読む礼拝


「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。」。(マルコによる福音書10:43b―44)

「みな売り払う」とは


 キリストは、永遠の生命のためには何をしたら、と問う「富める青年」に、持ち物を売り払って貧しい人々に施し、自分に従うことを命じられました。それは「幼な子」のように「おのれの業には少しも頼らず、ひたすら恵みの力をたのみて」(ルター:コラール「深き淵より」讃美歌258)生きる者となり、自分と一緒に神の国に入るようにとの招きでした。

 けれども、彼は「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去」り、逆に弟子のペテロは「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」と言い出します。どちらもキリストの言葉を表面的にしか理解していない点では変わりがありません。この愚かな者たち、私たちに、キリストは「持っているものをみな売り払う」とはどういうことなのか、「キリストに従う」とは何をどうすることなのかを教えて下さるのです。

「なんでもかなえてくださるようにお願いします」

 ペテロに続き、ゼベダイの子のヤコブとヨハネが「わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」と言い出します。この前置きは、自分たちの願いが決して胸を張れるようなものではないことが薄々分かっていたということでしょう。「富める青年」とは違って、その程度までは、弟子たちはキリストの言葉を理解するに至っていたのです。けれども、み心にかなわないことを知りつつ、なお口に出さざるを得ないところに、二人の、否、私たち人間の「偉くなる」ことへの執着が現れています。

「何をしてほしいと、願うのか」

 キリストは「何をしてほしいと、願うのか」と言われます。見当違いの願いやふさわしくない求めでも、キリストは頭ごなしに退けるようなことはなさいません。キリストは私たちの本音を引き出そうとされるのです。そして、私たちが自分の本当の姿を知ることができるように、歩んでいる道がどれほど危うく、その先に何が待っているかに気がつくことができるようにしてくださるのです。それは私たちに滅びの道から命の道への方向転換、すなわち悔い改めを求めておられるからにほかなりません。

「あなたがたは、わかっていない」

「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」という、いわば右大臣と左大臣の地位の要求は、これまでに語られたキリストの受難予告を何一つ理解していないことを明らかにしています、キリストは「あなたがたは自分が何を求めているか、分かっていない」と言われ、「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」と問われます。それは二人の願いがどれほど見当違いであるかに気がつくことを願っておられるからです。

あとでわかるようになる

 二人には理解できません。「できます」との答え自体が、いかに分かっていないかを露わにします。しかしそれは、キリストの言葉が無意味だったということではありません。「今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」(ヨハネ13:7)とあるように、その言葉は「あと」すなわち十字架と復活の後に初めて意味が分かるような言葉だからです。

 だからこそキリストは、勘違いしたままの二人に「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう」との、今の二人には理解できず、受け入れることもできないであろう言葉をかけられるのです。これを聞いて憤慨し出す弟子たちに対しても同様です。

 すぐに分かる言葉はすぐに忘れられ、すぐに役に立つ言葉はすぐに役に立たなくなります。キリストの言葉、聖書の言葉はそうではありません。それは、すぐには分からなくても、否、むしろ分からないからこそ私たちの心に長く留まり、いつの日か、そうだったのかという本当の気付きを、そしてそれだからこその人生の転換を得させてくれる言葉なのです。

偉くなりたいと思う者

「偉くなりたいと思う者は仕える人となり、かしらになりたいと思う者は僕とならねばならない」もその一つです。「異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている」この世の現実の中では、まさに謎でしかない言葉だからです。

 キリストは、「偉くなる」ことを否定しません。高い地位が大きな裁量権、すなわち人と金を動かす力を与え、それによって社会と歴史に影響を与えることができるようになることには確かに意味があるからです。

 エジプトに奴隷として売られたヤコブの子ヨセフは、エジプトの宰相となって飢饉から人々と家族を救います。

 羊飼いの少年ダビデが、ペリシテの勇者ゴリアテを護身用の石投げで倒し、王となってユダヤに平和をもたらしたこと、その子ソロモンがエルサレムに神殿を建て、巧みな外交によって繁栄の時代を来たらせたことは、「偉くなる」ことの積極的な意味を明らかにしていると言えるでしょう。

「一番」になるヤコブとヨハネ、そして他の弟子たちも、この意味で「偉くなる」ことを願ったに違いありません。立身出世のためでも、利権の分配のためでもなく、ユダヤの人々の解放と独立のため、そしてその意味での正義と平和のためにこそ「偉くなりたい」と思っていたに違いないのです。

