読む礼拝


2024年7月21日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書8章22-26節 
説教:「盲人の癒し」 大石啓介

1 ベトサイダ


 一行は、船旅を終え、ベトサイダに着きました。ベトサイダの名前が物語に登場するのは、これで2回目です。6章45節の時に、弟子たちが休憩するために一度目指していた場所として登場します。この時一行は、ベトサイダではなくゲネサレトに到着しています(6:53)。それから異邦人の土地での滞在を経て、ここにきてようやくベトサイダに到着したのです。

 ベトサイダは、ガリラヤ湖の北岸、ヨルダン川が湖に注ぎ込む川口のすぐ東にありました。ヨハネによる福音書1章44節によれば、ベトサイダはペトロ、アンデレ、フィリポの出身地でありました。マタイによる福音書とルカによる福音書は、ベトサイダを不信仰の町と紹介しています(マタ11:21,ルカ10:13)。

 一行がこの地に到着するとすぐ、人々が主イエスのもとに集まってきました。そして「一人の盲人を主のところに連れて来て、触れていただきたいと願った」のです。休む間もなく物語は進みます。人々は大いなる尊敬をもって主イエスを出迎えたのでしょう。そして「この方なら病人を癒せる」と思い、病人を主に委ねようとします。人々の行動は、優しさと寛容、そして親切心からくるものであったのでしょう。

 しかし、人々の態度は、ダルマヌタにおけるファリサイ派の人々のそれと、根本的にはそう違っていなかったようです。人々もまたひとりの盲人においてなされる「天のしるし」を期待していたのでした。

 主イエスは「盲人の手を取って、村の外に連れ出し」たのは、そのためでしょう。主は、信仰の目と耳が開かれていない者の前では、奇跡をなさいません。また、御言葉を語ることもなさらないのです。主の御言葉と業は、自分自身に向けられた事柄として受け止められなければならないのであり、決して自身の欲求を満たすための見世物ではないのです。

 ヨハネによる福音書において主イエスは、ファリサイ派の人々に対して次のような言葉を投げかけています。

「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る」(ヨハネ9:41)

「見える」と主張する者が実は盲目であり、目が開かれなければならない状況にあることに気づきなさい、と主はおっしゃいます。盲人を連れて来るのは結構なことでしょう。しかし、主を悟らず、理解しない自らの盲目に気づき、主の前に自らを差し出し、主の癒しを求める者たちでなければいけません。主が手をつかみ癒しへと導くのは、自らの盲目を自覚し、癒してほしいと主に懇願する者なのです。

 主イエスは、盲人の手を取り、彼を村の外に連れ出します。主イエスはまず、「両目に唾をつけ、両手をその人の上に置」かれました。そして「『何か見えるか』とお尋ねになった」のです。主の動作は、7章31節以下のシリア・フェニキアでの癒し物語を彷彿させます。二つの物語は共鳴していると言えるでしょう。二つの物語が奏でるハーモニーに耳を傾けながら、しかし本物語でしか奏でられていない旋律に注目して見ていきたいと思います。

2. 五つの「見る」

 本物語の最大の特徴は「何か見えるか」と主が問いかけているところです。これはシリア・フェニキアの癒し物語だけではなく、他の癒し物語においても見られない主の言動です。主が病人に奇跡やその成功について尋ねる場面は、後にも先にもここだけです。この独特な問いかけを中心に本物語は展開されていきます。問いかけの後、合計5つの意味を持つ「見る」という動詞が登場するのです。

 日本語訳ではわかりにくいのですが、ギリシャ語原文を見てみますと、23節の「何か見えるか」(ここでの「見る」はβλέπω)と言う主の問いかけ以降、24節から25節にかけて、「見る」を表す5つの異なる動詞が登場します。

「見る」に特化した物語の構成から、本物語は癒し物語の枠を越えた「教え」であるということがわかります。マルコによる福音書の著者は、主イエスが本奇跡を通して、癒しを目撃している弟子たちに、「見ること」の重要性を教えているということに気づき、読者にもそれが伝わるように、丁寧に編集しているのです。

