読む礼拝

「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。      (マタイによる福音書2:2)


その星を見て


 キリストの誕生は「すべての民に与えられる大きな喜び」です。神様はこの知らせを、どこからでも見出すことのできる空の星によって知らされます。より真実なもの、より善なるもの、より美しいものを求めて天を仰ぐ者は、誰でも導きの星を見出すことができるのです。

 けれども、星に導かれて主にお会いすることができたのは東の国の博士たちだけでした。どれほど明るく導きの星が輝いていても、地上の事柄で頭が一杯で、他人の顔色を伺うことに汲々としているばかりなら、その輝きは見えず、その導きに応えて歩み出さないなら、その導きは意味のないものになってしまうのです。

導きの星が見失われるとき

 しかし、その星に導かれて歩み出したはずの博士たちですら、いつしかその星を見失ってしまいます。王ならば王宮に生まれるはずだという常識が、救い主は力と富と栄光に包まれているはずだという思い込みが、彼らの足をベツレヘムの馬小屋へではなく、エルサレムの宮殿に運んでしまいます。けれども、そこはきらびやかではあっても、実際には疑心暗鬼と敵意に満ちた死の世界にほかなりません。自ら力と富と栄光を求めこれを独占しようとするところに本当の命はないのです。

神の言葉に導かれて

 この人間の思い違いを正し、歩むべき道を示すのは神の言葉です。神様は小さなものに目を注がれ、小さなものを小さくないものへと変えてくださるという聖書の言葉に導かれて、彼らはベツレヘムを目指します。そしてその時に彼らは導きの星を再び見出すのです。

 そもそも、博士たちが「その星」が「ユダヤ人の王」の誕生のしるしだと気がつくためには、神の言葉が必要でした。神様は、東の国の博士たちにも、その星が「ユダヤ人の王としてお生れになったかた」の星であることがわかるようにしてくださっていたのです。「東の国」とは、チグリス・ユーフラテス川を中心とした古代から文明の発達した地であり、イシュタル、ギルガメシュ、マルドゥクといった神々が礼拝されていた地です。けれども、同時に、そこは神様が信仰の父アブラハムを導き出した地であり、ヤコブが兄エサウから逃れて叔父ラバンの元に身を寄せた地であり、そして何よりも、バビロニア捕囚によってユダヤの人々が捕らえ移された地でありました。東の国の博士たちは、この捕囚の人々を通して伝えられたであろうアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神にして全地の主である神様を知ったのです。

蒔かれた信仰の種

 実に、「慰められることさえ願わなかった」とマタイが引用したエレミヤ書の「ラケルの嘆き」が描き出すバビロニア捕囚は、東の国に、ただ一人の神を信じる人々を送り出すことでもあったのです。

 異教徒のただ中に生きることを余儀なくされた神の民は、それにも関わらず、ただ一人の神を信じることをやめませんでした。預言者たちを通して語られた神の言葉によって、神の民は国の滅亡と捕囚とを、イスラエルの神のバビロニアの神々への敗北としてではなく、ただ一人の神様の神の民への裁きとして受け止めました。そして悔い改めをもって唯一の神への信頼と希望とに生きたのです。

 神を信じない人々のただ中で、神を信じる者として、困難と苦しみのただ中で、なお喜びと希望とに生きる者として歩み通した信仰とあかしとが、東の国だけではなく、世界中に「神を恐れる異邦人」を生み出していったのです。

福音の香を放つ

 人は、信じるつもりも受け入れるつもりもなくても、傍らにいる人が大切にしているものがあり、その大切なものによって支えられていることが分かるなら、その人が大切にしているものを心に止めます。そしてその人が大切にしているものが本物なら、自分も大切にしたいと思い始めます。そこから信仰への決断は一歩です。そのような御言葉の種まきの上に、神様が星を輝かせてくださいました。言葉としるしとによって、博士たちの救い主を求める旅は始まり、聖書の証しするベツレヘムの馬小屋でその旅は終わったのです。

低きに降る愛

 そこには「富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた」(IIコリント8:9)主がおられます。飼い葉桶はその貧しさの、そして命のしるしです。自らのために力と富と栄光を求めるところにではなく、人のために弱さと貧しさとはずかしめを身に負うところにまことの命があるのです。

黄金・乳香・没薬

 博士たちはこの飼い葉桶のイエスに黄金・乳香・没薬をささげます。黄金は王のしるし、神にささげられる乳香は神のしるし、死者に塗られる没薬はイエスがその死によって私たちを救う救い主であることのしるしです。彼らは、イエスを王として、神として、救い主として告白するのです。それらはまた、彼らがこれまで占いとまじないに使ってきた商売道具だったと理解することもできるでしょう。彼らは、これまでの自分たちの生き方を捨て、人の知恵によらず神の言葉によって歩み出そうとするのです。

