読む礼拝


「気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである」。  (マルコによる福音書13:33)

「クリスマスシーズン」とアドヴェント


 11月も半ばを過ぎると、街にはちらほらとクリスマスのデコレーションが姿を現し、12月の声を聞くとクリスマス一色になります。「クリスマスシーズン」の到来です。プレゼントの買い物やケーキの予約、パーティに向けての浮き立つような日々が始まります。

 けれども、本来、この季節は「アドヴェント」(待降節)として、静かに、厳かに、そして悔い改めと希望の中に過ごされてきました。キリスト教の伝統の長い地域では、この季節には結婚式を控えたり、断食を行ったりする所が今でもあります。典礼を重んじる教会では、この時機の典礼色(礼拝のテーマカラー)は「悔い改め」を象徴する紫色です。

 11月30日に最も近い日曜日から12月24日まで、4つの日曜日を含むこの期間は、イエス・キリストがわたしたちの罪のゆるしのために、ベツレヘムに幼子として来てくださったことを覚えると同時に、その約束の通り、最後の審判のため、万物の支配者(パントクラトール)として今一度、私たちの所に来てくださることを覚える時だからです。

小黙示録

「小黙示録」とも言われ、マルコ福音書13章に記されているキリストの終末についての教えは、神殿を前にして「なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」と感嘆の声を漏らした弟子の言葉に対するものでした。この弟子の称賛の言葉には理由がなかったわけではありません。このエルサレム神殿は、ソロモンの神殿(第一神殿)がバビロニア軍によって破壊された後、バビロン捕囚から帰還した人々が食うや食わずの時代に築いた第二神殿が、その壮麗さにおいてソロモンの神殿に及ばなかったため、ヘロデ大王がその権力と財力に物を言わせて改築したものでした。

 エドム人の血を引き、「ダビデの子」としての正統な王の血統ではないヘロデは、王としての威光を示すために神殿建設に心血を注ぎます。完成した神殿は、「ヘロデの神殿を見たことがない者は、美しいものを見たと言ってはならない」とさえ言われるようになります。その評判はローマ帝国のみならず、地中海世界全体に広まり、異教徒までもがこの神殿を一目見ようとエルサレムを訪れるようになったと言われます。イエス様は、この神殿を前に、「その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」と言われたのです。

ヘロデの神殿とやもめの2レプタ

 この弟子の言葉は、イエス様が、レプタ2枚のやもめの献げものに目をとめるように命じられた直後に語られたものでした。マルコ伝13章のイエス様の教えは、「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」ようにというイエス様の言葉を何一つ理解していなかった弟子たちに対して語られたものだったのです。

 イエス様は、立派な建物に目を奪われ、やもめの2レプタの価値に気がつかない弟子たちに対して、すべての形あるものは消え失せてゆくことを示されます。動かないように見えるもの、変わらないように思えるもの、わたしたちがいつまでも残るように考えている一切のものは、実は揺れ動き、移り変わり、消え失せるとイエス様は教えられるのです。

天地は滅びるであろう

 それは、人の手になるものだけではありません。「日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされ」るのです。私たちが変わらないと思い、時に神として崇めてきた日も、月も永遠ではない。占星術師が占いに用い、近代の科学の手がかりでもあった星も落ちる。それはすべて神様の手のわざであって、それゆえに神様の言葉一つで光を失い、消え、失せざるをえない存在に過ぎない。それに頼り、信頼し、導きを求めることなどできないと言われるのです。

人の子が来る

 そのとき、本当に残るもの、本当に信頼できるもの、本当に信ずべきものが明らかになります。「大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来る」のです。そしてこのお方の最初の働きは「御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集める」ことです。このお方こそが、最初にして最後の方、全てをその手の中においておられる方、本当に信頼すべき、本当に信ずべき唯一のお方であることを、先んじて信じることを許された者たちは、その信頼と信仰とが裏切られなかったことを知るのです。

