2026年3月15日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書20章11-18節
説教:「私は主を見ました」
1 はじめに
マルコによる福音書を読み終えた私たちは、ここから三つの福音書を巡り歩きながら、復活後の出来事を辿っていくことになります。
そこで、この旅に入る前に、一つだけ注意しておきたいことがあります。
それは、四つの福音書のあいだに見られる違いについてです。
聖書に初めて触れる人でも、イエス・キリストの物語を伝える福音書が4つあることをご存じの方は多いでしょう。
四つの福音書は、それぞれの言葉で、「イエス・キリストとはどのような方であったのか」「キリストが宣べ伝えたものは何であったのか」そして「キリストが私たちにもたらしたのは何だったのか」を語っています。
同じ出来事を伝える物語もあれば、ある福音書だけが伝えている物語もあります。
御言葉や教えも同様です。
そうして私たちは、一つの視点だけではなく、さまざまな証言を通して、イエス・キリストというお方を立体的に知ることができるのです。
しかしその一方で、物語の順序や細かな表現に違いがあることにも気づきます。
このような違いに気づくと、戸惑うことがあるかもしれません。
復活の物語も例外ではありません。
「神の言」である聖書なのに、どうしてこのような違いがあるのだろうか、と疑問に思うこともあるでしょう。
しかし、私たちはこうした違いにつまずく必要はありません。
証言の細部には行き違いがあったとしても、十人十色の声は、ただ一つのことを力強く証ししているからです。
それは、「神の子イエス・キリストの福音」です。
四人の福音書記者は、それぞれ生まれも育ちも違い、置かれていた時代や状況も異なっていました。
しかし、その一人一人が与えられた賜物をもって、一つになってイエス・キリストとその福音を証ししています。
そこには調和はあれど、争いはないのです。
無理にすべての細部を合わせようとする必要はありません。
文献の違いを細かく調べることは、福音をしっかり聞き取った後の「学び」の作業です。
それはまたいずれ行いましょう。
本日は、ヨハネによる福音書から溢れ出る「復活」の良い知らせ(福音)を聴き、その中に共に身を置いていきたいと思います。
2 すがりつく
さて、空の墓を目撃し、さらに御使いからイエス様の復活の知らせを聞いた女性たちは、その出来事の恐ろしさのあまり、震え上がり、正気を失ったような状態でした。
そして誰にも何も言えなかった、とマルコ福音書は伝えています(マルコ16:8)。本日の物語ではその後何が起こったのかが述べられているのですが、マルコによる福音書の終わりとつなぎ合わせて読むと、マリアは恐れの中でも立ち上がり、弟子たちのところへ走って行き、ヨハネ福音書20章2節にあるように、「誰かが主を墓から取り去りました。
どこに置いたのか、わかりません」と伝えたようです。
ここで注目したいのは、この言葉が御使いから託された言葉ではない、ということです。
御使いは「主は復活された」と告げました。
しかしマリアは、そのことを弟子たちに伝えていません。
つまり彼女は、なお恐れに支配されていたと考えられるのです。
言い換えるならば、彼女は御言葉を伝えるために弟子たちのところへ行ったのではなく、恐怖のあまり、これまで頼りにしてきた人々、すなわち男の弟子たちに縋りつくようにして駆け込んだのです。
どうやら男弟子たちは、ゲツセマネでイエス様の元を離れた後、また一つに集まっていたようです。
女性たちは彼らの潜伏場所を知っていたのでしょう。
いずせにせよ、その知らせを聞いたペトロと、もう一人の弟子――ヨハネ福音書によれば「イエスが愛しておられた弟子」――は、墓を確かめるために走って行きます。
しかし、そこで確認されたのは、「誰かが主を墓から取り去ったこと」、そして「どこに置いたのかわからない」ということでした。
こうしてマリアの不安は、二人の目撃によって確かなものとなってしまいます。
確かに、イエス様は忽然と消えたのです。
マリアも、そして二人の弟子たちも、この時点では復活を思い描くことさえできませんでした。
