読む礼拝


聖書  朗読 詩編39編2-14節 (旧p.856)
         ペトロの手紙一1章13-25節 (新p.419)
説   教 「確かなものを持つ幸い」柏木教会牧師 南望

祈   り
  本日、豊島北教会の皆さんと一緒に御言葉に聞く時を与えられていることを嬉しく思い、神さまに感謝しております。

 本日の箇所には、人間の空しさが記されていますが、歴史から考えますと、私たち人間は、聖書が記されてから2000年の間に、医療技術や建築技術などを初めとする科学技術を発展させ、自分たちの領域を広げて来たと言って良いと思います。

 天にも届くような高い建物、大きく伸びた寿命などにそれが示されているわけですけれども、科学技術の発展は、人間が小さな存在であるということ、空しい存在であるということを否定してきた歴史でもあるということになります。別の言い方をすれば、科学技術を発展させることによって、人間が素晴らしい存在である。大きな存在であるということを示そうとしたと同時に、神さまの存在を小さくしてきたと言って良いと思います。

 では、古代の人間は自分を小さな存在だと思っていたのかと言うと、そうではありません。本日与えられた詩編39編の詩人は、自分が神さまを小さくし、自分を大きくしてしまう者であることに気が付いたのです。

 それゆえ、2節で詩人はこう言っています。「私は言った。『舌で罪を犯さないように、私の道を守ろう。悪しき者が私の前にいるうちは口にくつわをはめておこう』と」。この詩人は、悪しき者に巻き込まれないように、つまり、罪に引き込まれないように黙っていたというのです。詩人は神さまの御前に留まろうとしています。

 そして、その思いを更に募らせて5節で次のように言うのです。「主よ、知らせてください、私の終わりを。私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。私は知りたい、いかに私がはかないかを」。

 この部分を読んでいると、詩人が、自分が何者であるかを弁えたいと願っているということに気づかされます。先程、「人間は自分を大きくする者であるということ、神さまを小さくし、自分を大きくしようとする者だ」ということを見たわけですけれども、この詩人は、そのような罪に傾く自分に抗うかのようにして、「自分の小ささを知りたい」と願っているわけです。

 なぜそのように自分が小さな者であることを確かめたいと願っているのだろうと思うのですけれども、11節にはこの詩人が病であったことが語られています。「あなたによる病を私から退けてください。あなたの手に打たれ、私は尽き果ててしまいました」。

 この詩人は最初から神さまの御前に身を低くしようとしていたわけではないのです。神さまから身を低くするように促されているのです。そしてその理由は罪なのだというのです。そのことからすると、詩人は以前、自分の命を自分のものだと思い、自分は運が良いから悪いことは起こらないとおごり高ぶっていたのでしょう。

 そのことは12節の「あなたは過ちを責めて人を懲らしめ、人の欲望を、虫が食うように溶かしてしまいます」という言葉から理解出来るように思います。詩人は以前、自分の力を誇っていたけれども、今は低くされているのです。病を得ることによって詩人の人生は変わったのです。

 思いがけず、病を得る。私たちの人生にも、色々な事が起こります。順風満帆な時には気づかないけれども、人生が何らかの仕方で崩れていくことがあります。自分は確かなところに立っていると思っていたのに、足元がぐらついてくる。

 それでも、最初は思うのです。「何とかなるさ」と。けれども、病は中々治らない。その中で、この詩人は、自分がおごり高ぶっていたがゆえに低くされようとしているのだ、神さまの御前に立ち帰らなければならないと思うようになったのです。それでも、「自分が無に等しい者である」ことを心から認めるところまでは至っていないのです。

 もちろん、頭では分かっているのです。自分が空しい存在であることも、神さまから見れば、本当に小さい者、陰のような者であることも、神さまに頼らねばならないことも。ところが、「でも…」というところが詩人にはあるのです。つまり、詩人は、自分が空しいということを受け入れたくないのです。