わたしの言葉は滅びることがない

 イエス様は「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」とお語りくださいます。天地が滅びてもなお滅びることのないもの、すべての目に見えるものが消え失せてもなお残るもの、あらゆる頼みの綱が切れてもなお私たちを繋いで救い上げるもの、それはキリストの言葉、キリストにおいて実現した神の言葉であると言われるのです。

ゴールとしての「終わり」

 それは、世界の終わり、歴史の完成のときを覚えることでもあります。ゴールなしにスタートを切ることはできません。目的地を知って初めて、わたしたちはそこに至るまでの「長い、曲がりくねった道」を歩み通すことができるのです。

 そのゴールとは「大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来る」ことです。それは「神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとってくださる」(黙示録21:3-4)時なのです。

神の国が来る

 私たちが神の国に到達するのではありません。神の国が私たちの所に来るのです。イエス様はその神の国へと「地の果てから天の果てまで、四方からその選民を呼び集め」てくださるのです。

 それは地上におけるカナンの地、「乳と蜜の流れる地」の再獲得ではありません。そうではなく、人間が神様への不服従のゆえに追われたエデンの園の回復なのです。神様は、私たちを罪と悲惨と滅びから導き返し、ゆるしと喜びと命へと導き入れて下さるのです。それは「あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられる」(申命記30:6)との約束の実現です。それは、私たちが、「もっとも大切な戒め」をついに守り、それによって生きるものとなるということにほかなりません。

目覚めて生きる

 この最終目標、ゴールをいつも心にとめているということ、それが「目覚めている」ということです。

 けれどもそれは、決して特別なことをすることではありません。きちんと見るべきものを見ること、主人の眼差しをもって、何が大切であり何がそうでないかを見分け、主人が大切にしているものを自分もまた大切にして生きるということ、それぞれが主から割り当てられた仕事に責任をもって生きることが「目覚めている」ということなのです。

 旅立った主人の帰りを待つ僕のように、しかもその主人に最初にまみえることの出来る門番のように「目をさまして」いることをイエス様は命じられます。目に見えないものに目を注ぐこと、私たちの目の前を通る「わたしの兄弟であるこれらの最も小さいものの一人」を、旅先から帰ってくる主人のように、来たりたもう主イエス・キリストのように大切にすることをイエス様はお求めになるのです。

 神さまから与えられた一日一日を、託されたつとめを、感謝して、大切に、心を込めて、丁寧に生きるということ、それが主を待ち望む私たち、イエス・キリストの教会につらなる神の民の一員の歩みなのです。
            (2020年11月29日の待降節第一主日礼拝のため)


「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」
                (マタイによる福音書22:15)

そのとき


 イエス様は、天国、神の国、神の恵みの支配を王子の婚宴にたとえられました。イエス様は、これまでにも神の国を、毒麦を育つままにさせる主人、からし種、畑に隠してある宝、迷い出た羊を見つけ出す羊飼い、負債を許す主人、気前の良いぶどう園の主人といったものにたとえられてきましたが、ついに、地上の国にたとえられたのです。

 それは、神の恵みの支配は、わたしたちの心と魂だけではなく、わたしたちの体とその振る舞い、そして人と人との具体的な関わりにまで及ぶということにほかなりません。神様は、わたしたちが宗教と呼ぶものばかりではなく、倫理や道徳、そして社会や歴史にまでその支配をおよぼしておられると言うのです。

ヘロデ党の者たちと共に

 だからこそイエス様は、宗教者であるパリサイ人からだけではなく、政治集団であるヘロデ党からも敵対視されることになったのです。ローマ帝国との融和策によって自分たちの権力を維持しようとしていたサドカイ派も同様です。福音書記者ヨハネが「もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう」(ヨハネ11:47-48)という彼らの懸念を記す通りです。

