2025年9月14日(日) 主日礼拝
聖書朗読 ローマの信徒への手紙3章21―28節
説 教 「信仰による義」 大石啓介
1 律法について
人間は、常に正しくありたいと願う生き物です。だからこそ、「義となる」(真に正しい人となる)ことは、私たちの生涯のテーマと言えます。
そして、このテーマは個人だけではなく、社会全体においても追求されなければなりません。社会の秩序や共同体の維持には、正しさが欠かせないからです。
しかし、残念なことに、私たち個人や社会における「正しさ」は非常に曖昧です。現実を見渡せば、人間の「正しさ」がいかに不確かであるかがわかります。
法律等が整備され、一見秩序は保たれているように見える世界でも、それぞれが自分なりの「正義」を掲げ、分断を生み、互いに愛し合うことには疎くなっています。
もちろん、このことはクリスチャンである私たちにも当てはまります。ですから私たちは、礼拝を始めるにあたって悔い改めの祈りをささげます。
それは、自分たちが罪深い者であることを深く自覚しているからです。パウロも、この現実を直視していました。3章9節から20節にかけて、彼はこう語ります。「正しい人は一人もいない」。
では、罪人である人間が義となるには、どうすればよいのでしょうか。旧約聖書において、イスラエルの民は、神の律法を守ることによってそれを成し遂げることができると考えていました。
新約聖書の時代のユダヤ人たちも、同じように考えていたのです。彼ら彼女らは、律法を守り、実行することによって義とされると信じ、それを守ろうと必死でした。単に自分自身への戒めとしてではなく、他者をも戒めながら、神に選ばれた民(群れ)として正しくあろうとしたのです。
もともとパウロもそのように考えていた者の一人でした。ファリサイ派であった彼は、律法厳守主義者でもあったのです。
しかし、律法のすべてを正しく守ることができる人は(今も昔も)誰一人としていませんでした。パウロ自身も、すべてを正しく守れていたわけではありません。
誰よりも努力を惜しまなかったに違いありませんが、律法をすべて守ることは決して成し遂げられないのです。パウロはイエス・キリストとの出会いを通して、そのことに目が開かれていくのでした。
パウロは、決定的な真理に出会います。すなわち、「律法を行うことによっては、誰一人、神の前で義とされない」ということです。律法は本来、神の善きご性格を映し出すものでした。
けれども、罪深い私たちにとって、律法はかえって「罪の自覚を生じさせるもの」(ロマ3:20)となってしまう。つまり、律法を通しては義にたどり着くどこからかえって罪の内に捕らわれてしまう。パウロはこの現実を深く悟っていったのです。
2 信仰義認:神の義の啓示
パウロにとって、律法の行いによって義に至るという道は閉じられました。
しかし、パウロは同時に、別の道を発見しました(この道を見つけたからこそ、律法の道を閉じたのでしょう)。それがいわゆる、『信仰義認』の道です。パウロは28節でこう述べています。
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」。
この一文こそ、信仰義認を端的に表しています。つまり彼は、律法ではなく、「信仰によって」人は義とされる、という真実に辿り着いたのです。
これは、「私たちが信仰的に努力すれば義とされる」という意味ではありません。もしそうであるならば、それは結局、律法の行いによって義に至ろうとする人間主体の考えに過ぎないからです。
そうではなく、パウロは、人間の行いや努力を超えた「神の義」によって与えられる「信仰」によって、人は義とされるのだと宣言しているのです。そのことをパウロは、21節から順に示していきます。
まず彼は、こう明確に示しました。
「しかし今や、律法を離れて、神の義が現された」(21節)
パウロは初めに、義を律法から引き離します。つまり、「律法の行いによって義とされる」という考えを最初に退けるのです。
さらに、「神の義」を示すことにおいて、「自分の行為のうちに義を見いだそうとする」人間中心の考えをも、退けます。
彼が強調するのは、「義」とは人間のものではなく、神に属するものであるということです。
パウロは、「義はどこから来るのか」という根本の問いに立ち返り、「神の義」こそ、すべての義の前提となると教えていくのです。
パウロは加えて、「律法と預言者によって証しされ、神の義が現わされた」と語ります。ここでいう「律法と預言者」とは、すなわち旧約聖書全体を意味します(ルカ16:16)。