 ここにきて、「見る事」に特化した物語に出会う事は大変興味深いことであります。マルコによる福音書ではこれまで、主イエスの「よく聞きなさい」「聞く耳のある者は聞きなさい」という御言葉と共に、「聞くこと」の重要性を語ってきました。

 本物語を境に、「聞くこと」の教えから、「見ること」の教えへ移ります。そのため弟子たち、そして私たちは本物語以降、「目」という言葉と「見る」と言う言葉に多く出会うことになります。マルコによる福音書は、聞く物語からから見る物語へと進展していくのです(見る物語は、聞く物語を経てたどり着ける物語です。今後も聞くことを蔑ろにしてはいけません)。

「聞く」から「見る」へ物語は進展します。その分岐点に、「見る」とはどういうことなのかを主は教えてくださるのです。

 癒しは完全になされました。目が開かれたとしても、おぼろげに見える状態のまま留まることを主はお許しになりません。完全に目が開かれ、はっきりと見えるようになるまで、主は盲人を癒されています。それゆえに「見る」と言うのは、「はっきりと見えるようになる」まで見るということです。おぼろげに見るだけでは、「見る」ことになりません。

 見た物事を理解し、そのうちで語っておられることを悟る時、まことに「見る」ことになるでしょう。盲人は、主を目で見て、主が「神の子」であり「キリスト」であるということ「はっきりと理解し、悟った」のです。

 物語の結末は、盲人の派遣で終わります。主に救われた者は、今後は、その人に応じた働きへと派遣されるのです。主は盲人に「村には入ってはいけない」と言って、家に帰されました。家こそ、彼の帰るべき場所であり、働きの場所でした。村人を満足させるために、奇跡が行われたのではありません。彼の家が、家族が何よりも満たされなければならないのです。盲人はその務めへと派遣され、物語は終わりを迎えるのです。

3 段階的癒し

 さて、今までは本物語が強調する「見る」という動詞に注目し、その特徴を見て来ましたが、最後に本物語のもう一つの特徴である、段階的癒しについて見ていきたいと思います。
本物語の癒しは、段階的に与えられています。今まで主イエスは一度触れるだけ(もしくは触れられるだけで)肉体的な病の癒しや悪霊追放を成し遂げていました。

 しかし今回、目がはっきり見えるようになるために、二回触れなければいけませんでした。主イエスの力が一度では足りなかったのではなかったのでしょう。ここで強調されているのは、はっきりと見えるようになるまで何度でも触れて下さるキリストがいるということです。

 主が何度も病人に触れる姿は、弟子たちの心に深く刻まれたのでしょう。本物語は口伝で伝えられたのですが、御言葉とともにその所作が鮮明に書き残されています。これを伝えた弟子たちの記憶に深く残っていたことの証明です。弟子たちは、盲人が癒されるのを見て、舟の上で戒められたことを思い出したに違いありません。

 前の物語において、主は弟子たちの盲目性について(一番先に)ご指摘なさいました。弟子たちは反省し、ペトロは8章29節で、主イエスを「メシア」だと誰よりも早く告白しております(8:29)。

「メシア」告白のきっかけを与えたのが、本物語でした。弟子たちは自分たちを盲人に重ね、主がこの出来事を通して、自分たちはまだおぼろげにしか見えていない事を伝え、なおかつ、主が必ず完成へと導いてくださることを約束してくださっていることに気付いたのでした。ペトロはそれゆえに、主に「メシア」を見たのでした。
 
 こうして、マルコによる福音書の前半が幕を閉じます。本日読みました8章22~26節は、マルコによる福音書の前半を締めくくる物語です。福音書はこの後、8章27~30節を節目に、続く8章31節から後半を迎えることになります。「神の子イエス・キリストの福音」を知るための旅も、折り返し地点となったのです。

 前半が終わろうとするこの時、この世の「不信仰」が主イエスの行く手を阻みます。ダルマヌタ地方でのファリサイ派の人々の妨害、船上での弟子たちの無理解。この世の宗教的指導者たちと、弟子達の不信仰は、吠え長ける嵐のように、主イエスを襲うのです。無理解と不信仰は、後半さらに強く吹き荒れ、主イエスを十字架へといざないます。

