2026年6月21日(日) 主日礼拝
聖書:使徒言行録2章29−36節
説教:「証人」 大石啓介
1 契約と預言とその解釈
ペトロは説教において、聖霊降臨の意味を説いた後、いよいよその出来事をもたらした主イエス・キリストへと移ります。
「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」と語るとおりです。
つまり、神様の救いは聖霊降臨によって初めて始まったのではなく、主イエス・キリストの公生涯においてすでに示されていたのであり、とりわけ主イエスの死と復活と昇天こそ、神様が昔から約束しておられた救いのご計画の成就であることを、旧約聖書によって明らかにしようとするのです。
そのために彼が人々の前に開いたのが、ダビデの詩編でした。
ペトロは、ダビデの詩編の持つ豊かな信仰の内容を認めながらも、それが単なる個人的な信仰告白にとどまらず、やがて来られる救い主を指し示す預言でもあることを示そうとします。
こうしてペトロの説教は、本日の箇所からさらにその深みへと進んでいきます。
彼は、聖霊降臨が主イエス・キリストと深く結びついていることを示しながら、ナザレの人イエスこそ約束された救い主メシアであることを説き明かそうとするのです。
本日はそのことを共に見聞きしたいと思います。
さて、主イエスについて語るにあたり、ペトロはダビデの詩編をより深く読み解きます。
彼は詩編16編を単なるダビデ個人の信頼の詩としては読みません。
私たちは先週、この詩にダビデの主なる神様への深い信頼と希望が歌われていることを見てきました。
しかしペトロは、そこにダビデ個人を超える内容が含まれていることに、聖霊によって気付かされていくのです。
ペトロは、この詩の中に預言者として語るダビデの声を聞き取ります。
特に彼が注目したのは、詩編16編10節の言葉でした。
「あなたは私の魂を陰府に捨て置かず
あなたの聖なる者を朽ち果てさてない。」
ダビデは、確かな信頼をもって宣言しています。
しかし、ダビデはすでに死んで葬られており、その墓は当時も人々のよく知るところにありました。
もしこの言葉がダビデ自身について語られているのであれば、現実と一致しないことになります。
では、この言葉は誰について語られているのでしょうか。
そこでペトロは、この詩の真の指し示す先はダビデ自身ではなく、神様が遣わされるメシアであったと理解するのです。
ではなぜ、自分が経験したことではない事柄を、ダビデはこのように確信をもって語ることができたのでしょうか。
ペトロはその理由を、「ダビデが預言者であったからだ」と説明します。
ダビデは単に自分自身に起こった出来事や希望や願いを詩に託したのではないことに気づいたペトロは、ダビデが神様から与えられた御言葉を受け、その御言葉の成就を見据えながら語ったことに気づいていくのです。
神様はかつてダビデに、「あなたの子孫の一人を王座につかせる」と固く誓われました(サム下7章)。
それは、ダビデの家系から救い主が現れ、その王国が永遠に続くという契約の約束でした。
ダビデはこの約束を信じていました。
またその信仰は、自分一人の平安や救いにとどまるものではありませんでした。神様が約束された王は、イスラエル全体を治める王だからです。
カルヴァンが「信仰のまなざしは、現在起こることのはるか先を見ている」と語ったように、ダビデは自らの人生を超えて、神様が完成される救いの未来を見つめていました。
だから彼の信仰は、神様の救いの歴史へと開かれていたのです。
ペトロは、この視点から詩編16編を読みます。
彼はこの詩を、単にダビデ自身の信仰告白として読むのではありません。
ダビデ自身を超えて、神様が約束されたメシアへと目を向けて読むのです。
すると、「あなたはあなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」という言葉は、究極的にはダビデ自身について語られたものではなく、神様が遣わされるメシアを指し示していることが見えてきます。
もちろん、ダビデは「ナザレのイエス」という名を知っていたわけではありません。
しかし彼は、神様が契約によって約束された救い主を待ち望んでいました。
そしてその約束の実現を遠くから見つめていたのです。
そのまなざしを引き継いだペトロは、復活された主イエスとの出会いを通して、この詩編が指し示していたお方こそ主イエス・キリストであることを悟ります。
ダビデが待ち望んだメシアの姿を、復活された主イエスの姿に見たのです。
