2025年1月19日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書10章32-34節
説教:「三度目の予告」 大石啓介
1 予告前
二度に渡る死と復活の予告とそれを中心に展開された数々の教えを通して、不透明であった主イエスの死と復活の秘義が少しずつ明らかになる中、ついに三度目の予告がなされました。三度目の予告では、目的地が明かされ、死の描写はより詳細で具体的かつ現実的になっています。予告の成就の時が近づき、張り詰めた空気が物語を包み込んでいます。
この張り詰めた空気に気付いた二つの群れがいました。一つは、弟子達でした。弟子たちは二度に渡る死と復活の予告を完ぺきに理解していないまでも、主イエスの言動に敏感になっていたのでしょう。主イエスの変化に誰よりも先に反応したのです。
つまり、主イエスが首都エルサレムに先頭に立って行かれる姿を見た時、これはただ事ではないと感じ「驚く(驚き怪しむ)」θαμβέωのでした(主イエスの姿をよく見てきましたから、弟子たちはもう「恐れ」φοβέωません。
しかし、未だ驚きと困惑が弟子たちを襲っていたことがわかります)。
一方、32節には弟子たちの驚きと共に、ある人々の恐れが報告されています。それが第二の群れである「従う者たち」です。「従う者たち」は明らかに「弟子たち」とは区別された枠組みを持つ集団として登場します。
この枠組みは、マルコによる福音書に初めて登場しますので、「一体全体この者たちは誰だ?」と驚き怪しむ読者も多いかもしれませんが、それにはおよびません。
マルコによる福音書はこれまでも、何もかも捨てて主イエスに従ってきた弟子たち以外に、主イエスを信じて(遠くから近くから)御もとに集まり、御言葉を喜んで聞く人々の姿を描いています。「従う者たち」とはそういう人たちのことを指すのでしょう。しかしそれは物語にさんざん登場してきた「群衆」や「人々」という枠組みとは一線を画します。
物語の季節は過ぎ越しの祭りの時期で、それは多くの人々があちこちの町から「都に上る歌」(詩編120~134編参照)をうたいながらエルサレムに向かう時期でした。首都エルサレムに巡礼することを目指していた人々が、普段より多くの人々が主イエスの御後に従い、主イエスと共にエルサレムに上っていたと考えるのは決しておかしなことではありません。
そのような人々の内に、「従う者たち」と名付けられるほどの信仰をもった人々がいて、エルサレムにではなく、主イエスに目を向け、真剣に従っていた人々がいたのだと、マルコは報告しているといえるのです。
「従う者たち」は、求道者ともいうべき信仰に厚い人々の群れを指す言葉であり、一般的な人々よりも熱心にイエスを見つめ、イエスの教えに喜んで耳を傾けていたのです。そのため、巡礼者には気づけなった主のただならぬ姿に(弟子たちと同様に)気付き、主イエスに対する「恐れ」を抱くのでした。
興味深いことに、従う者たちが抱いた「恐れ」は、ギリシャ語原文において、以前弟子たちが抱いた「恐れ」と同じ言葉が用いられています(ギリシャ語のφοβέω)。この「恐れ」は、一般的な恐れを指す場合もありますが、福音書では神様または神の委託を受けた者の力を目の当たりにした時に経験する恐れとして用いられています。
つまり、突風を静め、湖の上を歩く主イエスの奇跡の力を目撃した時に弟子たちが経験した「恐れ」を、従う者たちが今、経験していると言えるのです(4:41,5:15,33,36,6:30,9:32,10:32,16:8参照)。「従う者たち」は、エルサレムに登るイエス様の姿を見て、神様または神の委託を受けた者の力を目の当たりにし、並々ならぬ恐れを経験したということになります(信仰が成長し、信仰の目が開かれたといっても過言ではないでしょう)。
「死と復活の予告」は弟子たちにのみ告げられた予告です。それは一度目と二度目の予告を振り返っていただければわかります。「従う者たち」には「死と復活の予告」は一度も伝えられていないにも関わらず、従う者たちは、先頭を立ってエルサレムに行く主イエスの姿に、主がただ巡礼の旅に来たのではないこと、ただならぬ覚悟をもって歩み進めていることを察知したのであります。
彼ら彼女らが主をよく見ていたことがここにわかります。「従う者たち」は、神の前に立つ「恐れ」を、主の内に感じる信仰者であったのです。彼ら彼女らは一足遅く弟子たちが経験した「恐れ」に出会いますが、主の近くに、彼ら彼女らのような信仰者がいることを忘れてはいけないでしょう。主イエスは、弟子達だけではなく、このような者たちと共に、十字架の道を歩んでいかれるのです。
※この恐れは、神様との出会いにおいて必然的に起こる恐れです。人は真に神に出会う時、恐れを抱きます。なぜなら、人智を越えた存在に出会い、その力を知るからです。その恐れによって人は、今まで神から離れていたこと、無理解であることを思い知らされます。しかし大切なのは、この恐れは主に従う信仰によって克服が可能な恐れであるということです。
主イエスに従い、神を知ることで悔い改め、罪を告白し、主イエスによって恐れは払拭され、恵みと幸いへと導かれる事を知るからです。その意味で、恐れは信仰の初めです(箴言1:7)。ここから信仰は成長していくのでしょう。
2 三度目の死と復活の予告
主イエスは、弟子たちと従う者たちがそれぞれ感じた思いを察知したことでしょう。しかし、すべての従者に声をかけるのではなく、十二人の使徒たちを呼び寄せ、彼らにだけ死と復活の予告をします。このような限定的な啓示は決して特別なことではありません。
山上における主の変貌と神様の「私の愛する子。これに従え」という御言葉が三人の使徒(ペトロとヤコブとヨハネ)のみに与えられたことからもわかるように、啓示はふさわしい時に、ふさわしい人々に与えられるものです。「聞く力に応じて御言葉を語られる」主イエスですから(マコ4:33)、ここでも弟子たちの信仰の成長度合いに合わせて、語られたのでしょう。
