2026年1月25日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書15章16−20節
説教:「侮辱」
1 裁判と刑執行の間
これまで、イエス様の処遇は、根本的な問題を抱えながらも、一応は公的な手続きを整えた形で進められてきました。
公的に裁判が行われ、判決が下され、そして今、イエス様は十字架刑に処されるために引き渡されます。
しかし、福音書はその流れのただ中に、一つの出来事を差し込みます。
裁判と刑執行という二つの公の出来事の「間」に挟み込まれた物語――それが、本日共に聴いた「兵士たちによる侮辱」の場面です。
そこでは、十字架から放たれる光が、ますます深く人々の闇を照らし出していきます。
イエス様の十字架が照らし出すのは、公的な不正だけではありません。
制度の歪みや権力の誤りだけでなく、さらに奥深く、人が内に秘めている残虐性そのものが、ここで白日の下に置かれます。
キリストの光の前では、罪はもはや隠し通すことができないのです。
福音書は、この事実を驚くほど淡々と語ります。それは、
この出来事を通して、人間の罪を徹底的に糾弾しようとしているのではない、ということを示しています。
しかし、だからこそ私たちは、信仰の目をもってこの物語に向き合わなければなりません。
その背後に描き出されているのは、人間の底知れぬ悪意、そしてあまりにも残酷な現実です。
その残酷さは、これまでの場面とは質を異にしています。
ここでは思わず目を背けたくなるような罪の現実が示されます。
それでも私たちは、耳と目を閉ざすのではなく、目を覚まして、この現実を受け止めるように招かれているのです。
私たちキリスト者(そしてキリスト者でありたいと願う人たち)は、ここに端的に、しかしはっきりと示されている人間の罪を、他人事として距離を取ることは許されていません。
なぜなら私たちは、自分自身の内にも蠢く罪の恐ろしさを知る必要があるからです。
しかし同時に、私たちはこの残酷さに自分自身を丸ごと投影するよう求められているのでもありません。
福音書が促しているのは、確かに罪の告白と悔い改めも含まれるのですが、「福音」に自分を投影することです(罪の告白と悔い改めは、福音の入り口!)。
私たちは今、ここで語られている罪に、信仰の目と耳と心をもって向き合おうとしています。
「自分の十字架を背負って主に従う」とは、まさにこの歩みです。 そして福音書は、人間の罪の現実を見つめたその先で、もう一つの姿を私たちに示します。
それは、信仰によってのみ見聞きされるお姿です。
それが、人間の悪意が最も露わになるこの場所で、その罪人たちを沈黙のうちに受け止め、ご自身の十字架として引き受けていかれる、イエス・キリストのお姿です。
私たちは今、この主の沈黙と、その沈黙の中で成し遂げられていく神の救いの御業に与るために――いや、すでに与えられているその恵みを確かめるために――福音書が語る物語の中に、信仰をもって身を置いていきたいと思います
2 兵士の侮辱
16節、兵士たちはイエス様を「邸宅、すなわち総督官邸の中」へと連れて行きました。
それは20節に書かれてある通り、「イエス様を侮辱するため」でした。
「総督官邸の中」は、裁判のような「公開された場所」ではなく、外部の目が完全に遮断された密室です。
さらに彼らは「部隊の全員」を呼び集めます。「部隊の全員」という言葉は、当時「コホルス」と呼ばれた小隊のことを意味すると考えられています。
コホルスの兵力は200人から600人まで様々であったようですが、つまりここには少なくとも200人以上の兵士が集まってきたということになります。
その全てがイエス様を取り囲み、侮辱に加わっていくのです。
彼らがおこなった侮辱の内容は、残酷な「王様ごっこ」です。
17-19節、彼らはイエス様に紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶせ、葦の棒を持たせ、「ユダヤ人の王、万歳」と挨拶する。
これらはすべて、当時の王の即位式のパロディ(皮肉な模倣)です。
彼らにとっての「王」とは、自分たちを支配し、あるいは自分たちが忠誠を誓う「強大な力」の象徴でした。
だからこそ、今にも崩れ落ちそうなほど傷ついたイエス様を指して、「これが王だというのか」と、その無力さを嘲笑ったのです。
兵士たちは、王の笏(杖)に見立てた葦の棒でイエス様の頭を叩き、敬愛を表す口づけの代わりに唾を吐きかけ、跪いて拝む真似をします。