やがて二人の弟子たちは家に帰って行きます。
しかしマリアは、その場に残りました。
まるで何かに縋るかのように、墓のそばに立ち続け、泣いていたのです。
泣きながら墓の中をのぞくマリアのもとに、二人の御使いが現れます。
一人はイエス様の遺体が置かれていた頭の方に、もう一人は足の方に座っていました。
マリアは、そのことに驚くのではなく、ただ悲しみに打ちひしがれ、泣き続けていたようです。
その悲しみが、目の前の光景を見えなくしていたのでしょう。
御使いがいるという神秘的な出来事さえ認めることができないほど、彼女の心は閉ざされていたのです。
そこで御使いたちはマリアに尋ねます。
「女よ、なぜ泣いているのか。」
御使いは、いつもその人の置かれている状況にふさわしい言葉で語りかけます。
先の御使いの「恐れることはない」という御言葉と同様、この問いかけの中にも、神様の豊かな憐れみを見ることができるでしょう。
そしてこの御言葉がマリアの心をほぐしていきます。
マリアは、御言葉に促され、弟子たちに語ったのとよく似た言葉を繰り返します。
「誰かが私の主を取り去りました。どこに置いたのか、わかりません。」
ここでマリアは「私の主」と言っています。
先ほど弟子たちに語った言葉よりも、イエス様への強い思いがにじみ出ています。
しかしこれは、復活を信じて従う信仰ではありませんでした。
執着といって過言ではないでしょう。
マリアが求めていたのは、イエス様の「体」であり、「置かれている場所」でした。
この執着が彼女の目を閉ざしてしまったのでしょう。
復活の主を目の前にしても、それがイエス様だと気づくことができませんでした。
後ろに立っておられたイエス様の姿を、彼女は「園の番人」だと思ってしまうのです。
そして彼女は、盲目のまま、イエス様にこう訴えます。
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞおっしゃってください。私が、その方を引き取ります。」
この言葉からは、主が「私のもとにいない」という不安がにじみ出ています。
そこには、人間的な思いに支配された信仰の盲目さがありました。
だからこそ、復活が見えなくなっていたのです。
信仰の欠けがあると同時に、しかし彼女は確かに、不安に押しつぶされようになっていたのでした。
そのような彼女に、主ご自身が声をかけられます。
「マリア」。
彼女の目が開かれる瞬間でした。
イエス様はただ名を呼んだだけです。
しかしこの一言が、彼女の目を開いていきます。
主がその人を覚えておられる、この幸い以上の幸いはありません。
名が呼ばれたことにより、彼女は救われていくのです。
人は、主が出会ってくださることによって癒されていきます。
そしてそれは、復活の後も変わることはありません。
むしろ復活の主は、これまで以上に力強く弟子たちに出会い、彼らを癒してくださるのです。
3 私に触れてはいけない
目が開かれた彼女は、イエス様がそこにいることを確信しました。
その確信は主を「ラボニ」と呼ぶ深い敬意に現れています。
そして、その思いは思わず行動となり、彼女はイエス様に触れようとしたのでしょう。
しかしイエス様はマリアに向かって言われます。
「私に触れてはいけない。」
その理由は、「まだ父のもとへ上っていないのだから」という、一見すると不思議に思える言葉でした。
しかし、これまで見てきたマリアの「執着」を思い起こすなら、この言葉の意味が少し見えてきます。
実際、この「触れる」という言葉には、「すがりつく」「しがみつく」という意味が含まれています。
そのため、新共同訳聖書や岩波訳聖書(また新改訳聖書でも)では、この箇所を「すがりつくな」と訳しています。
イエス様は、単に肉体に触れることを禁じられたのではありません(ヨハネ20:27参照)。
カルヴァンはこの言葉を、「無分別な熱心さを矯正するために語られたもの」であると解釈しています。
まさにその通りで、ここにはマリアの「執着」を正す意図があったと考えられるのです。
彼女のこれまでの行動を振り返ると、彼女がいかに「地上のイエスに執着していたか」がわかります。
