読む礼拝


「わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。」
                     (マタイ20:14)


一番分かりにくいたとえ話?

「ぶどう園の労働者」と呼ばれるこのたとえ話は、しばしば、一番分かりにくいたとえ話と言われることがあります。それは、内容が分かりにくいということではありません。内容的にははっきりしすぎるぐらいはっきりしているその中身が納得できない、腑に落ちないと言われるのです。

 ここでは同一労働同一賃金の原則が破られていますし、コストの最小化という経営のイロハが無視されています。もしこんな経営者がいるとすれば、労働組合からも株主からも総スカンを食うことになるでしょう。このたとえ話は「ぶどう園の寛大な主人」と呼ぶべきだといわれるゆえんです。

「天国はこのようなものの国である」

 けれども、このたとえ話が分かりにくいのは現代の社会に生きる私たちだけではありません。古くからこのたとえ話について、最後の労働者も一デナリもらったのは、一時間で他の労働者と同じだけの仕事を成し遂げたからだ、といった説明がなされてきました。

 けれども、一人ならまだしも、最初に雇われた労働者以外の全員がそうだったなどとは思えませんし、何より「最後の者から順番に」との主人の言葉からすれば、この主人は一貫して、「その働きの大小、長短によらず全員に同じだけの報酬を」をと考え、それを単なる憐れみや同情としてではなく、それこそが正しい、あるべき姿であることを確信し、それを人々に示すべく、この振る舞いに及んだということになります。

 聖書は、それが神様であり神の国だと言うのです。イエス様が、人々がイエス様のところに連れてきた幼な子らを祝福して、「天国はこのような者の国である」と語られた通りです。

招き

 このたとえ話は、「天国は、ある家の主人が……出かけていくようなものである」と始まります。天国、神の国、神様が生きて働いておられるという恵みの出来事、私たちが人間の側から「信仰」と呼ぶ出来事は、神様から始まります。それは神様が私たちの所へ来てくださり、私たちに目をとめ、私たちに声をかけてくださることから始まるのです。

 信仰は、私たちが天国を目指して出発することから始まるのではありません。私たちは私たちの決意や努力から信仰を始めることはできないのです。自己中心という罪の力によってがんじがらめにされ、古い自分に足を引っ張られ、私たちはもはや自分の力では一歩も動くことができなくなっているからです。だからこそ神様の方が私たちの所に来てくださり、私たちに目を留め、私たちを招いてくださるのです。

応答

 信仰とは、この神様の招きに応え、神様についていくこと、否、神様に連れられていくことです。それはひょっとしたら最初に自分が考えていたような場所ではなく、願っていたような働きではないかもしれません。自分が自分について思っているアピールポイントを生かし、人には負けないと自負している能力を発揮することが難しいと考えるかも知れません。

 けれども、神様は、私は口下手(べた)なのでリーダーには向いていませんと召しを拒むモーセに、「だれが人に口を授けたのか。話せず、聞こえず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか」(出エジプト4:11)と叱責され、「それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」(同4:12)と励まし、背中を押してくださるのです。

 そしてイエス様は、自分が弟子の筆頭であると自負しているペテロに言われます。「よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」(ヨハネ21:18)。けれどもそれは同時に神様の恵みであり祝福であることを聖書は証しします。「これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである」。そしてイエス様は言われるのです、『わたしに従ってきなさい』。

神のぶどう畑

 この神のぶどう畑への招きには、条件や資格は必要ありません。人種や民族、年齢や健康、既婚未婚、性的指向といった、この世が問題にするような条件は一つも挙げられていません。知恵や力、経験の有無も問われません。神様は「誰も雇ってくれません」と嘆くほかない者たちにも、「私の畑に行きなさい」と声をかけてくださるのです。

 神様から「あなたは要らない。あなたは必要ない」と言われるような人はただの一人もいないのです。私たちは誰でも、どんな時にも、どんなところにいても、神様の「あなたが大切だ」「あなたが必要だ」との声を聞くことができるのです。

 信仰とは、この神様の召しと招きに「はい」と答えることです。信仰とは神様について考えることでも、論じることでもありません。それは実に単純に、神様の招きに応えて、神のぶどう畑の働き人となることなのです。

神の国の物指し

 そこでは、いつ招かれたか、どれだけ長く働いたか、どれだけの収穫を得たかは一切問題になりません。神様は、私たちが神様の招きに応えたというそのことだけで充分だと言われるのです。

 なぜなら、もし神様が私たちの行いや業績によって報いられるとしたら、私たちは誰一人神様の報いを受けることができないからです。たとえ自分では「一日じゅう、労苦と暑さを辛抱した」と思っていても、神様から見れば誰もが「何もしないで一日中立っていた」に過ぎません。

 もし神様の前に「先の者」と言うことができる存在があるとすれば、それは「十字架の死に到るまで従順であられた」イエス・キリストただお一人です。そのお方が「あと」となって、十字架の死を死んでくださったゆえに、「あとの者」である私たちは、ゆるしといのちとにあずかる者となりました。私たちの希望は、この「行いによってではなく信仰によって義とされる」こと、「先の者はあとになり、あとの者が先になる」という、神様の自由な恵みにあるのです。それは、この世の物差しとは全く別の物差しです。