 かろうじてローマ帝国から一定の自治を許されている今の状況が、ナザレのイエスの言葉と行動とによって揺らぎかけている。人々がイエスを「ダビデの子」として、ローマ帝国の支配を打ち破り、ユダヤ王国を再建するキリスト、メシアとして信じ、指導者として従い、武力闘争を始めたら大変な事になると彼らは考えます。そして、政治的には対立しているはずのグループが一致して「イエスを言葉のわなにかけようと」するのです。

カイザルに税金をおさめてよいでしょうか

「カイザルに税金をおさめてよいでしょうか。いけないでしょうか」との問いは、当時の人々にとって大きな問題でした。熱心党やパリサイ派の人々は、神の民として異教徒に税金を納めることを拒否して弾圧されていました。ヘロデ党やサドカイ派の人々は、自分たちに与えられている権力を保持し、そこから得ていた利益を許してもらうために、納めて事なきを得ようとしました。両者の間には論争と対立があったのです。

 けれども、この時、彼らは、イエス様にこの難問の解決を期待したのではありません。反対です。もし「納めよ」と答えれば、ローマに反感を抱いている民衆の支持を失わせることができるし、「納めるな」と言えば、逆にローマ当局に「彼は税金を納めるなと民衆を扇動している」と訴えて弾圧させることができると彼らは考えたのです。

 それはイエス様が、政治運動をしているのであれば、間違いなく有効な方法でした。

カイザルのものはカイザルに

 けれども、前にも進めず後ろにも退けないと思われたこの「わな」を、イエス様は「上から」越えてゆかれます。イエス様は「税を納める貨幣を見せなさい」と言われ、「これは、だれの肖像、だれの記号か」と問われます。「カイザルのです」との答えに、「それでは、カイザルのものはカイザルに返しなさい」と命じられるのです。

 あなたがたはローマ皇帝の肖像が刻まれた貨幣を使っているではないか。ローマ帝国が造った道路を利用し、ローマ軍によって通商の安全を守られているではないか。あなたがたがすでに事実としてローマ皇帝の権威を認め、そこから便益を得ているならば、それにふさわしい実りを返すことは当然であるとイエス・キリストは言われるのです。

 政治とは、地上に生きる人々の肉の生命とこの世の財産を守ること、目に見える、数を数えることのできる人々の利害を調整することだからです。

神のものは神に

 そして、「神のものは神に返しなさい」との言葉をもって、事実としての権威、事実としての守りと支えとを考えるならば、私たちは、ローマの皇帝にはるかに優る方の権威と守りと支えの中にあるではないかと言われます。私たちが神様から受けているこの生命、この身体、そしてこの人生の実りを、神様に返すことは、ローマ皇帝から受けているものをローマ皇帝に返すことにまさって当然であると言われるのです。

カイザルのものと神のもの

 その時、ローマ皇帝もまた神の権威の下にあり、真の権威者であり支配者である神様が、「悪事を行う者に対しては怒りをもって報いる」ための「神の僕」(ローマ13:4)であることが明らかになります。私たちは「すべて人の立てた制度に、主のゆえに従」(Iペテロ2:13)うのです。

 だからこそ、神の僕であるはずの「この世における権威」が、その限界を超えて「神のもの」を要求するなら、それを拒まなければならないこともまた明らかです。神の似姿が刻まれている私たちの人格と尊厳、究極的な服従と讃美とは、ただ神にのみ帰されるべきものだからです。

 この世の権威への服従と取りなしの祈りとを命じた使徒たちは、皇帝が自らを神として礼拝することを求めたときには、これを拒んで処刑されることも厭わない殉教者でもあったのです。

「バルメン宣言」第5テーゼ

 ナチス・ドイツの時代、「国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序とな」ろうとし、そのために「法と平和とのために配慮するという課題」を放棄し、かえって法(人権)と平和の破壊者となろうとしたとき、ドイツのプロテスタント教会は、ルター派、改革派、(ルター派と改革派の)合同派という立場を越えて、1934年5月、バルメンで教会会議を開き、「バルメン宣言」として知られる6項目からなる「バルメン告白会議の神学的宣言」を行いました。