 それは、罪人であることを認めたくないとの思いと重なるものです。それでも、「自分のはかなさや、神さまの御前に無に等しいことを知らなければ、救いはない」と思っている。その葛藤の中から、5節6節の言葉が生まれて来たのです。
最初に人間は自分の大きさを誇りたい生き物だということを確認したわけですけれども、その思いは簡単にはぬぐい去ることが出来ないものです。そのことをこの詩人の言葉は示しているのです。

 もちろん、この詩人は、神さまを信じています。自分に悪いことが起こったことは、ただの不運ではなく、神の戒めだとも受け取っています。でも、この詩人は自分が罪ある存在であって、それゆえに死に至る存在であるという空しさを受け入れられない。自分が神さまなしには滅びゆくしかない存在であるということを認めたくないのです。

 私たちは、自分が愛を受けて当然であるとの思いを心のどこかに持っています。つまり、自分はこの世において大切にされるべきである、尊い存在であるとの思いを持っているということです。しかし、聖書は「人間は罪ゆえに滅びゆく存在なのだ」とはっきりと繰り返し語っています。人生の中で病気になったり、怪我をしたりすることもあります。障害を負うということも起こります。

 事件や事故に巻き込まれるという事も起こります。また、人間関係において自分を否定されたり、侮辱されているかのように感じることも起こります。でも、私たちはそれを「受け入れがたい」、「理不尽だ」と感じてしまう。自分は本来病気や怪我をするべきではないし、侮辱されたり、否定されるべきではないと感じるのです。
その時私たちは、「あなたは何者なのか」ということを問われます。「あなたは本当に恵みを受けて当然なのか」ということを問われます。

 それは、「あなたは罪人ではないのか」という問いなのです。そういう問いを受ける中で、詩人は、「自分の内には罪が渦巻いている、自分では消し去ることが出来ない罪の現実の中にいる」ということに気づいて、罪の赦しを求めるようになったのです。「自分の弱さ、小ささ、罪深さを受け入れ、低くされることを通して罪を赦していただきたい。神さまに憐れんでいただき、罪の赦しを得て、恵みをいただきたい」。

 13節以下にはこうあります。「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないでください。わたしはあなたに身を寄せる者、すべての先祖と同じ宿り人。私から目を離してください。そうすれば、私は安らぎます。私が去って、いなくなる前に」。詩人は、神さまが応えてくださらないことを恐れています。このまま神さまに見捨てられるのではないかと思っています。

 しかし、それだけでなく詩人は、人から、「神さまに見捨てられた者」として見られることを恐れています。そうならないために、詩人は罪の赦しを求めているのです。しかし、ここには答えはありません。実際、旧約聖書には罪の赦しについての答えはないのです。あるのは「罪を赦すお方が来る」という預言、イエス・キリストを指し示す預言だけなのです。

 では、イエス・キリストが来られた後に、どういうことが起こったのか? 本日与えられたもう一つの聖書の箇所、ペトロの手紙一1章14節以下には、こうあります。「かつて無知であった頃のさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい」。そのようにペトロは、「かつての無知であった頃のさまざまな欲望に従わないように」と勧めています。

「無知である」とは、神さまを神として認めない者であったということ、自分は神なしに生きていけると思っていたということです。それは詩編39編の詩人の思いと同じであると言って良いでしょう。そして、そのような罪に傾いた思いを抱くということは、特別なことではないのです。すべての人間が負っている思い、自分を大きくし、恵みを受けて当然だとおごり高ぶっている原罪とでも言える罪なのです。

 しかし、罪に傾いたままであれば、私たちは滅んでいくままになります。けれども、神さまは病を通して、また怪我や障害を通して、また老いていく中で、はたまた、ある出来事を通して、また人間関係の中で感じる自分の小ささや弱さといった問題に出遭わせることによって、神さまに立ち帰らせようとしてくださるのです。