つまりパウロが立ち帰るように促す「神の義」は、旧約聖書に証しされた義である、ということです。この義は初め、イスラエルの民に証しされました。更にパウロはこの考えを拡張し、次のように、言います。
「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに表されたのです。」(22節)
つまり、旧約聖書を通してイスラエルの民に示されてきた神の義が、今やイエス・キリストによって、信じる者すべてに現されたと言うのです。
この発言は、異邦人にも神の霊である聖霊が降ったという事実を根拠にしていると言えるでしょう(使徒10:44以下)。
ユダヤ人に限らず、律法を知らない異邦人にまで、イエス・キリストを通して、神の義が示されたのです。割礼を受けているか、食物規定を守っているかどうかに関わらず、
ただ神を信じるという一点において、すべての信仰者に、神の義は与られました。そこに何も差別はありません(22節)。
そして23-24節では、パウロはこう語ります。
「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより値なしに義とされる」。
ここでパウロは再び、人間全体の罪に言及します。罪はユダヤ人だけのものではなく、すべての人が担っていることが確認されます。
律法を守るかどうかにかかわらず、人は皆、罪人であるのです。けれども、そのような人々をキリストが贖い出し、神の栄光にあずかる者へと変えられたのだと、パウロは語ります。
パウロは、旧約聖書において語られてきた「神の義」が、決定的に現れたのは律法を通してではなく、ただ「キリスト・イエスによる贖いの業」によってであった、という点を強調しています。
キリストによって示された神の義は、裁きとしての正しさではなく、人を贖う恵みとして働きました。その恵みによって、すべての人が義とされる道が開かれたのです。
では、イエス・キリストの「贖いの業」とはどのようなものだったのでしょうか。パウロは25節でこう語ります。
「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました」。
「神はイエスを、贖いの座とされた」これはどういう意味でしょうか。「贖いの座」とは、年に一度の大贖罪の日に、犠牲の動物の血がふりかけられる場所を指します。
契約の箱の上蓋や箱全体に犠牲の血がふりかけられ、民の罪が清められたのです(レビ16:15-17)。
パウロはこの神殿供犠のイメージを用いて、イエスの贖いの意味を説明します。
しかしそこで、私たちのために振りかけられたものは、動物の血ではありません。イエスの「真実」と「血」でした。「血」がキリストの死を指していることは明確です。
しかし十字架上において流された血だけが贖いとなったのではありません。キリストの「真実」、すなわち生涯を通して示された、キリストご自身の神への信仰(フィリ2:6-11)と、キリストを通して示された人々への神の愛(義の根幹にあるもの)の働き(ヨハ3:16)もまた、私たちの贖いとなったのです。
私たち罪人が贖われるのは、キリストの「真実」(福音として示された生涯)と「血」(十字架の死)の両方によってであることをパウロは強調しています。
そして、この贖いを可能としたのは、ただ神の義によるのです。
さらにパウロは、25節後半から26節にかけてこう語ります。
神は、キリストの生涯によって示された「真実」を通して、ご自身の義を明らかにされました。罪の赦しは、神の忍耐を含むものでした。
しかし今や、その忍耐を超えて義が成し遂げられました。そして、イエス・キリストが信じるすべての者のために死なれたことによって、信じる者すべてに神の義が確実に現れた――それゆえに、今や人は義となった。パウロはそのことを力強く強調しているのです。
3 信仰義認:神の賜物としての信仰、それによって義と認められる人の生き方
義に関する一連の説明を終えたあと、パウロは次のように語ります。27-28節。
「では、誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」
「では、私たちの誇りはどこにあるのか」。
そうパウロはローマの信徒に問いかけます。
そして彼は、「私たちの誇り」はすでに取り去られたと語ります。
なぜなら、人が義とされる根拠は、自分の行いにあるのではなく、ただ神の義に基づく信仰にあるからです。
パウロはここで二つの「法則」を挙げます。
一つは「行いの法則」です。これは人間の努力や功績に基づいて義とされようとする考えを意味します。