さて、主イエスは、十二使徒にこれから起こる事を以前よりもはっきりとお示しになります。まず「今、私たちはエルサレムへと上っていく」と語り、エルサレムが受難の地であることを告げます。目的地の発表は、すでに受けた予告の成就が近いことを示します。
次に主は「人の子は引き渡される」とおっしゃいます(余談ですが、ここからは十字架の死の前後に実際起こった出来事、つまりマル14章以下を参照にしつつご覧ください)。この予告は、三つの予告すべてに登場する、主の受難を表す特徴ある言葉です。
しかし、いったい誰が主を引き渡すのかは明らかにされていません。この後の展開はそれを、十二使徒のひとりであるイスカリオテのユダとしています(マコ14:10)。確かにその通りですが、しかし深い意味において使徒パウロはこれを、父なる神であるとしています(ロマ8:32)。そして、主イエスも、御自身を引き渡すのは父なる神であることをご存じだったようです。
主イエスは、父なる神の御心の成就のために歩みを進めています(マコ1:11。またマコ14:32-42)。そして主イエスは、父なる神のみこころにそって、ご自身を引き渡すために、エルサレムに登っていくのです(マコ14:22)。
では、主の身柄を受け取るのは誰でしょうか。三度目の予告でそれは、「祭司長たちや律法学者たち」となっています。一度目の予告の「長老」について言及されていませんが、長老もこの箇所に入ります(マコ14:43)。主イエスは、宗教的指導者の身柄に引き渡されることを予告します(これは、主イエスの言動が宗教問題に抵触することを意味しています)。
しかし、二度目の予告には「人々」とあり、この範囲が拡大されています。つまり「すべての人々」が主の身柄を受け取るのです。これは重要な視点です。主イエスはゲツセマネでの祈りの後、「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される」と語りますが(マコ14:41)、その直後に、イスカリオテのユダ、祭司長たち、律法学者たち、そして長老たちが遣わした群衆(この群衆はマコ15:13でも祭司長たちに先導され、主イエスを「十字架につけろ」と叫びます)が姿を現します。
主が言及した「罪人たち」とはこの人たちのことを指すことは間違いないでしょう。しかしそれだけにはとどまりません。弟子たちは主のもとから逃げ出し、主イエスの元には誰も残らなかったのですから、すべての人々が同じく罪人なのです。主は「律法学者」「祭司長」「長老」そして「人々」に引き渡され、彼ら彼女らによって死刑を宣告されるのです。
その後「異邦人に引き渡され…彼らは死刑を宣告し」との予告が続きます。三度目の予告にて初めて、異邦人、すなわちローマ人に引き渡され、彼らによって処刑されるという予告がなされます。当時ユダヤ教の制度では、異端や冒涜を裁判することはできますが、刑を執行する権能はローマ人によって取り上げていました。
予告通り15章にて主は総督ピラトに引き渡されます(これは、主イエスの言動が、宗教問題に抵触するのみでなく、政治問題に抵触がすることを示します。主イエスが対決していたのが、ユダヤの宗教制度とローマ帝国であることがここに示されています)。
「引き渡し」から始まり、異邦人の死刑宣告へとつながった一連の流れは、異邦人による三つの暴力、つまり「嘲り」、「唾をかけ」、「鞭を打つ」といった暴力へとつながることが次に予告されています。それはマルコによる福音書15章16節以下に実現するのですが、人の子であり神の御子を十字架の死へとおいやる一連の人間の行動が、残虐さを増す描写が生々しく描かれております。
そして、その行為は最終的に「殺人」へとつながることが予告されます。この予告によって明らかにされるのは、十字架の死が正しき刑罰ではないということです。つまりそれは、すべての人々による殺人であるということが明らかにされます。
そしてすべての人の罪が、正しき人を十字架にかけることを意味します。ただ予告だけではなく、人間の罪の結果としての十字架が明らかにされているのです。
しかし、それで終わるのではありません。死は復活へと繋がります。ここで注目したいのは、主は死から復活への橋渡しに「そして」という言葉を用いているということです。出来事は「しかし」で繋がれておらず、人間の行動に抵抗したり、妨げたりしていません。この一言は、神の御心が人間の罪にも「関わらず」実行されるのではないことを示しています。
「主の十字架は、主の栄光の原因である」とある神学者は語ります。主イエスの十字架は、復活の後には忘れてかまわないような、単なる偶然の出来事ではないからです。父なる神の御心に従順であった主によって、順当に物事が進むことを「そして」という言葉が示しています。そしてそれは、旧約聖書における預言が主イエスキリストにおいて成就するという順当の中にあるということでもあります。
詩編94編21節「彼らは正しき人の命を狙って結託し潔白な人の血を罪に定める」という御言葉通りに人々は主を引き渡し、詩編22編7節以下のように「嘲り」(および詩編31:13,35:15-16,39:9,42:11など参照)、イザヤ書50章6節のように唾を吐き、詩編73編14節のように打ち、懲らしめを与える人々の行為を、主イエスが受け止め、人々の罪を十字架上にて贖ってくださるために、必要だったのです。
主は後におっしゃいます。「人の子は…多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マコ10:45)。主イエスは父なる神の御心のままにまっすぐ進まれているのです。
すべての出来事が、「そして、三日後に復活する」という御言葉に集約され集中されていきます。ここに最大の力点が置かれます。どの予告も、復活の記事は、受難のそれと比べると、極端に簡略です。そこにはもはや、注釈も、前置きも、加筆もいらない。「三日目に復活する。」この言葉は真実であり、この言葉がすべてであると主はおっしゃっているのでしょう。