身体的な苦痛以上に、人間の尊厳を徹底的に踏みにじる行為です。
密室で行われたのは、一人の無力な囚人を媒介にした、集団的な狂気の発散でした。
彼らがなぜこれほどまでに残酷になれたのか、その心理的な理由は聖書に記されておりません。
しかし、フィロンの『フラッカス(In Flaccum)』などの文献が示すように、同様の暴力は当時、日常的に行われていました。
王政が生み出した兵士たち、その公的機関の内部で繰り返されていた日常的な侮辱は、単なるローマ帝国への忠誠心の発露として説明できるものではないでしょう。
日常的な暴力の背後には、社会不安という言葉だけでは尽くしきれない、人間のより深い闇が存在しています。
王に忠誠を誓いながらも、「王の即位式」を模して一人の人間を嘲り、踏みにじる。
そのあり方は、忠誠と嘲笑を同時に抱え込んでしまう人間の性そのものを、ありありと映し出しています。
義と不正という、本来は相容れないはずの行為が日常的に繰り返されているとするならば、王政のもとの人間の正義の基準そのものが、すでに深く歪んでいたことは明らかでしょう。
さらにこれらの悪行が官邸内で行われていたという事実に、私たちは驚きを覚えます。
王や総督を含む権力の中枢が、これを積極的に是正したとは、福音書は語っていません。
しかし、少なくとも、この不正が止められることなく進行していたことは明らかです。
兵士たちの悪行を叱り、罪の連鎖を断ち切るために真に働く権威が、真の正義が、ここには見当たらないのです。
自分の罪を知らない人は、なんと罪深い存在でしょうか。
監視されることのない自由は、なんと残酷なものなのでしょうか。
そして、不正を暴く者がいない世界の、なんと空しいことでしょうか。
3 沈黙のイエス
しかし、真の王であられるイエス様は、この惨劇の中で一切の言葉を発せられません。
主は、この理不尽な暴力を拒絶することも、神の力を呼び求めて反撃することもされませんでした。
それができたのですが、沈黙のうちに、それらすべてをその身に引き受けられました。
このイエス様の沈黙は、この世の「力による支配」が、いかに空しく、傲慢なものであるかを静かに告発しています。
しかし、受け取るに足りないと無視するのでなく、しっかりとその身に受け止めていくのです。
そして、王であるとは「支配すること」ではなく「仕え、命を捧げること」であるという神の国の論理を、主はその身をもって証明されたのです。
そしてまた、神様もただ沈黙しているだけではありませんでした。
神様は、兵士たちの偽りの戴冠式をも用いて、イエス・キリストの真の王権を明らかにされました。
ここには深い神学的なアイロニー(皮肉)が隠されています。
兵士たちが悪ふざけで用意した「紫の衣」と「茨の冠」「葦の棒」こそが、実は人類の罪をすべて背負う真の王の装束であったということです。
兵士たちは嘲笑をもって、知らず知らずのうちに、「この方こそが、苦難を通して支配するまことの王である」という真実を指し示していくことになります。
信仰の目で十字架を仰ぎ見るということは、このように隠された神の秘義に目を向けるということです。
神がこの世の悪のただ中で示そうとなさる真理に目を向けることが、信仰です。
20節、嘲弄が終わると、兵士たちは紫の衣を脱がせ、イエス様自身の服を着せました。
そして、十字架につけるために外へ連れ出します。
その十字架の場においても、兵士たちの罪が明らかにされていくのです。
当時の世界で「ローマの平和」を築き上げたと謳われた王の統治下でも、人間の罪は拭い去ることができていない事実を私たちは目撃しました。
それどころか「王様ごっこ」と呼ばれる悪質な嘲笑が起こり、無実の罪人をその肩書きだけで、集団で暴行する事態にまでなっていくのです。
しかしこれらの背後にある神様の光にも目を向けました。
光は余すところなく人間を照し、そして道を示しているのです。
この光が輝くのは、決して遠い昔だけではありません。
私たちの上にも照り輝いています。
そして私たちの内にある、弱者をあざ笑う心や、数に頼って誰かを排除しようとする暗部を、静かに照らし出します。
しかし、主はその私たちの罪をも、あの茨の冠と共に引き受けてくださいました。
そして嘲笑の「官邸の中」から、呪いの「十字架」へと歩み出していくのです。
そのような主の背中を仰ぎみながら、私たちは今日、自分自身の救いとこの世界すべての救いを、静かに受け取っていきたいと思います。