 私たちは問いかけを受ける中で、自分は恵みを受けて当然だという思いと、神さまなしには自分は空しい存在、はかない存在なのだという思いの間を行き来しつつ、神さまに罪を赦ししていただくこと、神さまに受け入れていただくことが必要なのだと思うようになる。罪の赦しこそが、自分を確かな土台へと至らせるのだとの思いになるのです。

 けれども、罪の赦しを与えてくださるお方がいなければ、それは成り立たないのです。私たちの力で罪の赦しを獲得することは出来ません。イエス・キリストが命をかけて、私たちを救おうとしてくださったからこそ罪の赦しを得ることが出来るのです。

 イエス・キリストを信じるか否かに、「私たちがはかない存在として消え去っていくのか、それとも永遠なる世界に招かれた者として生きるのか」という分かれ道があるのです。

 ペトロの場合には、イエス・キリストとの出遭いが彼を変えました。ペトロはイエス・キリストを信じることで罪を赦され、自分が天に国籍を持つ者であることを知った、地上に寄留する者なのだということを知ったのです。天に国籍を持つ者であることを知るということは本当に大きな恵みであったと思います。

 それゆえにペトロは、13節で、救いへと招かれたのだから、「心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れる時には与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と勧めているわけです。

 これは救いの完成を待ち望むようにとの呼びかけですけれども、改革教会では、これは「行いを通して救いを確かにするように」との言葉ではなく、「救いを約束された者としてそのことを確信し、感謝をもってキリストを待ち望もう」との勧めだと理解してきたわけです。21節にはこうあります。

「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。したがって、あなたがたの信仰と希望とは、神にかかっているのです」。

「神にかかっている」とあるように、私たちが何かをしたということによって、救いを左右することは出来ませんし、そのようなことを考える必要はもうないのです。私たちは罪を赦された者、救いを約束されている者として生きていくのです。

 それは、17節の「この地上に寄留する」という言葉によっても示されています。私たちキリスト者は、この世の者として生きるのではなく、既に天に国籍を持つ者としてこの世を生きるのです。それは天を目指して高められていく道を行くことなのだということなのです。

 そのことが15節や16節にある、「聖なる者となりなさい」という言葉によって示されています。聖なる者となるということは、この世から取り分けられた者となるということです。救いへ招かれた者にふさわしく生きるということ、天に属する者となるための道を歩んで行きなさいということなのです。

 それゆえ私たちは、感謝をもって、喜びをもって生きていくのです。私たちは見捨てられるのか、それとも愛の内に天に入れられるのか、先行きの分からない者ではありません。イエス・キリストを信じる者は、既に天に国籍を与えられている、神の子として受け入れられている、永遠の世界の中に既に入れられているのです。ペトロの呼びかけは、永遠なる世界に入れられた者に約束されている救いの完成を目指して生きて行こうということなのです。

 そして、それゆえに、自分のことだけを考えて生きるのではなく、他者を愛する者として生きるということが起こるわけです。22節23節にはこうあります。「あなたがたは、真理に従うことによって、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは朽ちる種からではなく、朽ちない種から、即ち、神の変わることのない生ける言葉によって新たに生まれたのです」。

 ペトロは、「もうあなたがたは、朽ちていくのかどうかを気にする必要がなくなった。自分のことばかり考える必要はなくなった。だから、イエス・キリストに倣って他者を愛して生きるのだ」と勧めています。私たちがいかに貧しく、小さな者、弱い者、罪深いものであったとしても、イエス・キリストの恵みは私たちの罪を覆うに十分なものなのです。

 神の変わることのない言葉、復活した主イエス・キリストによって私たちは天に国籍を持つ者として新たに生まれたのです。これは神さまが約束してくださったものです。それゆえに確かなものなのです。そのような恵みを与えてくださったイエス・キリストに感謝をして、天を目指して歩んでまいりましょう。


2024年10月13日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書9章25-29節 
説教:「祈りによらなければ」 大石啓介