しかし、この道からは誰一人義とされませんし、誇るべきものは何もありません。
もう一つは「信仰の法則」です。これは、自分の行いではなく、神の義を信じ受け入れることによって義とされるという原則です。
パウロは、この「信仰の法則」こそが、すべての誇りを取り去り、ただ神の恵みだけを指し示す道なのだと語っているのです。
『誇るものは主を誇れ』(エレ9:23,Ⅰコリ1:31参照)とあるように、信仰に生きるとき、私たちの誇りは一切取り去られます。
それはつまり、自分を誇ること、義になろうとすることからの解放をも意味しています。信仰者はすでに、信仰によって義と認められているからです。
罪人であることを苦しんだルターは、この解放の意味を深く味わいました。神の義は、罪人を罰するためにあるのではなく、罪人を救うためにあることを知り、神の義によって自分がすでに義とされていることを知ったからです。これこそが信仰義認の核心です。
この事実を深く噛み締めることを、まずパウロはローマの人々に呼びかけました。信仰義認の出発点は、私たち自身ではなく、常に神の義にあります。
神の義がキリストを通して与えられた今、私たちは義人となったのだ。ですから、もはや自分の力で義人になろうと努力する必要はなく、律法の行いを強要する必要もないのだと、訴えるのです。
しかし同時に注意すべきことがあります。律法の法則から解放され、信仰の法則に則った生き方を始めた私たちは、義人として信仰によって生きなければならないと言うことです。
つまり義人として、正しく生きる責任が新たに生じたということです。しかしそれは、律法を完璧に守ったり、倫理的努力をして罪を拭い去ろうとすることでも、自分たちの誇りを追求することでもありません。
それよりも、イエス・キリストの真実と血のうちに、神の義を求め、神の義により頼む生き方を始めることが求められているということです。これを求める生き方こそ、義人の生き方であり、「信仰の法則」です。
信仰は、神の義が示されたと同時に、信じる者に与えられた賜物です。私たちのうちに宿った信仰は、私たちを導き、義人としての歩みを行わせてくださいます。今こそ、信仰のうちに生きることが求められているのです。
ではその生き方とは具体的に何なのでしょうか。ヤコブはこのパウロの「信仰義認」に寄り添いつつ、次のように問いかけます。
「行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、その人を救うことができるでしょうか」。
この問いを抱きつつ、私たちは信仰義認についての理解をさらに深める必要があります。再来週、この問題に取り組む予定です。
神の義を胸に、義人として生きる――義を自ら『行う』のではなく、義人として神の義に従って歩む。このことこそ日々の歩みの目標であり、私たちが神に応える生き方を求めながら歩む指針となるのです。
2025年9月7日(日) 主日礼拝
聖書朗読 出エジプト記3章13-15節
説 教 「私はいる」 大石啓介
1 はじめに
本日の聖書箇所は、エジプトからの脱出物語に先立つ、神の召命物語のワンシーンです。
ここで神様は、ご自身の民、イスラエルを「エジプトの地、奴隷の家」から救うため、モーセを召し出されました。そしてその中で、歴史上初めて、神の「名」が示されていきます。まさに大切な場面です。
この出来事は、出エジプト物語の要であり、単なるまえがき(エピローグ)ではありません。
なぜなら、ここに「神の名」という出エジプト記の核があるからです。ここで示された「神の名」を理解しないまま、物語を読み進めるなら、出エジプト記を正しく理解することはできないでしょう。
それだけではなく、ここで示された「神の名」こそ、私たちクリスチャンにとっての信仰の要であり、出発点です。
信仰者は常にここに示された御言葉に立ち返るべきですし、これから聖書に親しもうとする人にとっても、この箇所は出発点にふさわしい御言葉です。
ですから本日は、これを単なる物語の一場面としてではなく、出エジプト記の核心、そしてそれを超えた信仰の核心として受けとめて、読み進めていきたいと思います。
そして、その要となる「神の名」とは何か。なぜ神は名を尋ねられたときに、「私はいる」と名乗られたのか。その真意をご一緒に考えていきましょう。
ホレブ山(シナイ山)にて、神はモーセを召して、「イスラエルの民をエジプトの地、奴隷の家から導き出せ」と命じました。
突如として下されたその命令に、モーセは戸惑いました。自分にはそんな力はないと思っていたからです。しかし、神様の不思議な業(燃え尽きない柴)と、神様がそばにいてくださるとの御言葉(3:12)を信じて、モーセは自らを奮い立たせ、命令に従う決意をしました。