 ここで言われている「かしら」は、ラテン語に直せば「プリンケプス:第一の者」というローマ皇帝の正式名称です。後に「ローマの平和」と呼ばれることになる「平和」と「繁栄」をもたらした皇帝たちを前提とした上でなお、キリストは「そうであってはならない」と言われるのです。

「剣をとる者はみな、剣で滅びる」

 それは、人の知恵と力、さらに信仰であってすら、人の手の中にある限り、いつも「神のように」なろうとする誘惑が入り込むからです。人が振りかざす「正義」や「平和」は、いつも「自己中心」の罠にかかって、どこまでいっても自分が考える正義、自分が願う平和に留まらざるを得ないからです。ローマの正義の下にキリストは十字架にかけられ、ローマの平和のための「ユダヤ戦争」の結果、ユダヤ人は国を失うのです。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」

 じっさい「市民のうちの第一の者」として共和制の中から生まれたローマ皇帝は、すぐに「神々の子」として崇められるようになり、自ら「神」と称して人々に礼拝を強制する存在になります。そして彼らがどのように生き、死んだかを考えるとき、「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(マタイ26:52)との言葉の正しさが、そして「ユダヤ人の王としてお生れになったかた」(マタイ2:2)が、宮殿ではなく馬小屋で生まれ、玉座に座るのではなく飼葉おけに寝かされたことの意味を覚えさせられます。

命を与えるため

 キリストの地上の歩みは、最初から「仕えられるためではなく、仕えるため」であり、その最後は「多くの人のあがないとして、自分の命を与えるため」のものでした。聖書は、このお方こそが諸王の王、メシア、キリスト、救い主であると証しするのです。

 なぜなら「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられ」(ピリピ2:6-7)たお方こそが、そしてこの「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」お方だけが、いつも「王」となり「神」として振る舞おうとする私たちの罪と悲惨から私たちを救うことがおできになるからです。

幼な子のように神の国を受け入れる

 このお方を主と告白し、王として従うとき、私たちは初めて本当の意味で正義と平和を実現し始めるのです。なぜならそれは、自分の信じる正義をいったん括弧に入れ、自分の願う平和を一時棚上げにして、「はなはだ良かった」(創世記1:31)と言われる、「どこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない」(イザヤ11:9、65:25)真実の平和、神の国、神の支配の到来を信じて、神様に正義の実現を委ねることだからです。

 それが「幼な子」のように神の国、神の支配を受け入れるということ、いっさいを捨ててキリストに従うことにほかなりません。その時にこそ、人が自分自身を愛するように自分の隣人を愛することのできる世界、本当の意味で人と人とが互いに尊重し合う世界に向けて私たちは歩み出すことができ、お互いがお互いのために、自由に、喜ばしく、仕え、奉仕することができるようになるからです。

 王としての僕、僕としての王ルターは、このことを「キリスト者は全ての人の上に立つ自由な君主であって、何者にも従属しない。キリスト者は全ての人の下に立つ僕であって、全ての人に従属する」(「キリスト者の自由」)と表現しました。

「かしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない」とは、仕えられる人が上、仕える人が下、また逆に、奉仕する者が上、奉仕される者が下という、人と人との関わりの中にどこまでもつきまとう陰と闇から私たちが解放されることです。そして、誰に対しても喜びをもって奉仕することができ、また誇りをもって奉仕されることができるようになるということです。

 キリストは、全てを捨てることのできる自由という究極の自由を十字架で、永遠の命という死と滅びからの自由を復活よって実現して下さいました。そして私たちを、この自由と喜びへと招いて下さるのです。その招きに応える者たちでありたいのです。(2021年10月24日の礼拝のために)


「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。(マルコによる福音書10:21)

神の国に入る道


 イエス・キリストは「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」と教えられました。そして、「幼な子のように神の国を受けいれる」とはどういうことであるのかを、「富める青年」との対話を通して示されるのです。

道に出て行かれると

 キリストは、道に出て行かれます。その道とは、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(1:15)とのガリラヤでの第一声から、ゴルゴタの十字架の上での「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)との最後の言葉に至るまでの道です。