1 走り寄る群衆


 父親の不信仰が悔い改められました。彼の信仰的告白を聴いた後、主イエスはすぐに子どもへと向き直る…わけではありませんでした。25節の主イエスの視線を追ってみましょう。主の目は群衆へと向けられています。主は群衆が走り寄って来るのをご覧になった後に、汚れた霊へと目を向け、お叱りになるのです。

 なぜ、主イエスはわざわざ群衆に向き直ったのでしょうか。またよく考えるとそれ以上に不思議なことがあります。それは、群衆が走り寄ってくる、ということです。15節ですでに、父親と共に群衆は皆、主イエスの下に駆け寄って来て挨拶をしているのですから、今群衆は主イエスと父親を取り囲んでいるのではないでしょうか。

 しかし25節で群衆は、再び走り寄って来ているのです。いつの間に主イエスとの距離が開いてしまったのでしょうか。この違和感を説明するために、ある神学者は、25節の走り寄る群衆は冒頭の群衆とは違う別の群衆であると考える人々もいます。この場合、主イエスの噂を聞きつけて遅れて主イエスの元に走り寄ってきたと群衆となります。

しかし、果たしてそうでしょうか。マルコはすでに群衆が皆、主のもとに集まったと記していますので、後から別の集団が物語に参加するとは考えにくいと言えるでしょう。

 では、ベトサイダで盲人を癒したときのように、主は群衆から父親を連れ出し、二人は群衆から離れて語り合っていたというのでしょうか。そうでもないでしょう。もしそうならば、そのように語られているはずです。ではなぜ、主イエスと群衆との間に距離ができてしまっていたのでしょうか。

この疑問の答えとして、この物語が信仰と不信仰を問う物語であるということが手掛かりとなるでしょう。つまり、群衆は確かに主イエスと父親とを取り囲んでいた。しかし、信仰的には、未だ離れた場所にいたと考えることができるのです。

 群衆は、最初律法学者と共に弟子を取り囲む群れとして存在していました(前回の説教参照)。父親もそのひとりでした。父親は群衆を代表するように主の前に進み出、不信仰な者として振る舞います。しかし父親は、主の御言葉を受け、24節にて自分の不信仰を告白し、主に憐れみを乞います。この時父親は、真に主に近づいたのです。

 その出来事を目撃し、また「信じる者は何でもできる」という主イエスの御言葉を耳にした群衆もまたこの時、信仰をもって真に走り寄ってきたのでした。もちろん、群衆は信仰と不信仰の間を揺れ動く弱い者たちですから、父親と同様の回心が起こったわけではないでしょう。

 しかし主は、信仰へと走り寄る群衆に目を向け、彼らを待ち、奇跡を目撃することを赦すのです。主は、父親だけではなく、群衆をも信仰へと導きます。群衆に目を向け、信仰をもって近寄るのを待ち、御自身の御言葉が確かである確証を与え、彼らの不信仰を信仰へと導くのです。

2 汚れた霊を追い出す

 さて、主は群衆が走り寄って来るのをご覧になると、ついに汚れた霊に向き直ります。そしてすぐお叱りになりました。

「ものを言わせず、耳も聞こえさせない霊。私の命令だ。この子から出て行け。2度と入って来るな。」

 主の命令を聴き、汚れた霊は叫び声を上げ、ひどく痙攣をおこさせて出て行きます。奇跡の結果は大変すばらしく、讃美をもって受け止める必要がありますが、そちらへと歩を進める前に、25節の主の命令に立ちどまりたいと思います。

 初めに、主の呼びかけに注目してみましょう。主はここで、汚れた霊の隠れた正体が「ものを言わせない霊」であり「耳も聞こえさせない霊」であることを暴いています。霊の二つの性質を主は暴いていますが、父親はその全貌を把握しきれていませんでした。また弟子たちもそうであったのでしょう。彼らは息子にとりついた霊を見誤っていたことがここにわかります。ゆえに、父親は間違え、弟子たちは失敗したのです。

