2024年11月17日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書9章38-41節
説教:「味方」 大石啓介
1 ヨハネの思い
旅の途中、カファルナウムの家に立ち寄った主イエスは、「誰が一番偉いか」と道中議論していた弟子たちに向かって、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9:35)、「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」と教えられました。
9章33節から展開される物語は、「誰が一番偉いか」と言う問いを中心に、三部に分けてその答えが与えられる構造になっています。
第一部にて「受け入れる事の大切さ」を教えられたヨハネが、主にあることを報告したことから第二部は始まります。ヨハネは、旅の最初から主に従った弟子の一人です。十二人の使徒に選ばれ、兄弟のヤコブとともに、主より「ボアネルゲス」つまり「雷の子ら」と名付けられていました(3:17)。ヨハネはシモン、ヤコブと共に、主から名を与えられた弟子の内の一人ですあり、主と共に山上に登ることを許され、主の変貌を目撃した一人でもあります。このことは、ヨハネが、ペトロと同様に弟子の中心的存在であったということを暗示しています。
その彼が、「一番偉い人は誰か」を問う物語の第二部にて、主要人物として登場し、「先生のお名前を使って悪霊を追い出している者を見ました。しかし、私たちに従わないので、やめさせました」と報告するのでした。
ヨハネがここで何を問題にしているかを見ていきたいと思います。第一に彼は、「イエスの名を使って悪霊を追い出している」という行為を問題にしています。しかしヨハネは、悪霊を追い出すこと自体を問題にはしているわけではありません。
悪霊追放は、主の御業のうちのいちじるしいものでありますが、主の場合ほど顕著ではないとはいえ、当時、他でも行われていました。ファリサイ派の中にも悪霊を追放する人がいたことがルカによる福音書でも記されていますし(ルカ11:9)、使徒言行録19章13,14節にも、ユダヤ人の中にそういうことをする人たちがいたことが記されています。
さらに、こういうことは異教徒の中でも行われていました。ですからヨハネは、悪霊追放を主イエスや使徒たちの特権だとは考えていませんでした。しかしヨハネは、イエスの名を使って悪霊追放を行うことだけは許せませんでした。彼にとってそれは、主の名をみだりに唱える不貞行為に他ならなかったのです。
ヨハネは、主から直接使徒に任命され、悪霊を追い出す権能を主から直接授かり(3:13以下)、派遣の時には、多くの悪霊を追い出し、人々を救っていました(6:7以下)。ヨハネは使徒であることを誇りに思い、その力を自負していたでしょうし、このことを光栄に思っていたことでしょう。
そして主が栄光に着く時、自分もそれにふさわしい地位が与えられることを期待していたようです。こうしたヨハネの思いは、彼が「誰が一番偉いか」と言う物語の主要人物として描かれていることに暗示されているだけではなく、マルコによる福音書10章35節以下に展開される物語でも現れています。
ヨハネはそこでもまた、一番であることを願い、兄弟ヤコブと共に、主が「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください」と願っています(10:37)。
そのことは、ヨハネがただ欲深い性格の持ち主であったということを表すのでありません。ヨハネは使徒としての権威の元、正当な理由をもって、「一番であること」を願っていたのです。自分はそれに見合う働きをしていたと考えていたことでしょう。
そういったヨハネの思いや行動は、主イエスから頂いた使徒と言う地位と、悪霊を追い出す権能を誰よりも大切に考えていたことの現れでもあります。彼は弟子たちの中でも「地位」や「権能」に人一倍厳格な人であったのでした。それゆえに、主を慕い、愛していた人であるということができます。
ヨハネは、主から直接「地位」や「権能」を与えられていない他人が、主の名をみだりに使って悪霊を追い出すことを許せなかったのでしょう。それは確かに特権意識であり、度量の狭さではありますが、一概にそれを否定することはできません(私たちは彼の思いも受け止めつつ、物語を読む必要があるでしょう)。
さて、ヨハネはその熱心さにおいて、「主の名を使うなら、わたしたちに従いなさい」と迫るのでした。しかしその男は従いませんでした。ヨハネにとっての第二の問題は、そのことでした。つまりヨハネは「わたしたちに従わなかった」という事実を問題としています。
そのためヨハネは、男の行為をやめさせようと働きかけたのでした(ギリシャ語文法では、「やめさせた」は未完了形で表現されており、それに倣って訳すのであれば、「私たちはやめさせようとしたがやめさせられなかった」となる)。私たちに従わないのは、主に従わないことであり、私たちを受け入れないのは、主を受け入れないことである。そうであるならば、主の名を使うことは許されないし、とめなければならない。それが弟子としての使命である、とヨハネは考えたのでしょう。ヨハネは自分の良心に従って行動するのです。