彼女は、イエス様の「遺体」に執着していました。
またイエス様の遺体が収められた「場所」に執着していました。
遺体が墓から消えてもなお、そのありかを探していたのです。
そして今まさに、復活を十分に理解しないまま、イエス様の「体」に縋りつこうとしています。
地上におられたイエス様に縋ること、そして復活の出来事の意味を理解しないまま、以前と同じ関係を求め続けること。
そうしたこの世への執着が、ここで否定されるのです。
「まだ父のもとへ上っていないのだから」という理由によって、マリアの信仰が見直されます。
なぜなら、イエス様が復活されたのは、再び地上で以前と同じ生活を続けるためではないからです。
もちろん、マルコによる福音書において約束された「ガリラヤで会う」という御言葉が無効になったわけではありません。
使徒言行録によれば、復活の後、四十日の間、主は弟子たちと共におられました。
その間、主はもう一度、弟子たちと出会い、共に過ごし、ご自身が来られた理由と、十字架の死と復活の意味とを弟子たちに教えられたのです。
そして、弟子たちはこれから神の国へ向かう歩みへと遣わされていきます。
しかしそのとき、主ご自身は「先に」父のもとへ行かれることが明らかにされています。
それは、ヨハネによる福音書14章の御言葉の実現でした。主はそこでこう語っておられます。
「あなたがたのために場所を用意しに行く。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」
さらに主は続けて、天に帰られた後のことを約束してくださいました。
主が父のもとへ行かれ、再び来られるその時まで、聖霊があなたがたを導く、と約束してくださったのです(ヨハネ14:15以下)。
復活の主は、もはや私たちが手でつかまえておくことのできる主ではありません。
しかしその主は、今もなお私たちの名前を呼び、出会い、導いてくださる。
そのことに気付いたマリアは、より大きな喜びに包まれます。
そして、復活の主との出会いが恐れを拭い去り、彼女を奮い立たせ、弟子たちの元へと誘うのです。
そして彼女は神への畏れ、復活の喜びを帯びた新たな声で、こう証言するのです。
「私は主を見ました」
2026年3月8日(日) 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書16章6−8節
説教:「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」
1 「恐れることはない」
私たちはいま、マルコによる福音書の中でも、主イエス・キリストの十字架の死、そして埋葬という、最も暗い場面に立っています。
奇しくも受難節を歩む私たちは、主イエスの苦しみと、またその周囲に生きた人々に迫った「死」の悲しみの中に、共に身を置いているのです。
弟子たちは逃げ去りました。ペトロでさえ、主を三度知らないと言いました。
女性たちは主の十字架を見届けましたが、彼女たちにも主を救い出す力はありませんでした。
誰一人として、この出来事を変えることはできなかったのです。
ここには、死を前にした人間の限界が描かれています。
16章4節は、墓の入口に大きな石が置かれていたことを報告しています。
この御言葉が語るのは、単なる墓の石の大きさだけではありません。
それは、人間の力ではどうすることもできない「死」という現実を象徴しています。
死は、最後まで主に従おうとする人々の思いさえも遮ってしまう現実として、彼女たちの前に立ちはだかっていたのです。
愛する者を失う悲しみ。どうすることもできない無力さ。その前に立つとき、人は自分の限界を思い知らされるのです。
パウロはこう言いました。
「もしキリストが復活されなかったのなら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もむなしい。」(Ⅰコリント15:14)
復活に出会う前の女性たちを覆っていたのは、この「むなしさ」でありました。
すべてが徒労に終わってしまうかのような感覚です。
弟子たちの従順も、女性たちの愛も、このままではすべてがむなしいものになってしまう。