 そして、この言葉には、ピリポ・カイザリヤでの「あなたこリストです」(8:29)とのペテロの告白、ゴルゴタでの「まことに、この人は神の子であった」(15:39)との百卒長の告白が対応します。

 そして、その間には、「わたしについてきなさい」(1:17)、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(8:34)との招きの言葉があります。

 そこには「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう」との約束があります。キリストの言葉と歩みは常に「神の国」「永遠の命」を巡ってのものだったのです。

ひとりの人が走り寄り

 それゆえ、キリストのもとに「ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて」「永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」と尋ねるのは正しいのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われる方以上に、「永遠の生命」について尋ねるのにふさわしい方はいないからです。

「走り寄り」「ひざまずく」とは、彼の熱心さと切実さとを表しているでしょう。そして、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」との言葉からするなら、彼は熱心に律法を学び、律法を実践し、しかしそれでもなお与えられない心の平安と、満たされない魂の飢え渇きを覚えていたことがわかります。そして、ナザレのイエスの噂を聞き、その教えの片鱗を知って、「この人こそ」と思い定めてその前に走り寄ったのでしょう。

「なぜわたしをよき者と言うのか」

 この世の物差しからするなら、彼には欠けたところはなかったはずです。彼は「金持ち」であり、他の福音書によれば「役人」であり、「青年」でした。財産や地位や名声、若さと健康に彼は欠けていませんでした。けれども、それは彼を本当に満たすことはできなかったのです。私たちは、この世の目に見えるものを越えた永遠の世界、神様との関わりなしには真に満ち足りることはできないからです。

 けれどもイエス様は「なぜわたしをよき者と言うのか」と冷たくあしらわれ、「いましめはあなたの知っているとおりである」と十戒の後半部分をお答えになるだけです。どうしてイエス様はこの熱心な求めに応えようとなさらないのでしょうか。

小さい時から守っております

 それは、この問いが間違っているからです。それは「みな小さい時から守っております」との言葉に明らかになります。神様の言葉はよく分かっている、神様のいましめは守っている、けれども満たされない、もっと何か他に必要なのではないか、それさえ分かればそれを行うことができるのに……彼はそう考えているからです。

 キリストは、「神ひとりのほかによい者はいない」と、神の言葉は完全で、付け加えるべきものは何一つないことをお教えになります。そして「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい」と命じることによって、神の言葉を守り行うとはどういうことかをお示しになるのです。

 ここで問題になっているのは、文字通り全財産を施すことではないでしょう。じっさい、イエス様が問われたのは、あなたが守っていると豪語するそのいましめは本当に神の戒めなのか、都合の良いように勝手に切り縮められた人間のいましめではないか、あなたは本当に神様の求めておられる完全さにおいてそのいましめを守れるのか、との問いだったのです。

あなたに足りないこと

 彼に欠けていたのは、自分が欠けているという自覚であり、できないという認識でした。自分が神様の前では「幼な子」にすぎないこと、ただ神様に憐れみを、ゆるしを、救いを求めることしかできない者であることを知ることが、彼には何よりもまず先に必要だったのです。

「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」からです。
自分は知っている、自分は分かっている、自分は行っていると思っている限り、私たちが信じているのは神様ではなく自分自身にほかなりません。実に彼は、「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない」という第一戒に背いていたのです。

悲しみながら立ち去った

 この人は「この言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去」ります。「たくさんの資産を持っていたから」です。この時の資産とは単に金銭や土地、地位や名声というものに留まらないでしょう。それは彼のこれまでの生き方のすべて、ものの考え方や振る舞い方の一切ということだったのではないでしょうか。

 キリストが言われたのは、これまでの価値観や考え方、生き方を変えることなしに、永遠の生命を受けることはできないこと、この世の物指しに沿い、人の評価に合わせたままで神の国に入ることは不可能であるということだったのではないでしょうか。だからこそ、未だこの世の物指しを知らず、人の評価を気にすることのない「幼な子」が神の国に入るのです。

 彼は「悲しみながら立ち去」ります。けれども、彼がなすべきだったのは、自分にはそれができないことを認めること、自分が神の言葉を理解していなかったこと、守っていなかったこと、そして自分の力では理解することも守ることもできないことを言い表して、「不信仰なわたしをおゆるしください」と主の足元に悔いくずおれることだったのではないでしょうか。