「死を復活にまで突き抜ける道」(渡辺信夫)を主は開かれ、先頭に立ち歩まれます。主が私たちの道を備え、まっすぐ整えられます(マコ1:3)。驚きと恐れが私たちを襲うとも、私たちは心を強くして、その道を歩むことに専念したいと思います。
2025年1月12日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書10章28-31節
説教:「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」 大石啓介
1 弟子たちの主張
ひとつの熱心な魂が、キリストを求めてきていながら、キリストからの求めに応じることができず、悩みながら去っていきました。主に従えなかった男の結末と自分たちに向けられた御言葉を聴き、ペトロは次のように言います。
「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。」
ペトロの言葉は、今までの出来事を逡巡した結果出たものでありました。彼一人がこの問いにたどり着いたわけではありません。文中に「私たち」とあるようにペトロの言葉は(この時も)弟子全体の思いを代弁しています。弟子たちが主の御言葉の真意を知るために、互いに語り合っていたことは26節から明らかです。
そこでは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」「子よ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」との御言葉に心底驚き、神の国に入ることの難しさを悟った弟子たちが、「それでは、誰が救われることができるだろうか」と互いに言っていたと確かに記録されています。
その様子をご覧になった主イエスは、「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」と教えています。しかし弟子たちは自分たちの内に湧き出た驚きを払拭できませんでした。いやそれどころか、28節の言葉をよくよく細かく分析すると、弟子たちはますます不安を募らせていたのではないかとの考えに至るのです。
ペトロの言葉にもう一度注目しましょう。まず「このとおり」という言葉ですが、ここには注目を集める時によく用いられるギリシャ語がつかわれています。直訳するならば「ご覧ください」となります。
またここにはギリシャ語の文法で命令形が用いられていますから、さらに強く「ご覧なさい!」という風に訳すこともできます。つまりペトロと弟子たちはこのとき必死に、自分たちを見てほしい、自分たちに目を向けてほしいと、主に懇願していると言えます。
弟子たちが主に見てほしかったのは、何もかも捨てて従ってきた自分たちの姿でした。「私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。」この言葉には、自己肯定、自己憐憫、そして誇り…様々な思いが含まれていると考えられます。
彼らがこう訴えるのは「神の国に入るのは難しい」「人間にはできない」と言われたからに他なりません。彼らは「主に従う」ことが救いへとつながる手段だと信じてこれまで歩んできましたし、家や家族、そして仕事のすべてを後にして(捨てて)まで主に従っています。
主は21節にて「持っている物を売り払い、貧しい人々に分け与え、それから私に従え」と命じておられるのですから、それを達成できている自分たちは神の国にて救われると、22節の段階では確信したことでしょう。
しかし、続く23節から27節にて弟子たちに向けて語られた御言葉は、弟子たちの思いに相反するものでした。では「誰が救われるのか」「もしかしたら私たちも救われないのではないか」と言う問いが生まれてくるのは当然でしょう。しかしその焦燥が、弟子たちの視野を狭くし、耳を閉ざし、心を頑なにしていくのです。
思い返してください。マルコによる福音書は「見る」という言葉を(わざわざ)多用し、主の目がすでに弟子たちを捕えていたことを報告しています。加えて、主の瞳には慈しみが溢れていていました。
「見てください!」との訴えは、「目があっても見えない」弟子達の状況を物語っています。御言葉の一部だけを汲み取り、焦り、盲目となり、主のまなざしを捉える事が出来なくなっていたのです。
もう一点。それは、主イエスがすでに「人にはできない」と断言されているにも関わらず、自らの功績を訴えた点です。これは、主の御言葉を受け入れないことであります。
更に彼らは、「神にはできる。神には何でもできるからだ。」という御言葉に全く耳を傾けていません。神に集中すること、神により頼むことをせず、自分たちの功績に縋り付き、一縷(いちる)の望みを託しているのです。「耳があっても聞こえない」弟子たちの姿がそこにあるのでした。
弟子たちの訴えから、彼らの「目があっても見えず、耳があっても聞こえない」状況を見て来ました。それはつまり、主イエスの御言葉を真には理解していないこと、そして「心が頑なになっている」ことの表れでもあります。引き続く弟子の無理解に、読者は時にやきもきし、弟子たちを批判的にみてしまいます。
しかし、弱い弟子たちを受け入れないのであれば、私たちもまた、「小さな者を受け入れよ」という主の御言葉を蔑ろにしていることになるでしょう。
主の御言葉に打ち砕かれ、取り乱し、盲目になり、自分たちの功績にすがる弱い弟子達でしたが、主の元から立ち去らない強さをも秘めています。幾度となく失態をさらしながらも、主に従いゆく弟子たちを、主は「子たちよ」と受け止めていることにも注目しましょう。主が受け入れているのです。
わたしたちもまた、弟子たちを受け入れ、共に歩む味方として迎え入れるべきです(私たちもまた「小さな者」を受け入れていかなければいけません。共に苦しみを共有し、驚きと悲しみを共有し、共に歩む私たちでありたいと思います)。
2 主の御言葉
さて、これまで弟子たちの言葉に注目してきましたが、ここから再び主の御言葉に注目しましょう。先ほども言いました通り、主は終始、慈しみをもって弟子たちに臨んでいますから、29節以下の御言葉も、厳しいながらも、主の慈しみの御言葉として聞くべきでしょう(主は決して叱ってはいません)。