その苦しみの中で、彼女たちは、せめて最後だけでも丁寧に埋葬したいと願ったのでしょう。
なんとか自分たちを奮い立たせ、墓へと急いだのです。
しかし、主の御使に出会ったとき、女性たちは「非常に驚き」ました。
主の十字架を前にして、たじろぐことなく立ち続けたその愛も、神の御前に立つときには思わず足を止めざるを得ないのです。
それは彼女たちの愛の弱さを示しているのではありません。
むしろ、人の思いをはるかに超えた神の御業を示しているのです(イザ55:8-11、Ⅰコリ1:25参照)。
そしてその御業の中で、人々は驚き、立ち止まり、変えられていくのです。
驚く彼女たちに向かって、御使はまず「驚くことはない」と語ります。
私たちの思いを超えた神が現れたとき、私たちは思わず立ち止ることになります。
しかし同時に、その出会いの中で恐れが拭い去られていきます。
なぜなら、神ご自身が御言葉を語ってくださるからです。
神への畏れを取り去ることができるのは、神の御言葉だけです。
それ以外の言葉では、人の心にある神への畏れを取り去ることはできません。
2 方向転換
さらに御使はこう告げます。
「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさった。
ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。」
ここで御使は彼女たちの目を正しい方向へ向けます。
人間としての限界の中に生きたイエスに目を留め続けるのではなく、神が行った御業において生きるイエスに目を向けるよう促しているのです。
「ナザレのイエス」という表現は、マルコ福音書に特徴的です。
「ナザレ」とは旧約聖書に登場しない、取るに足りない無名の町。軽蔑されることさえあった名です。
この町の名をイエスの名に伴わせていることには、深い意図があるでしょう。
人として地上を歩まれた「ナザレのイエス」を探すのではないという思いが強く現れています。
なぜなら、主は復活なさった。
主は死にとどまる方ではない!だからこそ、「ここにはおられない!」その事実をしっかりと見なさい!というのです。
この「復活なさった」という言葉は、原文では受け身の形で書かれています。
厳密に言えば「復活させられた」という意味です。
そこには、御子を死の中からよみがえらせた神ご自身の力が示されています。
女性たちの目は、この神の力に向けられます。
次に御使は、行動を促します。
彼女たちの役割は、油を塗る者から、告知する者へと変えられたのです。
「さあ、言って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」
ここで重要なのは、ペトロの名に特に言及されている点です。
ペトロは三度もイエス様を知らないと言った人物であり、弟子たちの中でも最も深い悲しみと自己嫌悪の中にいた人物です。
そのペトロにこそ、この復活の福音が届けられる必要があったのです。
神の愛は、失敗や弱さにとどまらず、必要な人に届くのだと示されています。
また、女性たちに託されたのは新しい御言葉ではありません。
すでにオリーブ山への道中で語られた主の言葉(マコ14:28)が渡されたのです。
単なる報告ではなく、主の御言葉を受け取り、伝える使命を負ったのです。
復活の主の出来事に出会った者として、彼女たちはこの福音の担い手となるのです。
もちろん、彼女たちの役割は伝言で終わりません。弟子たちへの伝言は、同時に彼女たちへの伝言でもあります。彼女たちは弟子たちに伝えた後も、弟子たちと共にガリラヤへ行かなければなりません。
つまり、彼女たちもまた、今来た道を引き返すように求められるのです。
それは、主と出会った最初の場所へと戻るということでもあります。
信仰の原点へと立ち帰ることが求められているのです。
3 回復の兆し
弟子たちは皆失敗しました。
逃げました。
ペトロは主を否認しました。
普通なら弟子失格です。
しかし主は彼らを見捨てませんでした。
むしろこう言われるのです。
「ガリラヤで会おう。」
ガリラヤとは、弟子たちが最初に主と出会った場所です。
網を捨てて従った場所。主の言葉を聞いた場所。