だれが救われることができるのだろう

 キリストは「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」と見回しながら言われます。誰もが多かれ少なかれ、それぞれに頼みとする「財産」を持っているからです。「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」と言い出すペテロも同じです。そこでは「捨てた」ということが「財産」として数えられているからです。「捨てた」ということを頼みとしているかぎり捨てたことになりません。捨てたことすら捨ててこそ初めて捨てたことになるからです。ですから、弟子たちが「それでは、だれが救われることができるのだろう」と互いに言い出したのは正しいのです。

 能力であれ、業績であれ、人望であれ、どれほど良いものであっても、否、良いものであればあるほど、それは神に代わって私たちの誇りとなり支えとなる誘惑に満ちているからです。

「人にはできないが、神にはできる」

 この誘惑に勝つことのできる人はいません。だからこそキリスト十字架の上で「自分自身を救うことができない」とののしられ、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。

 この十字架の主こそが、「わかる」こと「できる」ことを至上の価値とし、それゆえに「わからない」人、「できない」人を排除し、「わからない」こと「できない」ことを恐れ、怯えて生きてゆかざるをえない私たちを、「わからない」まま「できない」ままに「みこころのままに」と神にすべてをゆだねることのできるまことの平安に導いて下さるのです。

いつくしんで

 だからこそキリストは、「彼に目をとめ、いつくしんで」言われたのです。その言葉は冷たく切り捨てる言葉ではなく、むしろ暖かく包み込む招きの言葉でした。だからこそ、その結びの言葉は「わたしに従ってきなさい」という、ペテロやアンデレにかけられたのと同じ言葉なのです。そしてその招きは彼が立ち去ってもなお取り消されてはいません。たとえ今は分からなくても、たとえひとたびは離れても、神の慈しみは変わることなく、わたしの招きはなお継続するとキリストは言って下さるのです。このキリストの「人にはできないが、神にはできる」との言葉に励まされ、導かれて、この主の招きに従って歩み出す者でありたいのです。(2021年10月17日の礼拝のために)


「もしあなたがたが真実な者なら、兄弟のひとりをあなたがたのいる監禁所に残し、あなたがたは穀物を携えて行って、家族の飢えを救いなさい」(創世記42:19)

ヨセフは兄弟たちを見て

 エジプトに穀物を買うために来た兄たちを「それと知った」ヨセフは、無理難題を課します。そこにはエジプト王パロをして「あなたのようにさとく賢い者はない」(41:4)と言わせた聡明なヨセフの姿はありません。私たちは「彼らに向かっては知らぬ者のようにし、荒々しく語った」ヨセフがついに「私はヨセフです」(45:3)と名乗りをあげるまで、長い長いヨセフの猿芝居に付き合わされることになります。それは結末を知っている私たちにとっては実にまどろっこしい兄たちとのやりとりです。

 それと知ったけれども、その不必要に長く引き延ばされたかのように思えるヨセフと兄たちの和解の道のりは、私たちにとって和解すること、人をゆるすことがどれほど難しく、困難であるのかを示しているのではないでしょうか。

「ヨセフは兄弟たちを見て、それと知った」とありましたが、このときヨセフが知ったのは、単に、今自分の前にひれ伏しているのが、憎んでも余りある兄たちであるということだけではなかったでしょう。彼はすでにこの時点で、「わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました」(37:7)との、兄たちの怒りを買うことになった夢の意味を悟ったに違いありません。そして同時に「わたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神」(45:7-8)であったことを悟ったのではないでしょうか。

 けれども、ヨセフにはまだ、「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです」(45:5)と語ることはできなかったのです。許さなければならないことは分かっている、でも許せない、いつかは許したい、でもそれは今ではない、それが私たちの現実だからです。

 和解に向かっての長い道ある意味で、ここから、ヨセフの兄たちとの和解に向かっての長い道のりが始まります。ある意味でそれこそが、ヨセフが神様から託された使命だったのではないでしょうか。人は人を許すことができるのか、それがヨセフ物語の中で問われているので。

 それは同時に、自分がその人に対して何をしてもよい、どんなことをしても誰からも責任を問われないという.ある意味でその人の本性、人間の美しさと醜さとが最も露わになる場所で、人間はなお人間らしく、神を知り神を信じる者として振る舞うことができるのか、ヨセフはこの問いに答えるべく召されたのではないでしょうか。