本日共に聴きました13節の彼の言葉は、その決意表明です。
13節、「ご覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされた』というつもりです。」
しかし、決意を固めた後も、まだ不安は拭いきれませんでした。実は彼は、エジプトの王族に連なる身分でありながら、ある殺人事件を起こし、エジプトから逃げ、ミデヤンの地で逃亡生活を送っていたのです。
エジプトから逃げ出した自分の声を誰が聞いてくれるだろうか。いやそれどころか、捕まってしまうのではないか。彼は不安と恐れの中にいたのです。
その不安は彼を、「神が自分のそばにいるということだけでは、民を説得できない」と考えに至らせたのでしょう。そこで思わず神に質問します。13節後半、
「彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。』
つまり、あなたがいるという証拠を、その「名」によって示してください、とお願いするのでした。
2 名
ここで、なぜモーセが神の「名」を求めたのかを考えてみましょう。端的に言えば、モーセ自身が語るように、それはイスラエルの民を納得させるためでした。
名前を挙げるだけで説得力が増す、というと私たちには不思議に思えるかもしれません。
しかし当時、「名」は人や神の実体を示す何よりの証拠だったのです。
日本にも「名は体を表す」ということわざがあります。名とは本来、ただのラベルではなく、その人の本質に触れる入口です。
ですから初めて出会うとき、人はまず名を名乗ることを大切にします。示された苗字や名前からは、家の由来や親の願い、受け継がれた思いが少しずつ見えてきます。
ふさわしい名を付けることは親の責任であり、またその名にふさわしく育てるのも大切な営みとなります。もちろんそれだけではありません。
ふさわしい名を得た人は、そのように生きようとします。名は人生の目標となり、その名にふさわしく生きる人は、その人を育てた家族を含め、その名によって祝福されます。
信頼する人の名は、その周辺にも影響を及ぼし、平安が広がるのです。当然逆もまた然りですが、いずれにせよ、名は、個人を証する大切な要素と言えるのです。
旧約聖書の時代には、その重みはいっそう大きなものでした。
名は「評判」や「名誉」、「記憶」や「人格」と深く結びついていました。名を呼ぶことは、その人と深く関わることを意味していました。
また、名を与えることは権威と責任の表れでした。創世記でアダムが動物に名をつけたのも、神から託された務めのしるしでした。反対に「名が断たれる」とは、その存在が歴史から消え去ることを意味しました。
だから人は名を残したいと願い、町や子どもに名を与えて、物語をつないでいったのです。
名前には権威がありました。安心がありました。だからこそ神を証明するための決定的な証拠となり得たのです。民を説得するためにモーセが神の名を尋ねたことは、とても人間的で自然なことに思えます。
名を知れば、相手がどんな方かに近づける。名を語れれば、人は安心し、自分に耳を傾けてくれる。モーセは自らの不安を和らげるために、また民の信頼を得るために、「名」を求めたのです。
――ところが、その問いに対する神の最初の応答は、モーセの予想を静かに、しかし大きく裏切るものでした。神は、次のように答えたのです。
「私はいる、という者である。」
「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと」。
「私はいる、という者である」。なんとも不思議日本語です。原文であるヘブライ語では、「ehyeh(エヒイェ) asher(アシェル) ehyeh(エヒイェ)」(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה)となります。
英語訳は全部大文字で「I AM WHO I AM」としています。日本語訳は、「私はいる、という者である」(聖書協会共同訳)を始め、「わたしはなる、わたしがなるものに」(岩波訳)、そして「わたしはある。わたしはあるという者だ」(新共同訳・口語訳他)など、いくつもの訳し方が存在します。
聖書に親しい人であれば、神様のこの答えに戸惑いを抱くのではないでしょうか。なぜなら、旧約聖書において、神の(呼び)名は、אֱלהִים(エロヒーム)、もしくはיהוה(ヤハウェ・YHWH)とするのが一般的だからです。
