読む礼拝


2025年11月30日(日)  主日礼拝(アドベント1)
聖書朗読 マルコによる福音書14章37―42節
説 教 「目を覚まして祈っていなさい」 大石啓介

はじめに


 ゲツセマネでの主の祈りを聴きました。イエス様は深い悲しみの中でこう祈られました。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」

 それは、死ぬほどの苦しみと(14:34)、「杯(神の裁きによる死)取りのけてください」という願い、そしてその願いを抱えながらも、御心に従順に身を委ねる祈りでした。

 今日の箇所(37–42節)は、この祈りが三度繰り返されたことを、非常に丁寧に描き出しています。

 しかし、マルコは、イエス様の三度の祈りだけではなく、弟子たちの三度の就寝を並列させています。これによって、「従順」と「不従順」を際立たせる対比構造が実現します。

 マルコはこれによって、「イエス様の強さ」と「弟子の弱さ」を比較します。

 しかしこの構造によってマルコは、イエス様の光を持って、弟子たち(あるいは私たち人間)の闇を徹底的に批判しようとした訳ではありません。

 むしろ、弱さを抱えた弟子を見捨てず、愛し、招かれる主を描きつつ、読者もまた、この招きに与ることができるという喜びの知らせ、つまり福音を告げ知らせているのです。

 闇を包み込む光の物語。それでは早速本日の箇所に耳を傾けていきましょう。

1 三度の祈り

 イエス様は弟子たちを残して祈りに向かわれます(37節)。その祈りの回数は三度、「同じ言葉で祈られた」と記されています(39節。三度目には特記されていないが、同じ言葉で祈られたと考えられています)。

 ここでナレーターはただ、「同じ言葉で祈られた」と語りますが、事はそう単純ではありません。

 なぜなら、これは機械的な繰り返しではないからです。祈りは神様との対話であり、繰り返される祈り(神様との対話)によって、神様が道を示してくださる、そのような様子が描かれているからです。

 第一の祈りにおいて、神様との対話が生まれます。まずイエス様は願いを率直に差し出す祈り、つまり杯を取り除いてほしいという切なる叫びを祈られました。

 しかし、同時に、最後には御心にそったものでありますようにという願いで祈りが閉じられています。願いながらも、父なる神様に従順であろうとする献身が祈りの姿に現れています。

 第二の祈りにより、より対話が進みます。「同じ言葉」(39節)で祈られましたが、諦めや機械的な繰り返しではありません。

 願いと御心の緊張を抱えながら、なお忍耐をもって祈り続ける姿です。何度も訴え、聞き届けられるまで祈り続ける。諦めない祈りがここに記されているのです。

 こうした継続した祈りは、第三の祈りとなり、その第三の祈りが、神との対話の実りをもたらします。三度目の祈りのあと、イエスは弟子たちのもとに戻られ、こう言われます。

「もうよかろう。時が来た」(41節)。これは、父が応えて下さり、イエスがその御心を完全に受け取ったということです。

 イエス様は、従順の道を歩む決意を固められたことを示します。祈りが十分になされたことが示されます。

 同じ言葉が繰り返されるうちには、このような経緯があるのです。祈りにおいて、神様との対話において、道が示され、物事が動き出す。ここには祈りの繰り返しの大切さが示されています。

 祈りはただ一度祈られればよいということではありません。繰り返し繰り返し、真剣に祈り続けることで、先鋭化されていくのです。

 一つの祈りは、だいたい1時間前後続けられたと言います(マコ14:39)。主は苦しみ続けました。本来負うべきではない罪。その重さ。理不尽な責め苦。これからを担うには、相当な覚悟が必要でした。

 人となったイエス様は、肉の思いを抑えるために、これらに対し、祈りにおける格闘を続けておられたのです。人間の肉なる思いとの戦いは、サタンの試み以上のものだったでしょう(マコ1:12-13並行)。

 このような戦いの末、ついに41節では、36節で「過ぎ去らせて下さい」と願った「この時」が、ついに来たことが告げられます。

 これは主の祈りが届かなかったことを意味するのではなく、ましてや敗北したわけでもありません。祈りが聴き届けられた上で、「御心が現れる時が来た」ということを示しています。

 繰り返しなされる祈りが、聞き届けられたからこそ、「もうよい」のであり、そこで父の御心が示されたからこそ、主は歩まれるのです。

 こうして、マルコの描くイエスの三度の祈りは、従順の深化の三段階を示しています。願い → 祈り続ける → 御心の受容。主の従順は、苦しみと葛藤の中で形づくられているのです。

 そのような中、道が開かれていくのです。

2 三度の眠り

 このような祈りとは対照的に、弟子たちは三度にわたって眠りこけてしまいます。

 ここに、弟子たちの不従順が鮮明に描き出されています。ここには、マルコ福音書の一貫したテーマである「弟子の無理解」の強調があります。

 しかし、ここに描かれている弟子たちの姿を、単なる「反面教師」として切り捨てるべきではありません(こうした対比は、マルコがしばしば用いる物語的手法であり、読者に「イエスに倣う弟子とは何か」を問いかける働きをしています。

