2026年4月5日(日) 復活日礼拝(合同礼拝)
聖書:ルカによる福音書23章56b節−24章10節
説教:「主イエスの復活の証人」
1 週の初めの日曜日
金曜日、イエス様は十字架につけられ、息を引き取り、墓に葬られました。
イエス様の死は確かに確認されました。
それは、人間の目から見れば、すべてが終わりを告げる出来事でした。
女性たちは丁寧に埋葬し直すために、三日目の日曜日の朝、墓へと向かったのでした。
ルカによる福音書はこの場面を、「週の初めの日」「明け方」「早く」と、時間を重ねて丁寧に描いています。
しかしここで強調されているのは、女性たちの熱心さや早さではありません。
そうではなく、彼女たちがようやく動き出したその時には、すでに神の御業は終わっていた、ということです。
墓に着いたとき、すでに石は転がされ、墓は空であり、主は復活しておられました。
復活は誰かの目の前で劇的に起こった出来事としてではなく、静かに、しかし決定的に起こります。
つまり、人間の行動に先立って、神の側で完了しているのです。
ここに、私たちに与えられている希望の根があります。
私たちはしばしば、「もう終わってしまった」と思うところに立ちます。
取り返しがつかないと思うこと、遅すぎたと思うこと、どうすることもできない現実に直面することがあります。
しかし復活の出来事は、そのような私たちの理解に対して、はっきりと語りかけます。
『あなたが終わったと思っているそのところで、神はすでに働いておられる。』
女性たちは、死んだ主に仕えようとして墓に向かいました。
それは誠実な行動でした。
しかしその誠実ささえも追いつかないところで、神はすでに新しい現実を始めておられたのです。
私たちもまた、そのような神の働きの中に生かされています。
この礼拝に集っているのも、私たちが何かを成し遂げるためではなく、すでに備えられている神の御業に気づかされるためです。
では、その気づきはどのように与えられるのでしょうか。
2 神の現実
墓に来た女性たちは、空の墓を見て途方に暮れます。
そのとき御使いが現れて、こう語ります。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。」
この言葉は、誤りを正すための厳しい戒めや安易な慰めでもありません。
彼女たちの前提そのものを覆す神の御言葉です。
女性たちは決して間違ったことをしていたわけではありません。
ごく自然で、正しい理解に基づいて行動していました。
イエスは確かに死に、葬られたのです。
しかしその「正しさ」そのものが、ここで通用しなくなります。
なぜなら、神の現実が、この世の現実をすでに先へと進めておられるからです(「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」マコ2:21-22参照)。
死は確かに私たちの現実として未だにあります。
しかしそれは、もはや決定権を持つものではなくなりました。
なぜなら、「あの方は…復活さった」からです。
そしてその現実は、御言葉によって私たちに知らされます。
3 思い出す
御使いはさらにこう語ります。
「まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。」
ここで求められているのは、新しい知識ではありません。
「思い出すこと」です。
イエス様はすでに「人々の罪を贖うため、苦しみを受け、十字架につけられ、三日目に復活すること」を語っておられました。
しかし弟子たちは、そのときには理解できませんでした。
けれども今、その出来事が現実となったとき、御言葉を思い出すことによって、その意味が見え始めます。
ここに、信仰の本質があります。
信仰とは、何か新しいものを発見することではありません。
すでに語られていた御言葉によって、現実を読み直すことです。
女性たちは、墓が空であるという事実だけでは理解できませんでした。
しかし主の御言葉を思い出したとき、その出来事の意味が開かれたのです。
そして彼女たちは立ち上がり、弟子たちのもとへ戻っていきます。
見聞きしたことを伝えるためでした。
ここに、復活の証人が生まれます。
しかし、その知らせを受けた使徒たちは、それを「たわごと」のように思い、信じることができませんでした。
復活は、それほどまでに人間の理解を超えた出来事なのです。
それでもペトロは立ち上がり、墓へと走ります。
そして中をのぞき込み、不思議に思いながら帰って行きました。
ここには、すぐにすべてを理解した人はいません。確信に満ちた人もいません。
しかしそれでも、人々は動き始めています。
御言葉に押し出されるようにして、復活の現実に巻き込まれていくのです。
4 すでに始まっている神の現実の中で
私たちもまた、この人々と同じところに立っています。