信仰が始まった場所です。
主は、失敗した弟子たちをもう一度そこへ招かれるのです。
しかしもう一つ大切なことがあります。
ガリラヤは特別な宗教の場所ではありません。
人々が生活する場所です。
漁師が働き、人々が暮らす日常の場所です。
復活の主は、遠い場所で待っておられるのではありません。
弟子たちの日常生活の場所において、会おうと言っておられるのです。
ここに回復の兆しが見られました。
しかし、女性たちはどうしたでしょうか。
マルコ福音書は最後にこう記します。
「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
復活の物語は、彼女たちもまた、弱いものであるということに言及して終わりを告げます。
神の御業を前にした人間の恐れが徹底したかたちでここに記されていきます。
この「恐れ」は、弱さを抱えた人間のリアルな姿です。
確かに彼女たちは恐れ、この命令から逃げ出したのでしょう。
しかし恐れがあるからといって、主の御言葉は無効ではありません。
御言葉がすでに実現しているからです。
彼女たちが恐れから回復したのは、彼女たちの強さがあったからではありません。
イエス様の御言葉が実現したからです。
実現した御言葉、それは「あなたがたより先に行かれる。」という御言葉でした。
これは先導という意味です。これは先にいって待っているという意味ではありません。
先立たれ、先導してくださるということは、近くにいてくださるという意味でもあります。
先導してくださるということは、主が私たちの歩みの外側におられるのではなく、私たちの歩みの中に共におられるということです。
主は遠くから命令する方ではありません。
復活後も、私たちの前を歩き、私たちを導く方なのです。
私たちは弱い。何度も失敗します。
自分の力では変わることができません。
弱さから抜け出したいと願っても、それは簡単なことではありません。
しかし聖書が告げているのはこういうことです。
人間が強くなることによって救われるのではない。
主との出会いが人間を変えるのだ。
弟子たちが再び立ち上がるのも、彼らが強くなったからではありません。
復活の主と再び出会うからです。
私たちも同じです。弱さから完全に抜け出すことはできません。
しかし復活の主が私たちより先に歩いてくださる時、私たちは弱さを抱えながらも歩むことができるのです。
主が先に行かれる。主が道を開かれる。
主が私たちを導いてくださる。
「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」
この御言葉とその実現こそ、弱い私たちを再び立ち上がらせる復活の福音なのです。
2026年3月1日(日) 主日礼拝(合同礼拝)
聖書:マルコによる福音書16章1−5節
説教:「復活する」
1 目撃
主イエス・キリストの復活の知らせを初めて聞いた人々が抱いたのは、驚きと恐怖でした。
そのことを、原初の復活物語(マコ16:1-8)は語っています。
受難節を歩む中、復活の日を「祝祭日」として喜び迎える準備をしている私たちは、同時に、マルコによる福音書の著者が描くこの時の、「驚きと恐れ」に目を向ける必要があるでしょう。
なぜなら、まさにこの「驚きと恐れ」こそが、マルコ福音書の結末そのものだからです。
この世において最も悲惨で残酷な十字架を、逃げ出さずに見続けた人々でさえ、復活の出来事には驚き、恐れ、そして耐えきれない思いを抱きました。
希望の光に目がくらみ、ともすれば見失ってしまいそうになる、その人智を超えた畏怖すべき神の御業に、私たちはあらためて目を向けるよう促されています。
マルコによる福音書の結末からは、その御業を見よ、との声が聞こえてくるのです。
その声に耳を傾けながら、本日は、マルコが語る復活の出来事、とりわけ彼女たちの「驚き」を、私たちも共に味わいたいと思います。
復活の物語に登場するのは、三人の女性です。
マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセの母マリヤ、そしてサロメ。