だからこそペトロは、詩編の言葉を、「彼は陰府に捨て置かれず/その肉体は朽ち果てることがなかった」と語り直すことができたのです。
ペトロはさらに別の詩編を引用し、この理解が決して思いつきではなく、ダビデ自身の証言に根ざしたものであることを示します。
そこで彼が取り上げたのが、詩編110編1節でした。
「主は、私の主に告げられた。
『私の右に座れ。
私があなたの敵を
あなたの足台とするときまで。』」
ここで最初の「主」は神様を指しています。
そして「私の主」とは、ダビデが自分の主として仰ぐお方です(マコ11:35-37を参照)。
この詩編は、ダビデが自分自身を超えるお方、すなわち神様が遣わされるメシアを見つめていたことを示しています。
そしてペトロは、そのメシアこそ主イエス・キリストであると語るのです。
ダビデ自身は死んで葬られ、その墓は今も人々の間にありました。
しかし神様は、主イエス・キリストを死の中に捨て置かれませんでした。
その肉体を朽ち果てるままにはされず、神様はキリストをよみがえらせられたのです。
ダビデが契約の中で見つめていた希望は、キリストの復活において現実となりました。
2 証人
ペトロは、ダビデが見つめていた未来が、今や現実となったことを語ります。
神様が約束されたメシアはすでに来られました。
ペトロの説教の中で何度も繰り返される「神はこのイエスを復活させられた」という宣言は、単なる出来事の報告ではありません。
それは、イエスこそ神様が約束されたメシアであることを示す証言なのです。
ダビデが契約の中で待ち望んだ救いは、イエス・キリストにおいて実現しました。
だからペトロは大胆に宣言します。
「神はこのイエスを復活させられました。私たちは皆、そのことの証人です。」
ここで心に留めたいのは、「私たちは皆」という言葉です。
これはペトロ一人の考えや解釈ではありません。
今ここに共に立つ11人の使徒たち、さらにその背後にあるの復活の主イエスに出会った弟子たちの証言なのです。
ペトロは、自分だけの特別な体験を語っているのではありません。
神がイエスを復活させられたことを、多くの証人たちが見聞きし、その事実を証ししているのです。
一幕のお話が演じられたのではなく、事実の証言が行われたのです。
証人の立てられる証言ですから、単なる報告ではなく、事実の再現がなされたのと同じなのです。
教会はそのことを告げる、証人の群れなのです。
そして証人たちは、復活された主イエスが今や神の右に上げられたことを告げます。
それがどういう意味を持つかは、33節にてペトロが語る通りです。
主イエスはただ復活しただけではなく、昇天して父なる神の右に座し、約束された聖霊を御父から受け、それを御自身の民に注がれました。
だからこそ一同は、聖霊に満たされ、さまざまな国の言葉で神の偉大な業を語ることができたのです。
ペトロは、その事実を指し示しながら人々に語ります。
「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」
聖霊降臨は、復活し昇天されたイエス様が、力ある王として君臨し、全てを統治し、救い主メシア、つまりキリストとして今も生きて働いておられることのしるしでした。
それは、神様が約束されたメシアがすでに来られ、その救いの御業が成し遂げられたことを示す出来事でもありました。
人々が目の前で見ているのは、ダビデが待ち望み、預言者たちが語り続けた救いが、今まさに実現しているという事実だったのです。
3 主イエス・キリスト
こうした説教の結びに、ペトロは次のように語ります。
「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけられたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
ここでは、「あなたがたが十字架につけた」と「神は主とし、メシアとなさった」とが鋭く対比されています。
人間の行いと神様の御業とが向かい合わされているのです。
ペトロは、この鋭い対比によって人々の心を揺さぶります。
自分たちが退けたお方を、神様は主またメシアとされたからです。
人々がこの事実の重大さを真剣に受け止めるよう促しているのです。
しかし、ペトロの目的は人々を断罪することではありません。
むしろ彼は、人々が自らの罪を認め、その罪を赦してくださる神様の救いの御業へと目を向けるよう促しているのです。
そのことは、この説教全体を通して用いられている呼びかけの言葉からも分かります。
ペトロは初め、「ユダヤの人たち」と呼びかけ、「イスラエルの人たち」と語り、さらに説教が深まる中で、「きょうだいたち」と呼びかけました。
