2025年2月2日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書10章42-45節
説教:「多くの人の身代金として」 大石啓介
1 十人の憤り
ヤコブとヨセフの願いは、イエス様によって退けられました。すると、他の十人の使徒たちが二人のことで憤り始めました。つまり強い不平や恨み、怒りなどを抱き、激しく腹を立てたのです。
二人の願いが退けられたタイミングで噴き出した怒りはまるで、「何ということをイエス様に願い出るのか。弁えなさい」というような、二人の卑劣な願いに対する正当な(公の)抗議のような形を装います。
しかし十人の憤りの根底には、二人が自分たちを出し抜いたという不平と恨みがありました。十人は口に出さなかっただけで二人と同じ思いを持っています。つまり、十人も栄光の日に、イエス様の右と左に座りたい、使徒たちの中で誰よりも一番になりたいと願っていたのです。
そのことは、以前、弟子たちの間で「誰が一番偉いか」と議論していたことからも明らかです。そのため十人は、二人が願いを口にしたときに出し抜かれたと腹を立てたのです。恨みは、憤りとなって表に出ました。自らが心に抱いていた野心を棚に上げて(あるいは自分たちの罪をイエス様に気づかれまいとする思いがあったかのように)、十人は二人に対し憤り始めるのです。
使徒たちは未だ、信仰に弱い者たちでありました。この世を抜け出し、神の国の住人であることを願いながら、未だこの世の住人であり、この世と深く繋がっておりました。こうしたいざこざは、この世の住民が起こすいざこざです。歴史を通して、人と人との些細ないざこざは頻繁に起こっていました。正義を振りかざして悪を成敗するという名目で戦争は始まります。
民族間での争いも、土地所有や権力争いの中で繰り広げられています。私たち一人一人の喧嘩も些細な言い争いや妬みから引き起こされます。最近、インターネットの世界においても、不当な行いをした人々への怒りの声また声を頻繁に見かけるようになりました。正義の名のもとに平気で人を罵倒している人たちもいます。
「弱い者たちが…さらに弱い者を叩く」世界では、正義は人のさじ加減で決められます。真実ではなくとも論破が強い人の言葉だけが採用され、マイノリティは軽視され、有識者の意見、また神対応や神業といった神を関した称号を持つ人たちの言動やスタイルが、正しさの基準になります。同調した正義は時に個人を死に追いやることも珍しくなくなりました。
まさに「支配者と見なされている人々がその上に君臨し、偉い人達が権力を振るっている」状況が生まれていると言えるのです。真の支配者が不在の世界では、正義ではなく不正が、愛ではなく恨みや嫉妬が、奉仕ではなく支配が生まれるのです。
現実社会は、支配者として相応しくない者が支配者と見なされ、権力をもって下のものをおさえつけ支配しています。この世の歴史はその繰り返しです。イエス様の時代もそうでありました。ローマ皇帝やヘロデ・アンティパスが「支配者と見なされ」君臨しておりましたが、彼らは真の支配者ではありませんでした。民の平和平安を願わず、逆に人々を重い税金で苦しめ、虐げられてきたのです。偉い人々が私腹を肥やし、下の者を押さえつける支配が、イスラエル人の社会の上に伸びていました。
虐げられた人々は抜け出したいと願いつつも、支配階級が出す毒に自らも蝕まれていき、いつの間にか自分たちもまたさらに弱い物を叩き、恨み、蔑み、人の上に立とうとし、愛さず、支配しようと考えていたのです。使徒たちの態度は、氷山の一角ではありますが、そのような状況の目に見える現れでありました。
2 僕として仕えよ
イエス様は未だこの世に縛り付けられている十二人を近くに呼び寄せます。そして、「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうではない。」と語り、目を覚ますようにとおっしゃいます。イエス様はこの御言葉によって、十二人が未だこの世に隷属し、この世の人々と同じようにふるまっていることを気づかせようとします。
この世の支配者のあり方を反対しているあなたたちが、この世の支配者と同じことをしている使徒たちに向かって、「あなたがたの間では、そうではない」とイエス様は断言されます。今すでに「そうではない」と力強く語るイエス様の言葉に、強い叱責と信頼が表れています。あなたたちは「この世の住人」ではなく「神の国の住人」ではないか!と、おっしゃっているのでしょう。
使徒たちの目を御言葉に集中させた後、イエス様はさらに続けて自ら選んだ新しいイスラエルの十二部族に向かって、神の国の秘義を語られるのです。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」。
この御言葉と同じ趣旨の御言葉は、前にも語られています(マコ9:35)。この態度は神の国において偉い者がとるべき態度です。イエス様は使徒たちに、神の国の偉い者として、「仕える者」、また「僕」になれと命じます。
つまり、僕のように仕える者になることが求められていると言ってよいでしょう。僕は奴隷とも訳すことができる言葉ですから厳しい命令であると言えます。そのような奉仕は、力を入れても、成果はあがらず、生きがいも感じられなくなり、奉仕によっては自分が消耗され、時には恐怖感や虚無感に見舞われることもあるでしょう。