「耳を聴かせない霊」は自身も「聞く耳の持たない霊」であります。その霊が子どもにとりついていたことに気付くことが、子どもを解放する鍵でした。霊の情報を正しく把握せずに、彼に挑戦しようとしても、適切な対処ができるわけがありません。「耳も聞こえさせない霊」に対し、言葉をかけ続け、語り続けても、徒労に終わるのです(耳の聴こえない病人と言葉での対話を試みようとしても、適切な対応とは言えないのと同じように)。

 確かに弟子たちは、悪霊を追い出す権能を主イエスから授かっておりました。しかし、それは悔い改めを宣べ伝える宣教の内に発揮される権能でありました。御言葉が聞き入れられない場所があるのと同時に、御言葉を聴かない悪霊がいるのです。不信仰の間に奇跡が起こらないように、御言葉に耳を塞ぐうちに奇跡は起きないのです。

 御言葉を宣べ伝えるだけでは対処できないケースがあることを本物語は語ります。そのような場合には、御言葉ではなく別のアプローチが必要となってくるのです。それは、端的に言えば、主が直接働きかけることであります。主が直接働きかける時、例え耳を塞ごうとも、耳を塞がれようとも、その力からは逃れることはできません。

 主は霊との対話の限界を悟り(今までのように対話なしに)、即座に追放を命じます。主の命令は、人のそれとは違い、力ある神の業そのものです。霊が人の耳を塞いだところで、主の命令の前には意味をなさないのです。

 父親の言葉にも、弟子の命令にも耳を塞いだ霊は、主の命令の前に、耳を傾けざるを得ませんでした。主の命令は絶対で、その力に抗うことはできないのです。「この子から出て行け。二度と入って来るな」という厳しい命令に、霊は叫び声を上げます。そして子どもにひどく痙攣をおこさせて、出て行きました。主の力が示されました。

 この時、霊の最後の抵抗を受けた子どもは「死人のように」なってしまいました。周りにいた人々は、『死んでしまった』と考えたようです。

 しかし、子どもは死んでいませんでした。主イエスが手を取って起こされると、立ち上がることができたのです。27節は、死者の中からの復活ではないと考えられていますが、死者の復活と同様の衝撃を、人々に与えたことでしょう。

 しかし本物語では、そのような群衆の驚きや讃美に関しては何も語られず、すぐに場面は主イエスと弟子達との対話に移り、幕を閉じます。もし本物語が主イエスの奇跡の業を語る物語(奇跡物語)なら、結末として周囲の人々の驚きと主への讃美によって結末(ハッピーエンド)を迎えるのが定石です。しかし物語はさらに前進します。なぜなら、未だ解決されない問題が残っていたからです。それは、「なぜ弟子たちは汚れた霊を追い出せなかったのか」という問題です。

3 祈り

 さて、イエスが家に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねます。この疑問はもっともでしょう。弟子たちはこれまでも汚れた霊を追い払ってきた経験を持っていたはずです。

 そして、権能を授けられたことを実感していました。今回の挫折について、弟子たちは主に問わざるを得なかったのです。挫折を経験した弟子たちに対し、「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことができない」と応えます。

 祈りによってのみ解決できるケースがあることを、主は教えておられるのです。思えば、主イエスはよく祈る人でありました(1:35,6:46,8:6)。弟子たちもそのことは十分知っていたのでしょう。しかし、弟子たちが祈る描写は今まで描かれていません。また、弟子たちを「祈り」へと導く教えは29節が最初になります。

「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」との対峙によって、弟子たちはその存在を認識します。そして、その霊が引き起こす事柄の中心に、不信仰が広がっていることを知り、追い出せなかった経験の内に、自らの不信仰(未熟さ)を悟るのです。弟子たちが不信仰を悟った時、主はそこに新しい応えを与えます。それが「祈り」でした。こうして主は、時に適った方法で、弟子たちを祈りへと導いていくのです。