そして最後には「イスラエルの家」と呼びかけます。
ペトロは人々を外から裁く者として立っているのではありません。
同じ神の約束を待ち望み、同じ罪の赦しを必要としている者として語っているのです。
だからこそ、ペトロの厳しい言葉は断罪の言葉ではありません。
それは、神様が備えてくださった救いへと人々を招くための愛の言葉だったのです。
人々はこの説教を聞いて大いに心を打たれることになります。
神様の救いのご計画が明らかにされ、自分たちが退けたイエスこそ救い主であることを知らされたからです。
そしてその言葉は、彼らを切り捨てるためではなく、「きょうだいたち」と呼びかける愛の中で語られました。
その時、人々の心は聖霊によって深く刺されたのです。
もちろん、人々の心を動かしたのは聖霊の働きによるものでした。
聖霊が彼らの心を開き、自らの罪と神様の救いの御業とを悟らせたのです。
しかし神様は、その聖霊の働きを人々の証言を通して現されました。
神様は天から直接語りかけるだけではなく、聖霊に満たされた証人たちを遣わし、その口を通して福音を告げ知らせられたのです。
人々は遠くの誰かからではなく、「きょうだいたち」と呼びかける者たちから福音を聞きました。
同じ約束を待ち望み、同じ罪の赦しを必要としている者たちの証言を通して、神様は働かれたのです。
神様は今も同じように働かれます。
聖霊によって人を救われる神様は、その福音を人から人へと伝えさせることを良しとされました(Ⅰコリ1:23参照)。
神を愛し、隣人を愛する交わりの中で、人々がキリストを知るようにされたのです。
私たちもまた、その恵みの計画の中に置かれています。
聖霊の力に信頼しながら、主イエス・キリストを証しする者として歩んでいきたいと思います。
2026年6月14日(日) 主日礼拝(聖餐式)
聖書:使徒言行録2章25−28節
説教:「私は揺らぐことはない」
1 私は揺らぐことはない
聖霊に満たされたペトロは、聖霊降臨の出来事に驚き、戸惑う人々を前に立ち、その意味を説き明かしました。
まず彼は、聖霊降臨が預言者ヨエルによってあらかじめ語られていた出来事であり、神様の救いのご計画の成就であることを示します。
そして、終わりの日が始まり、すべての人が救いへと招かれる時が到来したことを力強く宣言したのです。
しかしペトロは、この神様の救いのご計画が聖霊降臨によって初めて始まったとは語りません。
むしろ、そのご計画はすでにナザレの人イエスの地上の歩みにおいて現されていたことを語ります。
神がイエスを通して行われた力ある業と不思議な業としるしは、神様の救いが現実のものとなり始めていたことを示していました。
それは、人々もよく知っている事実でした。
ところが人々は、そのナザレの人イエスを十字架につけて殺しました。
しかしペトロは、その十字架の死さえも、偶然の悲劇ではなく(神が予期できなかったことではなく)、神様の救いのご計画の中で起こった出来事であったと語ります。
そしてさらに、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」と宣言するのです。
父なる神は、十字架で死なれた御子を復活させ、救いの完成へと導かれたのです。
もっとも、復活の主イエスを直接目撃したのは使徒たちをはじめとする限られた人々でした。
しかし人々は、聖霊を受けた使徒たちの証言とその働きを通して、十字架につけられたイエスが今も生きておられることを知らされるのです。
さらにペトロは、ただ「私たちは復活したイエスを見た」と証言するだけではありません。
彼は、イエス様の生涯そのものが、すでに聖書に預言されていた神様のご計画であることを示そうとします。
ペトロは初めに、預言者ヨエルの預言を引用しました。
そして次に引用するのが、ダビデの詩編です。
25節から28節においてペトロは、詩編16編8節から11節を引用します。
そしてこの詩編が、ダビデ自身について語られたものではなく、やがて来られるキリストについての預言であったことを明らかにしていくのです。
本日と次週にわたってこの御言葉を見ていきますが、本日はまず、このダビデの詩そのものに耳を傾けたいと思います。
さて、ペトロが引用したのは、詩編16編の後半部分です。
詩編16編は、伝統的にはダビデによる個人的な神への信頼の詩と理解されてきました。
ダビデの生涯は、決して平穏なものではありませんでした。
王となる前にはサウル王の妬みを受け、命を狙われながら逃亡生活を送りました。
王となった後も、多くの戦いや苦難を経験します。