「神を畏れ、王を敬いなさい」とのペテロの第1の手紙2章17節を引証聖句とする第五テーゼは次のように証しします。

「国家は、教会もその中にあるいまだ救われないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量(はかり)に従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、法と平和とのために配慮するという課題を、神の定めによって与えられているということを、聖書はわれわれに語る。教会は、このような神の定めの恩恵を、神にたいする感謝と畏敬の中に承認する。教会は、神の国を、また神の戒めと義とを想起せしめ、そのことによって統治者と被治者との責任を想起せしめる。教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する。」

 そしてこの積極的主張から引き出される反駁命題が続きます。

「国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。

 教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによってみずから国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。」


カイザルのものはカイザルに、神のものは神に

 この命題が、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」とのイエス様の言葉の「翻訳」であることは明らかです。この世の権威は、ともすると「神の僕」(すなわち「民の僕」)であることを忘れ、「全ての決定権は私にあり、私の言うことは絶対である。私が正しいと言った事が正しい」と、自らを絶対化し神となろうとします。教会はそれに対して、ただ神のみを神とし、ただ神のみを崇めるという形で、静かに、しかしきっぱりと、この世の権威をその本来の務めへと押し戻すのです。まことの神を知る者たちが「神を恐れ、王を尊」(Iペテロ2:17)ぶこと、それがもっとも真実な神と地上の権威者への奉仕なのです。            (2020年11月15日の礼拝のために)


「ラケルは死んでエフラタ、すなわちベツレヘムの道に葬られた。ヤコブはその墓に柱を立てた。これはラケルの墓の柱であって、今日に至っている。」。    (創世記35:19~20)

旅の終わり


 ヤコブさんは、ふたごのお兄さんのエサウさんから、長男の特別な権利と神様の祝福を横取りしてしまいました。そのためにエサウさんから憎まれ、家にいることができなくなり、おじさんのラバンさんのところに逃げていかなければなりませんでした。

 ラバンさんの娘のラケルさんのことが好きになって結婚し、子どもも生まれますが、神様が家に帰りなさいと言われるまでには20年もの長い年月がたっていました。

 本当にいろいろな事がありましたが、ついにヤコブさんは生まれ故郷に帰ってくることができました。そして、神様が20年前にヤコブさんに現れて、「あなたとあなたの子どもたちに与えよう」と約束して下さった場所に着いたのです。

神の家

この場所で神様はもう一度ヤコブさんに現れて言われました。「わたしは全能の神である。あなたは生めよ、またふえよ。一つの国民、また多くの国民があなたから出て、王たちがあなたの身から出るであろう。わたしはアブラハムとイサクとに与えた地を、あなたに与えよう。またあなたの後の子孫にその地を与えよう」。

 ヤコブさんはそこに石の柱を立てて礼拝しました。そしてその場所をベテル(ベート・エル:神の家)と名づけました。ここに神の家がある。わたしはこの神の家の一員である。自分にはお父さんの家もあるし、おじさんの家もあるし、自分の家もある。けれども、どこにいても、わたしは神様の家一員である。神様はいつでも、どこでも、わたしとわたしの家族とを守ってくださる。ヤコブさんはこの神様の恵みと約束に感謝し、神様をほめたたえたのです。

ベニヤミンの誕生とラケルの死

 このベテルからさらに進んで行ったところで、ヤコブさんのつれあいのラケルさんに赤ちゃんが生まれます。神様はさっそく「生めよ、ふえよ」という約束を実現してくださったのです。けれども、そのお産がもとでラケルさんは死んでしまいました。赤ちゃんが生まれた喜びと、ラケルさんが死んでしまった悲しみとで、ヤコブさんはどんな思いをしたことでしょう。

 どうして神様はうれしいこと、楽しいことばかりではなくて、悲しいこと、苦しいことを起こされるのでしょうか。神様は「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と約束してくださったはずではないでしょうか。