主はまず「よく言っておく」と言います。これは「アーメン」であり、重要な御言葉を啓示する合図でもあります。主が明らかにされたことは、「私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を百倍受け、来るべき世では永遠の命を受ける。」という約束でした。これは百倍の恵みと永遠の命の約束です。
この約束の中心は、「わたしのため、福音のために」です。主は、豊かな恵みに与るため、物事の中心に私と福音を据えなさいと命じておられます。事柄の中心点への集中。捨てるのは何のためであるべきかを主は教えておられるのです。
これの究極の意味は、何もかも捨てて、主の御後に従う事を意味していると言ってよいでしょう。そうすることにおいて一時の損失と迫害を越える恵みが与えられると主は約束なさいます。
大切なことはその恵みが今、この時代に与えられると主は約束しておられることです。来るべき世の恵み約束とは別に、今与えられる恵みの約束があるのです。来るべき世における永遠の命も、しっかりととらえねばならないものですが、今のことがまず説かれます。
信仰は、来るべき世と関わるに劣らず、今の生に関わるのです。今の生を生きる中「わたしのため、福音のために」という御言葉の通り、主と福音を中央に据えることにより、かなたの目標がかわるだけでなく、現実が変わるのです。
ここで主が約束された恵みというのは、神の家、教会のことであり、教会の交わりのうちにある兄弟・姉妹のことでしょう。主イエスご自身、ナザレの家族を捨てましたが(厳密にいえば「神を前(先)にし、家族を後にして」と言った方がよいかもしれません)、3章34節、35節で「見なさい。ここに私の母、わたしのきょうだいがいる。神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言い、新しい家族が与えられたことを語っておられます。
では、百倍の畑とは何でしょうか。これは互いの必要に応じて分かち合う物質のことでしょう。初代教会はそのようにしていたことを、使徒言行録2章44節以下や、4章32節以下が語っています。人は己の財産に固執せず、これを兄弟姉妹と共にわけあうとき、かつて味わい知らなかったすばらしい豊かさの中に生きることができたのです。
信仰者たちは失ったものにまさった恵みを受けました。百倍とは量的な意味ではなく、質的な意味においてであることは明確です。恵みを経験した使徒パウロは、失ったものを塵芥と見做しています(フィリ3:8)。
主と福音のために生きる人々に今訪れる恵みを約束した後、それに加えて、来るべき世における報い、すなわち永遠の命が約束します。10章17節で問われた永遠の命への回答がここにきてついに明かされます。読者はここに、主が順序たててすべてを説明されていたことに気付きます。
永遠の命の問題の解答を得るためには、段階を経なければいけなかったのでしょう。神に集中すること、神の御心を知り律法を真に守る事、神の国に入ることは人には難しいことを知り、しかし神には何でもできることを知る。その後に、主と福音を中心に据え、何もかも捨てて主イエスと福音に従いゆく道において、百倍もの豊かさを今味合うことができ、その恵みの中で来るべき神の国での永遠の命が明確になっていくのです。
3「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」
このような恵みの約束の終わりに、主イエスは「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と語ります。なぞかけのような御言葉ですが、来るべき世に起こる出来事を示しているのでしょう。この御言葉は先に語られた「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい」と共に、世界秩序の転換を説く御言葉となります。
神の国の問題はこの世の現実の問題と深く関わりあっているのです。私たちは、神の国で永遠の命を得るために、今まさに、この世の秩序を捨て、神の国の秩序を身につけなければいけません。
主は教えます。神の国では、この世の「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」のだから、この世において先にいることを望まず、むしろ後にいること。自分自身を前に出さず、むしろ主を中心に据え、その後ろに下がる事。すべての人の上に立つのではなく、すべての人に仕える者になること。これを目指すようにと主はおっしゃるのです。
なかなか難しいことですが、しかし主に従う歩みの中で、これらは実現していくことは29節と30節で語られている通りです。神の国を知り、神の国において真に正しい人、真に先である人、それはこの世においてすべての人の後になり、十字架の上で死において、すべての人に仕える主イエス・キリストが私たちを導いてくださるのですから、恐れることはありません。主が共に歩んでくださる中に、恵みは実現します。
私のために、福音のために、捨て迫害を受けるものは、今この世で、百倍の恵みを受け、来るべき世では永遠の命を受ける。この御言葉は真実です。なぜなら、「人にはできないが、神にはなんでもできる」からです。そして事実、教会において、その約束が実現しています。
私たちは今この場においてすでに、百倍に近づく恵みを受けています。家、兄弟、姉妹、母、子ども、そして畑を受けています。主の御言葉を信じ、主を中心に添え、主に従って歩む喜びがある今を覚え、感謝してその道をこれからも歩んでいきたいと思います。
2025年1月5日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書10章23-27節
説教:「神には何でもできる」 大石啓介
1 慈しみ深きイエス様