「各人に各人のものを?」

 この神の国の物差しを私たちは理解できません。最初に雇われた人々のもらした不平を、私たちはむしろ当然と思ってしまいます。もちろん、働いた者がその働きに応じた対価を得ることは当然です。同一労働同一賃金の原則は守られなければなりません。けれども、この物差しだけではなお欠けているものがあることをイエス様はお教えになるのです。

 この世においては、私たちもまた労働力として一つの商品とされてしまいます。若くて力がある者や、能力や経験のある者が最初に雇われ、年齢を重ねた者や力を失った者は後回しになります。そして、病気の者や障碍をもっている者は「だれもわたしたちを雇ってくれません」となるほかありません。けれども、よくよく考えてみれば、私たちは誰もが、自分では何もできない赤子として生まれ、人の手を借りなければならない姿で地上の生涯を終える弱く、脆く、儚い存在なのです。人は「能力主義」「市場原理」「自助」だけでは生きていくことができないのです。

「生産性」と「生きるに値しない命」

「各人に各人のものを」がローマ社会の正義の定義でした。しかし帝国を築いたローマは同時に、家長が一族全員の生殺与奪の権利をもち、障碍を持って生まれたり病弱であったりした我が子を平気で棄てる社会でもありました。それが「各人に各人のものを」という正義の限界でした。

 それは今もなお、組織やシステムに対して用いられてきた「生産性」という冷たい無機質な物指しを、血の通った生きた人間に当てはめて平気でいるような社会、「(知的)障碍者は生きているだけで周りを不幸にする」などという勝手な主張のもとに多くの人々を殺傷した犯人の主張と行動とを、表面では否定しながら実質的には受け入れてしまっているような世界の中に生き延びています。

 その中にあって、教会は、馬小屋に生まれ、十字架に架けられて死んだ「マリヤの子」(当時の「私生児」の言い方)、ナザレの大工を、「生ける神の子キリスト」と信じ、告白し、その後に従って歩んできたのです。

十字架にかけられたキリストを宣べ伝える

 一デナリは、当時の労働者の一日の賃金であったと言われます。この主人は「この最後の者」も、わたしにとっては一人の立派な働き手であったと言われるのです。それはまた、一家族が一日生活していくのに必要な金額でもありました。この主人は、目の前の労働者だけではなく、その後ろにいる家族のことをも考えているのです。

 イエス様は、大きい・小さい、強い・弱い、できる・できないといったこの世の物差しを超えて、全ての者に分け隔てなく、祝福と恵みとを注いで下さる神様の恵みを指し示してくださいます。そして、その働きの期間が長かろうが短かろうが、ほんの僅かであろうが、それどころか人生の最後の一瞬(ルカ23:39-43)であろうが、変わることなく同じ報酬をお与えくださる神様の祝福をお語り下さるのです。全ての人が人として生きることのできる根拠はここにあります。 (2020年10月25日の礼拝のために)


「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」          (マタイによる福音書18:22)

そのとき

 イエス・キリストは、迷い出た1匹の羊のたとえを話された後、弟子たちに「もしあなたがたの兄弟が罪を犯すなら」と語り出されました。

 道に迷うのは、小さな子どもばかりではない。神様を知らない異邦人だけが間違うのではない、神様を知り、イエスをキリストと言い表し、その後に従っている者たちもまた道に迷い、人の道を踏み外し、神様と人の前で罪を犯すのだとイエス様は言われるのです。

 けれどもイエス様は同時に、道に迷い、的外れな生き方をし、罪と悲惨との中に滅びつつある者たちが、再び救いの道に立ち戻り、命の交わりの中に迎え入れられるための道筋をお教えになります。

ゆるしの共同体

 それは、イエス・キリストが「わたしもその中にいる」と約束してくださった「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所」すなわち教会で「心を合わせる」「願い事」、つまり祈りでした。そこに罪の告白と悔い改めの祈りがあるなら、そして罪のゆるしを求める取りなしの祈りがあるならば、神様は罪人をその罪から解き放って下さると言われたのです。

 だからこそ教会は「ゆるしの共同体」と呼ばれ、その中心にある礼拝もまた、「罪のゆるし」を中心にして整えられているのです。神の招きによって集められた者たちは、神の言葉によってその罪を知らされ、しかし同時にその赦しにあずかります。そして集められた神の民はその救いの恵みへの応答として、祈りと讃美とをささげ、善き行いをもって神の栄光を表すべくこの世に遣わされていくのです。

幾たびゆるさ「ねば」なりませんか

 けれども、私たちにはこの罪のゆるしの恵みが大きすぎて、その意味を充分に理解することができません。ペテロが、罪の赦しを恵みとしてではなく、ゆるさ「ねば」ならない義務として受け取ってしまったのはそのためです。

 パウロは、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか」と質問しました。それは、互いにゆるしあい、祈りあうことを命じられた主の言葉をペテロが真剣に受け止めたことを意味しています。ペテロは、その時、ゆるそうと思ってもゆるせない人の顔を思い起こしたのではないでしょうか。ゆるそうと思ってもゆるせない自分がいることに気がついて、ゆるしたくない、けれどもキリストの弟子としてはゆるさ「ねば」ならない、それでは、「幾たび」ゆるさなければならないのかとペテロは問うのです。