 では祈りとは何でしょうか。

 祈りとは、ただ神様に願うことではありません。祈りは、神様を信じ、すべてを委ねることです。自らの力に頼るのではなく、主の力により頼むことです。祈祷会で読み進めている『祈りの精神』において、著者のフォーサイスは、祈りは神を真剣に求めることであり、最悪の罪は祈らないことであると語ります。また祈りは単なる願いではなく、意志を携えて神に求める事であり、意志がこもるのである。それゆえに力である、と言います。

 また彼は「祈りは労働である」(Orare est laborare)と大胆に語り、祈りとは、行動的に神を知り、神と出会っていくのだと語るのです。

 主は弟子たちに、「この種の霊はあなたたちには追い出すことができない」、とおっしゃったのではありません。祈りによって追い出すことができることを教えてくださっています。主に向かって祈るとき、主が共におられ、主が答えて下さるのですから、その祈りが力となり、汚れた霊を追い出していくことが可能なのです。弟子たちはそのことに気付かず、今まで通り悔い改めを宣べ伝える経験の内に汚れた霊を追い出そうとしていたのでした。

 祈りにおいて主が共におられ、働いてくださるとき、汚れた霊は追い出されるだけではなく、不信仰から信仰へと人々は導かれていくのです。それゆえに祈りは悔い改めを宣べ伝えることとも言えます。それは与えられた権能の内にもとからあるのです。弟子たちはそのことに気付いていませんでした。祈りを教えられた弟子たちは、この先出会う祈りに関する物語において、与えられた権能の本質に気付かされていくでしょう。

 たとえば11章の「枯れたいちじくの教訓」、そして14章の「ゲツセマネでの祈り」において主は祈りを教えています(マルコによる福音書には「主の祈り」の全文は乗っておりませんが、しかし各所に「主の祈り」の片鱗が確かにあります)。

 私たちもまた、各所にちりばめられた祈りについての教えを読むことにおいて、祈りについてより深く学ぶことになるでしょう。今は祈りを与えられ、神様に近づくこと、主イエスに頼ることを覚えたわたしたちもまた、より深く祈りを理解できるように、主の御後に従い、前進したいと思います。


2024年10月06日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書9章19-24節 
説教:「信じる者には何でもできる」 大石啓介

1 最後の悪霊追放物語


 マルコによる福音書最後の悪霊追放の奇跡物語を読み進めています。最後の悪霊は、今までのどのような悪霊、汚れた霊よりも強力で手ごわい霊でした。その霊が子どもを襲っているのです。(父親の話では)悪霊は子どもの命さえも奪おうとしているのですから、一刻の猶予もございません。

 しかし、弟子たちは、その霊を追い払うことができませんでした。その場に居合わせた律法学者たちは弟子たちを責め立てます。群衆、そして父親も非難に加担するように弟子たちを取り囲んでいたのです。そのような中、イエス様が登場します。

 イエス様は「何を議論しているのか」と尋ねます。

 群衆の内の一人が前に歩み出て、経緯を説明します。彼は子どもの父親でした。「わたしの子どもが悪霊に苦しめられています。この悪霊をお弟子さんたちに追い払ってもらうように頼んだのですが、できませんでした」。

 状況を説明しつつ、「できませんでした」と語る父親の言葉の内には、チクリと刺さる棘があります。父親は弟子たちと、そしてその師であるイエス様を非難するのですそして、その思いに同調した律法学者と人々が弟子たちを取り囲んでいるのでした。

 イエス様は、その様子をご覧になり、さらにご自身の霊の力で、父親とそしてそこにいる律法学者、群衆、弟子達のうちにある「不信仰」を見抜き、悲しまれました。それゆえにすべての人々に向かって、こう言うのです。「なんと不信仰な時代なのか」。さらに厳しい御言葉が続きます。「いつまで私はあなたがたと共にいられようか」。そうです。

