読む礼拝

2018年クリスマスのメッセージ

 イエス・キリストの誕生の知らせは、宮殿の王様でも、神殿の祭司でも、書斎の学者でもなく、夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼たちに届けられました。

 弱い、小さないのちへの配慮に心を用いる者たち、それにもかかわらず、否、むしろそれゆえに軽んじられ、時に蔑まれさえする人たちに、神様は目を留められるのです。

 神様は、弱い小さないのちが重んじられ、いのちといのちとが触れあい、共に生きることを願っておられるからです。だからこそ、キリストは、おむつをあてられた赤ちゃんとして、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったのです。

 クリスマスのメッセージは、羊飼いをたちをたちどころに勇者にしたり、お金持ちにしたりはしませんでした。けれども彼らは神をあがめ、さんびしながら帰っていきます。不安や、恐れや、嘆きや、諦めの中にあった人々は、喜びと、平安と、感謝と、希望と共に歩み出すのです。

 この慰めと励ましのメッセージに共に耳を傾けたいと思います。聖書はすべての人の書物、教会はすべての人の場所です。あなたの椅子がここにあります、どうぞ教会のクリスマスに足をお運びください。


アドヴェント(待降節)第1主日礼拝 
12月2日(日)午前10時30分

メッセージ
「目をさまして祈っていなさい」


 教会の一年は、1月1日からではなくアドヴェント(待降節)の第1主日から始まります。11月30日に一番近い日曜日から始まるアドヴェントは、単なるクリスマスの準備期間ではありません。

 それは、イエス様が、かつでユダヤのベツレヘムに幼子の姿で来てくださったことを覚えると共に、約束の通りに、世界の審判者としてふたたび来てくださることを覚える時なのです。

 イエス様は、すべての形あるものは消え失せてゆくことを示されます。そして、永遠に変わることのないもの目を注ぐこと、そして、だからこそ移ろい消え去りゆくものに心を向け、与えられた一日一日を大切生きることを求められるのです。

 私たちの最終目的地、ゴールをいつも心にとめているということ、それが「目覚めている」ということです。何が大切であり何がそうでないかを見分け、神様から与えられた一日一日を、託されたつとめを、感謝して、大切に、心を込めて、丁寧に生きるということ、それが、主を待ち望む私たちの歩みなのです。


アドヴェント(待降節)第2主日礼拝
12月9日(日)午前10時30分

メッセージ
「主の道を備えよ」


 聖書は、神の言葉が臨んだ場所は「荒野」であったと記します。それは、私たちの生きている世界が「荒野」であるからです。そして、それ以上に、その荒野が、私たち自身の中に広がっているからです。神によって造られ、生かされていながら、神様を忘れて自分勝手に生きようとする。人と分かち合い共に生きることを命じられていながら、互いに貪り合い傷付け合う。荒れ果てているのは、私たちの心と魂そのものなのです。

 だからこそ、荒野で叫ぶ声は、「悔い改め」を伝えるのです。命の源である神様に立ち帰ること、自分を中心にしようとする「さかさま」な生き方から、神様を中心とする「あたりまえ」の生き方へと向きを変えることを求めるのです。

 そのとき「人はみな神の救い」を見ると聖書は約束します。「あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる」(イザヤ58:11)。わたしたちの本当の命と喜びはここにあります。

アドヴェント(待降節)第3主日礼拝
12月16日(日)午前10時30分

メッセージ
「わたしたちは何をすればよいのですか」


 バプテスマのヨハネは、人々に「悔い改めにふさわしい実を結べ」と呼びかけます。悔い改めとは、単に「悔いる」ことではありません。そこには「改める」ことが必要なのです。悔い改めは心の問題ではありません。それは目に見える具体的な形を取らなければならないのです。

 「何をすればよいのですか」と尋ねた群衆に、ヨハネは「分けなさい」と命じます。持つ者が持たない者に「施す」のではなく、等しく神によって造られ、愛されている者たちが、神様から与えられたものを「分かち合う」ことこそが、悔い改めにふさわしいのです。

 2枚目の下着は、夜の冷え込みの厳しいユダヤの地では肌着ではなく防寒着です。それを分けるとは、人としての温もりを分かち合うことであり、食物を分かち合うとは、いのちを分かち合うことにほかなりません。ぬくもりといのちとを分かち合うこと、私たちが互いに愛し合うこと、それが神様への立ち帰りであり悔い改めなのです。

クリスマス(降誕節)礼拝
12月23日(日)午前10時30分

メッセージ
「さんびしながら帰って行った」


 当時、羊飼いは、人々から蔑まれる職業だったと言われます。野の獣や羊泥棒とも戦いながら、365日24時間休みなく羊の世話をしなければならない羊飼いは、安息日を守れないことから律法の違反者と考えられ、羊が畑の作物を食べてしまうことから盗人と見なされました。

 相手が生きているのだから予定が立たないのが当たり前であり、命に関わる働きなのだから突発的な出来事が起こるのが当然なのに、裁判において証言が認められないなど、理不尽な扱いを受けていたと言われます。愚直にしかし真摯にいのちと関わる働きが軽んじられ、スマートに手を汚すことなくお金を稼ぐことが賞賛されるようなあり方は、どこか今の時代、今日の社会と重なります。

 そうした時代と社会の中で、羊飼いたち自身もまた、自分たちの働きに喜びと誇りとを持つことが難しくなっていたかも知れません。そのような者たちのもとに、主の御使は遣わされるのです。

降誕後第1主日礼拝
12月30日(日)午前10時30分

メッセージ
「自分の父の家」


 クリスマスは、「インマヌエル=神ともにいます」とその名をとなえられるキリストが私たちのところに来てくださった出来事です。けれども、そのイエス様が、私たちの間に「見つからない」ということが起こるのです。

 それは、エルサレムでの過越の祭りの時に起こります。宗教的、信仰的であるはずの時と場所が、イエス様不在になってしまうのです。聖書は「慣例に従って」と記します。どれほど信仰的に見えるものでも、慣例になり形式になってしまうとき、イエス様はそこからいなくなってしまうのです。

 イエス様は「宮の中で教師たちのまん中にすわっておられ」ます。イエス様は「自分の父の家」におられるのです。そのときイエス様は「話を聞いたり質問したりしておられ」ます。祭りや儀式にまさって、神の言葉が語られ聞かれるところに、キリストはおられるのです。そこにこそ、私たちの、驚きと、喜びと、感謝と、讃美とがあるのです。

エピファニー(顕現節)礼拝
2018年1月7日(日)午前10時30分

メッセージ
「人生を導くもの」


 キリストの誕生は「すべての民に与えられる大きな喜び」です。神様はこの知らせを、どこからでも見える星によって知らされます。真実なもの、善なるもの、美しいものを求めて天を仰ぐ者は、誰でも導きの星を見出すことができるのです。

 けれども、その星を見いだして歩み始めた博士たちですら、その星を見失ってしまいます。王子ならば王宮に生まれるはずだという常識が、救い主は力と富と栄光に包まれているはずだという思い込みが、彼らの足を宮殿に運んでしまいます。けれども、そこはきらびやかではあっても、疑心暗鬼と敵意に満ちた死の世界にほかなりません。

 この人間の思い違いを正し、歩むべき道を示すのは神の言葉です。神様は小さなものに目を注がれ、小さなものを小さくないものへと変えてくださるという聖書の言葉に導かれて、彼らはベツレヘムを目指します。そしてその時に彼らは導きの星を再び見出すのです。