七たびを七十倍するまで

 ペテロは「七たびまでですか」と問います。その頃、多くの律法学者は、3度目まではゆるせと教えていたと言われます。ペテロは、当時の常識の2倍、それにさらに一度猶予を与えようとするのです。それはペテロにとって最大限の、ギリギリの譲歩です。

 けれどもそれは、何回目を越えたらもうゆるさなくてもよいでしょうか、何度目になったったら腹を立てて構いませんかという問いと裏腹です。そしてそこには、いくらでもゆるされるのであれば人は堕落してしまうのではないかという疑念、そしてそもそも世の中にはゆるしてはいけない罪というものがあるのではないかというペテロなりの正義感があります。

ゆるされなければならない存在

 そのときペテロは、自分はどこまでもゆるす側であると思いこんでしまっています。「あなたに天国の鍵をさずけよう」と言われたのですからそう思っても仕方がないかも知れません。けれども、天国の鍵、罪をゆるす権威は、ペテロ個人に与えられたのではありません。それは、互いにゆるし合うことができるように、キリストの弟子すべてに与えられているのです。宗教改革者ルターが「キリスト者の自由」の中で「わたしもまた隣人のために一人のキリストとなろう」と語り、「万人祭司」を訴えた通りです。

 ペテロは人をゆるすことのできる権威を与えられました。けれどもそのとき、ペテロは自分もまたゆるされなければならない存在であることを忘れてしまっているのです。イエス様は「3度わたしを知らないと言う」ことを知っておられるペテロに、ペテロがもう自分をゆるすことができなくなってしまわないように、そして「皆イエスを見捨てて逃げ去った」弟子たちが、お互い同士をゆるせなくなってしまわないように、ゆるしとは何かについてお教えになるのです。

わたしは七たびまでとは言わない

 イエス様は「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」と言われます。それは四百九十一回になったらゆるさなくてもよいというということではありません。それは、あなたはゆるしの回数に限度を設けてはならない、ということにほかなりません。

 なぜならゆるしとは、本当の人間のあり方から迷い出て、自分中心の生き方によって人と自分の命を損なって、失われつつある魂に対して、やり直すこと、生き直すことを認め、喜び、励ますことだからです。

 そして、それは何より、わたしたち自身が神様からのゆるしを受け、再出発をゆるされた者たちだからです。一国の国家予算にも匹敵する負債を負い、自分の力で返済する事など考えることさえできない僕、返済するどころか日毎に負債を増し加えるばかりの僕である者たちを神様はゆるし、やりなおすこと、再出発することをゆるしてくださった、どうしてそのあなたが兄弟をゆるさないなどという事があろうか、その再出発を喜べないはずがあろうかとイエス様は言われるのです。

一万タラントの負債

 イエス様は責任追求がいい加減でいいと言っているのではありません。むしろ「天国は王が僕たちと決算するようなものだ」と語られ、最後の一円がきっちりと合うまで責任を問われることを明らかにされます。それが神様の正義です。しかし、その時に明らかになるのは、私たちが神様に対して負っている驚くべき負債の大きさです。

 一万タラントという金額は、当時の一日の賃金といわれる一デナリの六億倍に当たります。今日の最低賃金を目安とすれば、およそ三千億円以上。おそらくこの僕は、王から任されていた領地からもたらされる税金を私的に流用していたのでしょう。それは、神様から命を与えられ、体を与えられ、多くの賜物を与えられていながら、それを自分のものであるかのように思いこんで、神様に感謝することも、従うことも、その実りを献げることもしないで、自分勝手に、無駄に、それどころか悪いことに使い果たしてしまっている私たちの姿です。王の判決は「その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返す」というものでした。神様の判決は、その通りに執行されるなら、私たちの滅び以外ではありません。人間の弱さは、神の義に耐え得ないのです。

あわれに思って

 「どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから」と哀願するしもべを、この主人は「あわれに思」われます。そして彼をゆるし、その負債を免じてや」ります。それどころか、なお僕の地位にとどめおいてくださるのです。これが、神様の私たちへのなさりようです。けれども、このしもべは仲間をあわれむことができません。そして、そのとき初めて主人はこのしもべを「悪いしもべ」と呼ぶのです。

神にゆるされた者として

 権利主張も責任追及も手控える必要はありません。ただ、その時、私たち自身が神様の前には滅ぶべき罪人であり、神様のあわれみゆえに今ここにあることをゆるされているという一点を心得なければなりません。それを失う時、私たちは互いに正義を振りかざし合いながら、結果的には全く非人間的な世界を生きるほかなくなるでしょう。「わたしがあわれんでやったように、仲間もあわれんでやるべきではなかったか」との神様の言葉に耳を傾けることこそ、弱さと欠けとを持ち、どれほど正しくあろうとしてもなお過ちを犯さざるを得ない私たちが、なお共に生きるための土台なのです。   (2020年10月18日の礼拝のために)


「するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた。」。         (創世記33:4)