旧約聖書の人々は、神に呼びかける際、これらの名で呼んでいます。しかしここで語られた「エヒイェ」(אֶהְיֶה)は、そのどちらでもありません。
つまり、神はここで、ヤハウェやエロヒームという名を明かさず、「私はいる」という、存在そのものの宣言にとどまるものであったと言うことができるでしょう。
3 名に優先する神の存在
では、これによって神はモーセに何を伝えようとしているのでしょうか。
第一に、神はその存在自体を名とされたということです。神はエロヒームやYHWHと言う名をここであえて伏せている、と考えられるからです。
なぜならYHWHという名は15節にて遅れて登場しているからです。15節の日本語「主」が、このYHWHになります。つまり、神はきちんとモーセにその名(YHWH)を示しているのです。
しかし、15節まではその名は伏せられている、という状況になります。神はご自身の存在を強調されていることが、この文脈からわかります。
第二に考えられるのは、名によって神を知ろうとする人間の知恵を神は退けられているということです。名は確かに重要です。
しかし、それがすべてではありません。モーセは神の名を得ることによって、安心を得ようとしました。また、神の存在ではなく、神の名によって民を説得しようとしました。
見えない神の存在を証明するのは難しいと考えたからです。しかし、それは、名の中に神の本質を閉じ込めてしまう危険をはらんでいます。神はそれを退けられました。
第三に、神は、名に先立って存在する方であるということです。神が「私はいる」と名乗ることによって、名に囚われていた人間の目は、存在そのものに向け直されるのです。
モーセは神の存在の確かさを見失っていました。だからこそ、存在のそのものを名として受け止めなければいけなかったのです。
「神はいる」。それは、揺るぎない事実としてこの世界を覆っています。まずはここに揺るぎない確信を持つことから始めよ、と神はおっしゃるのです。
以上の点から、「私はいる、という者だ」という御言葉は、「神はいる」という存在を受けとめることから全てが始まる、という知恵を私たちに伝えています。
神はこれをモーセに一貫して語られています。神は12節にてモーセに「私が共にいる」という御言葉を与えています。これこそ揺ぎ無い真実であるからこそ、呼び名を与えることはせず、ただ存在を示すことにおいて、再確認をしていくのです。
さらに14節では、神の存在が拡張され語られています。神はここで、モーセだけでなく、イスラエルの民に向けても「私はいる」と宣言されるのです。
力強く、揺るぎない存在の啓示は、まさに神の名そのものとして受け止められるべきものであります。
神様はさらに御言葉を重ね、ご自身の存在が確かなことを、15節にて語られます。ここで神はご自身が、イスラエルの先祖と「共にいた」ことを明らかにします。
つまり自分は、アブラハム、イサク、ヤコブの神である、と自己紹介するのです。創世記に記された先祖の物語を見れば、神の名が示されなくとも、神がともにいる事実は変わらない――そのことがはっきりとわかるからです。
こうした神の存在の自己紹介は、私たちの信仰にも問いかけます。神の名を呼ぶ前に、まず神がいる――その事実を受け止めることができているかどうか。
名は、神の存在を理解するための手段に過ぎず、すべてではありません。
「天にましますわれらの父よ」と呼びかける時、大切なのは、そこに神がいると信じているかどうかです。
そして、神はイスラエルの先祖と共におられた方であり、今も私たちと共におられることを信じる信仰が毎回試されています。神の存在への確信は、信仰の出発点であり、私たちが日々立ち返るべき基礎です。
そして、このことを理解するなら、私たちも日々の生活の中で、「神はいる」という事実に立ち返り、困難や迷いの中でも揺るがない基盤を見出すことができます。
その信仰の土台の上で、詩篇の詩人が歌ったように、私たちは神の御名をとこしえに褒め称えることができます。
詩篇135篇13節にはこうあります。
「主よ、御名はとこしえに。
主よ、御名は代々に唱えられる」
この詩は、15節後半の神の御言葉と重なり、世界に響き渡ります。詩人は神の存在を知り、その存在を御名として受け止め、神がいてくださることに感謝し、その事実を褒め称えました。
私たちもまた、神の存在を信じることから、日々の信仰を始めたいと思います。
2025年8月31日(日) 主日礼拝
聖書朗読 ダニエル書3章16-18節
説 教 「試練」 大石啓介
1 ダニエル書
