読む礼拝


「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。  (創世記11:4)

最初のグローバリスム


 バベルの塔の物語は、「全地は同じ発音、同じ言葉であった」と始まります。同じ言葉ではいけないのでしょうか。人が心を合わせることがどうして問題なのでしょうか。

 それは「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い」(創世記8章21節)からです。人は「生まれながら、神と隣人とを憎むことに傾いている」(ハイデルベルク信仰問答第5問)ゆえに、時に人は心を一つにして悪いことを行うことをしてしまうのです。

技術革新の影

 それは最初は悪とは思えない形で始まります。人々は一致して敵に当たることができるようになり、守るに易く攻めるに難い山裾を出て、作物の栽培により適した「平野」に住むことができるようになります。生産活動が盛んになり、技術革新が起こります。人々は「石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得」るのです。

分かち合いから独り占めへ

 けれどもその時、人々はその富と知恵とを、自分たちだけのものにしようと謀ります。「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」というのが彼らの計画です。けれどもそこにはすでに、自分たちが以前のように一つではなく、ばらばらになりかけているという不安が見て取れます。

壁の誕生、塔の誕生

 町を建てるということは、町の回りをぐるりと囲む壁を造るということです。自分たちと自分たち以外とを分ける「隔ての壁」を建設して、手にした富と知恵とを自分たちだけのものにしようとするのです。そして、その知恵と富とを誇示するためのシンボルとして「塔」を造ろうとします。頂を天に届かせようとするその塔は、自分たちが「神のように善悪を知る者となる」(創世記3:5)ことを誇示するものにほかなりません。

塔が倒れる前に

 神様は、この企てを止めさせようとします。それは危機感からではなく、ましてねたみからではありません、神様は人間によって並ばれたり脅かされたりする存在ではありません。それは神様ご自身のためではなく人間のためです。なぜなら、全知でも全能でもない人間が、そうであるかのように思い違いをして振る舞うなら、その結果は破局以外にはないからです。

 実用を無視して「天にまで」届かせようとする塔は倒壊するほかありません。焼成煉瓦を作るために行われる森林伐採は水源を枯らし、人体に害のあるアスファルトは人々の健康を損なうでしょう。バベルの塔建設はどうしても中止させなければならなかったのです。

散らされること-多様性の始まり

 けれども、「同じ発音、同じ言葉」の人々の中には異論の生じる余地がありません。一旦走り出したら大破するまで止まらないプロジェクトを、被害なしに中止させ、破局に向かうことのないようにするため、神様は「言葉を乱し、互に言葉が通じないように」されたのです。

 さまざまな人種、民族、言葉、文化が存在すること、人間の社会が多様性に開かれていることは良いことなのです。それは一時に全体が破局を迎えることのないための安全弁です。

信仰の父

 けれどもそれは永遠にではありません。バベルの塔の物語の後には、「信仰の父」アブラハムの物語が続きます。楽園追放とバベルの塔のエピソードが示す人間の根本的な問題、聖書が罪と呼ぶ人の根源的な歪みと捻れとを克服するためのあり方を、聖書は「信仰」と呼ぶのです。

塔のある町からの脱出

 アブラハムは「カルデヤのウル」の出身です。階段状ピラミッドで有名な古代中近東世界の中心地の一つでした。神様は、このアブラハムに「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12:1-2)と語りかけます。この語りかけに応えて、信仰の父と言われるアブラハムが「行き先を知らずに出て行った」(ヘブル人への手紙11章8節)ことから、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が生まれることになります。

神の国を目指して

 このアブラハムから始まる信仰の歩みは、最終的には「天にあるふるさと」「天の都」「神の国」の到来によって完成されると聖書は語ります(ヘブル11:12-16)。そして、その天にあるふるさとを指し示す決定的な出来事が、使徒行伝が記すペンテコステ(聖霊降臨節)に起こるのです。

ペンテコステ(聖霊降臨節)

 キリストの誕生を祝うクリスマス、復活を祝うイースターと並んで、キリスト教の三大節とされるのがペンテコステ(聖霊降臨節)です。ペンテコステとは50日を意味し、ユダヤ教の最大の祭りであり、キリストがその際に十字架にかけられた「過越の祭」の後の最初の日曜日から数えて50日目の祭りです。古くは「7週の祭」とも「初穂の日」とも呼ばれ、小麦の初穂を神に捧げる日とされていました。後にはエジプトを出たイスラエルの神の民がシナイ山で律法を授けられたことを祝う日ともなりました。

集まって祈る弟子たち

 弟子たちはこの祝いの日に一緒に集まります。けれどもそれは祭のためではありません。彼らが祝うのは約束の地での収穫ではなくイエス・キリストの復活であり、彼らに与えられたのは律法ではなく、律法の完成者であるキリストが約束された聖霊でした。

激しい風が吹いてきたような音

 その聖霊はまず「激しい風が吹いてきたような音」として響きわたります。聖霊の出来事は何よりもまず耳で聞く出来事だったのです。そして聖霊は「舌のようなもの」として「ひとりびとりの上にとどま」ります。聖霊は弟子たちの耳を開き、そして口を開くのです。聖書の語る聖霊降臨は、聞くことと語ることと切りはなすことができません。聖霊降臨とは霊の出来事にまさって言葉の出来事だったのです。