「カインとアベル」から「ヨセフとその兄弟」までそれはただ単にヨセフと兄たちとの和解が成るか否かということに留まりません。それは「人類最初の殺人事件」と言われる、カインとアベルの物語の決着をつけるための信仰の戦いというべきです。神様は、妬みのゆえに弟アベルを殺した兄カインに言われました。「今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」(創世記4:11-14)。

 神様はカインに死刑ではなく追放刑を科せられます。それは、この人間の世界における対立と争いの原型とでもいうべきカインとアベルの出来事が、いつしかついに和解と平和とに至ること願い、その実現を願っておられたからではないでしょうか。ヨセフは、この人類にとって最も大きな課題の一つである「ゆるしと和解」の課題を担ったのです。

三日目に

 ヨセフは兄たちにスパイの容疑をかけて「みな一緒に三日の間、監禁所に入れ」ます。容疑を晴らすための手段として最初にヨセフが告げた条件は次のようなものでした。「あなたがたのひとりをやって弟を連れてこさせなさい。それまであなたがたをつないでおいて、あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言葉をためしてみよう」(42:16)。それは、末の弟を連れてくる一人を除いて全員を拘留するという宣告でした。

 ところが、三日目にはその言葉は大きく変わっています。「もしあなたがたが真実な者なら、兄弟のひとりをあなたがたのいる監禁所に残し、あなたがたは穀物を携えて行って、家族の飢えを救いなさい。そして末の弟をわたしのもとに連れてきなさい。そうすればあなたがたの言葉のほんとうであることがわかって、死を免れるでしょう」。

 それは、人質は一人だけでよいという大幅な譲歩です。それは、もし一人だけが帰るなら、持ち帰る穀物は極めて僅かなものになってしまう。そうしたらカナンの家族が飢えてしまうという配慮だったかもしれません。

わたしは神を恐れます

 けれども、ここで鍵となっているのは、「わたしは神を恐れます」というヨセフの信仰であり、後に「わたしが神に代ることができましょうか」(50:19)と語ることになる神のさばきへの信頼ではなかったでしょうか。

 誰が見ていなくても神様が見ておられる、誰が聞いていなくても神様が聞いておられる。誰も知らなくても、神様は知っておられる、そして必ず正しいさばきと報いとを行って下さる。この神様への恐れがあればこそ、ヨセフは自分自身で兄たちに復讐するというような過ちから守られたのではないでしょうか。

 それは、たとえ自分が復讐をしなくても、神様が自分に代わって復讐をしてくださる、自分の手で正義の鉄槌など下さなくても、神様のさばきからは逃れることができない、との神様への信頼にほかなりません。

もしあなたがたが真実な者なら

 ヨセフは兄たちを試みます。それは文字通り、兄たちの「心を見る」ためのものです。兄たちはあのとき何を考えていたのか、どんなつもりで自分を穴に投げ入れたのか、ミデアンびとの商人たちが自分を穴から引き上げたとき兄たちはどこにいたのか、イシマエルびとの隊商に売られたときどうして助けてくれなかったのか、少しでも知りたかったのではないでしょうか。そしてそこには、兄たちの事情と思いが分かれば、ひょっとしたら許すことができるかもしれないとの思いがあったはずです。

われわれは罪がある

 このヨセフの理不尽な仕打ちは、兄たちに自分たちがヨセフに対して行った理不尽な仕打ちのことを思い起こさせます。彼らは互に「確かにわれわれは弟の事で罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」と言い合うのです。

 そして、当時ヨセフを助けようとしていたルベンの「わたしはあなたがたに、この子供に罪を犯すなと言ったではないか。それにもかかわらず、あなたがたは聞き入れなかった。それで彼の血の報いを受けるのです」との言葉をヨセフは聞いて「彼らを離れて行って泣」くのです。

 自分は殺され損なったのではなかった。ルベン兄さんは助けようとしてくれていた、自分がエジプトに奴隷として売られたのは兄たちの本意ではなく、少なくとも総意ではなかった、このことを知っただけでも、ヨセフは溢れる涙を止めることはできなかったのです。