第一部の話を聴いたタイミングで、ヨハネがこのことを報告したのは、主が彼の良心を肯定してくれると思ったからでしょう。もしかしたらヨハネは、この報告を主が喜び、彼を評価してくださると考えていたのかもしれません。いずれにせよヨハネは、前回の物語で教えられた事柄を、自身の行為を保証するものだと考えていたようです。
しかしそれは相手を否定し、敵対する行為でありました。そのため主イエスは、「やめさせてはならない」と諭していくのです。
2 イエスの答え ①
ヨハネの報告に対して、主は「やめさせてはならない」と答えます。そして「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい。私たちに逆らわない者は、私たちの味方である」と続け、なぜやめさせてはいけないかの理由を語ります。
主が何を問題とし、何を否定しておられるかは、この答えから明白です。主はこの時、男に焦点を当てません。この男がキリストの教えに従い、悪意など全くなく、主の名を使って奇跡を行おうとしていたかも、主イエスの人気にあやかってその名を使い私腹を肥やしていたのかは、今、問題にしないのです。主がこの時、第一の問題として取り上げたのは、受け入れることのできなかったヨハネの態度でした。主は、弟子ヨハネが抱える根本的な問題を取り上げ、それを解決することから始められます。
第一部において主が教えられたことを今一度思い出してみましょう。主は弟子たちに向かって「一番偉い者」は、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者」にならなければならないと教えています。そしてそれはまず、自分たちの家にいる子どもの一人を受け入れることであると教えました。
それが、弟子たちがまず一番に目指すべきことであります。弟子たちはまず、自分たちの家の者たち、つまり主によって家族と認められた人々の中にいる(3:31以下)、一番小さな者たちを受け入れる器の深さを持つことから始めなければいけません。
そして第二部にて、家の外にいる人々に対して、どうとらえるべきかを主は教えてくださいます。主の答えは明白です。「私たちに逆らわない者は、私たちの味方である」。
確かに、男は、弟子でもなく、兄弟姉妹でもないかもしれません。しかし、私たちに逆らわない時、私たちの味方であるとして認め、彼らを受け入れる器を持たなければいけないと、主は教えるのです。その器の広さは、ヨハネの行動を否定します。ヨハネは、気づかなければいけないでしょう。
主が与えられた権能は、他を排除するための権能ではありません。敵とみなすための権能ではないのです。悪霊を追い出し、人々を救うための権能であり、味方を得るための権能なのです。主が与えられた地位や権能は、多くの人々を受け入れるために与えられているのです。
3 イエスの答え ③
味方として受け入れる事の大切さを主は教えます。主が 御もとに集まる人を家族として受け入れたように、私たちも器を広く大きくして、他者を受け入れなければいけません。そのことを告げた後、主は次に、こう言います。
「よく言っておく(アーメン!)。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」
「よく言っておく」という御言葉は、原文では「アーメン」であります。主は味方にも報いがあることを高らかに宣言します。それは、家の外に響く祝福の言葉として、「味方」へと届く良い知らせでした。
ここに弟子たちは、そして私たちは、キリストの福音の広さを目の当たりにします。主は味方にも祝福の御言葉を述べているのです。私たちの味方は必ず報いを受ける。キリストは、味方をも報いてくださると約束してくださっています。キリストの祝福に洩れる者はいないのです。
御言葉を通して語られる味方の祝福は、味方に留まるものではありません。この愛の御言葉を通して弟子たちは、改めて主の福音の広さを認識し、主の愛の深さを受け止めていくことになるでしょう。そして弟子達への福音となって帰ってきます。
ペトロとヨハネが弟子になった経緯を思い出してください(1:16以下)。彼らは「何もかも捨てて」主に従っています(10:28)。この事実は、彼らが家族を残して旅に出たことを言い表すと同時に、彼らの家族は、主に従い、旅に出ていないという意味をも含みます。
もしヨハネの考えが受け入れられるのであれば、主に従うことのなかったすべての人が、受け入れられないことになります。つまりそれは、彼らの家族もまた、受け入れられないということになるでしょう。そうであれば私たちは、私たちの身近にいる、キリストに従わなかった者たちの報いを、あきらめなければならならないでしょう。
しかし主は、ヨハネを否定し、主に従うことがなくとも、私たちの味方であれば、その人たちも報われると宣言してくださるのです。
信仰を告白し教会へと属したわたしたちは、すべてを捨てて、主に仕えている人々です。そこでよく聞かれるのは、残してきた家族が主に従わないことを嘆き悲しむ声です。また自責の念にかられ、その重圧に打ちのめされている方もいます。そのような嘆きに対し、主はこうおっしゃるのです。
「よく言っておく(アーメン!)。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」