本日ご一緒に耳を傾けた聖書の箇所は、ダニエル書の中でも「宮廷物語」と呼ばれる部分の一つです。そこで語られた言葉は、偶像礼拝を命じる王の前でも怖じけず、イスラエルの神以外を礼拝しないと言い放ち、信仰を貫いた先人たちの力強い言葉です。
そのため、たとえダニエル書の全体像を知らなくても、この言葉を聞くだけで私たちの信仰は力づけられるでしょう。しかし、それだけではこの言葉の重みを十分に受け止めることはできません。
その重みを理解するためには、ダニエル書がどのような書物で、いつ書かれ、後世に何を伝えようとしているのかを知ることが大切です。
そこでまず、ダニエル書の構成や物語の舞台を確認し、また書かれた時代の背景を確認した上で、三人の言葉を詳しく見ていきたいと思います。
ダニエル書は、大きく前半と後半に分けることができます。前半(1~6章)は「宮廷物語」と呼ばれ、その舞台は異国のバビロンやペルシアの宮廷です。
つまり、ユダヤの地ではなく、異邦の地での出来事が描かれています。なぜ異邦の地のユダヤ人にスポットが当てられているのかは、後ほど説明します。
ここでは、異国の王に仕えるユダヤ人、ダニエルとその仲間たちの信仰物語が語られます。
物語の特徴は非常にわかりやすく、危機に直面しても信仰を守り抜く人々を神が不思議な方法で救い、最後には異邦の王さえもイスラエルの神をほめたたえる──このパターンが繰り返されます(ただし第5章を除く)。
一方、後半(7~12章)は「黙示文学」です。黙示文学とは、神から選ばれた者が見た幻や啓示を、象徴的な言葉や表現を用いて記した文学です。ここで語られるのは、次の通りになります。
・今の世の不正(現実)。
・しかし、罪人が支配し、義人は抑圧されている現実を、神はそのまま放置することはないということ(聖書からの確信)。
・やがて神は歴史に終止符を打ち、今まで罪人が支配していた世界を一掃し、新しい天地を出現させること(未来への希望)。
・そして、義人に至福の生活の場を与えられること(未来への希望)。
このような「大逆転の希望」が黙示文学の中心テーマです。
ダニエル書では、前半で「過去の信仰の模範」を示し、後半でダニエルが見た幻を通して「歴史はすべて神の御手の中にある」「忠実な者は必ず神に救われる」という「未来の希望」が語られます。
つまりダニエル書は、迫害や試練にある人々を励ますための書物なのです。
次に、ダニエル書の舞台と登場人物について見ていきましょう。1章に記されているとおり、物語の舞台は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代です。南ユダ王国が新バビロニア帝国によって滅ぼされ、イスラエルの民は国を失い、多くの人々が異国の地へと連れ去られました。
その捕囚の中にいたのが、四人の若者―ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤでした。
彼らは王族や貴族の出身で、知恵と容姿にすぐれた若者であり、バビロン王の養成を受けることになります。そこで彼らには新しい名前が与えられました。
ダニエルはベルテシャツァル、ハナンヤはシャドラク、ミシャエルはメシャク、アザルヤはアベド・ネゴと呼ばれるようになりました(1:7)。彼らは自国を失っただけではなく、名前まで失った者たちとなります。その四人が、ダニエル書前半の主人公になります。
では次に、ダニエル書がまとめられた時代とその背景を見ていきましょう。実はこの書物が書かれたのはバビロン捕囚からずっと後、紀元前2世紀、シリアの王アンティオコス四世の治世(紀元前175-164年)でした。
バビロン捕囚以降、ユダヤ(イスラエル)は独立することがなく、常に他国の支配下にありました。紀元前2世紀のシリアの支配は、イスラエルの歴史の中でも、大変辛い時期でした。
アンティオコス4世は、ユダヤ人に律法を捨てさせ、エルサレム神殿にゼウス像を立てて汚し、像を礼拝しないユダヤ人を次々に殺害したのです。
その迫害はユダヤ人による大規模な反撃を引き起こし、マカバイ戦争(紀元前167-164年)が起こりました。その戦争において、信仰を守り抜いた多くの人々が殉教していったのです。
ダニエル書は、こうした二つの背景を持つ物語です。そしてこの二つの背景に共通するのが、信仰的迫害です。つまりダニエル書は、迫害の只中で生まれた書物となります。
しかしダニエル書は、単なる「昔話」ではありません。信仰を貫いた先人を主人公に、迫害の中で生きるユダヤ人にとって「信仰を貫くとはどういうことか」を示す力強いメッセージであり、「偶像を拝め」という圧力、「命をかけても信仰を守るか」という問いに対して、信仰者の応答を示した書物となります。