 聖霊降臨は「新しい酒で酔っている」かのような、多くの宗教の中に見られる集団での忘我状態といったものではありません。聖霊は、教組の託宣をオウム返しに繰り返すロボットを造り出すのではなく、「ひとりびとり」の上にとどまり、「いろいろの他国の言葉で」「神の大きな働き」を語らせるのです。それは一人一人を生かし、しかも一致させる力なのです。

終わりの日、完成の日の先取り

 聖書は、このペンテコステの出来事が、ヨエルの預言の実現であると語ります。聖霊降臨とは「私の霊をすべての人に注ごう」と約束された神様が、男女の別なく、自由人と奴隷を分け隔てすることなく聖霊を注ぎ、神の言葉を与えられた出来事だというのです。そのとき初めて、人と人とを隔てていた壁は打ち破られ、神の霊と言葉によって人は一つとなるのです。

幻と夢に生きる

 そのとき、「若者たちは幻を見、老人たちは夢を見る」ことができます。神の霊と言葉とは、私たちに本当の夢と展望とを与え、未来を開くのです。罪と過ちによって過去に足を引っ張られ、死と虚無とによって未来を奪われている私たち人間は、キリストの十字架による罪のゆるしと、復活による永遠の命の約束とによって、初めて、過去から解き放たれ、未来への希望を抱くことができるようになります。キリストの福音こそが、いかなる現実にも希望を失うことなく、「私には夢がある」と語ることを得させる力なのです。教会は、この解放の言葉、いのちの言葉を語り伝えるためにこそ建てられたのです。

コンタンティヌス帝の光と影

 けれども、現実の教会はしばしばこのことを忘れました。コンステンティヌス帝によってキリスト教が公認され、さらにテオドシウス帝によってローマの国教とされるに至って、教会自身が壁を作り塔を建てる側に立ってしまいました。

 教会はユダヤ教から、そして教会が「異端」と見なした人々から自らを切り離し、ローマ帝国の権力を借りて迫害しました。そして聖書の教えではなく教会の教えを絶対化し、イスラム勢力圏への侵略を「十字軍」と呼んで神の名によって正当化しました。ついには異端審問所を作って、むしろ聖書の教えに違おうとした人々を異端として迫害するに到りました。

プロテスタントの登場と30年戦争

 こうしたローマ・カトリック教会のあり方に対して抗議(プロテスト)の声を上げたのが、ルターやカルヴァンらの宗教改革者たちでした。けれども、大きな流れで見れば、プロテスタント教会もまた、それぞれの領主や都市権力と結び付いて、自分たちの主張と異なる人々を排除しようとしたことは否めません。

コンスタンティヌスの呪縛

 本当の意味での「信教の自由」が確立するのは、悲惨な宗教戦争であった30年戦争を経て、フランス革命、アメリカ独立という長い人間の自由の獲得の戦いの後になります。けれどもその長い自由のための戦いの中で、教会は自らの信仰の自由を訴えることにおいては熱心でも、自分とは異なる考えを受け入れる点では消極的であり、時には反対の立場に立ちました。それほどまでに「コンスタンティヌスの呪縛」は強かったのです。

 今日、イスラムの人々を敵対視し、相対的でしかない自分の主張を聖書によって絶対化しようとする「キリスト教原理主義」も、このコンスタンティヌスの呪縛の中にあると言えるでしょう。

コンスタンティヌス以後の教会

 第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、教会の中からも「コンスタンティヌス以後の教会」のあり方を真剣に考える人々が現れました。

 教会の牧師でありながら、ナチスの全体主義とユダヤ人迫害に抵抗して、ついにヒトラー暗殺計画に参加して処刑されたドイツのディートリッヒ・ボンヘッファー。「神の愛の宣教者会」を創設し、インドのコルカタでヒンドゥー教、仏教、キリスト教、イスラム教、一切の区別なく、苦しむ人、見捨てられた人のために奉仕したマザー・テレサ。そこには、壁を作り塔を建てようとするのとは正反対のあり方、分断された人と人との間に橋を架け、人と人とを結び合わせようとする生き方があります。

神と等しくあることを固守すべき事とは思わず

 それは狭い意味でのキリスト教を超えて、すべての人に向けて開かれたひとつの新しい生き方への招きです。そしてその生き方の根本に「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(ピリピ人への手紙2章6~7節)イエス・キリストの姿ががあります。このキリストを知ることが始まりであると聖書は語ります。この聖書に学んでいきたいのです。    (2019年6月9日のオープン礼拝のために)


         キリスト者も異教徒も
                  デ      ィートリッヒ・ボンヘッファー

1 人間は困窮におちいって神に行き、
  助けを哀願し、幸福とパンとを乞い求め、
  やまいと、とがと、死からの救いを求める。
  人間はみんな、キリスト者も異教徒も、みんなそうする。


2 人間は困窮の中にある神に行き、
  貧しく、はずかしめられ、よるべなくパンなき神を見いだし、
  罪と、弱さと、死に呑みこまれている神を見る。  
  キリスト者は苦しみ給う神のみもとに立つ。


3 神は困窮の中にあるすべての人間のもとに来り給い、
  肉体と魂を彼のパンをもって飽かせ、
  キリスト者と異教徒とのために十字架の死を死に、
  彼らのいずれをも赦し給う。   
                           (森平太訳)