自分の理解や経験に基づいて、「これが現実だ」「これが限界だ」と思い込んでいます。
しかし神は、その現実のただ中で、それを覆す新しい現実をすでに始めておられます。
すぐに分かるわけではない。すぐに信じきれるわけでもない。
しかしそれでも、御言葉に導かれて歩み出していく。
その中で、少しずつ見え始めるのです。
復活の希望とは、そのような歩みの中で、すでに神が始めておられる現実に、あとから気づかされていくことです。
復活は、「いつか良くなる」という未来の話でも、来世の話でもありません。
「もしかしたらそうかもしれない」という願いでもありません。
主はもはや、死の中にはおられない。――それが現実です。
だからこそ、御使いは今、「なぜ捜すのか」と問うのです。
それは、「いつか良くなる」という期待ではありません。
すでに決定的なことが起こっている、という事実に、御言葉によって気づかされていくことです。
この方に結ばれている者の人生もまた、同じ現実の中に置かれています。
たとえ私たちが「終わった」と思うところにあっても、そこが神にとっての終わりではない。
むしろ、そこから新しいことが始められているのです。
だから私たちは、絶望の中にあってもなお、望みを持つことができます。
それは自分の力によるのではありません。
すでに神がなしておられることに基づく希望です。
女性たちは、復活の現実を完全に理解したから証人になったのではありません。
すでに起こってしまった現実に出会い、その中に巻き込まれた者として、証人とされたのです。
私たちも同じです。
復活を説明できるからでも、揺るがない確信があるからでもありません。
迷い、つまずきながら、それでも御言葉によって現実を示され、その中に生かされている者として、私たちは証人とされていきます。
主は生きておられます。
そしてその現実は、今も変わることなく、私たちのただ中にあります。
この主の御言葉に聞き続け、やがて目を開かれた者として、それぞれの場所へと遣わされていきましょう。
復活の主が、私たちの先に立っておられるからです。
2026年3月29日(日) 主日礼拝
聖書:ルカによる福音書24章36−43節
説教:「触ってよく見なさい」
1 霊(πνεῦμα)
「あなたがたに平和があるように。」
主イエスは、弟子たちの真ん中に立ち、このように語られました。
エルサレムに集まっていた弟子たちは、復活の主との出会いについて、その時の喜びと驚きを語り合っていました。
そこにはマグダラのマリアをはじめとする女性たちもいたことでしょう。
そのただ中に、主ご自身が立たれたのです。
しかし聖書は、このとき彼らが喜びに満たされたとはすぐには語りません。
むしろ、彼らは取り乱し、心に疑いを抱いたと言うのです。
なぜでしょうか。
それは、彼らが目の前におられる主を、「霊」(πνεῦμα)のようなものだと捉えたからでした。
「自分達の真ん中に現れる」というあまりにも突然の出来事に、彼らは主の現実を受け止めることができなかったのです。
ここで語られる「取り乱し」(ἔμφοβος)は、神の出来事に触れたときに人が覚える、深い恐れに由来するものです。
実際、同じ言葉が、空の墓で天使に出会った女性たちの「恐れ」にも用いられています。
その恐れが、彼らの心に疑いを生じさせました。
主は本当に生きておられるのだろうか。目の前にいるのは本当に主なのか。
復活とは、霊的な存在としてよみがえることなのか…彼らは、「復活」が分からなくなっていたのです。
主は「平和」を告げておられるのに、彼らの心は平和からほど遠い状態にありました。
そのような弟子たちに、主はここでも近づき、語りかけられます。
「なぜ、取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか。」
この御言葉は、彼らの心を鋭く問うものです。
しかしそれは、ただ責めるための言葉ではありません。
恐れと疑いの中にある彼らを、そこから引き出すための言葉です(ルカ24:25)。
これまでも主は、幾度となく「恐れるな」と語ってこられました。
このときの言葉もまた、その延長にあると言えるでしょう。
恐れに支配されている心を、平和へと立ち返らせるための語りかけなのです。
2 触ってよく見なさい
だからこそ主は続けて言われます。
「私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたは見ているとおり、私にはあるのだ。」
主はご自身の手足を見せ、霊ではないことを明らかにされます。
当時、「霊」には手や足がないと考えられていました。
だから主は、ご自身の手と足を見せることによって、自分が単なる「霊」ではないことを示されるのです。
さらに主は、「触ってよく見なさい」と言われます。
ただ見るだけではなく、実際に触れて、その確かさを受け取るように求められるのです。