他の道を通って~人生を導くもの~

 彼らは「ヘロデのところに帰るな」とのみ告げを受けて「他の道を通って帰って行」きます。イエスと出会った人は、これまで歩んできた道を転換して新しい道を歩み出します。ヘロデの道ではなく、イエスの道にこそまことの命があるからです。神の言葉としるしとによって導かれた博士たちの旅はさらに続きます。そして今度は彼らが神の救いのあかし人となるのです。                 (2019年1月6日の顕現節礼拝のために)


「そして天から声がした『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』   (ルカによる福音書3:22)


洗礼者ヨハネ

 イエス・キリストの救い主としての働き(公生涯:こうしょうがい)は、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになることから始まります。

 このヨハネについて、福音書記者ルカは、「皇帝テベリオ在位の第十
五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主」であったとき、「神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨」んだと記します。「彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝え」ます。そして、イエス・キリストもこのヨハネから洗礼をお受けになりました。

 けれども、福音書の最初に「わたしたちの間に成就された出来事を」「順序正しく書きつづ」ると述べていたはずのルカは、キリストの洗礼について語る前に、事実としてはその後になるはずのバプテスマのヨハネの捕縛を記します。それは、ルカにとって、バプテスマのヨハネの時と、イエス・キリストの時とは異なった時代に属しているからです。イエス・キリストの登場によって、世界は新しい時代を迎えたのです。

ヨハネの洗礼とイエスの洗礼

 バプテスマのヨハネが救い主ではないかと考えた人々に、ヨハネは「わたしよりも力のあるかたがおいでになる」と言います。「……しなさい」「……してはいけない」というヨハネの教えは、なお人を救うことができないのです。それは、旧約聖書の律法と預言者を通して語られた神の言葉が、ついに人を救うことができなかったということを意味します。なぜなら「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がない」(ローマ7:18)ということこそが人間の最も深い苦悩であり悲惨だからです。「わかる」ことではなく、「かわる」こと、私たちが新しい人間に生まれ変わることが問題なのです。

 だからこそ、神様は救い主を幼子の姿でベツレヘムの馬小屋に生まれさせてくださったのです。それは私たちが新しく生まれるためであり、自分のためには必要のないはずの洗礼を受けられたのも、私たちが神の子として生まれかわるためにほかなりません。救いは、人のために自ら「低く」「貧しく」なられる神の子を通して来るのです。

あなたはわたしの愛する子

 「おまえはわたしの愛する子」(詩篇2:7)とは、王の即位式の詩篇の引用です。そこには「おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを打ち砕くであろう」との言葉が続きます。けれども、神様はこの詩篇の引用に続けて、「わたしの心にかなう者」(イザヤ42:1)という、イザヤ書53章で頂点に達する主の苦難の僕の歌を引用されます。そしてこの箇所はさらに次のように続くのです。「彼はもろもろの国びとに道をしめす。彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する」(イザヤ42:2-4)。

 神様は、鉄の杖をもって地上の王国を打ち破る力を持ちつつ、折れそうな葦、消えかかった灯火をなお愛し、慈しみ、癒やし、再び燃え上がらせることのできるお方として、キリストをお遣わしになったのです。

 神の子であること、神様の御心にかなう者であるとは、真の王であり同時に真の僕であること、真に自由であり、それゆえにこそ真に人に奉仕することができるものであるということなのです(ルター)。この神の子の自由と奉仕へと神様は私たちをも招き給います。神のゆえに隣人のために自ら喜んで「低く」「貧しく」なること、そこに人間の真の救いと喜びがあるからです。

古い人に死んで新しい人によみがえる

 信仰とは、この神様の恵みの招きに応えて、自分自身を中心とした「的外れ」(=「罪」)の生き方から、神様を中心にした本当の生き方へと「向き直る」(=悔い改める)ことです。この信仰を支えるために神様が私たちのために定めてくださった「信仰の外的な支え」(カルヴァン)が洗礼と聖餐です。水の中に沈められ、そして引き上げられるという古い時代の洗礼式は、古い人が死んで新しい人が生まれることを表しています。

 キリストが洗礼をお受けになったとき、「天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声が」します。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

 洗礼とは、私たち自身がこの神様の言葉を聞く者となるということ、この言葉を聞きつつ歩む者となることなのです。この招きに応えて歩み出し、歩み続ける者たちでありたいのです。

              (2019年1月13日の礼拝のために)