りをもって応える知り方、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と十字架の苦しみのただ中で叫び声を上げながら、しかしなお最後には「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」との祈りをもって平安のうちに地上の生涯を全うするような関係であるというのです。

たとい暗い中を歩んでも

 それは、「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか」(イザヤ書50:10)という神様の言葉、アダムとエバが罪に堕ちて以来、誰一人応えることのできなかった神様からの問いかけに、ただ一人、イエス・キリストが応えてくださったということです。

 それは、すでに始めから神の子であるイエス・キリストご自身のためのものではありません。それは、神の子であることを自ら手放し、もはや自分の力ではそうであることのできなくなってしまった私たちに代わってのもの、すべての人のためのものであるということです。

生きているのはもはやわたしではない

 イエス様は、私たちを「自分のもの」として愛し、十字架の上に献げられた神の子羊として、ご自身の命の代価によって購(あがな)ってくださいました。私たちは、今や「生きるときも死ぬときも、身体も魂も、私自身のものではなく、私の真実な救い主、イエス・キリストのもの」(ハイデルベルク信仰問答第1問)なのです。

 それゆえ、すべての人が私たちを見捨てるときにも、この「良い羊飼い」であるイエス・キリストが私たちを見捨てることはありません。「たとえ父母が見捨てても」(詩篇27:10)、自分のことが嫌になり、自分で自分を見捨てたくなるような時でさえも、イエス様は私たちと共にいてくださいます。十字架の上で私たちに代わってご自身が見捨てられることによって、私たちに、決して見捨てられることのない神の子の地位をお与えくださるのです。

主はわたしの牧者

 だからこそ詩篇の詩人は「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」と歌うことができたのです。この羊飼いは「わたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」だけではありません。このお方は、「魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導」くことができるのです。生きているときだけではなく、私たちがこの地上の生涯を終えてもなお、私たちの守り手であり、導き手であり続けてくださることのできる羊飼いなのです。

 それゆえに、私たちもまた「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」と歌うことができます。「私たちが生きているときにも死ぬときにも」このお方は「わたしと共におられる」からです。死の力も、私たちからこの「恵み深い救い主」を奪うことはできません。

 このお方は、私たちにとってのラストボス、「最後の敵」である死の力を前にしてさえ、「わたしの前に宴を設け」て、その戦いを喜びの時に変えることのできる方、「わたしのこうべに油をそそ」いで、新しい働きと使命への道を開くことのできるお方なのです。だからこそ私たちは「わたしの生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」と喜びの声をあげ、ほめたたえることができるのです。

わたしが~である

「わたしは~である」は、むしろ「わたしが~である」「わたしこそが~である」と訳すべきだと言われることがあります。「わたしが命のパンである」、「わたしが世の光である」、「わたしが羊の門である」、「わたしがよい羊飼いである」、「わたしがまことのぶどうの木である」。「わたしがよみがえりであり、命である」、「わたしが道であり、真理であり、命である」。

 それは決して誇大妄想ではありません。それは、命を懸けて、否、命を引き換えにしてだからこそ語ることのできる、また聞くことのできる、恵みと祝福と約束に満ちたいのちの言葉なのです。この羊飼いの言葉によって目覚めされられ、慰められ、支えられ、守られ、導かれて歩みたいのです。(2021年5月2日の礼拝のために)