 しかし主イエスは宣教の歩みを止めることなく、そして弟子たちを「そのまま」にするのでもなく、むしろその不信仰の中を進み、癒しを完成されます。主は嵐を静めるために、嵐の中に来る方です。悪霊を追い出すために、悪霊と向き合い、病を癒すために病人に触れるお方です。そして何より、神様のみこころにそって歩まれる方です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハ3:16)

 すべての人の罪が贖われるために主は十字架の道を歩まれます。世の理では、死に向かう姿を受け入れるのは困難でしょう。しかし、主に希望を抱くわたしたちは、主イエスの姿を目に焼き付け、主の言葉に耳を傾け、この道を理解すること、悟ることが求められます。

 私たちは、不信仰が主イエスを死に追いやったと感じるかもしれません。しかしそうではないのです。すべては神の御手の内に進められております。十字架を背負うことは、大変な苦難に見えますが、ここに希望があるのです。

 神の計画を誰も止めることはできないのです。旅の終わりは主の死であります。しかし死と共に救いが完成され、さらに復活という永遠の命が約束される希望が芽生えるのを私たちは目撃するのです。私たちもまた、その事実を確信するために、恐れずに歩みを続けていきたいと思います。

※5つの「見る」

 24節の「見えるようになって」ἀναβλέπωが一つ、同じ節の盲人の答えの内の「(人が)見えます」βλέπω、同じく「(歩いているのが)わかります」ὁράωの「わかります」には「見てわかる」と言う意味を持つ単語が使われています。そして25節の「見つめているうちに」διαβλέπωと「はっきりと見えるようになった」ἐμβλέπωです。合計すると5つの「見る」。

 主の唾と両手により、盲人の目は確かに開かれました。そして「見えるようになって」いたのですが、24節のこの動詞は、元は「上を見る、見上げる、仰ぎ見る」と言う意味を持つ言葉です(ἀναβλέπω:「見る」βλέπωに「上」と言う意味を持つ前置詞ἀνα)。シリア・フェニキアでは、主が天を仰がれましたが、今度は盲人が「(天を)仰ぎ見るようになった」とも受け止めることができます(口語訳聖書はここを「顔を上げて」としています)。主の癒しにより、「仰ぎ見る」ことができるようになったと捉えることは決して間違えではないでしょう。彼は癒しが与えられたこの時、天を見上げ、神様に感謝したことでしょう。

 しかし目は開かれたものの、視野はぼやけ、はっきりとは見ることはできなかったようです。盲人は「人が見えます」βλέπωとは答えているものの、それは「木のように」も見えていました。盲人はそれが「歩いている」ので、木ではなく人だと「わかった」のでした。この「わかる」ὁράωという動詞は「目で見る、見える、ご覧になる」と言う意味を基本に持つ言葉です。「見抜く」とも訳せます。

 目の見えない状態から、ぼやけていても判断できるまで目が見えたのであれば、十分な成果だと言えるでしょう。生きていくには問題ないほどに視力を与えられたと言っても良いでしょう。しかし、主は、そのままにしておかれませんでした。

 25節です。主は「もう一度両手をその目に当てられると」、盲人は「見つめているうちに、すっかり治り、何でもはっきり見えるようになった」のでした。ここに、奇跡が完成します。25節は「はっきり見えるようになり、すっかり治り、すべてのものをはっきりと見続けた」と訳すことができます(新共同訳聖書や、岩波訳聖書はこのニュアンスを残して訳しています)。25節の最初に出て来る「見つめているうちに」という動詞は(「見る」βλέπω+「~を通して」と言う意味を持つ前置詞δια)、本来は「鋭いまなざしを向ける、(正確に)見る、はっきり見る」という意味になります(新共同訳聖書、岩波訳聖書が採用)。二度目に両手を目に当てられた時に「はっきり見えるようになった」と解釈することは可能です。