「私たちの神は救うことができる。しかし、たとえそうでなくても、私たちは拝みません。」
この世の支配者の命令に従わなければ炉に投げ込むと脅された時の三人の答えは、迫害化にある信仰者が導き出した解答です。それはすべての世を空しいとしたあのコヘレトがたどり着いた最後の言葉のように、苦難の中導き出された非常に重たい言葉、信仰の確信です。
私たちはいまこの言葉の前に立っているのです。そして聖書は、この言葉を受け止めることができるかどうかと、一人一人に問います。私たちは、この難問の前に立ち向かわなければならないのです。
この言葉を受け止めることは容易ではないでしょう。しかし、それを受け止めた人々がいたことが証しされています。では、先人たちはどのようにしてこれを受け止めたのでしょうか。今日は、そのことを一緒に確かめていきましょう。
2 三人の試練
本日登場するのは、ダニエルではなく、その仲間であるシャドラク、メシャク、アベド・ネゴです。彼らにはダニエルのように夢を解き明かす力はありませんでした。
しかし、それ以外はダニエルと同じでした。王族か貴族の出身で、容姿端麗、知恵に富み、豊かな知識と理解力を持つ若者たちです。
ダニエルと同様、三人は、バビロンで三年間養成を受け、やがてネブカドネツァル王に仕えることになります。
四人はバビロンの賢者たちの列に加わることになるのですが、その中でも際立って優秀で、カルデア人(バビロニア帝国の人)の誰ひとりとして、彼らに太刀打ちできませんでした(1:19)。
2章においてダニエルが王の夢を解き明かすことができたのは、ダニエル一人の手柄ではなく、三人が彼と共に神に祈ったからです(2:18)。そのため、功績が認められ、ダニエルはバビロンの全ての賢者たちを総括する長官に、また三人はバビロン州の行政官にまで昇りつめていきました。
このように異邦の地であっても、彼らは神から与えられた賜物によって守られていくのですが、3章において彼らに試練が降りかかります。
つまり、王ネブカドネツァルは金の像を造り、バビロンだけではなく、バビロニア帝国全土に向けて「これを拝め」と命じたのです。像の奉納式にはバビロンの大小七つの官職が集められました。
そこで下された命令は、「諸民族、諸国民、諸言語の者たち…あらゆる楽器の音を聞いたら、ひれ伏して…金の像を拝め」(3:4)という徹底した命令でした。
王の命令の前に、一人として逃れることは許されません。像を拝まなければ、直ちに捕らえられ、火の燃える炉に投げ込まれる――この伝令を聞いた人々は恐怖に震え上がりました。死を覚悟して信仰を貫く者は、この時、どれだけいたことでしょう(3:7)。
ついに楽器が鳴り、すべての人が像に向かってひれ伏す中、三人のユダヤ人だけが立っていたのです。その姿はひときわ目立っていたことでしょう。
このことは驚きとともに直ちに、カルデア人を通して王の耳に伝わりました。ネブカドネツァルは激怒し、三人を連れてくるよう命じ、ついに彼らは王の前に引き出されました(3:13)。
王は三人の尋問を直ちに始めます。「お前たちが私の神々に仕えず、私が立てた金の像を拝まないというのは本当か。」次に、王は弁明の機会を与えます。
「今、もしお前たちが、楽器の音を聞いたときにひれ伏して、私の造った像を拝むなら、それでよい。」続けて、脅迫を加えます。
「もし拝まないならば、直ちに火の燃える炉に投げ込まれる。」そして最後に、重要な問いを投げかけます。
「私の手からお前たちを救い出す神とは何者か。」最後の問いは純粋な好奇心や疑問から出る問いではありません。現実的な圧力であり、挑戦です。
事実確認、弁明の機会、脅迫、そして信仰を揺るがす問い。返答を間違えれば処刑される緊張の中、三人は口を開いてこう言います。
3 三人の答え
「このことについて、私があなたに言葉を返す必要はありません。」
つまり、弁明しないこと、それが彼らの答えでした。続けて彼らはその理由を語ります。
17節、「もしそうなれば、私たちが使える神は、わたしたちを救い出すことができます。火の燃える炉の中から、また、あなたの手から、救い出してくださいます。」
つまり、「イスラエルの神がいる」ということは疑いようのない事実であり、「神はわたしたちを救う」ということも確かな事実であり、それ以上の余分な言葉は必要ない、というのが彼らの主張でした。
彼らは主なる神を常にそばに感じ、揺るぎなく信じていました。かつてモーセにむかって「私はいる」(「私はある」)とその名を明かした神(出3:14)。その存在の宣言こそ、すべてを支える根拠でした。
