2023年12月3日(日) 主日礼拝(合同礼拝)
聖書:マルコによる福音書4章30−34節
説教:「からし種」 大石啓介
1 何にたとえよう、どのようなたとえで示そう
イエス様のたとえを用いた教えも、本日で一区切りがつきます。四つのたとえ話の最後にイエス様は「からし種」のたとえ話をし、神の国についての教えをまとめていくのです。その教えに入る前に、イエス様はこのようにおっしゃっています。
「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。」(マコ4:30)
独りごとのような何気ない御言葉ですが、とても大切な御言葉として心に留めたいと思います。なぜなら、この御言葉からは、イエス様の愛を感じ取ることができるからです。皆さんも、誰かに何か物事を伝えるとき、相手の年齢や知識や経験などに配慮して、その人がわかるような言葉を選んで、説明する時があるのではないでしょうか。大切な人に、大切な物事を伝える時、人はよく悩むものです。形あるものでさえ、伝えることが難しい時があります。イエス様は新しく家族として迎え入れた人々に、「神の国」という(すでに来ているのですが)まだ人々の目が捉えきれていない出来事を伝えるわけですから、なおさら悩んだに違いありません。
また、イエス様のもとに集まっていた人々は、「神の国」を学び始めた、いわば初心者の人たちでした。律法学者のように、旧約聖書に関する知識が豊富で優れた身分の人々、また勉強が得意な人ではなかったことは、彼らの生い立ちからわかります。しかし彼らは人一倍熱心にイエス様に御言葉に耳を傾け、そして答えを尋ね求めていました(マコ4:10)。
イエス様は、人々の熱心に応えるために、また彼らの知識と経験に寄り添いながら、よく吟味して、ふさわしいたとえを選び取っておられたのでしょう。一人一人を見渡して、この人にはどのたとえを話そうか、この人にはこのたとえ話でよいだろうか、この子にはどのような言葉がいいだろうか、そう考えながらたくさんのたとえ話をお語りになったに違いありません。イエス様は一人一人の言葉にも寄り添ったのでした。他人(ひと)の言葉に寄り添うのは、簡単なことではありません。相手の生活や性格、思いをよく聞き、観察し汲み取る知恵と業、そして忍耐が必要です。教えと救いをこい願う者一人一人の心に寄り添い、言葉にも寄り添うイエス様の姿は、愛そのものです。本日のたとえ話は、イエス様の愛の姿から始まるのです。
2 「からし種」のたとえ
31節に移りましょう。イエス様はしばらく思いめぐらした後、「神の国はからし種のようなものである」と語り始めます。イエス様はこのたとえ話でもまた、「からし種」という当時の人々に身近な植物とその事柄を通して「神の国」を語ります。イエス様の人々に寄り添う柔軟な姿勢は変わりません。
イエス様が用いられた「からし種」とは、当時、野菜を漬けるための植物として、また時には医療にも用いられていたようです。直径0.95~1.6㎜、重さ1㎎の黒からしの種、またはほぼその倍の大きさの白からし種のことだと考えられています。からし種はその小ささから、「小さなもの」の代表でした。
小さなものの代表であるからし種でしたが、イエス様もたとえ話の中で「成長してどんな野菜よりも大きくなり…」とおっしゃるように、成長すると平均1.5m、ガリラヤ湖沿岸地域では3mの大きさになったようです。「種を蒔く人のたとえ」でも語られる種の成長の驚きと豊かさがここにも見られます。
この世において最も小さな種が、しかし最も大きな野菜となる。からし種のこの特徴を通してイエス様は「神の国」について語ろうとします。ただしそれは「今のところ神の国はまだ小さい。だが、だんだん拡大し、人もだんだん気づいてくる」といったような、これからの「神の国」の成長について言われているのではないことに注意したいと思います。「神の国」は「未だ」完成していないが、「すでに」に来ていること、この点に強調点が置かれていることは前のたとえ話で確認した通りです。神の国はすでに近づき、来ているのです。
イエス様は「神の国」が近づいたこと、そして現に来ていることを再三にわたって伝えています。なぜなら人々はそのことに全く気付いていなかったからです。神様に対して罪を犯し、神さまの元から離れた罪深い人間は、神さまの御心にも、神の国についても、見えていませんでした。いや、見ようとしなかったといっていいかもしれません。神様の御言葉が聞こえているのに、聞く耳を持たなかったのです。いつしかそれが常習化し、今では人々は、神さまの前に盲目となり、耳の聴こえないものとなっていったのです。
人々が神の国の到来に気づくことができたのは、イエス様の福音宣教後でした。イエス様がガリラヤ湖にきて、福音宣教を高らかに宣言したあの時以降です。その宣言を最初誰もが聞き逃し、そして気にも留めなかったのです。小さなものだと思っていました。イエス様こそ、からし種だったのです。しかしその小さな御言葉が、小さなイエス様が、悪霊を追い出し、罪を赦し、病を癒す大いなる力を持つ方でした。そして小さな御言葉が、最も大きな神の国を延べ伝えていくのです。イエス様の業と御言葉はこの世界では小さなものとみられていたことでしょう。しかし、イエス様という種がなければ、人々は神の国を見ることも入ることもできなかったのです。