 ただし、はっきり見えるかどうかを自分で悟るまでには、時間を要したのでしょう。「見つめているうちに」、「すっかり治った」ことがわかり、「何でもはっきり見えるようになった」と喜んで報告したのでした。

「何でもはっきり見えるようになった」ἐμβλέπωの「見る」という動詞は、「内側」を示すἐνという言葉が付いています。彼は心の内に癒しを悟ったのでしょう。さらに文法上では完了形と言う形が用いられ、「完全に見えるようになった」が強調されています。盲人の目は完全に開かれました。


2024年7月14日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書8章14-21節 
説教:「まだ、悟らないのか」 大石啓介

1 再び舟の上で


 ファリサイ派の人々を「そのままに」、主イエスは舟に乗り込み、向こう岸を目指されました。本物語は舟の上での出来事です。舟の中で、食事をしようとしたときでしょうか。弟子たちは、「パンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった」ことに気づきました。

 異邦人の地で、四千人に食べ物を与えた時に余ったパン屑は、旅を続ける間に底を尽きたのでしょうか、手元にはないようです。次に到着したダルマヌタの地方では、買い物に時間を割く余裕はありませんでした。主イエスとその一行は、待ち構えていたファリサイ派の人々からの妨害に遭い、その地方をすぐに出発しなければいけませんでした。そのため食料は調達できず、舟の上にはついにパン一つしか用意できなくなりました。

 食料のない船旅が、大変危険なことを弟子達はよく知っていたでしょう。このまま旅を続ける不安と、準備不足と言う失態に、弟子たちは頭を悩ませます。また、この失態を「先生」に怒られるのではないかという恐れもあったのではないでしょうか。弟子たちは不安と恐れに捕らわれ、今までできていたこともできなくなっていたようです。それは、「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」という「パン種」についての教えを、「パンを持っていないということ」についての叱責と取り違えるほどでした。

 本物語から感じ取れる弟子たちの複雑な心境をよくよく考察しますと、彼らへの同情の余地も出て来るのですが、しかし、彼らの姿は、この世の現実的な問題に心奪われるあまりに、主イエスを忘れた者たちの姿そのものでした。そこに弁解の余地はありません。

 主イエスを忘れた結果、主イエスの説教に真剣に耳を傾けることができておらず、また御言葉を聞いても、主イエスのみこころを汲み取ることができていません。さらに悪いことに彼らは、自分たちで議論を始め、解決の糸口を探ろうとしています。主イエスに求めず、自分の中に解答を探ろうとして、さらに迷い込んでしまったのです。

 残念ながら彼らは自分たちの過ちに気づいておりませんでした。自分たちが(霊的に)耳も聞こえず、目も見えない状況であるとは、思ってもいませんでした。主イエスは弟子たちの過ちに気付かせ、御自身の下に留まるようにと、厳しくとがめます。そして、今までの旅で学んだこと、経験したこと、体験したこと、聞いたこと、見たことを振り返り、正しい道を歩むようにと、教え始めるのです。

2 主イエスの教え 1

 本物語において、主イエスは、二つの教えをしています。まず初めに、ダルマヌタの地方での出来事を受けて、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と弟子たちに警告しています。

 マルコによる福音書はすでにファリサイ派とヘロデへの警笛を鳴らしていましたが、主が彼らを名指しして弟子たちに注意を促すのは、ここが初めてです。彼らとの議論が激しくなることを想定してのことでしょう。当時の支配者と宗教的指導者の腐敗は甚だしいもので、王と名乗るヘロデ(とサドカイ派)は、世俗主義、享楽主義におぼれ、ファリサイ派の人々は宗教に熱心であるあまり、神とその律法を蔑ろにし、神の前に不信仰でありました。

 彼らはどちらも、イエスを愛さず、殺そうとたくらんでいたからです(そういった背景から、“主イエスの警告は、ファリサイ派の人々やヘロデと人格的交わりを絶てという命令である”と主張する人もいますが、決してそうではないでしょう)。では、彼ら自身ではなくその「パン種」に気を付けるとはどういうことなのでしょうか。