『「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に分け与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」彼はこの言葉に顔を曇らせ、悩みつつ立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。』
イエス様に走り寄りひざまずいて「永遠の命を受け継ぐにはどうすればよいか」と尋ねた男は、イエス様の御言葉に信仰が打ち砕かれ、悩みつつ立ち去っていきました。イエス様は男の後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと見詰めていたと思われます。
イエス様は、彼を慈しんでおられました。慈しみ、それは愛を具体的に表現する行為の一つです。慈しみは、時には眼差しから、また差し伸べられる手から、時には口から出る厳しい御言葉からさえもあふれ出します(それはまるで、崖に落ちそうになっている子どもを叱る父親のように!)。
そのような慈しみを、イエス様は男に向けていました。しかし男は残念ながらイエス様の目と口から溢れる愛に(その時すぐに)気づくことができず、ただ御言葉の厳しさに打ちのめされて、イエス様の元を立ち去ってしまったのです。
実に、「聞く耳のある者は聞きなさい」(マコ4:9)という命令に従うだけでなく、目でイエス様を捉えなければ、イエス様の御心を(さらにはその先にある神様のみこころを)悟ることはできません(マコ8:18参照)。
確かに、イエス様が悔い改めを迫るとき、自分自身を捨てるように命じる御言葉が響く時もあります。御言葉は厳しさを帯びるのです。
しかし御言葉を語るイエス様の姿を見るならば、その厳しさは愛ゆえに生じるもののであり、慈しみを帯びていることを悟るのです(8章14節以降、見ることに関する話題や動詞が増えていくのですが、本物語でも「見る」という言葉がたくさん出てきます。主の御心はただ御言葉を聴くだけでは真意を悟ることはできないことを、マルコによる福音書が伝えているようです。福音書を読む私たちは、マルコが伝えるメッセージに従い、イエス様の御言葉と、愛の仕草にも目を向け、御心を悟ることに集中していきたいと思います)。
さて、男を見送った後、イエス様はご自身の弟子たちの方を見回しました。「子たちよ」という愛に溢れた呼びかけからもわかるように、弟子たちを見回すイエス様の瞳には、男を見つめた時以上の慈しみに満ちています。イエス様は愛情をこめて、弟子たちを見回し、語り掛けるのです。
愛は、喜びだけではなく悲しみをも共有します。この時イエス様は、悲しみを共有するように、そして弟子達には彼のように立ち去ってほしくないと訴えるように、語り掛けるのでした(しかし、残念ながら弟子たちはこの後、主のもとを立ち去ってしまうのです。すべてを霊の力でご存じである主は、彼らの行く末をすでに案じていたのかもしれません)。
2 神の国に入るには、なんと難しいことか
慈しみのまなざしと共に「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」とイエス様は宣言されます(マタイによる福音書(6:24)ではさらに厳しく「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と教えられています。これは、富を持てば信仰が不順になる、という程度の教えではありません。
富はこの世の支配原理であり、その支配にある内は、神の国に入ることはできないという教えです)。真に男は、財産があるためにイエス様のもとを立ち去ったのですから、この御言葉は真実です。さらに続けてイエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」と語ります。
金持ちが神の国に入る困難さがどれぐらい困難かを、たとえをもちいて示します(この比喩がエルサレム城壁の一城門に由来するという推論には根拠がないようです)。
しかしいくらたとえとはいえ、らくだが針の穴をくぐるのは、困難というべきでなく、不可能であります。つまりイエス様は、財産を持つ人、富める人、金持ちは神の国に入ることはできないのだと端的におっしゃるのです。神の国へ金持ちが入ることを禁止しているといっても過言ではありません。
なぜこうも厳しいのでしょうか。それはイエス様の時代にはびこる富の悲惨さがあったからでしょう。富は人の心をとらえ、奴隷にします。人間の魂は容易に物質のとりこに陥るものです。その結果、自ら富を手放すことなく、分け与えることなく、ついには貧しい人の持つ物さえ奪います。
もちろん金持ちの中には、貧しい人への施しを行う人たちもいたことでしょう。しかし彼らの大半は、自己満足のために行っていたのであり、すべての富を放棄してまで貧しい者と共に過ごそうとする人はいませんでした。彼らは地上に富を積み上げるばかりで、天に富を積むことができていなかったのです。
富のそのような現実は、使徒たちの時代の書物の内にも語られています。(先週も取り上げました)テモテの手紙は、富の魔の手が信仰者に迫り、「金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、さまざまな苦痛で我が身を刺し貫いた者たちがいた」ことを報告しています。
更にそのような現実の中で、「金銭の欲は諸悪の根源」(Ⅰテモ6:10)と結論付けます。「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまな欲望に陥」ると注意しています(Ⅰテモ6:9)。信仰者をも虜にする富・お金・財産の力は、先週共に聴いた金持ちの男の物語を例に挙げるだけでも明らかでしょう。
男は信仰に厚く、鋭い問題意識と求道心を持ち、さらに神様を愛し、律法に従順でした。しかし、財産を手放す決断はできなかったのです。この若くて優秀な議員でもある男の信仰心ですら困難だったのですから、まして信仰の弱い弟子たちは(そして私たちも)、この力に太刀打ちできないでしょう。