四百人を率いて来るのを見

「ヤコブは目をあげ、エサウが四百人を率いて来るのを見」ます。ある意味で、それはヤコブが一番見たくなかったものでした。

 20年前、ヤコブは「年老い、目がかすんで見えなくなった」父イサクが兄エサウを祝福しようとした時、母リベカと共謀して父を騙し、エサウのふりをしてその祝福を奪いました。

 エサウはヤコブを憎み「父の喪の日も遠くはないであろう。その時、弟ヤコブを殺そう」とまで心の内に思います。それが母リベカの知るところとなって、ヤコブは母の兄ラバンのもとに逃れたのでした。

 それから20年、「兄の憤りが解けて、あなたのした事を兄が忘れるようになったならば、わたしは人をやって、あなたをそこから迎えましょう」との母の言葉にもかかわらず、ついにその知らせは届きませんでした。

 ヤコブは、怒りと憎しみに満ちた兄の顔を想像せざるを得ません。その兄が手勢400人を率いて来るとすれば、そこには破局を創造するほかなかったのです。

過去の自分と向き合うこと

 けれどもそれは、単に兄の怒りへの恐れではなかったでしょう。なぜなら、兄エサウは理由もなしに怒っているのではないからです。エサウが「よくもヤコブと名づけたものだ。彼は二度までもわたしをおしのけた。さきには、わたしの長子の特権を奪い、こんどはわたしの祝福を奪った」(27:36)と言う通りです。

 もちろんヤコブにも言い分はあったでしょう。願ったわけでも努力したわけでもなく、ただ僅かに先に母の胎から出ただけで、長子として一切の権利を手にするなどということは理解できない。それほど大切なものなら、どうして一杯のスープと引き換えになどしたのだ。父にだけ気に入れられようとして母をないがしろにしたお前が悪い。言いたいことはいくらもあったはずです。

 しかし、どれほど理屈を並べてみても、自分がしたことは決して公明正大なものではないこと、長子の権も神様の祝福も胸を張ってこれは私のものだと主張することができないことは、ヤコブ自身が一番良く知っていたはずです。

 エサウの顔は、自分の過去の振る舞いを責め、訴え、裁きを求める訴追者の顔なのです。

ヤコブは目をあげ

 ヤコブはこのエサウの顔を避け、逃げてきました。それは過去の自分の罪責に直面することを避け、逃げることでもありました。けれども、どれだけ避けようとし、逃げようとしても、それが消えたり、なくなったりすることはありません。そしてそれが残っている限り、忘れようとしても忘れることはできません。それはのど刺さった魚の小骨のように、人をちくちくと責めさいなむのです。

 これまでヤコブは目を背け、逸らし、見て見ぬ振りをしてきました。けれども、彼はついに「目をあげ、……見」ます。兄エサウに、そして自分自身の罪と過ちとに真っ直ぐ目を向けるのです。

神様との組み打ち

 そして、それを可能にしたものこそ、神様との組み打ちでした。ヤコブはヤボクの渡しで一晩中神様と挌闘し、ついに神様からの祝福とイスラエルという新しい名前を与えられます。「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。「押しのける者」「奪う者」であったヤコブは、ついに「神と挌闘する者」となったのです。

 神の祝福にあずかってはじめて、神様から新しい名前をいただいてはじめて、神様によって新しくされてはじめて、人は本当の意味で他者と向き合い、自分自身と向き合うことができるのです。

 その挌闘を、祈りであったと考えてもよいでしょう。祈っても答えられない、願っても叶わない、拒絶とも思える神様の沈黙を、神様の無言の答えとして受け止めて、さらに祈る、さらに求める、ついに自分自身の祈りが変えられ、最初の願いが別な願いへと変えられるまで祈り、求める、そして、祈りが変えられ願いが変えられる時、私たちは自分自身が変えられ、自分そのものが新しくされたことを知るのです。ヤコブが経験したこともそれと別なものではなかったはずです。

みずから彼らの前に進み

 ヤコブは「子供たちを分けてレアとラケルとふたりのつかえめとにわたし、つかえめとその子供たちをまっ先に置き、レアとその子供たちを次に置き、ラケルとヨセフを最後に置」きます。それは万一エサウに襲われても、二人の妻とその子どもたちが、せめてラケルとヨセフだけでも逃げおおせるようにとの配慮です。ヤコブは事ここに至ってもなお、自分の知恵と力とを尽くして最善を計ろうとするのです。

 けれども、ヤコブはもうこれまでのヤコブではありません。神様ときちんと向き合った者は、人に対してもきちんと向き合うことができます。ヤコブは、「みずから彼らの前に進」み、エサウと400人の手勢の前に立つのです。これまで策を弄し、逃げ隠れしてきたヤコブは、ついに自ら先頭に立ち、自分の顔を真っ直ぐに相手に向けるのです。七たび身を地にかがめヤコブは「七たび身を地にかがめて、兄に近づ」きます。それは最大限の敬意の表現であると同時に、自分の身を一切守ろうとしない、相手に全てを委ねた姿です。相手にどうされても構わい、たとえ自分の首筋に刀が振り下ろされ、首が地に落ちても悔いはない、その覚悟をもってヤコブは兄の前に進み出るのです。