 まずパン種について整理しましょう。パン種とは、その一つ一つは目に見えないほど小さいのですが、練った塊の中に入ると、塊全体をふくれさせる酵母のことです。パン種はふっくらおいしく、味わい深いパンを作るときに必須の酵母ですが、イースト菌とは違い、大気中や穀物、果実等についている複数の野生の酵母をそのまま生かして培養したものです(イースト菌は文字通り「イースト」と呼ばれる酵母菌のみを用いる)。

 そのため天然酵母とも呼ばれています。パン種は地域によって違いがあり、膨らみ方や味にも違いが出るそうです。そのため、パン種によってパンの味と質が決まると言ってよいでしょう。主イエスは、そのようなパン種の性質、パンにおけるパン種の重要性を視野に入れ、パン種を用いたたとえによって教えるのです。そして、彼らの不信仰からなるパン種を自分の中に入れないように注意せよと警告するのです。

 では、彼らの「パン種」とは具体的に何のことを指すのでしょうか。他の共観福音書の並行箇所では、「パン種」を「教え」(マタイ16:11)または「偽善」(ルカ12:1)と置き換え補足説明しています。しかし、マルコによる福音書では「パン種」について明言していません。確かに彼らの「パン種」は、マタイやルカの要素を多分に含む言葉であることは確かでしょう。しかし、マルコは「教え」や「偽善」と言う枠に収めず、たとえの中でしか表現できない不信仰があることを、大切に伝えています。

 ただ、答えが曖昧なため、ファリサイ派やヘロデの何がパン種であるのか、弟子たちは吟味しなければならないでしょう。そしてその答えを知る、主イエスに答えを求めつつ、主の教えをよく聞き、主の業をよく見なければならないでしょう。主を悟り、理解し、従いつつ、そして同時に、自分たちが良いパンとして膨らむためには、主イエスのパン種を内に宿す必要があることに気付かなければいけません。

 悪いパン種に注意を払う者は、良きパン種に気付けるものです。主イエスとともに旅をしてきた弟子たちは、十分その答えにたどり着けるほどの教養を主から受けていたはずでした。

2 主イエスの教え 2

 しかしここで問題が起こります。弟子たちは御言葉を理解するどころか、主イエスの質問の意図さえもとり違えたのです。この結果、弟子たちは、これまで多くの時間を主イエスと共に過ごしてきたにも関わらず、主イエスを未だ「神の子」であり「キリスト」だということを、理解しなかったことが明らかにされます。

 そして未だにこの世の問題に捕らわれているのでした(マコ4:35ff,6:45ff参照。舟の上では、弟子たちの無理解が常にさらされる!)。これだけ共に過ごしているのに、未だ主イエスを理解していない弟子たちの問題は深刻です。弟子たちの信仰は育つどころか、不信仰へと進んでいたのです。主はそこで、第二の教えを始めます。それは次のようなものでした。

 「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、わからないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えてないのか。」

 つまり主はこうおっしゃるのです。「なぜ、この世の問題を恐れるのか。ここまで私と共に歩んできて、私の業を見て、私の教えを聞き続けてきたあなた方が、私を理解し、悟っていたならば、あなた方はこの世の問題に心奪われることなく、今日聞いた私の言葉を取り違える事なかっただろう。

 しかしあなたたちは私の言葉の意図を汲み取らないばかりか、未だ私自身を取り違えている。今まであなた方は、その目で見て来たではないか。その耳で聴いてきたではないか。それなのになぜ、ファリサイ派の人々のようになっているのか。いつまでその心は頑なで、私を受け入れず、私を悟らず、理解していないのか。まだ信仰がないのか(マコ4:40)。

 私を受け入れているなら、なぜ、パンをもっていないことで議論しているのか。それは愚かなことではないか。パンの出来事を思い起こしなさい。あの時私が何を行ったか、今一度思い起こせば、パンを持っていないことを心配する必要はないではないか。」