金銭欲への警告は、強い言葉となって響きます。イエス様は、徹底的なほどに、財産を持つ者が神の国へ入ることは難しいと訴えるのです。
では金持ちだけに厳しい入国審査が待っているのでしょうか。そうではありません。イエス様は前回、十戒の隣人愛の戒め(つまり、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えという戒め)を用いて、男の欠けをご指摘していることに注目したいと思います。
17節から続く一連の物語において、イエス様が男にご指摘なさったのは、財産を持つことから生じる隣人愛の欠けでした。隣人愛は、律法の最も重要な戒めの一つであり、隣人愛の欠如は神様の法への違反です。男は別に金持ちであることによって欠けていたのではなく、隣人への愛が欠けていたからこそ、その信仰は欠けていたのです。
信仰の欠けを補うためには、隣人を愛することを実際に行わなければいけません。男の場合それは、「財産を売り貧しい人に分け与える」ということでした。この事実に男の信仰は打ちのめされ、その場を悩みながら去って行ったのです。
弟子たちはこの一連の出来事を側で見聞きしていたのですが、男に起こった出来事が自分たちにも起こる可能性(いや、すでにおこっていること)を悟らなければならないでしょう。
つまり、隣人愛の欠如から生じる信仰の問題は、財産の有無にかかわる問題ではないということです。それは全人類の問題であり、イエス様に従う人にとってはなおのこと真剣に取り組まなければならない問題です。イエス様が、24節にて「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。」とわざわざ言い直されているのはそのためでしょう。
私たちはここに、順番を整理しなければいけません。先の物語、つまり、金持ちの男との出会いを通して、イエス様はその結論として「財産のある者が神の国に入るのは難しい」と教えております。そのためなんとなく、「財産のある者の問題」が主題であり、その他の人間は関係ないという考えに至りそうですが、そうではないのです。
財産のあるなしにかかわらず、神の国に入ることは人間には難しいことだと語る24節の御言葉こそ、大前提なのです。私たちが第一に悟らなければならないのは、「神の国に入ることは難しい」ということであり、それゆえに「財産のある者が神の国に入るのは(なおのこと)難しい」のであり、金銭の誘惑に陥る「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」のです。
つまり、一般人でも難しいのであるから、金持ちは言わずもがな、なのです。その御言葉通り、弟子達もまた神の国に入る難しさを実感することになります。
3 弟子たちの驚き
弟子たちはイエス様の御言葉を聞いて驚きました。この時の驚きは、単純な驚き以上のものであります。この驚きは旧約聖書の中によく出て来る表現で、決定的なことが起こる日、人々は予想とあまりにも違うので、驚き怪しむといった意味となります(エレ4:9,イザヤ52:14参照)。
弟子たちもきたるべき救いについて、これまでいろいろと考えており、イエス様との旅路の中で、それを理解していると考えていました。
しかし、弟子たちは、自分たちが出した答えと違うイエス様の答えに大層驚き怪しんだのです。弟子たちの二度に渡る驚きが記されておりますが、彼らは徹底的に驚いたのです。この時の弟子たちもまた、持っていた知識や信念が、根底から覆る経験をしています。
そして彼らは、自らの救いの確信がぐらつき、思わず、自分たちは救いに与ることができるのかを(まさに先ほど立ち去った金持ちの男のように!)イエス様に問うことになるのですが、それは次週のお話です。
さて、イエス様の言葉は、弟子たちの驕り高ぶりをも打ち砕く言葉でありました。イエス様は御言葉をもって、金持ちの男の隣人愛の欠如を指摘し、律法を守り知っていると豪語する男の驕りを打ち砕きました。今その言葉が、弟子たちに向けられています。
弟子たちはこの御言葉を通して、自分たちが、金持ちの男と同様に、おごり高ぶっていた自分たちの姿を振り返り見つめなければなりません。弟子たちは、誰が一番偉いのかを言い合い、味方の善行をやめさせようとし、子どもたちをイエス様から遠ざけようとしました。弟子たちもまた、隣人愛に欠けていたのです。
弟子たちはイエス様のご指摘に気付いたのでしょうか。「それでは誰が救われることができるのだろうか」と互いに言い合うのです。
イエス様は、金持ちがその財産をもって神の国に入るのは難しいように、人は人間の力やあり方を頼りにしている限り、神の国に入るのは不可能であると語ります。
そして、御言葉に驚く弟子たちを、再び見つめて、次にように言われます。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」これは救いの御言葉です。「人にはできない。」それがイエス様の答えであります。
しかし、「人にはできないことも、神様にはできる。なぜなら神様は何でもできる」と続いているところに救いがあります。イエス様は、この世や人の思いや行いに救いを求めるのではなく、神様に集中するように促しているのです。
神様が人を神の国に導くのであり、神様に主権があるのですから、救いを主に求めることは当然です。神様の自由な意志により、人は救われることをイエス様は強調して語ります。
「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」
この御言葉をどれだけの人が信じているでしょうか。信仰者の人々はどれだけこの言葉に感謝し、喜び、「然り」と告白しているでしょうか。今一度この御言葉に立ち帰り、この御言葉を刻み込まなければなりません。
お話は続きますが、今週はこの御言葉を繰り返し聴くことに集中し、話を閉じたいと思います。
2024年12月29日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書10章17-22節