祝福は「私たちの味方」にも注がれています。教会の外にいる人をすべて敵とみなし、悲しみ苦しむことはないのです。私たちは何よりも、キリスト者の生活を支えるすべての方を味方として下さる主がおられることに感謝しましょう。
主は、送迎をしてくださるあの人も、遠く離れた場所にいるあの人も、キリスト者であることを認めてくれるあの人も報いて下さるのです。私たちはそのことに安心して「アーメン」と祈ることができるのです。
本物語は、弟子たちが「一番偉いのは誰か」について議論した先の話を補完するものです。この物語で弟子たちは、一番になるためには、一番後でなければならず、人に仕える者でなければならないと教えられています。もし彼らがこの態度を受け入れるならば、神が働いておられる他の誰かに対して嫉妬や対抗心を抱くことがほとんどありえません。逆に彼らは、イエスの弟子の一人に示された最も単純な親切なために、部外者が味方となり、報われることを学ぶのです。
2024年11月3日(日) 主日礼拝(合同礼拝)
聖書:マルコによる福音書9章33-37節
説教:「いちばん偉い者]
1 いちばん偉い者
イエス様と弟子達は、ガリラヤを通って、ある目的地に向かう途中、カファルナウムのとある家に到着しました。カファルナウムは、旅の前半に一行がよく訪れた場所です。カファルナウムにはガリラヤ伝道の拠点となる「家」がありました(それは一番弟子ペトロの家だと考えられています)。9章33節でイエス様が入られたカファルナウムの家も、同じ場所だったと考えられています。
フィリポ・カイサリヤからガリラヤを通り、とある目的地へ向かう旅は、とても時間がかかる旅でしたので、一行はカファルナウムの家でつかの間の休息をとる予定だったのでしょう。しかし、イエス様は、家に入るとすぐ弟子たちに「道で何を論じ合っていたのか」とお尋ねになるのでした。
弟子たちが話し合っていたのは、「誰がいちばん偉いか」という事でした。34節に「言い合っていた」とありますから、「12人の使徒の内誰かだ」、「その中でも一番初めに弟子になった人が一番だ」、「いや、年功序列で年齢の高い人が一番だ」、「いや、一番イエス様の傍にいたあの人が一番だ」「いや、イエス様と一緒に高い山に登った三人のうちの誰かが一番だ」と、様々な意見が飛び交い、白熱した議論が行われたようです(マルコ2:6,8,8:16,17参照)。
弟子たちは真剣に話し合っていたのですが、しかしその内容については、素直にイエス様に報告することができませんでした。代わりに弟子たちはイエス様の質問に、沈黙をもって答えたのです。
なぜ、弟子たちは黙っていたのでしょうか。真剣に話し合う内容としてはあまりにも幼稚で恥ずかしい内容だと考えたからでしょうか。どうやらそうではないようです。弟子たちは、「死と復活の福音」を聴いてからというもの、イエス様の御言葉や質問に対し、答えることができずにいました。
なぜなら、新しい福音を恐れ怖がっていたからです。32節には、御言葉に対して「怖くて尋ねられなかった」弟子たちの姿が描かれています。イエス様を救い主「メシア」だと告白した弟子たちは、今やイエス様の言葉を怖がっています。イエス様の御言葉を前に、弟子たちの耳と目は固く閉ざされてしまったかのように動きません。
弟子たちはイエス様を見失っていたのでした。それはまるで、もの言わせず、耳の聴こえない霊に取りつかれたかのような状態であったということができるかもしれません。イエス様を見よとしない彼らの目と耳は、自分たちが想像する強い救い主メシアと言う理想に向けられていました。
しかし、沈黙をもって答えようとする弟子たちの思いは適いません。イエス様はご自分の霊の力で、弟子たちが何を話していたのかを知り、彼らの耳と目と口を開こうと、イエス様は座ります。イエス様は疲れたからでもなく、落ち着いてくつろいだ話をなさるために座ったのではありません。
ユダヤでは、説教のような、権威をもって教える場合には、座って教えるのが一般的でした。イエス様はそれに従い、教える姿勢を取ったのです。学校で教師が教団に立つのと同じであります。そして、弟子たちの中心核となる12人の使徒たちを集め、次のように教え始めるのでした。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」
イエス様は、これが一番になる方法だと教えます。ここで注目したいのは、イエス様は「一番になりたい」と言う思いを、否定していないということです。イエス様はいちばんになる方法を教えておられるのです。
しかし、その方法は誰もが予想しなかった全く新しい方法でした。この世の常識では、「すべての人の先になり、すべての人を仕えさせるもの」が一番です。例えば王様がその筆頭に挙げられるでしょう。しかしイエス様はその全く逆の方法を教えています。「すべての人の後になり、すべての人に仕える」、それこそが一番になりたい者が目指すべき目標であるというのです。
2 子を受け入れる
御言葉を聴いても未だ黙している弟子たちに、イエス様は続いて例えをもって説明を行います。イエス様は家にいた一人の子どもを連れて来て、十二人の真ん中に立たせこういうのです。
「私の名においてこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」
この御言葉の意味について、いくつかに分けてみていきましょう。