 これは端的に言えば、「あなた方は私を何者だと言うのか」というマルコによる福音書8章9節の問いの先駆けです。主は弟子たちの信仰を問われます。確かに、弟子たちは主イエスの教えと出来事を忘れていたわけではありません。

 8章19―20節までのやりとりからは、弟子たちが二度にわたる給食の出来事を正確に覚えていたことが証しされています。しかし弟子たちは、これまでの教えと出来事において、主の本質がしめされたにも関わらず(マコ4:10)、そしてすべてを教えられたにも関わらず(4:34)、しかし(それなのに!)、主イエスが真に神の子でありキリストであると、理解できていなかったのです。

 十分根拠は与えられているにも関わらず、彼らの信仰は弱いままでありました。パンの出来事を振り返った後に、まだ悟らない弟子たちに向かって主は、「まだ、悟らないのか」と戒められるのです。

 「まだ、悟らないのか」。この言葉は、弟子たちの心に深く刻まれたのでしょう。弟子たちは(わからないながらも)痛みと共に、主と歩まなければいけません。しかし御言葉は、痛みのまま留まることはありません。御言葉は常に、未来への希望とつながります。主は、「まだ間に合う」とおっしゃるのです。「まだ」遅くない、これまでを振り返りつつ、次こそは「悟りなさい」という命令となって響きます。主イエスの叱責は、痛みを呼び起こしますが

 しかしそれが悔い改めを呼び起こし、福音の中に生きるために与えられる希望の御言葉であることに気付くでしょう。今、信仰がなくとも、小さくとも、「まだ」悟る機会は与えられ、主イエスに信仰をもって応答する機会が与えられていることをこの御言葉は語ります。次に続く、盲人の癒し(と7章の耳が聞こえず舌の回らない人の癒し)物語は、この希望を確かにすることでしょう。主イエスの叱責に心を改め、主に信頼し、信仰をもって近づくことで、盲目になった目が開かれ、徐々に悟ることができるようになる希望を、次週共に聴きたいと思います。



2024年6月30日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書8章1-10節 
説教:「四千人に食べ物を与える」 大石啓介

1 異邦人の地で


 ティルス地方から始まった異邦人の地を巡る主イエスの旅も、本物語で終わりを迎えます。本物語の舞台は、前回と同じ舞台である、デカポリス地方であり、異邦人の地でした。本物語で行われる四千人に食べ物を与える物語は、ガリラヤ湖周辺で行われた五千人に食べ物を与える物語(マコ6:30-44)と共鳴する奇跡物語と言ってよいでしょう(共に「給食物語」または「供食物語」と呼ばれています)。

 ただし、それぞれの物語を比較すると、舞台が異なるだけではなく、パン、魚、かごの数の明らかな違いの他に、主題的な違いも見られます。簡単に共通点とまた相違点に触れながら、本物語を見ていきたいと思います(可能な方は6章30節以下の物語と比較しながらお聞きいただければと思います)。

 主イエスによって病人の耳と口が開かれる癒しの奇跡を目撃した人々によって主イエスの名はデカポリス地方に言い広められました。その影響でしょうか、再び大勢の群衆が主イエスのもとに集ってきました。この時集まってきた群衆の多くは、東海岸の異邦人であったと予想されます。ほかにも、噂を聞きつけて駆け付けたガリラヤのユダヤ人もいたことでしょう。

 また、場所は特定できませんが、遠くから来ている者もいたようです。ティルスの地方からついてきた人もいたかもしれません。群衆は三日間、主イエスと共にいたのでした。しかしついに、食べる物がなくなってしまいます。ここで解散させ、家に帰らせると、途中で動けなくなる可能性があるぐらい、群衆は空腹でした。それでも群衆は、主イエスのもとを離れません。群衆の必死さが伝わってきます。 

 そのような群衆を見て、主イエスは「かわいそうだ」と憐れみます。これは6章34節の場面を想起させますが、それとは対照的です。6章34節の主の憐れみは、「飼い主のいない羊」のような(ユダヤ人)群衆の「霊的な必要」から生じていました。しかし今回8章2節では、空腹な(異邦人)群衆の「肉体的な必要」から生じたものです。そのため、それぞれの物語における主イエスの「憐れみ」は対照的だと言えます。主は今回「肉的」に満たされない者を憐れみ、その必要を満たそうとされるのです。物語の主体はここにあります。本物語で与えられる「パン」は肉体的な必要を満たすパンであることに注意して物語を進めていきたいと思います。