説教:「天に宝を積む」 大石啓介
1 ふりかえり
(マルコによる福音書では)二度目の十字架の死と復活告知から三度目の告知までの間に、主イエスの「小さな者」に関する三つの物語が連続して語られています。
これら三つの物語に共通する教えは、端的に言えば、「小さな者を受け入れる事」となります。最初の物語では小さな者を受け入れる前提条件が語られ、何よりもまず自分自身が小さな者となるようにと命じられました。
つまり主イエスは「すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい」と命じたのです。次に、子どもや味方といった主イエスを信じる小さな者を受け入よと命じます。それは具体的な事例(実践)の中で教えたことです。
そして、離縁問題について問われた主は、天地創造時の男女の関係から、「神が結び合せてくださったものを離してはならない」と語り、それを人間関係にまで拡張させ、創世記の秩序を小さな者を受け入れる根拠としてお示になるのでした。
こうして、私たち自身との関係(教会の中)と、そして私たちと他の人々との関係(教会の外)について語られていきます。そして、一連の物語の締めとして、本物語が登場し、私たちの運命を左右する物質的なものとの関係に焦点があてられ、「小さな者を受け入れること」の物語群は閉じられていくのです。
2 金持ちの男
17節をご覧ください。子どもたちへの祝福を終えた後、主イエスの旅が再開します。旅の目的地は未だ明かされていませんが、この道が十字架へと繋がっていることは明らかです。
マルコは目的地を秘密にすることにおいて、この旅の目的が目的地に到着することではないことを強調しているのでしょう。目的地の秘密は、主イエスの旅の目的を明確にします。主イエスの目的は、父なる神様の御心の成就です。父の目的を適えるために、主がここに再び道に出て行かれるのです。
17節の導入は、十字架を背負う緊張の中にあります。それゆえに、十字架への道の途上で語られる物語もまた、御心の成就のための教えが込められているといっても過言ではないでしょう。読者は緊張をもって、物語に真剣に耳を傾けなければならないのです。
さらに、本物語の重要性は、共観福音書記者たちが各々の福音書にこの物語を載せていることからもわかります(マタイは男を青年と呼び、ルカは議員だと言っております。マルコは年齢や身分については全く言及しておりません。
マルコはイエス様との出会いにあたって、年齢や身分ではなく、富める者であるかどうかの問題に集中しています)。このことは同時に、キリスト教界の内に、金銭の欲の問題が根強く残っていたことを物語っています。
例えば、牧会書簡の内に収められた第一テモテへの手紙には、金銭を追い求めて信仰から迷い出るものがいる現実が語られ、金銭の欲は諸悪の根源を退けなさいと注意喚起されています(Ⅰテモ6:8-10)。
この例からもわかるように、富の問題は、当時の社会において、またキリスト教界において、大きな問題となっていたのでしょう。それゆえに、主イエスと金持ちの男を巡る一連の物語は、キリスト教界の大きな関心であり、私たちの問題とも直結していると言えるのです。
さて、主イエスが道に出て行かれると、ある人が走り寄ってきました。走り寄ってくるほどですから、彼は内面に非常な飢えと渇きを覚えていたようです。飢え乾く魂にとっては、一瞬一瞬がかけがえのない時です。今は会えなくても、またの機会がある、というふうに考えることはできないのです。
どうしても、今日、イエス様にお会いしなければならないと、彼は思い詰めたのです。そして、かけよってひざまずくのでした。
彼がひざまずき問うたのは、永遠の命についてでありました。永遠の命の問題については、聖書の内に頻繁に語られる言葉であり、ユダヤ人でも心ある人々は追い求めていたものです。永遠の命とは、いつまでも長生きするというような意味ではなく、また哲学的な概念でもありません。
「永遠の命を受け継ぐには」という彼の問いからもわかるように、現世のいのちが絶たれても、その彼方において、永遠の国の世継ぎとなることができるとの当時の教えに則った考えです。つまり彼は、「来るべき永遠の国、つまり神の国において世継ぎとなり、永遠の命を受け継ぎとなるためにはどうすればよいか」と、イエス様に問うているのです。
当時のユダヤ人の中には、イスラエルの民はみな神の民なのだから、すべて永遠の命を神の国において受け継ぐのだ、と教えがありました。しかし彼は「はたしてそうであろうか」と疑っていたのです。
ファリサイ派の教師が「世は惰眠をむさぼっているが、選民である私たちだけは目を覚まして、戒律をきびしく守り通すことによって、永遠の命の世継ぎになるのだ」と断言しているのを彼は受け入れ、教えられたとおりに実行しながらも、「はたして自分は救われるのだろうか」と自問自答を繰り返していたようです。
その自問自答の末に、彼がたどり着いた相談相手は、自分の師でもなく、友でも家族でもなく、主イエスでした。彼は主イエスの説教を聴いていたのでしょう。今までにない権威ある教えに、「この方こそ自分の悩みを本当に理解し、解決してくれる善き先生である」と直観しました。彼は主イエスを「善き先生」と呼び、自身の中に渦巻く問題を吐露するのでした。
3 天に富を積みなさい
男の問いに対し、主はまずご自身を「善き先生」と呼ぶ彼の根拠を尋ねます(主は今回と言い、ファリサイ派の人々との対話の場面といい、宗教的な学びに親しい人には厳しさをのぞかせます)。主イエスは彼を冷たくあしらったわけではありません。
「なぜ私を『善い』と言うのか」と問い返しは、そう判断する根拠を問うているのです。何を基準にイエスを善いというのか、それは私たちも同様に考えなければならない問題でしょう。
主イエスは続けて「神おひとりのほかに善い者は誰もいない」と語り、神への集中を促します。主イエスがこの時、御自身ではなく神様に集中することを促したのは、彼が神様の御心を十分理解していなかったからに他なりません。確かに彼は、宗教的優等生でした。