触れることによってこそ、その存在の現実は、よりはっきりと知られるからです。
ところで、この「触れなさい」という御言葉は、かつてマリアに語られた言葉と対照的に見えます。
主はマリアに「触れるな」と言われました。
しかしそれは、主を自分のもとにとどめておこうとする心を正すための御言葉でした。
あのときは「触れないこと」が、信仰に関わっていたのです。
それに対してここでは、「触れること」が、信仰へと導くために必要でした。
主は、人の状況に応じて、最もふさわしい仕方で御言葉を与えてくださるお方なのです。
そして主は言われます。
「私だ」(ἐγώ εἰμι)。
からだの確かさは、そのまま命の確かさです。
主は、ご自身が確かに生きておられることを示すために、「私だ」とはっきり語りかけておられるのです。
手と足、肉と骨をもつこの私こそが、あなたがたと共にガリラヤを歩み、十字架につけられ、死んで葬られたあのイエスであり、しかし今、復活してここに生きているのだと、力強く断言されるのです。
3 からだの復活
この主の御言葉に応えて、私たちは使徒信条において、「からだの復活」を信じると告白します。
ハイデルベルク信仰問答もまた、問57にて、次のように語ります。
問い:『「身体(からだ)のよみがえり」は、あなたに、どのような慰めを、与えますか。』
答え:『わたしの魂が、この地上の生活を終わると、ただちに、頭(かしら)であるキリストに受け入れられるだけでなく、このわたしの身体が、キリストの御力によって、よみがえらされ、再び、わたしの魂と結合され、キリストの栄光ある体と同じ形に変えられるということであります。』(『改革教会信仰告白集』より)
そしてこの復活の希望は、永遠の命に関する問答へと続きます(問58)。
復活の教理は、この後さらに深められていきます。
しかし、弟子たちと共に復活の主に出会ったばかりの私たちは、今日は、この「からだの復活」がもたらす喜びを心にとどめつつ、先に進みたいと思います。
つまり、私たちが喜びをもって受けいれたいことは、神様が人間のからだを軽んじておられないということです。
それは、「この私」が(このからだをもって生きる私自身が!)、神様に受け入れられるということです。
それはまた、復活が単に遠い将来の出来事ではなく、今、ここで、神様が私たちに近づいてくださり、私たちの存在そのものに関わってくださる出来事である、ということでもあります。
主イエスが、「霊」としてではなく、からだを持つお方として復活されたことを知る、というのは、このような喜びに包まれるということです。
それは単に、死者の復活という喜びを超えた、喜びがあります。
実際、弟子たちは復活の主と出会い、喜びに包まれました。
しかし同時に、「喜びのあまり、まだ信じられず、不思議がった」とも語られています。
御言葉としるしに触れても、悲しみの中では信じられず、喜びの中にあってもなお信じきることができない…。
聖書に登場する人々の、なんと人間的な姿でしょうか。
そしてそれは、私たち自身の姿でもあるのではないでしょうか。
しかし、ハイデルベルク信仰問答問58の答えにおいて示されるように、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった」出来事に触れたのですから、彼らが「信じられず、不思議に」思うのも仕方のないことなのです。
それほどこの神様が与えてくださる喜びは計り知ることができません。
だからこそ、主はさらに弟子たちに寄り添われます。「ここに何か食べ物があるか」と言われ、差し出された焼き魚を、その場で食べられたのです。
外見だけではなく、その内においても、確かなからだをもって生きておられることを示されたのです。
しかし、弟子たちはその光景を見ても、すぐに「分かった」「信じた」とはなりません。
それほどに、「からだの復活」ということは、私たちにとって容易に受け取れるものではないのです。
この後、主はさらに御言葉を重ね、聖書を悟らせるために、彼らの心を開いていかれます。
こうして初めて、彼らの心は開かれていくのです。
私たちもまた、同じ歩みを経なければ、本当の恵みにたどり着くことはできないでしょう。
復活とは何か、からだの復活とは何か、それが私たちにとってどのような益となるのか…そうした事柄を、聖書から、主の御言葉から辿る歩みが、これから始まろうとしています。
そのような歩みを始める私たちにも、今も生きて働いておられる主がいてくださいます。
主は天の父の右に座しておられますが、聖霊を送って私たちと共にいてくださり、教会に御言葉を託しておられます。
それゆえに、礼拝において語られる主の御言葉こそ、復活を知るための確かなしるしです。
私たちはこれからも、教会において主と出会い、その御言葉に触れ、主を仰ぎ見るものとして歩み続けたいと思います。