だから彼らはその存在に対して、説明を尽くす必要がなく、ただただ確信をもってこのように応えるだけでよかったのです。決して問いをはぐらかしたのではありませえん。
彼らは事実を淡々と語ります。そしてさらに「たとえそうでなくとも、王様、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えることも、あなたが立てた金の像を拝むこともいたしません。」
これはまさに、神の存在に対する揺るぎない信仰の応答であり、信仰の告白と言える言葉です。「私たちが仕える神は、私たちをあなたの手から救うことができる。
しかし、たとえそうでなくとも、私は従う」という姿勢。そこには、結果に左右されず、ただ神ご自身への徹底した信頼が表されています。彼らは強がりでこれを語ったのではありません。
彼らの生の根幹に、揺るぎない信仰が根付いていたのです。そして、神の真実に対するこの「たとえそうでなくとも」という応答こそが、ダニエル書が迫害の只中で伝えようとした答えなのです。
しかし、誤解しないようにしましょう。ここで彼らは「神は必ず救ってくださる」という確信を手放してはいません。「たとえそうでなくとも」という言葉は、「たとえ神が私たちを王の手から救い出さなくとも」という限定的な意味で用いられています。
つまり、たとえ神が彼らを王に引き渡し、命が奪われたとしても、彼らにとってはそれは滅びではなく、なお救いなのです。だからこそ彼らは、「私たちは私たちの神に仕える」と大胆に言い切ることができたのです。
こうした信仰の応答をご覧になった神様は、御使を遣わして彼らと共におられる姿を王の前に表し、三人の告白が真実であることを示してくださいました。
ダニエル書は、この事実を通して、死が迫る迫害のただ中にある一人ひとりの信仰を励ましていったのです。
ただ、一つ注意したいのは、この物語が「殉教を奨励するため」にまとめられたのではない、という点です。紀元前2世紀、すでに多くの殉教者が現れており、「殉教の意味」そのものが問われていました。――信仰を守り抜いて死んでいった人々に、本当に救いはあるのか。
まさにその問いに応えて、著者はこの物語を語ります。ダニエルと仲間たちの信仰の姿を通して、「神は必ず信じる者を救ってくださる」という事実を示し、殉教していった人々の信仰も決して無駄ではないと告げるのです。
もしこの視点を見失えば、ダニエル書は単なる「逆境に負けるな」という世俗的な啓発本のようになってしまうでしょう。
そうではなく――神への信仰による苦難は決して無駄にならない。それをダニエル書は力強く語り続けているのです。
ダニエル書の三人の若者の姿から、私たちは三つの大切なことを学びます。第一に、神は確かにおられるという「神存在の確信」。第二に、神は救ってくださるという「救いの確信と希望」。
そして第三に、結果に左右されない「確かな信仰」です。
このメッセージは、新約聖書においても貫かれています。イエス様は、まさにこの言葉を体現されたお方でした。十字架の死に至るまで従順な方でした。
またイエス様は弟子たちに、自分の十字架を背負うことを命じ、また終末の教えの中で、そのような信仰に生きるように召されました。本日共に聴きましたフィリピの信徒への手紙においても、使徒パウロは紙面を割いて、獄中から信仰を叫びました。
私たちは現在、迫害や殉教のただ中にいるわけではありません。しかし、大なり小なり、苦難や試練の中に生きています。むしろキリストを信じる信仰ゆえに、他の人よりも多くの困難を経験することもあるでしょう。
そのような時、私たちの信仰は試されるのです。世は常に私たちの信仰を問うています。 けれども、試練の時にどう答えるべきか、その答えはすでに示されています。
「私たちの神はおられる。神は救ってくださる。たとえそうでなくとも、私は従う。」
この揺るぎない信仰の応答こそが、神の存在の確信、救いの希望、そして確かな信仰を示す証しなのです。大いなる苦難が訪れる時、私たちがこの答えを揺るぎなく答えることができるためには、日頃からの信仰の鍛錬が必要でしょう。
礼拝は、そのための準備です。神と御子の御言葉を学び、日々新たにされ、私たちの信仰を養う聖霊を求め、祈りを合わせる生活をこれからも続けていきましょう。私たちの信仰は、試練の火の中でも消えることのない、神の力強い盾なのです(エフェソ6:13-17)。
神は、この言葉の重みによって、私たちを押しつぶそうとしているのではありません。むしろ、私たちを守る盾となる御言葉(と信仰)を与えてくださるのです。