 それは、単にエサウに対してのものではなかったでしょう。むしろヤコブは、エサウを通して自分に語られ、振る舞われる神様に対してこそ、身をかがめ、近づいたのではないでしょうか。神様が生きて働いておられるならば、自分のみならず兄エサイをもその手の中においておられるのであれば、神様の御心なしにエサウが自分を襲うはずがない。もしそうだとすれば、それは神様がエサウによって自分の命を召そうとされたのであり、それは神様の御心なのである。ヤコブは、この確信を持ってエサウの前に進み出たのではないでしょうか。それは、エサウにではなく、神様に一切を委ねるヤコブの信仰の表現なのです。

エサウは走ってきて迎え

「するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし」ます。それは遊牧民同士の再会のあいさつそのものです。

 エサウは怒っても、恨んでもいませんでした。その顔に殺意はなく、家族の親愛の情以外のものは浮かんでいません。二人は共に泣きます。それは、これまでのわだかまりの一切が解けて流れ去ったことを意味するでしょう。これが神様のなさることなのです。ヤコブのすべての心配は
取り越し苦労でした。ヤコブは何の心配もなく、心穏やかに、家路をたどって良かったのです。それが、「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」(28:15)と言われたことの意味だったのです。

 神様は、単に私たちが敵だと思い、障害だと考え、困難であると見なすものから私たちを守ってくださるだけではありません。私たちがそうであるとは思わないもの。むしろ味方であり利点であり好機だと思っているもの、けれども実際は私たちのいのちを損ない、隣人との関わりを傷つけるものからも私たちを守り、救ってくださるのです。そして、その最も大きなものこそ、私たちの過去、私たちの罪と過ちです。

あなたと一緒にいるこれらの者

 エサウは、ここで初めてヤコブの家族に気がつきます。それはエサウが始めからヤコブとその家族とを害するつもりなどなかったことを明らかにしています。それどころか、エサウは「わたしが出会ったあのすべての群れはどうしたのですか」と尋ねて、それが自分への贈り物であったことにすら気がつきません。ヤコブに「わが主の前に恵みを得るためです」と言われて初めてそのことに気がつき、その上で「弟よ、わたしはじゅうぶんもっている。あなたの物はあなたのものにしなさい」とどこまでも寛大な兄としての姿を示すのです。

 ヤコブは、「もしわたしがあなたの前に恵みを得るなら、どうか、わたしの手から贈り物を受けてください」と願います。それは、贈り物を自分との和解のしるしとして受け取って欲しいとの求めです。「どうかわたしが持ってきた贈り物を受けてください。神がわたしを恵まれたので、わたしはじゅうぶんもっていますから」。こう言われて初めてエサウは贈り物を受け取るのです。

神の顔を見るように

 ヤコブはこのとき、ただ兄との和解を喜んだのではありません。ヤコブは「あなたが喜んでわたしを迎えてくださるので、あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います」と語りました。それは単なるエサウへの褒め言葉やおべっかではないでしょう。ヤコブには本当にそう思えたのです。ヤコブは兄エサウを通して神様ご自身が語られ振る舞われることを信じ、何が語られ何が起こってもそれを神様からのものとして受け入れる覚悟をもってエサウの前に進み出ました。そのヤコブにとって「走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣」くエサウは、まさに神様ご自身の赦し、救い、祝福を意味していたのではないでしょうか。ヤコブはここで初めて「わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」と言われたことの意味を理解したのです。

エル・エロヘ・イスラエル

 ヤコブはついに約束の地、カナンの地のシケムの町に辿り着きます。そして、すべてのことに先立って祭壇のための土地を手に入れ、「祭壇を建てて、これをエル・エロヘ・イスラエルと名づけ」ます。それは「イスラエルの神は神である」という意味です。すなわち、イスラエルの神、ヤコブが信じた神は、本当の神である。すべてのものを造り、守り、導き、悪しきことからさえ善を生じさせることのできる生ける真の神であるとヤコブは言い表すのです。これがイスラエルの信仰です。(2020年10月11日の礼拝のために)


「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼と二人だけの所で忠告しなさい。」             (マタイによる福音書18:15)

もし

 イエス・キリストは、「もしあなたがたの兄弟が罪を犯すなら」と言われます。それは「そんなことがあるはずがないが、万一そのような事があったら」ということではありません。むしろそれは、「必ずそのような事が起こるから、そのときには」ということです。

 イエスをキリストと告白し、教会の一員となった者、イエスの後に従って歩み始めた者たちも、なお罪を犯すのです。この箇所の直前に、イエス様が「この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る」(18:7)と語っておられる通りです。

迷い出た羊

 なぜなら、聖書が教える「罪」とは、決して犯罪や不道徳的な行いということではないからです。イエス様がこの教えのすぐ前に、迷い出た羊のたとえをお語りくださったのはそのためです。

 迷い出た羊は、別に悪いことをしたのではありません。ただ迷っただけです。本来いるべき場所を離れ、歩むべき道から外れ、羊飼いの目の届かない所に出ていってしまい、そして自分からは羊飼いの元に帰ることができなくなってしまっているだけです。けれどもそれは羊にとってはまさに命の危機を意味するのです。しかし、羊飼いにとって羊がいなくなることは決して想定外ではありません。否、むしろ放っておけば羊が迷い出、命が失われてしまうからこそ、羊飼いは羊の群れに遣わされているのです。