2026年1月18日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書15章6−15節
説教:「死刑の判決」
1 巻き込まれる群衆
イエス様の処遇について、ユダヤ総督ピラトは判断に迷っていました。
彼はイエス様と直接向き合う中で、この人に死に値する罪が見当たらないことを悟っただけでなく、祭司長たちの訴えが正義から出たものではなく、妬み に根差した信憑性の乏しいものであることも見抜いていたからです。
そのため、判決を下すための決定的な根拠を欠いていました。
祭司長たちの証言は信用に足らず、肝心の被告人であるイエス様は沈黙を守り続けておられます。
その結果、裁判は膠着状態に陥っていたのです。
そのような状況の中で、ピラトが定めた過越際の慣例が前面に出てきます。
福音書によれば、ピラトは祭りのたびに、民が願い出る囚人を一人釈放するという制度を設けてました。
群衆はその慣例を求めて集まり、赦免を願い出ます。
どうやら彼らは、バラバ解放に声を上げ人々だったようです。
そこでピラトは、この願いを聞き入れる形で、裁判の席に群衆を招き、慣例を用いて、裁判の判断を群衆に委ね、事態を収拾しようと働きかけていくのです。
こうして、一人の人物が裁判の場に引き出されます。
それがバラバでした。彼は、暴動に関わり、殺人の罪ですでに捕らえられていた者です。
すなわち彼は、ローマの秩序を乱した「反逆者」であり、法的には明確な有罪者でした。
「バラバ」はアラム語ですが、これはヘブライ語では「バル・アッバ」、つまり「父の子」という意味を持ちます。
この名はラビによくつけられた名前でもありました。
マタイは彼の名が、多くの人々に知られていたという事実をも示しています。
こうした事実から、現在の注解では、彼を律法教育を受けたユダヤ人で、ローマ帝国からの解放を願い、抵抗を行った人物であったと考えています。
ですから群衆は彼を釈放したいと願ったのでしょう。しかしその純粋さが、問われる事態となっていくのです。
では、「イエス」と「バラバ」どちらを解放するのが良いだろうか。
その問いの前に、群衆は、被告席にいるイエス様を見上げたことでしょう。
「ユダヤ人の王」という罪状で被告席に立たされ、しかしバラバとは対照的に暴力によって何かを成し遂げた方ではなく、奇跡と御言葉によって神の国を告げ知らせてきたお方。
そして何より、死に値する罪を見出すことができないお方。
「反逆者」か「ユダヤ人の王」か。有罪の者か、罪を見出されない者か。本来であれば、ここに選択の余地はありません。
誰を釈放すべきかは明らかでした。ピラトは、群衆に問いかけます。「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」。
2 扇動
群衆は一瞬混乱したことでしょう。
思わぬ形で自分達の要望と正義、それが天秤にかけられたのです。
この場合、正しい判断をくだすことは、自分達の要望がかなわないということを意味します。
答えは明白だと分かっていても、戸惑いが生まれたのです。
その戸惑いを、祭司長たちは見逃しませんでした。「蛇の誘惑」のような鋭さで、彼らは群衆を扇動したのです。この扇動により、事態はその明白さとは逆の方向へ進みます。
群衆は、祭司長たちからの支持を得て、声をそろえてバラバの解放を訴えます。
ピラトは祭司長たちが群衆を扇動するのを知りました。
そこで、改めて群衆に問いかけます。
「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」。
考える機会が与えられます。
しかし彼らは考え直すことを拒否し、いっそう頑迷になり、「イエスを十字架につけろ」と叫びます。刑からの解放を願い出る者たちが、刑の執行を願う者たちに変わった瞬間でした。
宗教的指導者たちの声に疑問を持たず、考えることを放棄した群衆は、あれだけ重んじていた神の律法すら見失っていくのです。
ピラトは再度確認します。
「一体、どんな悪事を働いたのか」と問うのですが、群衆の耳にもう届きません。
彼らはますます激しく、「十字架につけろ」と叫ぶのでした。度重なる訴えにより、群衆の声は公的な同意としてみなされていくのです。
ここで私たちは、一つの厳しい現実に直面します。
聖書が描いている「群衆」は、特別に悪意を持った人々として描かれているわけではありません。
彼らは一人一人が名前を持ち、それぞれの考えと事情を抱えていた人々であったはずです。