この詩はそういった中でうたわれたのでしょう。
伝統的には、サウルから逃れる道中の詩だと考えられています。
いずれにせよ、そのような苦しみと不安の中にあっても、ダビデは主なる神に信頼し続けたのです。
ダビデは、自分の安全や力に望みを置くのではなく、主なる神に望みを置き、主の守りの中にあることを信じています。
ダビデは生きるにも死ぬにも、神が彼の永遠の守護者であり、救い主であることを確信しているのです。
「私は絶えず目の前に主を置く
主が右におられ、私は揺らぐことはない。」
この詩からわかるように、ダビデの確信は、自分自身の強さから生まれたものではありませんでした。
彼は、「私は強いから揺らがない」とは言いません。
「私は賢いから揺らがない」とも言いません。
そうではなく、「主が右にいてくださるから揺らがない」と告白するのです。
右におられるとは、主が助け手として共にいてくださるということです。
私たちはしばしば、自分の力に頼って生きています。
また、状況によっては頼らざるを得ない時もあるでしょう。
しかしその力には限界があります。
健康も、財産も、人間関係も、いつまでも変わらずにいるとは限りません。
そのため私たちは、不安や無力さを覚えるのです。
ダビデもまた、私たちと同じように弱さを抱えた人間でした。
彼は王となり、大きな成功を収めました。
しかしその生涯を振り返る時、私たちは彼の失敗や罪、恐れや迷いを見ることになります。
そのような歩みの中で、ダビデは一つのことを学びました。
自分を支えているのは、自分の力ではないということです。
自分が王となったのも、自分が守られてきたのも、主が共にいてくださったからでした。
だからダビデは、自分自身を見るのではなく、主を見上げます。
そして、
「主が私の右におられるので
私は揺らぐことがない。」
と告白するのです。
2 心の喜び、この身の安らぎ
そしてその信頼は、彼に心の喜びと体の平安を与えました。ダビデは
「それゆえ、私の心は喜び、
心の底から喜び踊り
この身もまた安らかに住まう。」
と歌うのです。
興味深いことに、ここには心の喜びだけではなく、体の平安も出てきます。
喜びと平安が共存する、そのような場所にいることのなんと恵み豊かなことでしょう。
私たちは不安になると、心だけではなく体も疲れます。眠れぬ日々を過ごし、落ち着きを失います。
喜びに満たされた日も長く続かず、体の疲れがそれを一時のものとする時もあります。
その逆も然りです。
しかし、主に信頼するものには、心身の喜びと平安が余すことなく与えられるのです
(それは心の不安や体の不調は一時であると認識することかもしれません)。
もちろん、ダビデの問題がなくなったわけではありません。
危機は常にありました。
それでも彼は平安でした。
なぜなら、神が共にいてくださるからです。
彼はそのことに気づいていきました。
聖書の語る平安とは、問題がなくなることを意味しません。
問題の中にあっても、主が共にいてくださることによって平安が与えられる、ということなのです。
世の中に不条理が常に襲いくる私たちも、実は神の平安が常にあり、その中にいることを覚えたいと思います。
3 死を越える希望
そしてダビデの信頼は、さらに死をも見据えています。
「あなたは私の魂を陰府(שְׁאוֹל)に捨て置かず
あなたに忠実な者に滅びの穴(שַׁחַת)を見せず
命の道を私に示されます」
陰府とは、旧約聖書において死者の世界、死の支配する領域を意味します。
また「滅びの穴」と訳される言葉には、「朽ち果てること」「腐敗すること」という意味があります。
ダビデが生きた時代、人々にとって死は決して遠いものではありませんでした。
幼くして命を落とす子どもたちも多く、病や争いによる死も日常の現実でした。
だからこそ「陰府」は恐れの対象であり、人間の力では越えることのできない境界として受け止められていたのです。
そのような時代にあってダビデは、この死の力さえも神との交わりを断ち切ることはできないと確信し、「あなたは私の魂を陰府に捨て置かれず」と告白します。
つまりダビデはここで、死や滅びが最終的な支配者ではないことを告白しているのです。
その告白が言葉を変えながら繰り返され、死の力さえも神との交わりを断ち切ることはできないという確信がうたわれています。
主に信頼する者を、神は死の力の中に見捨てられない。
それどころか、神は「命の道」を示してくださる。
死へと向かう道ではなく、神との交わりへと至る命の道を用意してくださる。
その確かな信頼が、この言葉の背後にあります。
その確信ゆえにダビデはこの詩を閉じるにあたり、次のように祈ります。