的外れ

 聖書が罪という場合、それは文字通りには「的外れ」を意味します。行いとして何か悪いことを行っているというのではなく、存在として本来のあり方から外れてしまっているというのです。

 ここで問われているのは、神様によって神と人とを愛するように創造されたにもかかわらず、神を愛し人を愛し得ない、「本性上神と人とを憎むことに傾いている」(ハイデルベルク信仰問答、第1問答)私たち人間のあり方そのものなのです。

 本当の人間のあり方から迷い出て、自分中心の生き方によって人と自分の命を損なっている、失われつつある魂が問題なのです。イエス様はここで、不祥事を丸く収める方法ではなく、放っておいたら滅びてしまう「迷い出た羊」を救う道を示されるのです。

行って

 それゆえ、ここはむしろ「罪を犯すなら」ではなく「道に迷うなら」と言い換えた方が良いかもしれません。そこでは処罰ではなく、命を救うことが問題になっているからです。だからこそ私たちは見て見ぬ振りをしてはならないし、相手が来るの待っている余裕もありません。ここでイエス様が「行って」と言われるゆえんです。その時、私たちは、自分の意思によってである以上に、神様の意思によって道に迷う兄弟姉妹のもとに遣わされるのです。

二人だけの所で

 イエス様は「二人だけのところで忠告しなさい」と命じられます。単に事実が明らかになれば良いのではなく、人の正義感が満足すればよいのでもありません。道に迷った兄弟姉妹は、再び兄弟姉妹として交わりの中に迎え入れられなければなりません。

 パウロが「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい」(ガラテヤ6:1)と書き送った通りです。

ナタンとダビデ

 預言者ナタンは、ダビデ王がヘテびとウリヤの妻であったバテシバを奪って自分の妻とした時、神様から遣わされてダビデの許に赴きます。ナタンは開口一番で糾弾せず、問い詰めません。ダビデ自身が自分の過ちに気がつくように、自分が自分でも分からないうちにどれほどあるべき道から離れてしまったかが分かるように、沢山の羊を持つ金持ちと一匹の羊しか持たない貧しい人のたとえ話を語ります。

 人のことであれば正しい判断を下すことのできるダビデは、それが自分自身の姿であることに気がつきません。ナタンに「あなたがその人です」と言われて初めて、目から鱗が落ちるように、夢から覚めるように、ダビデは自分の罪を理解します。そして、「わたしは主に罪をおかしました」(12:13)と罪を告白します。そして神様はナタンを通して「主もまたあなたの罪を除かれました」との赦しの言葉をお語りくださるのです。これが「兄弟を得たことになる」という言葉の意味です。

もし聞かなかったら

 もちろん、「二人だけのところ」で問題が解決するとは限りません。その時には「ほかにひとりふたり」を連れて行くことが求められます。
それは、旧約の律法が「どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない」(申命記19:15)と定めているからだけではありません。

 イエス様は、「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう」と約束されました。それは、私たちが願うべき最も大切なことが、互いに重荷を負いあい、受けいれ合って、神の栄光をあらわすための祈りであるべきであるということです。

 そこでは何よりも「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」(6:12)との祈りが心から祈られることが求められているのです。

教会に申し出なさい

 それゆえ、教会への申し出は、単なる告発や弾劾ではありません。教会が何よりもそこで神の言葉が語られる場所であり、その神の言葉とは私たちに罪を知らせ、そして同時に罪の赦しが語られ、神への感謝と讃美とを生み出すものであるゆえに、それはまさに悔い改めて救われる機会を提供することを意味しています。そこには一貫して、失われつつある命を救うことが問題にされているのです。

聞かないなら

 けれども、「教会の言うことも聞かない」場合が存在します。どれほど救いの手が差し伸べられても、なお、その手を振り払い、罪の赦しを自ら拒む者は存在するのです。そのときイエス様は、「異邦人または取税人同様に扱いなさい」と、私たちの肩から重荷を取り去って下さいます。「もう充分である。あなたがたはできるだけのことをしたのだから、あとは私に任せなさい」そう主はおっしゃって下さったのです。

 けれども、それは決して最後通牒ではありません。それはイエス様が異邦人・取税人に対してなさったように私たちもするようにとの勧めです。すなわち、なお愛の対象として祈りの中に覚え、取りなすように主は命じられるのです。

わたしの名によって集まっている所

 イエス様は「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」と教えられました。罪の赦しを求め、執り成しの祈りを祈る教会の中に、そしてその祈りの輪の中にこそ私がいるとイエス様は言われます。

 私たちが地上で心を合わせるべき第一の事である、兄弟姉妹のための執り成し、罪の赦しを求める祈りを、私たちと共に、いな、私たちに先立って主ご自身が祈っておられるのです。

「あなたのために祈った」

 イエス様から「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」と言われたシモン・ペテロその人が、三度主を否むという信仰者として決定的な罪を犯します。

 けれどもイエス様は、それを知りつつ、いな、知っておられるからこそ「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31-32)と前もってお語りくださいます。このキリストの言葉と祈りのゆえにこそ、私たちは互いに重荷を負いあい、ゆるしあい、祈りあうことができるのです。それこそが「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」イエス・キリストの教会なのです。
                 (2020年10月4日の礼拝のために)