それぞれの思いを持って、一人の囚人の赦免を願い出た人々でありました。
しかしその思いは、決定的な問いの前に揺るがされ、扇動によって容易に方向を失い、結果として無実の者の死を求める叫びへと変えられていきました。
ここに、人間の弱さが、極めて冷静に、しかし厳しく示されています。
それは、欲望そのものの問題というよりも、その欲望を神の前で問い直すことをやめてしまった弱さです。
群衆は判断を委ねられたとき、その責任を引き受ける代わりに、声に従う道を選びました。
考える力を失ったのではなく、考え続けなくて済む道を選んだのです。
その結果、正義は叫びに置き換えられ、沈黙すべき者が叫び、沈黙すべきでない方が沈黙されるという、痛ましい逆転が生じていきました。
しかし聖書は、彼らの罪を声高に断罪することはしません。
説明も、弁明も加えず、ただ出来事を描ききるだけです。
主イエスが沈黙されたように、聖書自身もまた、この場面において沈黙しているのです。
それは罪を軽く扱っているからではありません。
人間が置かれている現実の姿を、評価や感情を差し挟むことなく、そのまま神の前に差し出しているからです。
その沈黙の中で、私たちは問いを突きつけられます。群衆の姿は、特別な誰かの失敗談ではありません。
むしろ、時代や立場を超えて繰り返される、普遍的な人間の姿として描かれています。
だからこそ聖書は、この群衆の中に、私たち自身を映し出すのです。
私たちもまた、この群衆なのです。自分の主張に固執するとき、都合のよい解釈に心を奪われ、異なる声に耳を閉ざし、神の御心を問うことをやめてしまうことがあります。
あるいは、多数の声に身を委ね、「仕方がない」という言葉で判断を正当化し、誰かの犠牲の上に成り立つ平安を受け入れてしまうこともあります。
そのような私たちの姿は、二千年前の群衆と決して無縁ではありません。
マルコは、この出来事を過去の悲劇として記録しているのではありません。
神の前に立つ私たち一人ひとりに向けて、今もなお生きた問いとして差し出しているのです。
そしてその問いは、私たちを責め立てるためではなく、福音の入り口へと導くために置かれています。
すなわち、自分自身の姿を認め、神の前に立ち返る。悔い改めへと招く問いなのです。
3 沈黙という答え
人間の罪が余すところなく露わにされる中で、聖書はなお、イエス様の沈黙の姿を描き続けます。
叫び声が裁きを支配するこの場面で、イエス様は一言もご自身を弁明されません。
これは、気力を失った沈黙でも、諦めの沈黙でもありません。
父なる神の御心に従い、救いの御業を成し遂げるために選び取られた、意志的な沈黙です。
ここで重要なのは、この裁判が決して「神不在の裁判」ではないということです。
人間の側から見れば、すべては混乱と不正の中で進んでいます。
群衆は扇動され、ピラトは責任を回避し、正義は踏みにじられています。
しかし聖書は、この不正な裁きのただ中で、神の御計画が着実に進んでいることを示しています。
人間の罪深い判断が、皮肉にも、神の救いの御業の舞台となっているのです。
イエス様は、群衆に引き渡されたのではありません。ピラトに引き渡されたのでもありません。
聖書が語るのは、それらを超えた次元です。
イエス様は、父なる神の御心に従って、ご自身を引き渡されたのです。
ここに、十字架の出来事の中心があります。
人々は叫びによってイエス様を裁きました。
正義を語りながら、責任を分散させ、声の大きさによって結論を導き出しました。
ピラトは沈黙によって裁きました。
正しいと知りながら決断せず、不正を止める権限を行使しませんでした。
しかし神は、その人間の叫びと沈黙のすべてを引き受けるかたちで、御子を十字架へと向かわせられたのです。
イザヤ書は、「彼は苦しめられたが、口を開かなかった」と預言しています(イザヤ53:7)。
マルコが描くイエス様の沈黙は、この預言の成就として読むことができます。
イエス様は、無実であるがゆえに沈黙されたのではありません。
罪を負う者として、沈黙されたのです。
私たちの罪を、ご自身のものとして引き受けるために、弁明を拒まれたのです。
もしイエス様がここでご自身を弁明されていたなら、裁かれるべきは群衆であり、ピラトであり、私たちであったでしょう。
しかし主は、その道を選ばれませんでした。
罪ある人間を告発する代わりに、罪ある人間の場所に立つ道を選ばれたのです。
これが、福音です。