律法にまじめに取り組み、掟を厳格に守る生活を行っております。しかし彼は、主の御心をすべて理解するには達していなかったのです。そのことは主との対話の中で明らかにされます。
主イエスは彼に欠けているものを彼自身に気付かせるために、話題をさらに神様へと集中させます。そのために、主イエスは、律法の中心的掟である十戒の戒めを引用します(十戒については、出エジプト記20章や申命記5章、交読文第34番を参照)。
しかし、引用されたのは十戒のすべてではありませんでした。19節で引用されているのは、十の戒めの内の六つです。これらの戒めは、対人に関する戒めであり、主イエスはこれらの戒めを「隣人を愛する」戒めとし、第一の戒めである「神を愛しなさい」との戒めと同等に大切な戒めと見做しています。
主は、この第二の戒めが示す、6つの戒めを知っているはずだと彼に詰め寄ります。「知っている」とは、ただ知識として知り、理解しているだけではなく、御心を悟り、御心にそった行動を行うという意味を含む言葉です。
神を知るならば、善なる神から生まれた十の戒めのその本質を知り、神様の御心を悟り、何が善いことであり、何を行うべきかを知っているはずだと主は問うのです(ちなみに十戒とは、〇〇してはならないという禁止命令で書かれているため十の戒めとしての側面が強く表れていますが、本来は、神を知る人ならば(つまり神の善を知るならば)、人は善を行うのであり、罪を犯さないという前提のもとに与えられた戒めです。
主イエスは十戒を用いて、御自身の善さを説く前に、神様の善さを説くのです)。ここには、十戒を通して語られる主なる神さまのみこころを知っているならば、私を善い先生などと言わないし、そもそも永遠の命を受けるには何をすればよいかという問いも生まれないではないか、との答えも言外に含んでいるのです。
しかし、男は主イエスの問いの意味をすべて汲み取ることはできませんでした。そのため解答にはずれが生じます。20節をご覧ください。男は「先生、そういうことはみな、少年の頃から守ってきました」と答えるのですが、男は律法の掟を守ることが神様の御心を知ることと勘違いしているのです。
確かに彼は、神を愛し、十戒の戒めに則った生活を実行していました。彼は「殺さず、姦淫せず、盗まず、嘘をつかず、奪い取らず、父母を敬っていた」のです。しかし、律法を守ることに専念し、神様の広い御心を問うこと、そして知ることに欠けていたのです。
多くのヒントをもらいつつ彼は未だに自分の欠けに気付けませんでした。主イエスは彼を見つめ、慈しんで言われます。
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。」
見つめるとは、内面を見つめる事、つまり彼のすべてを見つめることを意味し、慈しむとは愛することを意味します。主は、青年のすべてを受け止め、愛しております。青年の神に対する熱心さを主はご存じであり、認めておりました。しかし同時に、彼には欠けているものがあることを知り、慈しみをもって戒め、悔い改めを迫り、主の道へと招こうと働きかけるのです。
彼に欠けていたのは、「天に富を積む」ことでした。天に富を積むことは、十戒の本質を知り、神様の御心を知り、神様の御心に沿った愛を実践することです。十戒が示す愛については、12章28節以下の物語において語られます。
そこで主イエスは、「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか」という問いに対して次のように答えています。つまり、最も大切な戒めは、第一に『心を尽くし、思いを尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛すること』であり、それと同様に第二に『隣人を自分のように愛すること』である(マコ12:28以下)と教えるのです。
男は「隣人を自分のように愛する」ことを守れていませんでした。主が彼に対し、十戒の六つだけを示し、これを「知っているか」と尋ねたのは、「隣人を愛する」という戒めの本質を見抜いているかどうかを、お聴きになったのです。隣人とは、主イエスがこれまでも教えて来た「小さな者」も含まれます。
こうして主イエスは、富める彼に欠けているものを示します。そして神の国を受け継ぐために彼が行わなければならない具体的な行動に移るように促します。つまり自分の富を売って貧しい者に分け与えるという行為を通して、欠けが満たされることを約束なさるのです。
4 男の答え
それだけではなく主は、「それから、私に従いなさい」と招かれます。主は彼を弟子になるようにと招いておられるのです。主が招きの言葉を述べられるのは、2章でレビを弟子にして以来です。主は彼の内に、弟子としての可能性を十分見出していたのでしょう。
しかし彼はこの言葉に顔を曇らせ、悩みつつ立ち去って行ったのです。主の御言葉は彼に福音として響かなかったことを物語は伝え、最後に、「たくさんの財産を持っていたからである」と理由を述べて、男の物語は一度閉じられるのです。
彼の苦悶の表情は、ただ単純に「お金を払いたくなかったから」という理由に起因するものではありません。主の御言葉が彼の積み上げてきたものを根本から崩壊させるものだったからです。彼は教養を持ち、善行を積んでいました。彼は当時の考えに則り、財産は努力の結果、神様から与えられたものだと信じていました。
それゆえに、富を失うことは自分自身のアイデンティティの崩壊を意味していたのです。富を失う事への抵抗は自分自身を崩すことを意味します。それは信仰があっても難しいものです。その場を立ち去ることしかできないほどの大きなショックが彼を襲います。
神の前に優秀な男すらもすぐに答えを出すことができないほど、富の問題は根深いのです。「財産のある者が神の国入るのは、なんと難しいことか」。嘆きにも似た主の言葉が、続く物語の冒頭に響きます。この物語の結論はどうなるのか、それは次週に持ち越したいと思います。