「希望は失望に終ることはない」   (ローマ人への手紙5:5)

ローマ人への手紙


 パウロの伝道生活の終わりに近い時期に、訪問しようとしているローマの教会へ向けて書かれたこの手紙は、福音を宣べ伝えようとするパウロの熱意が満ち満ちています。この手紙は、紀元56年の末から57年の初め、パウロの第三回伝道旅行の中コリントに滞在していた三か月の間に執筆された、と考えられています。ガラテヤ、アジア、マケドニヤ、アカヤ地方の伝道を終えたパウロは、諸教会から集めた献金を貧しい人々への援助金をエルサレム教会に届けに行こうとしていました。その後、長年の念願であったローマ訪問を果たし、ローマ教会の協力を得てスペイン伝道を行うことを計画していました。まだ訪れたことのないローマ教会に対し、パウロが宣べ伝えている福音がどのようなものであるか示し、スペイン伝道への協力を得ようとしてこの手紙が執筆された、と言われています。パウロにとってローマにいる聖徒たちに福音を宣べ伝えることは「切なる願い」(1:15)であり、「多年、熱望していた」(15:23)と述べられている通りです。

キリスト・イエスの僕

「ガラテヤ人への手紙」や「コリント人への第一の手紙」のように、個々の教会の具体的問題を解決するためではなく、ただひたすら、偏見や誤解なく自分の伝える福音を知っておいてもらいたい、というパウロの願いのもとにこの手紙は書かれています。それは、過去において、パウロは、12弟子とともに地上のイエス様と共に過ごしたことがないことや、かつては教会の迫害者であったことなどから、しばしば彼自身と彼の福音が誤解された経験があったためです。

 そのため、ローマ教会には、あらかじめ自分自身のことと自分の伝えようとしている福音について告げる必要がありました。もう失敗することは出来ないという強い意志をもって、パウロは自分が「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となった」(1:1)ことを示し、「わたしは福音を恥としない」と力強く宣言するとともに、彼の福音は「ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」(1:16)こと、これをすべての人に宣べ伝えることがパウロにとっての「果たすべき責任」(1:14)であると記しています。

「ローマ人への手紙」全体で福音という言葉は約60回用いられており、いかにパウロがこの言葉に重きを置いていたかがわかります。福音とは、パウロによれば、イエス・キリストを通して神から賜った救いの事実であり、イエス・キリストの十字架と復活によって罪人が救われるという事実です。ここに神の力が現れていて、「神の義は、その福音の中に啓示される」(1:17)と述べています。

信仰による義

 義とする、というのは、元々法律上の用語で、裁判官が被告に無罪を宣告することを意味する言葉です。わたしたち自身の行いとか、実質がどうであるかに関わらず、ただ恵みによって罪を赦され、無罪を宣告された、ということです。キリストの十字架の死によって無罪とされたわたしたちは、神様と和解しました。

 わたしたちは神様に喜んでいただけることを何一つしていないのに、神様は一方的にわたしたちを赦され、義人として認めてくださったのです。信仰による義、とはわたしたちと神様との新しい交わり、和らぎであり、新しい平和の実現です。この平和の仲立ちをしてくださる唯一のお方が、わたしたちの主キリストなのです。

希望

 パウロはさらに強調して「いま立っているこの恵み」と言い、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」と言います。キリストを信じる者は、世捨て人になるわけではありません。わたしたちはなお、この世を生き歩んでいます。その中でいろいろな患難に出会うことは避けられません。けれども、患難は単にマイナスではありません。そこに神様の試練としての恵みの徴候(しるし)があることをわたしたちは知っています。「患難は忍耐を生み出し」ます。この場合の「忍耐」は、ただ消極的に我慢することではなく、むしろ積極的に耐える、ゆるがない、毅然とした態度を示しています。

 練達とは、いくたびも火のような試練を通って出来上がる「品格」「品位」とでも言えるものです。そしてこの「練達は希望を」ふたたび生ずるのです。恵みと希望を喜ぶキリスト者は患難をも喜ぶことができ、さらに患難が忍耐、練達を生み、希望は失望に終らないことを知っています。

「希望」とは、この世の患難辛苦に出会い、鍛えに鍛え上げられた、練達の中から生まれる希望です。この希望は、幻のように消え去るものではなく、わたしたちを決して裏切らず、失望させません。なぜなら、この喜びは聖霊によって「わたしたちの心に注がれている」「神の愛」の賜物にほかならないからです。

 神様の愛は、キリストにおいて歴史的な事実として現れました。その事実を信仰者の心に確証させるのが「わたしたちに賜っている聖霊」の働きなのです。聖霊は、信仰において神様から注がれる生ける力であり、神様からわたしたちへの働きかけです。「わたしたちの心」は、この神様からの働きかけを受ける場所なのです。

イエス・キリストの死

 キリストの死こそ、神様の愛の実証なのだ、とパウロは語らずにおられません。人間の世界では、何らかの価値あるもののためでなければ、死ぬものはいないし、見返りなしに、無報酬で、他人のために命を捨てるものはありえません。パウロは人間同士の愛においても死ぬ人があることを否定してはいません。けれども、それは、常に相手次第であり、優しく暖かい善人のため、という極めて限定された場合です。しかし神様は、このわたしたち罪人に対するご自身の愛を表されました。