たとえ私たちが、あの群衆の中にいたとしても、イエス様はその叫びを引き受けてくださいました。
「十字架につけろ」という声のただ中で、主はなお、私たちのために十字架への道を進まれました。
私たちの不正、私たちの沈黙、私たちの責任逃れのすべてを、ご自身の十字架に背負われたのです。
だからこそ、私たちはこの主を仰ぎ見ます。
声の大きさによってではなく、正しさの競争によってでもなく、十字架の沈黙に耳を傾けます。
そこにこそ、神の救いの言葉が語られているからです。
主の十字架の沈黙が、今週を生きる私たち一人ひとりの歩みを導きますように。
2026年1月11日(日) 主日礼拝(合同礼拝)
聖書:マルコによる福音書15章1−5節
説教:「もう何もお答えにならなかった」
1 全体協議
最高法院は、イエス様に死刑判決を下しました。
律法によれば、神を冒瀆したものは即座に石打ちの刑に処せられると定められています(申24:16)。
つまり、通常であれば、判決が下されたあとすぐに死刑が執行されるはずでした。
しかし、このとき、その刑は執行されませんでした。
なぜなら、当時のユダヤ社会には「死刑を執行する権限」がなかったからです。
ローマ帝国の属州であったユダヤは、ある程度の民事・刑事裁判を行うことは許されていました。しかし、死刑だけは、ローマ総督の承認なしには執行することができなかったのです。
ところが一方で、使徒言行録を読むと、復活のイエスを宣べ伝えたステファノは最高法院の裁きによって、その場で石打ちにされています(使徒6:8-7:60)。
イエス様に死刑判決が下されたこの場面でも、暴力が連鎖的に噴き出し、石が投げられてもおかしくない状況でした。
ある意味では、この場で命を奪うことも「可能」であった、と考えることができます(マコ14:65)。
それにもかかわらず、祭司長たちはそうしませんでした。
なぜでしょうか。
確かな理由は分かりません。しかし、少なくとも言えることは、これもまた最高法院の計画の一部であった、ということです。
死刑判決後わざわざ「全体協議」が行われたことは(マコ15:1)、彼らの企てが、単なる衝動的な暴力ではなく、周到に練られたものであったことを示しています。
それは、彼らの目的がもはや単なる「イエスを殺す」という一点にとどまらないことを示しています。
彼らはこれまでも、自らの権力や地位を確保し、群衆からも支持され、なおかつ自分たちの手を悪事に染めないことにまで、細心の注意を払ってきました。
失敗は許されない。最高法院は、自分たちの計画をより確実なものとするために、全体協議を経て、イエス様をローマ総督ポンティオ・ピラトのもとへ引き渡すことを決めました。
それは、側から見れば「正当な手続き」でした(もともと彼らはイエスを「神殿崩壊計画疑惑」の首謀者として逮捕、死刑に処し、その罪状のまま、ローマに引き渡す予定だったと考えられます)。しかし、信仰の側面から見れば、罪に塗れていたのです。
2 引き渡し
彼らは、イエス様を当時のユダヤ総督ポンティオ・ピラトに引き渡します。
ユダヤ総督とは、ローマ皇帝の命を受け、ユダヤ属州を統治するためにユダヤ社会に派遣された統治者のことです。
ピラトは、史料を見る限り(ヨセフスの『ユダヤ戦記』や『ユダヤ古代誌』)、ユダヤ人から非常に評判の悪い総督であったようです。
しかし、彼らの計画を進めるためには、どうしてもピラトへの「引き渡し」が必要でした。
彼らが総督に訴えた罪状は、「ユダヤ人の王」というものでした。
ここで、前夜と比べて「罪状が変わっている」と気づかれた方もおられるかもしれません。
前夜の裁判で最高法院は、イエス様が「ほむべき方の子、メシア」であると認めたがゆえに、これを神への冒瀆の証拠として死刑を宣告しました。
これは宗教の世界においては、決定的な理由となり得る根拠でした。
しかし、それはあくまで宗教的な裁きにのみ有効です。
政治の世界においては、神が冒瀆されたかどうかは問題になりません。
その名目では、ローマの裁判は開かれないのです。
そこで祭司長たちは、長老たち、律法学者たちと共に協議し、罪状を「政治的な名目」へとすり替えました。
2節で「最高法院全体で協議した」最大の目的は、まさにイエス様を確実にローマ法のもとで裁くためであったと言えるでしょう。
この会議において、彼らはイエス様にとっての不利な証言をも用意したのでしょう。
15章3節では、祭司長たちが次々にイエス様を訴えています。