まずは、「子どもを受け入れる者」との御言葉です。この御言葉は35節の命令を補足する御言葉として語られています。つまりイエス様は、「すべての人の後になり、すべての人に仕える」と言うのは、「子どもを受け入れる者」になるということであると、説明なさるのです。
当時は、「父母を敬え」と言う律法を筆頭に、子どもには親に従う生き方が課せられていました。子どもが大切にされていなかったわけではありませんが、「子どもの人権」については考えられておらず、子どもはすべての人の後にいるものであり、すべての人に仕えるような存在であると認識されていたようです。
当時の常識から考えれば、子どもは、「いちばん偉い者」となるために受け入れる存在としては、一番遠い存在です。しかし、イエス様はその子どもを受け入れてこそ、「一番偉い者」であるのだと語るのです。
またその教えは、当時の律法の教えに即して次のように考えることができます。つまり、子がその純粋さをもって、律法の命令に従い、親に従い、親に仕え、親を愛し、親を信頼してその命令に従うように、あなた方も子どものようにすべての人の後になり、すべての人に仕えよという意味です。(もちろんすべてにおいてこどものようになれ、と命じているのではありません(Ⅰコリ14:20))。
3 神の子であり人の子であるイエスを受け入れる
次に、「私の名において子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである」という御言葉に注目しましょう。ここでは「イエス様を受け入れる事」が強調されています。イエス様は、「私の名において」行うことは「私を受け入れる」ことになるのだと語ります。
名は体を表すという言葉の通り、名はその人のすべてを現わしています。ですから、イエス様の名において物事を行う時は、イエス様のすべてに信頼し、イエス様の御心に沿って行動することを意味します。
そのため、イエス名において、イエス様の教えを従順に守る人は、イエス様を受け入れていることにほかなりません。子どもを受け入れることは、この世の基準を受け入れるのではなく、イエス様が新たに設置した基準を受け入れることであると教えられるのです。
更にこの言葉にはより深い意味が含まれています。なぜなら、この命令を、神の子であり人の子であるイエスキリストがおっしゃるからです。イエス様は、神の独り子であり、父なる神様に仕える「神の子」であります。そのような神の子が地上に下り、イエス様は生涯を、人に仕える「人の子」として歩まれています。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙にて、主イエスの生涯を次のように賛美しています。
「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず/かえって自分を無にして/僕と形を取り/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ/へりくだった、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。」(フィリ2:6-8)
そのイエス様が「子どもを受け入れよ」と命じる場合、一方ではこの世で子どもを受け入れる信仰者のあり方を教えられ、もう一方では、神の子を受け入れる事へとわたしたちを促します。「子どもを受け入れる」と言うもう一つの大切な要素はここにあります。それは、イエス・キリストを神の子として受け入れるということです。
神の子イエス・キリストは、人々の救いのために働く神様の御心の実現に向けて、歩みをすすめています。すでに「死と復活の福音」は語られ、その道の先に十字架と言う苦難が待ち構えようとも、子としての役割を全うなさり、父のみこころに従うことが明かされました。
イエス様は、父なる神さまの御計画と命令に従い、父を愛し、父を信頼し、父の命令に従順に仕えていくのです。弟子たちはそのような「神の子」イエス・キリストを受け入れるように促されます。
それゆえに、37節の後半の御言葉へとつながっていくのです。つまり、イエス様を受け入れることは、イエス様をお遣わしになった父なる神様を受け入れることにほかなりません。神様の救いの計画は、御子によって実現されます。神の子を受け入れることは、神の子のすべてを受け入れることは、その父である神のみこころをも受け入れるのです。
それは端的に「死と復活の福音」を受け入れる事にほかなりません。それは、神様の御計画に従って、十字架の死に向かって歩むイエス様を救い主メシアである受け入れることです。イエス様の歩みが、この世では愚かなことと言われようと、死をもって人々を救う救い主、神の御心に従順である神の子、人に仕える人の子としてイエス様を受け入れることが、「いちばん偉い者」なのです。
イエス様を受け入れる時、わたしたちは「いちばん偉い者」になれると約束されます。イエス様はそのことを、子どもを通してお示しになりました。日曜学校との合同礼拝を守るこの時、教会と言う「家」に集まる私たちを呼び、子どもたちを真ん中に置き、受け入れることを命じたイエス様のみこころに心を留め、この一週間を歩みたいと思います。そして、イエス様が示してくださった「いちばん」を得るために、日々励みたいと思います。