 別れの時が迫っていたのです。そのことをイエス様は、すでに十字架の死と復活の予告において宣言しています。聖書は、復活の後、天にいます父なる神様の元に戻られるイエス様を描いております(使徒1:9)。イエス様といつまでも一緒にいることはできません。

 地上での出来事は、その解決も含めて地上にいる人々に委ねられています(創1:28参照)。別れの時が来ることをご存じだったイエス様は、限られた時間の中で、様々な場所を巡り、神様のみこころを多くの教え、悔い改めと福音の中に、人々を導いてきたのでした。

 それにも関わらず、いまだに人々は悔い改めず、争い合い、妬み合い、赦し合えないでいたのでした。そのような現状を見たイエス様の胸は、どれほど傷つき、傷んでいたでしょうか。

 イエス様の嘆きは更に続きます。「いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」。怒りを我慢すること、それがいかに大変なことかは、ご存じのことでしょう。イエス様はこの世の不正に対して怒りを我慢しておられることを重く受け止めなければいけません。怒りはただ、抑えられているだけであります。

 もし(イエス様が以前ご指摘なさったように)この世がこれからも「神に背いている」ことを忘れて過ごし、本来なら愛し合い助け合うことなく、些細なことでいがみ合い、赦し合うことができずに争い合っている状況がつづくのであれば、怒りは出来事となって人々を襲うでしょう。

 確かに神の子イエスキリストは、神様と同様に「怒るに遅く、慈しみとまことに満ち」ておられる方です(出34:6)。しかし同時に「罰せずにおくことは決してな」いのです(出34:7)。赦す神様は同時に、義の神様であることを忘れてはいけないでしょう。

 義(ただ)しく審(さば)く方は、人間の悪を放置しておられるわけではありません。怒りを我慢しているのです。いずれ罪は罰せられるでしょう。今罰せられないのは、神様が怒りを我慢しておられるからにほかなりません。もし神さまが怒るのに早い方であったなら、世界と人はとっくの昔に滅びていたことでしょう(あのノアの箱舟物語のように!)。

 しかし、神の子イエス様は怒りを抑え、「子どもを私のところに連れて来なさい」と命じます。イエス様は助けを求める者を決して見捨てないのです(義と愛との葛藤の末に、愛が勝る)。罪人を厳しい言葉をもって悔い改めへと導き、福音の中で生きることを許してくださるのです。

2 父親の解答

 人々がその子をイエス様のところに連れてくると、イエス様を見た霊は、子どもに痙攣をおこさせました。子どもは地面に倒れ、泡を吹きながら転げまわったのです。霊はイエス様を見ただけで、イエス様を悟り、他の悪霊と同じように動揺し、最後の抵抗を試みたのでした。イエス様は汚れた霊の行為をご覧になり、父親に向き直って「いつからこうなったのか」と尋ねます。

イエス様が(今までと違い)すぐに悪霊を追い払わなかったのは、なぜでしょうか。それは、同様に解決しなければいけない問題があったからにほかなりません。

 悪霊追放と同様に、父親の不信仰をも追い払われなければいけませんでした。イエス様は父親の信仰の問題にも目を向けておられるのです。

 そこでイエス様はまず父親の不信仰を追い払おうとなさいます。不信仰は、汚れた霊に取りつかれているのと同じ危険な状態です(後にこの霊は「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」であることが主によって判明しますが、不信仰な者はそれと同様の状態にあるのです)。いつか死に至るほどの状況をイエス様はお見捨てになりません。

 自分の危機的状況に気付いていない父親は、主の質問に「幼い時からです」と応えます。さらに続けて、「霊は息子を滅ぼそうとして、何度も息子を火の中や水の中に投げ込みました」と語ります。9章17節や20節にて、息子に起きる身体的状況に加えて、息子が霊に殺されようとしている現状を訴えるのです。