 神様のために石を立てて礼拝したヤコブさんは、こんどはラケルさんのお墓のために石を立てるのです。祭壇を造ることとお墓を造ることは、「信仰の父」と言われるアブラハムさんからずっと続いてきたことでした。祭壇を造ることが大切なことは分かりますが、どうしてお墓をつくことが大切なのでしょうか。

『鬼滅の刃』

 『鬼滅の刃』という映画が大ヒットしています。先生も見てきました。雑誌に連載されている頃から気になっていて、特に主人公たちの言葉が心に残りました。今回、映画館にまで行って見てきたのは、テレビに出てきた映画のコマーシャルで聞いた主人公の先輩、煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅうろう)さんの言葉が心に響いたからです。

老いることも死ぬことも

「老いることも死ぬことも。人間という儚(はかな)い生き物の美しさだ。老いるからこそ、死ぬからこそ、たまらなく愛(いと)おしく尊いのだ」。この言葉は敵の最高幹部の一人である鬼の猗窩座(あかざ)から「お前も鬼にならないか」と誘われた時の言葉です。年を重ねて衰え、いつかは死んでしまう人間のうちは至高の領域に達することはできない。鬼になれば老いることも死ぬこともない、永遠に鍛錬を続けることができる、いっしょに武の道を究めようというのです。

 どこかで聞いたことのある言葉だと思いました。そして、ああ、これが悪のやり方なのだと感じました。それは「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となる」(創世記3:5)という楽園のへびのことば、そして「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」(マタイ4:9)という悪魔の誘惑の言葉です。それに、「もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」(マタイ27:41)という、十字架につけられたイエス様をののしった人たちの言葉を加えても良いかもしれません。

強く生まれた者の責務

 煉獄さんは最後までその誘いに乗ることはありません。そして「俺は俺の責務を全うする」と言葉を返すのは、コマーシャルにある通りです。そして、その責務とは、病弱であったお母さんから伝えられた「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です」という言葉でした。

 この物語の中で、鬼は力と強さを代表しています。けれどもそれは自分のためだけに使う力と強さです。そして弱い人を馬鹿にし、蔑(さげす)み、食い物にするのです。けれどもそれは、人間が人間でなくなってしまうということです。

 その一方、鬼と戦う鬼殺隊(きさつたい)の人たちは、「傷だって簡単には塞がらない、失った手足が戻ることもない」生身の体で、同じように弱く、脆(もろ)く、儚(はかな)い人を守ろうとします。そしてそれが人間というものだというのです。

おのれをむなしうして僕のかたちをとり

 このやりとりを聞いて、聖書の言葉を思い起こしました。パウロさんが「ピリピ人への手紙」の中に引用した、そのころの教会の讃美歌の一節と言われているものです。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」(ピリピ2:6-9)。

 神様は、救い主であるイエス様を、ベツレヘムの馬小屋で赤ちゃんとして生まれさせ、ゴルゴダの十字架にはりつけにし、そして三日目によみがえらせてくださいました。

 それは、イエス様がわたしたちと同じように弱く、小さく、貧しくなって、わたしたちを助けて下さったように、わたしたちも、お互いが、助け合い、愛し合って生きることができるためでした。

祭壇と墓

 ヤコブさんは、ラケルさんのお墓を造ります。それはとても悲しいこと、辛いことです。けれどもそれは同時に、ラケルさんを愛し、その死を悲しみ、ラケルさんが残したものを受けつぐ人たちがいたという確かなしるしです。

 神様は、わたしはアブラハム・イサク・ヤコブの神であると言われます。それは神様が、その祝福と恵みとをアブラハムさんだけではなく、イサクさん、ヤコブさん、そしてそれに続く人たちへと受け継がせてくださる神様だということです。