 主イエスの御言葉から、ここに集う群衆の状態を把握していることがわかります。主イエスはこの状況を、(わざわざ)弟子たちに伝えます(前回とは違い、今回は主の方から弟子たちに言葉をかけています)。弟子たちは主の思いを察したのでしょうか。今回は主の命令を待たず、群衆を養う方法を模索しているようです。しかし、慣れない異邦人の土地で、食料を調達するのは不可能と判断したのでしょう。弟子たちは主にこう切り返しています。

「この人里離れた所で、どこからパンを手に入れて、これだけの人に十分に食べさせることができるでしょうか」

 この言葉から、今回弟子たちが問題視しているのは、「場所」であることがわかります。異邦人の土地の「人里離れた所」でしたから、「どこから」パンを手に入れればいいのか、弟子たちは見当もつかなかったのです。前回の供食物語では、弟子たちは「場所」ではなく、「お金」と「量」を問題にしており、いくら主の命令でも人々を養うのは不可能だと判断していました。本物語で弟子たちは「お金」の問題を克服したのでしょうか。話題は「お金」ではなく、「場所」でした。弟子たちは「場所」の問題を指摘し、こればかりはどうしようもない事柄で、だから人々を養うことは不可能だと判断したのです。弟子たちの言葉からは、「場所」さえよければ買いに行く、そのような意気込みさえ感じられます。

 弟子たちを擁護するならば、「お金」の問題を話題にしなくなったことは、評価できることかもしれません。この点においては、信仰の成長がみられる、と判断することもできますが、しかしその成長は微々たるものでしょう。むしろこの回答によって、主イエスのことを本質的に理解していない事、つまり彼らの無理解が明らかにされています。弟子たちは「主が満たしてくださる」という事実を未だに悟ることができていなかったのです。

2 四千人に食べ物を与える

 主イエスは未熟な弟子たちの回答に直接的には応えず、再度「主が満たされる」ことを業によって示します。忍耐をもって弟子と対峙する主イエスの姿がここにあります。まず、弟子たちに「パンは幾つあるのか」と尋ねます。弟子たちは、「七つあります」と答えます。そこで、主イエスは群衆に地面に座るように命じ、七つのパンを取り、感謝してこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになりました。

 この流れは、前の物語とほぼ同じ展開です。しかし細かな点では違いがあるのも事実です。「天を仰ぐこと」は省略され、「祝福」が「感謝」に変わっています。また「人々を組にわけること」もなく、群衆は「青草の上」ではなく「地面の上」に座るように命じられています。このような違いは、イスラエルの優位性を暗示していると考えられています。基本的にはその考えでよいでしょう。またこれだけの違いがあるのは、本物語が、肉体的な必要を満たす奇跡物語である所以かもしれないということです。

 少し異邦人の土地での出来事を振り返っておきたいと思いますが、異邦人の地において、主イエスは「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきだ。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない」(マコ7:27)おっしゃいました。しかし「食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただ」くことができることもまた然りなのです(マコ7:28)。

 異邦人の地において、主イエスは宣教を行いませんでした。6章の奇跡物語では、(上述の通り)、ユダヤ人の地において、霊的な必要を満たすパンが、肉体的な必要を満たすパンの奇跡の内に示され、同時に与えられていたことが語られます。主イエスはユダヤ人の地において、御言葉の宣教を始め、そして数々の奇跡の業を行います。

 しかし異邦人の地は、宣教が行われていないのは明らかですから、その地には未だ御言葉、つまり霊的な必要を満たすパンは与えられません。しかし、「パン」からこぼれ落ちる「パン屑」に与ることができます。私たちは異邦人の地において起こった物語から、「パン屑」とは、異邦人の地で実現した奇跡ということを知ります。それは主イエスの三大奇跡と呼ばれる「悪霊払い」、「病の癒し」、「供食」です。