 息子の悲惨さは相当なものだったことがわかります。その訴えが終わったあと、ついに「憐れんでください」との言葉が彼の口からあふれ出します。しかしその憐れみを乞う願いもまた不信仰からくるものでした。

「もしできますなら、私どもを憐れんでください」。この言葉は子ども思いの父親の素直な言葉である、ということができるでしょう。

 しかし、他の奇跡物語に登場する父親または母親と比較すると、必死さ、誠実さを見出すことができません。父親の「もしできますならば」という言葉は、疑いを秘めています。

 父親はあれほど熱心に息子の症状を訴えていました。しかしこの願いからは、主イエスを求める必死さはありません(それどころか逆に冷めているといっても過言ではありません)。子どもの症状を訴える時のあの父親の熱心さはどこに行ったのでしょうか。

 22節の彼のセリフの前半と後半の間には、温度差があります。この世の苦難や悲しみには熱心で、しかしイエス様が与えて下さる希望には冷めている、そのような不信仰が父親の内に見て取れるのです。

3 「信じる者には何でもできる」

 イエス様はご自分の霊の力で父親の思いを見抜いたのでしょう(マコ1:8参照)。いつまでも自分の不信仰に気づかない父親に対し、イエス様はその不信仰を指摘し、信仰へと導きます(「悔い改めて、福音を信じなさい」(マコ1:15))。

「『もしできるなら』というのか」と問い返しに、父親はどきりとしたことでしょう。父親は自分の主張は正しいと思っていました。しかし、イエス様の御言葉が、父親の心に悔い改めを起こし、父親を回心させるに至るのです。

「信じる者には何でもできる」。イエス様はこの御言葉をもって、悪霊を追い出せなかった父親の責任と、その内にある不信仰を問います。父親は悪霊を追放できなかった責任を弟子達とそしてその師匠であるイエス様に求めていました。

 つまりイエス様とその弟子に力がなかったからこそ、何もかなわなかった、と訴えていたのです。

 しかし、それこそ間違えであるのだと、イエス様はおっしゃいます。悪霊追放が適わなかった責任は父親の不信仰にあった、つまり、父親が「信じる者」でなかったゆえに、奇跡はなされなかったのだというのです。

 もちろん、奇跡を起こす力はイエス様の内にあります。しかし人々の信仰が伴わなければ、奇跡は起きません。そのことはすでにマルコによる福音書の6章1-6節の物語で証しされています。悪霊追放や病を癒す奇跡は、イエス様と人々との交わりの内になされる救いの業です。イエス様を信じる信仰がなければ奇跡はなされないのです。

 イエス様は今までも、おひとりで奇跡を起こそうとはなさいません。イエス様は「私には何でもできる。そのことを信じるか」とはおっしゃらないのです。奇跡を行使する力はイエス様を信じる人とイエス様との間に宿るのです。

 父親はこの御言葉によって自らの不信仰に気づくことができました。彼はもともと信仰深い人だったのでしょう。しかし、困難や悲しみの中、父親の信仰は擦り減って行ったのでしょう。いつしか不信仰の淵へと陥っていたのです。しかし御言葉がその淵より引き上げてくださいました。

 自らの不信仰に気づいた父親は、すぐに自分の非を認め「信じます。信仰のない私をお許しください」と懇願します。父親の態度はまさしく悔い改めでした。この時の父親の態度の変化を「手のひら返し」と揶揄してはいけないでしょう。悔い改めは、熟考の結果起こるだけではなく、突然起ることがあるのです。イエス様はそれぞれの悔い改めを受け入れてくださいます。

 イエス様は悔い改められた信仰を良しとし、今までの罪を赦し、信仰へと導きます。「信じる者は何でもできる」この言葉は今や励ましの御言葉となって父親のもとに宿ります。そしてその御言葉通り、信仰者の願いが適えられていくのです。主は、信仰者となった父親と共に子どものもとへと向かうのです。