「神がわれわれにされたこのことは何事だろう」

 ヨセフはシメオンを人質とする一方、人々に命じて兄たちの袋に穀物を満たさせます。それどころか「めいめいの銀を袋に返し、道中の食料を与え」すらするのです。この支離滅裂に見えるヨセフの振る舞いは、許したいのに許せない、許さなければならないのに許したくないという彼の心の混乱を示してしているというべきでしょう。

 しかしそれは、ヨセフの思いを超えて、兄たちに神様への恐れを生み出します。和解は、双方が共に神様を心に富め、神様の前に共に立つことから始まるのです。

「復讐するは我にあり」

 もちろん、それだけで和解が実現するなどという単純な話ではありません。ヨセフの怒りは解けていませんし、兄たちは自分たちのしたことの意味が分かっていません。けれども、まずはそれでいいのだと聖書は教えるのではないでしょうか。今は許せなくていい、怒りに身を震わせていて構わない、ただそれを神様の前でしなさい、神様が全てを知っておられるということを知った上でそうしなさいと言うのではないでしょうか。

 自分の怒りや憎しみや復讐心といったすべてのものを神様の前に注ぎ出せと聖書は教えるのです。そこには「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである」(ローマ書12:19)との使徒パウロの言葉が響いています。怒りと復讐とを神様に委ねなさい、そこに平安が、その向こうに平和があると聖書は教えるのです。

「我らの罪をもゆるしたまえ」

 だからこそキリストは「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と祈るようにお命じになったのではないでしょうか。たとえ今は許せなくとも、許せるようになりますようにとの祈りを祈っている限り、私たちはなお和解への道を歩んでいるのです。真実の和解はその先にあります。(2021年10月10日の礼拝のために)


「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。(マルコによる福音書10:15)

さわっていただくために


「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてき」ます。当時、高名なラビのような宗教指導者に子どもに手をおいて祝福してもらうことは普通に行われていたことでした。人々は、そうした風習にならって、子どもたちをナザレのイエスの所に連れてきたのです。

 ここで「幼な子」とありますが、この言葉は生まれたばかりの赤ん坊から、会堂で聖書を学び始める13、14歳頃までの子どもまでを指す言葉です。大勢の人々と共に、様々な年代の子どもたちが親に連れられてキリストのもとに来たのです。

 五千人の給食の奇跡などでは「食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった」(マタイ14:21)と、きわめて特徴的な表現がなされていますが、キリストの周りには成人男性だけではなく、いつも女性と子どもたちがいました。キリストの恵みは、大人と子ども、男性と女性を区別しません。子どもは大人を通して、女性は男性を通してではなく、だれもが直接キリストから恵みをいただくことができるのです。「さわっていただく」とは、まさにこのキリストの恵みの直接性を表していると言えるでしょう。

 たしなめたけれども、「弟子たちは彼らをたしなめ」ます。そこには、子どもを一人の人間として認めない、当時の社会の考え方が反映しているでしょう。「幼な子」が、特定の年齢を意味しない、「未成年」を意味するものであるということも、それがまだ成人式を迎えていない、一人前と認められていない存在を意味するからにほかなりません。

 当時のユダヤ社会では、一人前とは単に仕事ができるとか、子どもを産み育てることができるということではありません。それはなにより、神様の戒めである律法を守り行うことができるということでした。「幼な子」とは、神の言葉を理解することができず、律法のわざを行うことができないために、一人前の権利を認められていない存在なのです。

 話を聞いても理解できないだろうし、理解できても行えないのだから話を聞く意味がない。みんなが話を聞く邪魔になるばかりだから、話が終わるまで待って、それからもう一度来なさい。弟子たちはそんな風に思い、親たちに語ったのではないでしょうか。

イエスは憤り

 けれどもこの弟子たちの振る舞いにキリストは憤られます。「憤る」とは「激怒する」と訳してもよいような強い怒りを表す言葉です。どうしてキリストはそこまで怒られるのでしょうか。

 キリストは、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない」と言われます。キリストの怒りは、何よりもまず、弟子たちが幼子たちが自分のところに来ることを「止めた」ことに、そして、弟子たちが、自分たちにそうする資格があると考えていることに向けられているように思えます。

「たしなめた」とありますが、ここで 「たしなめる」と訳されている言葉は、「値踏みする」という言葉がもとになっています。
そこから、「評価する、非難する、勧告する、叱る」という意味が派生してきたのです。 だとすれば、弟子たちは、子どもたちと親たちを値踏みし、キリストの祝福を受けるにふさわしくないと判断したのでしょう。ひょっとすると、うちの先生はメシア、キリストなのだから、その辺のラビと一緒にしてもらっては困る、といった思いがあったのかも知れません。