しかし、イエス様は、そのような身を削り、破滅にほかならないような「奉仕」に仕えるように命じています(※なお、「仕える」とは、奉仕するという意味であり、私たちの教会での奉仕を意味するディアコニアの語源となった言葉が用いられています)。
3 多くの人の身代金として
それにしてもこの命令は厳しすぎないでしょうか(43節と44節の命令は、9章35節の御言葉よりもより深刻な言葉として響いています)。確かに人間が完全にこなすことは不可能に近い事柄でしょう。しかし、使徒たちはこの命令に全身全霊で従わなければなりません。
なぜなら、自分たちの師であるイエス様が「仕えるために来た」ことを明かされたからです。45節でイエス様は次のように語ります。「人の子は、支えられるためでなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」そうであるならば、イエス様に従う使徒たちもまた「皆に仕える者となり、すべての人の僕のようにな」らなければいけないのです。
神の子であり、キリストであるイエス様ですが、ご自身のことを「人の子」とよく表現されます。「人の子」という称号は、ダニエル書から終末的救いの出来事を連想することができるのですが、しかし子どものように人に仕えるという謙遜さが内在しています。「神の子」であるイエス様は、父なる神様のみこころに従い歩んでおられるように、「人の子」としてのイエス様も、人に仕えるためにこの世に来たのです。
「仕える」という言葉を、より具体的に表現したのが、45節後半の御言葉です。イエス様は、その内容を次のように説明します。つまりそれは、「多くの人の身代金として自分の命を捧げる」と言うことです。「身代金」とは、本来のギリシャ語では、戦争捕虜や奴隷、借金の負債者とを解放するために払われる「代価」を意味する言葉です。
この意味を含みつつ、旧約聖書やユダヤ教との関連において、「身代金」または「贖罪(罪の贖い)」を意味する言葉となりました。つまりイエス様はここに、御自身は奴隷解放のための身代金としてきた、と語るのです。「多くの人」というのは、限定した人々のことを指す言葉ではなく、「すべての人々」を意味します。イエス様はこの世界のすべての人々を解放する「身代金」としてご自身の命を捧げるために来たのです。
これは三度の予告における死の意味を明確にしています。イエス様はなぜ十字架によって死ななければならないのか、それは多くの人々の罪を贖うためであることがここにはっきりと語られていくのです。
この御言葉には、イエス様がこの世に来た目的の啓示だけではなく、この世に未だ隷属しているすべての人々に向けた救いと解放の宣言でもあります。イエス様は、御自身の命を身代金にし、すべての人々を買い取り、すべての人々をこの世から解放することを予告します。解放された者たちは、イエス様の先導によって神の国へと導かれます。
この世から解放され、神の国の住人となる道が整えられているのです。そのために、今から準備をしなければなりません。神の国の住人であることを望む使徒たちは、この世の住人としてではなく、神の国の住人として今から「皆に仕える者となり、すべての人の僕になる」のです。
4 神の国の僕として仕えなさい
「仕えられるためではなく仕えるために来た」イエス様が、「皆に仕える者となり、すべての人の僕になりなさい」と命じておられます。私たちは、この命令に従いたいと思いますが、ここにもう一度、「仕える」と言う考え方を改めて考えてみたいと思います。弟子としての歩みを進める私たちが仕えるべき存在は、イエス様です。それは決して由来ではいけないでしょう。
では、人の僕となるとはどういうことなのでしょうか。そのことについて私たちは、イエス様の姿から学ばなければいけません。
イエス様が成し遂げられるのは、私たちのこの世からの解放でありますから、神の国の住人が、僕としての仕える際には、この世のそれとは違います。私たちはこの世の僕から神の国の僕へと移されていきます。それはまったく違う本質への移動です。
私たちは、神の国の基準にそって仕えていきます。神の国での奉仕は、愛の奉仕となります。また神の国の住人は、人に従う奴隷ではなく、神に従う僕として働くということを忘れてはいけません。幸いに、神の子であり人の子であるイエス様が私たちの師として先導してくれます。私たちは「仕える」とはどういうことなのかを、イエス・キリストから学ぶのです。
イエス・キリストの奉仕をご覧ください。イエス様が今までなしてきた「奉仕」は、愛を帯び、また正しさを帯びます。人の子として人に仕え、御言葉の説教と恵みの奇跡の業によって多くの人を癒し、人々を導いてまいりました。家族なき者の家族となり、一緒に生活し、罪人と共に食事をしました。
神のみこころを理解しない者と対話し、神の御心を宣べ伝えました。それはまるで、旧約の時代に、王に従属しながらも神の御言葉を預かる者として働き、時に王の言葉よりも御言葉の権威をもった預言者のような働きであったとも言えるでしょう。
私たちは、十字架の死に向かって生を全うされたイエスキリストから、新たな「仕え方」を学ぶのです。イエス・キリストに従う私たちは、イエス・キリストに倣う者たちです。神の国の住人としての生き方をもイエス様から学びたいと思います。