 キリストの死は、歴史的な側面からは、ユダヤ人の誤った律法の熱心と、ローマの政治家の過ちから生じた、ひとつの事件、と見ることもできます。しかしその本質は、「わたしたちのため」の、ただ一度限りの贖いの死であり、それは決して後からこしらえたものではありません。キリストは「不信心な者たちのために」「罪人であった」「わたしたちのために」「死んで下さった」のです。そして、このことによって、「神はわたしたちに対する愛を示された」のです。このことは、紛れもなく、わたしたちの身に起きた出来事であり、キリストの十字架の死は、わたしたちに対する神の愛の証明なのです。

まだ罪人であった時

「まだ罪人であった時」に、神様がわたしたちに対する愛を示された、ということは、それを受け止める能力がわたしたちにあるかどうかは全く問題とされず、わたしたちが神様に愛される能力があるかどうかも問題とされていなかった、ということです。むしろ、わたしたちが何も出来ず、見る目も聞く耳も持たず、無力であったからこそ、神様が自らわたしたちを愛して下さったことが証しされるのです。

 カルヴァンが「神は、われわれの愛によって呼び出されるのではなく、自らまずわれわれを愛した」と述べる通り、神様はわたしたちが証明できないことを、ひとり子を十字架の死に渡されることによって証明してくださいました。そのことによってわたしたちは、絶対的な確信をもって、自分たちがキリストにおいて神様に愛されていることを知っている新しい人間である、と信じることができるのです。

福音を宣べ伝える

 2020年を生きるわたしたちにとって、福音を宣べ伝えることは、パウロの時代のように直接命に関わることではないかもしれません。けれども伝道が困難であることに違いはありません。そしてこの困難な状況は、世界がコロナ禍に陥る前から、既に始まっていたことです。

 コロナに関わらず、近年、どこの日曜学校も存亡の危機にあり、どこの教会も、今、元々の教勢減少に加え、このコロナ禍により先の見えない不安の中にいて、悩み苦しんでいます。濃厚接触を避け、ソーシャルディスタンスを確保、と人との間に物理的な距離を取ることが求められていますが、教会の交わりを距離を置いて、というのはとても難しいことです。キリストの体なる教会はどうすれば体として具体的な交わりを持つことができるのでしょうか。

一人一人と教会

 今まで以上に一人一人と教会が細やかに関わっていくことが求められているのではないでしょうか。会員同士の間では、コロナ禍の前から、細やかな交わりやお支えが心がけて行われていたと思います。小会も、礼拝休止の間、郵送、メール、LINEで週報とメッセージをお届けすることを開始し、今も様々な事情で来会できない方に続けてお送りしています。そのことにより、これまで、教会においでにならなければお話しすることのなかった方々と、毎週繋がることが出来るようになりました。コロナ禍がなければ、なかったことです。

 一方で、これまで出来ていた訪問聖餐、ご病気の方を見舞う、牧師が会員の自宅を訪問する、ということは感染の危険を考えると難しくなってしまいました。まだしばらく続くであろうこのような生活の中で、いかにして主の体として具体的な交わりを作っていくのか、共に知恵と力を尽くして考えていきたい、と思うのです。

 これまでもわたしたちにとって、週ごとの礼拝は主なる神様との交わりの時として特別なものでしたが、礼拝を守ることが出来ない時を過ごしたわたしたちは、制限がありながらも、こうして主日に会堂に集って共に礼拝を守ることが出来る幸いが、大きな恵みであることを知りました。週ごとに礼拝を守ることの出来る恵みと重みを感じつつ、集められたキリストの体に属するお互いを認め合い、いたわり合い、集うことのできない兄弟姉妹にも思いを馳せながら、手立てを尽くして福音を伝えていきたい、伝えていかなければならない、と思います。

わたしは福音を恥としない

 パウロのように「わたしは福音を恥としない」と力強く宣言し、福音は「すべて信じる者に、救を得させる神の力である」こと、これをすべての人に宣べ伝えることが、キリスト者にとっての「果たすべき責任」であることを忘れずに「希望は失望に終ることはない」、との御言葉を心に炎のように灯していたい、と思います。

 パウロをはじめ、初代の信徒たちの最期ははっきりせず、パウロが手紙を送った教会もその多くは残っていません。2000年後の今、確かに残っているのは、聖書に記された御言葉のみです。それは、個々の使徒たちの活動よりも、使徒たちを通して働いた聖霊の働きこそが今に続く教会の原動力であり、使徒行伝とその後に続く手紙の真の主題にほかならないことを示しているのではないでしょうか。

 わたしたち一人一人は小さく弱いものですが、それは間違いなくキリストの体として神様によって集められた一人一人なのです。パウロや他の使徒たちを通して働いてくださった主なる神様を讃美し、聖霊を私たちの上にも注いでください、共に教会の頭であるキリストの体を形成するために仕え合いつつ、福音を宣べ伝えることが出来ますように、と祈りたいと思います。(2020年9月27日の礼拝のために)