 そのとき「あなたの子孫」とは、単に血がつながっている人たちということではありません。パウロさんの言うように「アブラハムの信仰に従う者」もまたアブラハムの子孫なのです。

 ラケルの墓は、このアブラハムの信仰、聖書の信仰を受け継ぐ者たちは、たとえどんなに悲しいこと、つらいことがあっても、けっしていなくなることはないという確かなしるしです。

 そして、このラケルさんのお墓のあるベツレヘムでイエス様がお生まれになったということは、イエス様がラケルさんの悲しみも、ヤコブさんの苦しみも、そしてすべての人の悲しみと苦しみとを背負ってくださったということです。それはイエス様が十字架と復活によって、すべての悲しみと苦しみを喜びと感謝に変えてくださるという確かな約束なのです。
   (2020年11月8日の子どもと大人の礼拝のために)


「天国は、一人の王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。」            (マタイによる福音書22:2)

王子の婚宴

 イエス・キリストは、天国をぶどう園の収穫にたとえられました。天国、神の国、神の恵みの支配とは、神様からの恵みである収穫を喜ぶこと、そして、その喜びをすべての働き人と共に喜ぼうとする寛大な主人の恵みのなかに生きること、この主人の喜びを自分の喜びとし、すべての人と共に喜び祝うことであるとイエス様は言われたのです。

 さらにイエス様は、天国を王子の婚宴にたとえられます。それは一世一代の王子の結婚式と同じほどの喜びなのです。

すべての人にとっての喜び

 それが王子の結婚であるということは、その国に生きるすべての人々にとっての喜びだということです。まだ自分がその国の民であることを知らない人にとってもその出来事は意味があり、そうであることを認めたくない人にとってもそれは変わることのない喜びだというのです。この世に生きる人は誰一人この出来事から除外されてはおらず、その喜びから漏れる人はいないと言うのです。

時代を超えた喜び

 そして、それが王子の結婚であるということは、王国が王から王子に受け継がれていくということです。天国、すなわち神の愛の実現である神の国は、時代を超えて受け継がれていくのです。
 
 もちろん、神の国はただ神様のみが王であられます。けれども、神様はその支配を、ある時にはアブラハム・イサク・ヤコブの神として、またモーセの神としてお示しになります。ヨシュア、士師たち、ルツ、サムエル、ダビデとソロモン、王たち、預言者たち、エズラ、ネヘミヤ、詩篇作者、多くの証人たちが、それぞれの時代と場所で天国を証ししてきたのです。それは神の国の多様性と豊かさの証言です。ヘブル人への手紙が「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られた」と語る通りです(1:1)。

 そして、その集大成として「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られ」(1:2)て、神の恵みの支配がどのようなものであるかを、疑いようもなく確かに証しされたのです。

国を超えた喜び

 王子の婚宴であるということは、もしそれが外国の王女との結婚だとすれば、国を超え、民族を越えた喜びであるということです。それは、自分たちの知らない、ひょっとしたらこれまで争い合っていた相手とも共にすることができる喜びであり、それはさらに言えば、共に喜び合うことのできる存在が新しく与えられたという喜びでもあります。

喜びの拡大

 王子と王女の結婚は、王家が存在した時代にあっては国の外交そのものであり、戦争に代わる領土拡大の手段でもありました。

 じっさい、大航海時代であり宗教改革の時代でもあったカール五世の時代に「日の沈まぬ帝国」を築き、マリヤ・テレジアやマリー・アントワネット、エリサベートといった女王・王妃の名前で知られるハプスブルグ家の家訓と言われていたのは、「戦いは他のものに任せよ、汝幸いなるオーストリアよ、結婚せよ。」でした。神の国は力によらず、侵略と支配とによらないで、しかも確かに拡大していくというのです。

愛の喜び

 そして何より婚宴は愛の喜びです。政略結婚がほとんどであったハプスブルグ家は、にもかかわらず、他の王家に比べるとむしろ夫婦関係は円満で、多くの子宝に恵まれ、また一族内で争いが起こることもまれであったと言われています。