32節の後半に移りましょう。ここには神の国の大きさが、からし種の成長によって表現されています。神の国は、「葉の陰に空の鳥が巣をつくれるほど大きな枝を張る」というものであることをイエス様は語ります。これは、旧約聖書の御言葉が背景にある御言葉です。本日共に聞きました旧約聖書エゼキエル書17章23節をはじめ、ダニエル書(4:9,18)、詩編(102:12)には、葉の陰に空の鳥が巣をつくる様子が描かれています。この御言葉が示すのは、神の国はすべての民と全地を包み込むということと、神の国は、すべての人の避難所となり、すべての人の命を守るということです。イエス様も旧約聖書に倣って、愛なる神さまによって統治される国の平和と平安を伝えていくのです。
人々はこの神の国の民になること願っていました。人々の願いを神さまは聞き入れ、そして神さまの御心をすべて知るイエス様が、人々のところに来られたのです。イエス様は神の国への道をはっきりと示されました。そしてついてきなさいと人々を案内し、先導します。神の国への道はイエス様のみが知っています。だから、私に従いなさい、私の言葉を聞きなさいとイエス様はこれまでも語ってきました。そして最後のたとえにおいてもこう教えるのです。
『わたしの御言葉はからし種ほどの小さな言葉に聞こえるかもしれない。けれども、そこには大いなる国が約束されている。大いなる国にたどり着くためには、この世において最も小さいとみなされていたわたしを求めなさい』。そのことを、からし種のたとえは教えるのです。イエス様を受け入れていくことは、はじめから素直にできることではないかもしれません。しかしイエス様を信じ、最も小さなものに仕え、その御言葉とともに歩むとき、必ず最も小さなものこそ最も大きなものであり、大いなる「神の子イエス・キリスト」であるという事実にたどりつくことができます。
パウロは初期のキリストの教会でうたわれていた讃美歌を引用し、フィリピの信徒の手紙でこのように証ししています。
「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず/かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ/へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。/このため、神はキリストを高く上げ、/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。/それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ/すべての舌が/「イエス・キリストは主である」と告白して/父なる神が崇められるためです。」(フィリピ2:6-11)
弟子たちは主イエスに小ささを見、そして同時に大きさを見て、神の不思議な業を喜び讃美したのです。
3 たとえを用いて語る
33節に移ります。イエス様は神の国について、そしてご自身について「多くのたとえで、人々の聞く力に応じて御言葉を語られた」のでした。4章の初めに、すべての人々の前に腰を下ろして、じっくりと話すイエス様の姿は、ここにきても変わりありません。イエス様がすべての人に平等に御言葉を聞く機会を与えられていることがわかります。イエス様の愛はすべての人々に分け隔てなく与えられているのです。
さらに聖書は、「たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」と34節にて続けます。34節の御言葉は、弟子たちへのひいきととらえてはいけないでしょう。イエス様は「聞く力に応じて御言葉を語る」方です。対話の中で、必要な言葉を語る方です。一人一人に必要な言葉をイエス様は知っています。群衆から区別された弟子たちは、イエス様と共に生活することを選び、イエス様の元に留まろうとしたのです。彼らにさらなる解説が与えられるのは当然のことでしょう。イエス様の弟子になる道はすべての人に開かれています。人々は群衆から弟子たちへと一歩踏み出す時に、神さまについて、またイエス様についての知識がより一層教えられ、深まっていくのです。イエス様と出会った人は、イエス様との出会いの中で成長していきます。人々の信仰は、からし種ほどの小さなものかもしれません。しかしイエス様と共にいるならば、それは成長し、実りが約束されていたことを思い返したいと思います。四つのたとえ話から示されたことを胸に、私たちも弟子としての歩みを始めたいと思います。
悔い改めて罪を告白し、救いを求めるこの時期に、歴史において確かに救いを与えて下さった神さまに祈り、神の子イエス・キリストの誕生を待ち望み、神の国に入る希望を抱きながら、喜びのクリスマスを迎えたいと思います。