「御前には満ち溢れる喜びが
右の手には麗しさが永遠にありますように。」
このダビデの詩から学び取れることは、『信仰のまなざしは、現在起こることのはるか先をみている』(カルヴァン)、ということです。
ダビデは、目の前の危機や死の影に心を奪われるのではなく、その向こうにおられる神を見上げていました。
そして、その目を開かれるのは、常に右におられ、歴史を通して働きかけてくださる主なる神ご自身なのです。
ダビデはその希望のうちに歩んだのでした。
このように読むならば、詩編16編はまず、主に信頼する者の揺るがない確信と希望を歌った詩であると言えるでしょう。
詩編16編全体が、「主に信頼する者の幸いを喜び歌った信頼の詩」と言われる通りです(大浦勝)。
しかしペトロは、この詩を単なるダビデ個人の信仰告白としては読まないのです。
彼はこの詩の中に、ダビデ自身を超えるお方の姿を見ていました。
そのことを、次週見ていきたいと思います。
2026年6月7日(日) 主日礼拝(合同礼拝)
聖書:使徒言行録2章22−24節
説教:「苦しみからの解放」 大石 啓介
1 イスラエルの人たち
ペトロの説教を読み進めています。
先週私たちは、この説教が、「聖霊降臨」、「イエス様の十字架と復活」、「イエス様の昇天」の三つに分けられることを見ました。
そしてペトロは、そのすべてが、すでに語られていた神様の預言の成就、つまり救いのご計画の成就であることを示します。
前回は、14節から21節の「聖霊降臨」に関する説教を見てきました。
ここでペトロは預言者ヨエルの預言を引用しながら、「聖霊降臨は神様の御言葉の成就なのだ」と説明しました。
そしてこの聖霊降臨が、終わりの日の始まりであり、すべての人が救いへと招かれる時が到来したことを告げ知らせたのです。
さらにここからペトロは、この聖霊降臨を、イエス様の死と復活と昇天に結びつけて語っていくのです。
第一の場面で呼びかけられたのは、「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべての人たち」でした。
彼らは、旧約聖書に親しく、聖霊降臨を神様の約束の成就として受け取ることができる人々でした。
その人々に向かって、ペトロはまず、神の預言が成就したことを語ったのです。
ここで彼は、ユダヤ人たちを、「神様の約束が実現した」という事実の証人とし、「あなたがたは今、旧約聖書の約束が成し遂げられたことを見ているではないか」と語ったのです。
聖霊降臨の出来事が旧約聖書と結び付けられた時、聖霊は御言葉を通して人々の心に働かれました。
そして人々は心を刺され、この出来事の意味を真剣に受け止め始めたのです(使徒2:37)。
それを見届けたペトロは、次の段階に入ります。
つまり、イスラエルの人々の心に語りかけていくのです。
イスラエルの人々に向けて語られたのは、「ナザレのイエス」に関する説教です。
つまり、「イエス・キリストについての説教」と言ってよいでしょう。
それは「神の子でありキリストである方十字架と復活」の説教となります。
ペトロは今、救い主を待ち望んできた民に向かって、「ナザレのイエスこそ、その救い主なのだ」と語り始めるのです
(この説教は、全体の中心と言えるでしょう。
なぜなら、聖霊降臨は主イエスの救いの出来事の延長線上に起こった出来事だからです。
聖霊降臨の出来事は、主の死と復活と切り離して考えることはできません。
ですからペトロは、「ナザレのイエス」に関する説教を通して、イエス様こそ神様から遣わされた救い主(メシア)であり、また全世界の救いが実現したことを語ります。
つまり、「福音」そのものを語っていくのです)。
2 ナザレの人イエス
ここに集うイスラエルの人々にとって、イエス様は遠い噂の人物ではありませんでした。
それは、22節後半のペトロの語りかけから察することが可能です。
ここにいる人々の多くは、「ナザレの人イエス」のことを知っていたのでしょう(ルカ24:18参照)。
福音書が示しているように、イエス様はイスラエルの人々の間で多くの力ある業を行われました。
それらは、罪を赦す権能でした(マコ2:10)。
その権能はまさしく、父から子へ、つまり神からイエス様へ与えられた権能でした。
「神は、イエスを通して、あなたがたの間で力ある業と、不思議な業と、しるしを行われました」と語られている通りです。
そのことに気づいたからこそ、多くの人々が遠くから近くからイエス様のもとに集まってきたのです。
人々は、その宣教の初めから、イエス様の教えを「権威ある新しい教え」として受け止め、喜んで耳を傾けました(マコ1:27)。