 領土の他家への流失を防ぐために血族結婚が重ねられた結果、子どもの多くが障碍を持っていたり、虚弱であったりしたことは事実です。けれどもそれは同時に、王位継承者に武を求めないということを意味するでしょう。体が弱かったり、病気だったり、障碍を持っていることが、国を治める点において決定的な問題とはならないということをヨーロッパの王室は示してきたとも言えます。

 その背景に「悲しみの人で、病を知っていた」(イザヤ53:3)主の僕を「諸王の王」として信じ従って来た「キリスト教的ヨーロッパ」の良き遺産の一端をなお認めることは決して誤りではないように思うのです。

招きを拒む人々 

 ところが、招かれていたはずの人々が「知らぬ顔」を決め込みます。一方には、「畑」に「商売」に出て行く者たちがいます。目に見えない「神の国」よりも、目に見える「自分の畑」の方が確かであり、どんなに盛大でも一時のものにしか過ぎない「王子の婚宴」よりも、生涯にわたって続く自分の「商売」の方が大切なのです。心が天上にではなく地上に、神様にではなく自分に向いている者は、神の国の招待を拒んでしまうのです。

婚宴を喜ばない人々

 さらに、神の招きをあからさまに拒絶する者たちがいます。王子の結婚が外交であり政治そのものであるとすれば、王子の婚宴を喜ばない者たちとは、王の政策に同意しない者、王に反逆する者たちということになるでしょう。

 ひょっとするとその者たちは、敵であった国との和平が結ばれることに反対だったのかも知れません。外国人の血が王家に混じることを認めがたかったのかも知れません。王子の能力不足を問題にしたのかも知れません。しかしいずれにしても、この者たちは王の思いを理解しようとせず、その統治のあり方が継続することを拒んだのです。

 平和を求め、多様性を認め、力なき者を受け入れ、すべての人々と喜びを共にしようとする王の統治を受け入れない者たち、力と勝利とを栄光とを求め、純粋さと言う名の単純さに捕らわれ、弱いと見える者たちを切り捨てようとする者たちは、この王の愛と恵みの統治を退け、愛に対して憎しみをぶつけるのです。

神を退ける者

 それは、神様の恵みと愛とを退け、人の力のみで生き、人の愛のみで歩もうとする人間の姿であり、神のものを自分のものとしようとする人間、神の意志に従おうとせず、自分の思いのままに生きようとする人間の姿です。しかし、そこには、たださばきと滅びとが残されているだけです。

喜びは続く

 けれども、この王はそのような忘恩と反逆にあってなお、婚宴を中止しません。神の国はたとえ人によって無視され拒絶されてもなお成長し続け、拡大し続けるのです。そして神様はどれほど背かれ、裏切られてもなお私たちをそのみ国に招き続けられます。

恵みの招き

 神様はその招きに条件をつけません。神の招きに応えるもの、神様によって自分の計画が変更されることを受け入れるものでさえあるなら、「だれでも」「悪人でも善人でも」神の国に入ることができるのです。

 そのとき、主人が客のために礼服を用意するように、神様自らが神の国にふさわしい立ち居振る舞いを導いてくださいます。その礼服をなお拒む者、神の国にふさわしく生きようとしない者を神様はとがめられます。自らはゆるされていながら人をゆるそうとしない者、愛されていながら人を憎む者、その者は外の暗闇に放り出されるほかはありません。

あわれみはさばきに打ち勝つ

 けれども、神様は、滅ぼされ、暗闇に放り出されるはずの私たちをそのようにはなさいませんでした。私たちに代わってそのひとり子を滅ぼし放り出し、逆にこの私たちにイエス・キリストの義をまとわせて神の国に入ることを得させてくださいました。神のゆるしは限りなく、その招きは止むことがありません。このゆるしと招きに応える者たちでありたいのです。          (2020年11月1日の礼拝のために)