 いずれにしても、弟子たちは、キリストにお会いする資格のある者とそうでない者を自分たちが前もって判断することができると考えているのです。そのような、だれが救われるのかを前もって判断し、ついにはキリストの救いそのものを値踏みするような態度に対して、キリストは激怒されたのではないでしょうか。

神の国はこのような者の国である

 一人前でなければキリストの所に来てはいけない、「良いわざ」を行えなければ、神様の祝福を受けることができない、イエス様は、こうした考え方にはっきりと「否」を語られるのです。

 なぜなら、神様から見るなら、その言葉を理解することができず、その戒めを守り行うことができないという点では、「幼な子」も「大人」も変わるところがないからです。幼な子を、「わからないから」「できないから」と神様の前から退けるあなた方は、わかっているのか、できるのか、そうキリストは問われるのです。

 神様の完全な義しさの前には、私たちは大人であろうが子どもであろうが、誰一人立つことはできません。神様の前から退けられ、さばきとのろいを受けるほかありません。だからこそ、キリストは、私たちのために十字架にかかり、私たちに代わって神様のさばきとのろいと受けてくださったのです。「幼な子」をしりぞけることは、このキリストの恵みをしりぞけてしまうことなのです。

彼らを抱き

「抱く」という言葉は、「腕の中に抱く」という意味があります。それは、キリストの「失われた羊」(ルカ15:1-7)のたとえを思い起こさせる振る舞いです。「そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう」と結ばれるこのたとえは、私たちは誰もが皆、神様の前から迷い出、滅びに瀕している羊であって、自分の力では帰る道を見つけることも、それどころか歩くことさえままならず、ただ、見つけられ、抱き上げられ、担がれ、連れ帰られるしかない存在であること、そして、そのように全く受け身でキリストの救いにあずかることを、神様は私たちの「悔い改め」として喜んで下さるという驚くべき神様の恵みを証ししています。

幼な子のように神の国を受けいれる

 キリストは、わざわざ「はっきり言っておく」と宣言した上で、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われます。子どものようにならなければ、すなわち、自分で自分を守ろう、自分で自分を救おうとするのではなく、自分の保護者に全く信頼して任せる、そういうものでなければ神の国に入ることはできないというのです。それこそが福音です。神様の「値踏み」にかなう者しか救われない、神の国に入れないとしたら、いったいだれが神の国に入ることができるでしょうか。

 自分の足では入れないからこそ、キリストは私たちをその肩に担いで、天国の門をくぐって下さったのです。それがキリストの十字架と復活の意味にほかなりません。

神の国を受け入れる

 神の国を受け入れるとは、神の恵みの支配を受け入れることです。神様の恵みの手がすでに自分の上に伸ばされ、自分がすでに神様によって抱き上げられ、終わりの日の救いに向けて運ばれつつあるという驚くべき出来事をただ受け入れ、導かれるままに導かれ、祝福されるままに祝福され、救われるままに救われるということなのです。まさに、このときに連れてこられた幼子たちの上に起こったことと同じことが私たちの上にも起こっている。このことを承認すること、感謝し、讃美し、そのままに御手に委ねて生きること、それが神の国を受け入れるということだと言われるのです。

祝福された

 キリストは、「幼な子」を「抱き、手をその上において祝福され」ます。イエス様は、神の言葉を理解することができず、良いわざを何一つすることのできない私たちを、なおその腕に抱き、祝福してくださるのです。

 私たちもまた、キリストのもとに連れてこられた、キリストのもとに集い来た者たちの一人です。イエス・キリストを世にお送りくださり、その十字架の死と復活とによって私たちを神の子としたもう天の父は、みもとに集う幼な子にすぎない私たちを、その腕に抱き、祝福し、神の国の豊かな恵みにあずからせて下さるのです。そして、キリストの恵みによって神様に受け入れられ、祝福された者たちは、ひるがえって自分たちもまた、自分たちのかたわらにある「幼な子」、隣り人を受け入れ、愛し、奉仕することができるようになります。そのとき、私たちは、すでに「神の国」に生き始めているのです。(2021年10月3日の礼拝のために)