しかし、ここではもはや「偽証」という言葉が使われていません。
それは、訴えが「偽証」にならないよう、彼らが用意周到に準備したことを示しているようです。
つまり法律上、彼らはその罪状において「嘘をついていない」のです。
しかし、信仰の上では彼らは全くの「嘘つき」、すなわち罪人でありました。
では、彼らはどのように自分達の嘘、すなわり罪、を隠し通そうとしたのでしょうか。
その答えは彼らがイエス様をどのような理由で死刑にしようとしたかを見れば明らかになります。
前夜の裁判において、彼らがイエス様をどのような理由で訴えようとしていたのかを思い起こしてください。
彼らはもともと、イエス様を「神殿破壊計画の首謀者」に仕立て上げようと考えていました(マコ14:58)。
これはユダヤ人にとっては宗教的反逆であると同時に、ローマにとっては国家反逆の罪をも含むものでした。
この理由でイエス様を検挙できれば、すべてが円滑に進む、それが、最高法院の当初の目論見だったのです(最初から計画していた!)。
しかし、前夜の裁判では、その願いは果たされませんでした(マコ14:44-59!)。
ところが、大祭司の機転によって、思いがけない好機が訪れます。
イエス様がご自身を「メシア」であると告白されたのです。
これを受けて彼らは、イエス様を「反逆者」として裁く道筋を整え直します。
すなわち、「メシア」=「ユダヤ人の王」=「ローマの反逆者」という図式を練り上げていくのです。
「メシア=王」というのは、ユダヤ人にとっては自明の理解でした。
メシアは王的存在であり、ダビデの子孫から出て、イスラエルの新しい王国を打ち立てると信じられていました。
つまり、イスラエルの王メシアとは、ローマの支配からの独立を実現する王です。
一方、そのような王は、ローマにとっては明白な反逆者にほかなりません。
ですから最高法院は、「ユダヤ人の王」として、イエス様を訴えていくのです。
3 ピラトの反応とイエスの答え
さて、彼らの思惑はうまくいくのでしょうか。
ここからは、この訴えを受けたユダヤ総督ピラトの反応を見ていきます。
聖書は、ピラトが実に淡白に祭司長たちの訴えを聞き流す様子を描き出しています。
訴えの具体的内容は、ここには記されていません。
ピラトの関心は、始終イエス様にのみ向かっているのです。
「類は共を呼ぶ」と言います。ピラトもまた悪評高い人物だったからか、祭司長たちの思惑を敏感に感じ取ったのでしょう。
ピラトは彼らの訴えを真正面から取り合わず(この裁判において、祭司長たちの直接の台詞は一切記されていない!)、イエス様と向き合い尋問します。
「お前はユダヤ人の王なのか」。
これに対してイエス様は「それは、あなたが言っていることだ」と答えられます。
ここでイエス様は、先の裁判のように「私がそれである」とは言われません。
では、これは否定なのでしょうか。イエス様はユダヤ人の王ではないのでしょうか。そうではありません。
イエス様はユダヤ人の王なのです。
しかしここでは、肯定も否定もしない答えを、意図的に行ったと考えられています。
それは、ピラトに神の国の「不思議」を与えるためでした。ユダヤ人の信仰、ましてや唯一の神様に精通していない人々にとって、宗教的な問いは、その信仰を知る入り口となり得ます。
イエス様の答えには、鋭い問いかけが含まれているのです。
「それは、あなたが言っていることだ。しかし、あなたは本当にそう思うのか」
イエス様は、そのようにピラトに問いを投げかけていると言って良いでしょう。
問う側が問われる側に逆転する。この裁判でも主権はイエス様にあるのです。
私たちと同様に、ピラトはこの問いを「不思議」に思った事でしょう。
しかし、考える機会を、祭司長たちの言葉が防ぎます。
彼らは足速に口々に証言します。
人は焦るほど、言葉が多くなるものです。
しかしピラトは、それらの言葉をも受け流し(ここでも祭司長たちの台詞は記されない!)、再びイエス様に向き直ります。
「何も答えないのか。あんなにお前を訴えているのに。」
イエス様はその問いに今度は沈黙を持って答えます。
ピラトには十分、答えが与えられたことを、沈黙をもって示していくのです。
「主の不思議」がピラトを捕えます。
ピラトの関心は、最初から最後まで、イエス様そのお方に向けられていくのです(マコ6:14-29)。
そして、ピラトはイエス様を解放しようと働きかけていくのです。
祭司長たちの思惑はここでも、ただ一人の人の真実なる御言葉によって、危機を迎えるのです。–––続く