 奇跡が「パン屑」?!!と思う方もいるでしょうか、肉体の癒し、または肉体の飢えの回復は、肉体的な必要を満たす以上のものではありません。繰り返しになりますが、御言葉(の宣言)によってはじめて人々は肉的にも霊的にも満たされています。肉体の回復及び充実は、主イエス・キリストに従うために、与えられる業であり、また神の国の一部に過ぎないのです。

 しかし「パン屑」でも人の体を癒すことのできる「神のパン」は、何と偉大な「パン」でしょうか!神様の計画は、「まず」イスラエルを導くことに向けられているのですが、神様の愛はすべての人を救わずにいられないほど大きいのです。異邦人の地で起きた奇跡の背景に、神様のみこころが現れていることを覚えたいと思います。

※補足※

 たとえば、人々を組に分けなかったことは、異邦人の土地であり、また異邦人が大勢いる中、イスラエルの十二部族を象徴とする組分けは行わなかった、と言う解釈があります。その通りでしょう。シナイ山のふもとで行われた十二部族の秩序づけの再現はイスラエルの内に起こるのです。

 また、パンには「感謝」という言葉が使われています。ユダヤの地においては「祝福」だったが、異邦人の地では「感謝」としていることから、ここでもイスラエルの優位性を暗示しているという解釈もあります。しかし、「祝福」が「感謝」にかわったとしても、結果は変わりません。人々は食べて満たされたのです。また、パンの後に提供された魚には「祝福」と言う言葉が用いられていることからも、「祝福」と「感謝」は相違がないように思われます。現に、使徒パウロの時代には「祝福」と「感謝」は同等の意味を持つ言葉として用いられていることにも注目したいと思います(ロマ14:6、Ⅰコリ10:23ff)。

 最後に、「青草」と「地面」の違いがありますが、イスラエルの優位性を表現するかもしれませんし、しかしそれぞれの土地を比較しているだけかもしれません。しかしそれらすべては、異邦人を蔑ろにする根拠となるわけではありません。なぜなら異邦人もすべて主の「パン」に与り、満たされていくのです。

3 余ったパン切れ

 主イエスは「パン」と「魚」を弟子たちに配るように命じます。弟子たちの理解不足にも関わらず、主は弟子たちを用いるのです。そして弟子たちは奇跡の業に取り組むことになります。弟子たちは主の御業に参与する中で、成長させられるのです。弟子たちは未熟ながらも業に取り組んでいくことが求められています。

 「パン」と「魚」に与った人々は、食べて満腹になりました。そして余ったパン切れは、七籠になりました。七と言う数字は、世界の全民族を象徴する数と言われています。すべての人々が恵みに与るのと同時に、その恵みは有り余るのです。

 神の大いなる愛と恵みが象徴されています。すべての人を満たす準備は整っているのです。主の御もとに集まれば恵みに与れるのです。その恵みは、弟子たちが持っていた七つのパンを主が用いて下さったことからあふれ出すことは、なんとも感慨深いことではないでしょうか(他にも「七つの籠」には、ステファノをはじめとする7人の執事が暗示されているとも言われています)。

 この後、主は人々を解散させます。満たされた群衆は無事にそれぞれの家に帰ることができたでしょう。主は奇跡の余韻に浸ることをお許しになりません。奇跡を受けた者たちは、それぞれの場所に帰るようにと促されるのです。恵みを受け、それぞれの場所でその恵みを証しするものとしての働きが始まります。

 しかし、主イエスと弟子達一行は、終わったわけではありません。主イエスは群衆を解散させられた後、すぐに弟子たちと共に舟に乗って、ダルマスタの地方へ行かれます。ダルマスタの地方とは、現在では不明な場所ですがユダヤ人の地方であることがわかります。異邦人の地での旅は終わりを告げ、再び宣教の旅が始まります。これから、見えてくるのは十字架です。主は十字架に向けて進まれるのです。