また、悪霊を追い出し、病を癒す力強い業を求めて、各地から集まって来たのです。
イエス様のもとにはいつも大勢の群衆が押し寄せ、家は戸口まで人でいっぱいになるほどでした(マコ2:2)。
多い時には、五千人もの人々が集まったことも記されています(マコ6:30-44並行)。
こうした人々の姿そのものが、彼らがイエス様のうちに特別な神の働きを見ていたことを示しています。
だからこそペトロは、「あなたがた自身がご承知のとおりではないか」と語りかけるのです。
そのことを確認したうえで、ペトロはさらに踏み込んで語り、イエス様の十字架の責任の所在を確認するのです。23節。
「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手によって、はりつけにして殺したのです。」
この現実を避けて通ることはできません。なぜなら、義なる神様の前にして、罪は必ず明らかにされ、隠し通すことができず、審きも免れることはできないのです。
しかしペトロは、ただ人々を責めるためにこれを語ったのではありません。
それは、自分たちの罪から目をそらさせず、悔い改めへと導くためです。
そして悔い改めた者を、神様が備えてくださった救いへと招くためなのです。
3 苦しみからの解放
そのことを示すように、ペトロは次のように語ります。
「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡された」
つまりペトロは、イエス様の十字架の死でさえも、人間の悪意によって偶然起こった出来事ではなく、神様の救いのご計画の中で起こったことなのだと語るのです。
ペトロはそのことを、復活の主との出会いによって知ったのです。
では、一人の人が十字架にかけられることが、神様のご計画であったとは、どういうことなのでしょう。
その答えを、私たちはこれまで福音書を通して、そのことを学んできました。
その意味を最も簡潔に語っているのが、いわゆる「小さな聖書」と呼ばれる、ヨハネによる福音書3章16〜17節です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
ここでヨハネは、イエス様が神様の愛を示すためにこの世に遣わされたと語ります。
神様の愛の深さは、罪人を救い、永遠の命を与えようとされたことにあります。
神様は、その愛のゆえに独り子をお与えになりました。
御子イエス・キリストは、私たちの罪を担い、十字架にかかられたのです。
これほど大きな愛があるでしょうか。イエス様の十字架は、神様の愛が最もはっきりと示された出来事なのです。
しかし、神様の救いの御業は十字架で終わりませんでした。
24節では、次のように続けます。
「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」
神様は世を愛されたゆえに御子を与えられました。
しかし御子を与えることは、御子を見捨てることではありませんでした。
父なる神は独り子を深く愛しておられました。
そして神は、御子を死の支配の中にとどめてはおかれませんでした。
神様は、十字架で死なれたイエス様を復活させられたのです。
もし十字架だけで終わっていたなら、死が勝利したことになってしまいます。
しかし神様は、イエス様を死の中にとどめてはおかれませんでした。
復活によって、十字架において成し遂げられた罪の赦しが確かなものであること、そして死の力が打ち破られたことを明らかにされたのです。
だからペトロは、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられた」と語るのです。
十字架も復活も、共に神様の救いのご計画でした。
そこに、罪人を見捨てない神様の愛と、御子を死に渡したままにはされない父なる神の愛(ヨハ3:35、5:20、17:24など)とが示されているのです。
しかしペトロは、復活を神様の愛のしるしとして語るだけではありません。
24節後半です。
「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、あり得なかったからです。」
ペトロはここで、死に打ち勝たれたイエス様ご自身の権威について語り始めます。
イエス様は単なる一人の人間ではありません。
死でさえ支配することのできないお方なのです。
こうして説教は、復活に示された神の愛から、復活されたイエス様の王としての権威へと進んでいきます。
次週は、この25節以下の御言葉を通して、そのことを見ていきたいと思います。