 つまり弟子たちが問われているのでなく、私たち読者が問われているのです)。

 イエス様は、祈るべき時に祈りの必要を理解できず、眠り込んでしまう弟子たちの弱さを深くご存知でした。その弱さは確かに信仰的未成熟を示しています。

 しかし一方で、イエスの呼びかけは単なる批判ではなく、彼らをなお「弟子」として招き続け、成長へと導くための言葉として響いています。その象徴的な瞬間が、37節の呼びかけです。

「シモン、眠っているのか。一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」

「一時も目を覚ましていられなかったのか」。

 イエスはここで、人の肉の弱さを鋭く指摘されています。

 ここでイエス様はペトロに向けて語り掛けていますが、なぜなら、ペトロはほんの少し前に「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言い張ったからです。

 ペトロはその直後に、主の「目を覚ましていなさい」という命令に応えることができなかったのです。「心ははやっても、肉体は弱い」という人間の本質を、ペトロはさらしています。

 そして、「シモン」という呼びかけも、彼が「ペトロ(岩)」という名が象徴する堅固さからはほど遠い、弱さのただ中にあることを示しています。

 しかし、この弱さはペトロだけのものではないでしょう。

 ペトロは代表者として選ばれています。主の苦難が深まり、祈りがよりいっそう深く切実になっていく中で、ペトロを通して、弟子たちの、ひいては人間の肉の弱さが浮き彫りになっていくのです。

 しかし、何度も繰り返しますが、これは単に人の弱さを責め立てるためではありません。

「シモン」という呼びかけを、もう一つの視点から見てみましょう。

 主は彼の弱さを示すために旧名で呼びますが、それは同時に、親しい呼びかけとして理解することもできます。

 この言葉には、非難だけではなく、「あなたを捨ててはいない」という響きがあります。

 かつて「サタン」(8:33)とさえ呼ばれた時点からすれば、ここにはすでに重要な変化があります。

 ペトロはなお弱い。しかし、もはや退けられてはいない。弱さのただ中にあっても、主は彼を「弟子」として扱い、語りかけ、招いておられるのです。

 イエス様は、弟子たちのたどり着く先をも見ています。それゆえに、イエスは弟子たちの弱さを見つつも、その弱さを引き上げるために、導くために、こう命じていくのです。

「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」

3 目を覚まして祈っていなさい。

 イエス様は、弟子たちの弱さを見て怒りに燃え、彼らを突き放したのではありません。

 彼らの「まぶたが重かった」(40節)という、あまりにも人間的な限界を知りつつ、なお「誘惑に陥らないよう、祈っていなさい」と命じられたのです(38節)。

 弟子たちが自分の弱さに勝てなかったのは、気合いが足りなかったからではありません。イエス様が言われた通りです。

「心ははやっても、肉体は弱い」(38節)。弱さという現実の前に、「どう言えば良いのか、わからない」ほど、弟子たちは沈黙せざるを得ませんでした。

 弱さを克服する力は、人にはない、ということがありありと示されます。

 しかし、イエス様はそのような弱さに寄り添い、「大丈夫だ。祈りによって、神の力に自分を置くことができる」と教えてくださるのです。

 あだ名ではなく、その人の名前で、イエス様は呼びかけ、弱さを責めるのではなく、祈りへと導き、神に頼る歩みへと招かれるのです。

 では、どのように祈ればよいでしょうか。ゲツセマネの主の祈りにその答えはすでに示されています。

 36節「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに」。

 そして38節では「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」。

 これらをまとめてみると、「父なる神様に呼びかけ、御心を祈り、そして誘惑に陥らないように祈る」ということになるでしょう。

 おきづきでしょうか。つまりここに、「主の祈り」への招きがあるということです。それこそが肉の弱さを克服するために必要な祈りでした。

 弟子たちはこの時、「主の祈り」へと招かれていたのです。

 必要な祈りを教え、この祈りを「目を覚まして祈りなさい」という命令に、この時弟子たちは従えませんでした。

 ですから、イエス様は「まだ眠っているのか。休んでいるのか。」とおっしゃいます。

 これも祈れない弱さへの非難と言えるでしょう。しかし、未だ祈れない弱い弟子たちを見捨てることはなさいません。弟子たちに向かって、「立て、行こう。」と招いてくださるのです。

 この命令は、弱さの中にある弟子を起こし、イエスの歩みに再び参与させるための招きです。

 弟子たちは三度眠りましたが、イエスは三度祈られました。弟子たちの不従順によってこの物語が閉じるのではなく、イエスの従順によって新たな一歩が切り開かれるのです。

 弱さを知りつつもなお共に歩むために、主が差し出された招きの言葉、招きの手なのです。弟子たちが成長しつつあることを主はご存知であり、その先にある成長をご存知でした。

 この物語を読む私たちも、弱さのゆえに祈れぬことがあるかもしれません。主の苦難を知りつつも、祈らず眠りこけていることがあるかもしれません。

 しかし、もう十分眠ったではありませんか。主は、その弱さを知りつつ、弱さの先にある成長を見ておられます。

「目を覚まして祈れ」との命令と共に、手を差し伸べて「立て、行こう」と招いてくださいます。

 目を覚まし、立ちあがろうではありませんか。主の差し伸べられた手をいまこそ握る時です。

 その手によって立ち上がり、その手を離さずに進むのです。