この三人は、イエス様を「先生」と慕い、ガリラヤから共にエルサレムへ上って来た女性たちでした(マコ15:40-41)。
男の弟子たちが皆逃げ去った後も、イエス様のもとにとどまり、主が十字架につけられるのを目撃した人たちです。
十字架を目撃する。それは同時に、その悲惨さをも目の当たりにしたということでもあります。
愛する方が傷つけられ、侮辱されるのを見つめる事。それは言葉に尽くせない苦しみであったでしょう。
しかし彼女たちは、十字架の悲惨さから目を背けることなく、自分たちが近づくことのできる限り近い場所で、すべてを見聞きしていきました。
彼女たちは、耳と目と心をもって、最後までイエス様に従い、仕えようとしたのです。
彼女たちはまた、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を取り下ろし、埋葬するのを目撃しました。
それは準備の日、すなわち安息日の前日に行われた出来事でした。
ヨセフが「思い切って」(マコ15:43)イエス様の遺体を引き取りたいと願った理由はさまざまに考えられますが、その一つは、安息日が迫っていたからであったでしょう。
安息日は、六日間の天地創造を終えた神が七日目に休まれたことを記念する日です(出31:16-17)。
その日には、仕事だけでなく、歩くことのできる距離さえも制限されていました。
この準備の日のうちに埋葬を終えなければ、イエス様の遺体を丸一日、木にかけたまま外にさらすことになってしまいます。
それは故人に対する侮辱であり、また聖書の教えにも反することでした(申21:22-23)。
引き取りの許可が出た後も、自由に行動できる時間的な猶予はほとんどなかったと思われます。
ヨセフは当時のユダヤ人の埋葬習慣に従いましたが、遺体の処置は簡略化せざるを得なかったのです。
2 行動
彼女たちは、その一部始終を目撃しました。
無事、埋葬されたことに安堵したのも束の間、遺体に施された処置を目にして、彼女たちの心は騒いだに違いありません。
師と慕う方の遺体が、やむを得ない事情があったとはいえ、十分な備えのないまま葬られるのを、彼女たちはそのままにしておくことはできなかったのです。
そしてもっと丁寧に埋葬したいと願いました。この思いが、彼女たちを単なる目撃者から行動する者へと変えていきました。
いわば、物語の表舞台へと押し出していったのです。
しかし、女性たちはすぐに行動することができませんでした。
埋葬の直後に安息日が始まったからです。
埋葬が終わる頃には日もすっかり暮れ、女性だけで出歩くのは危険な状況でした。
香油を買う店も閉まっていたことでしょう。
動くに動けない。
この葛藤が彼女たちをさらに悩ませたに違いありません※。
安息日が終わる夕刻、彼女たちは急いで出かけ、まず香油を買い求めました。
当時は日没から一日が始まりますから、香油を購入したのは夜であったことがわかります。
すでに暗く、外は危険でした。
彼女たちは日が昇るのを待たなければなりませんでした。
遺体の腐敗を防ぐためにも一分一秒が惜しい中で、なお待たなければならない。
もどかしい時間が続きます。
眠れない夜を過ごしたかもしれません。
そして翌朝早く、「週の初めの日(曜日)」に、彼女たちは日の光とともに、主イエスが納められた墓へと急ぎました。
つまり、誰よりも早く、彼女たちは墓へ向かったのです。
墓へ向かう道すがら、彼女たちの胸にはどのような思いが去来していたでしょうか。
目を伏せ、焦りと深い悲しみが、彼女たちを襲っていたに違いありません。
しかし彼女たちは、その心を燃やし、震える体を奮い立たせました。
けれども、勢いよく歩み出したものの、ふと現実に引き戻されたのでしょうか。
彼女たちの心に再び不安がよぎります。
「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるでしょうか」(16:3)と話し合い始めたのです。
当時の墓は、山の斜面に洞窟を掘り、そこに遺体を安置する造りでした。
そして入口は大きな石で塞がれていました。
墓荒らしを防ぐため、その石は容易に動かせないほど重いものであったと考えられます。
少なくとも、この女性たちだけで動かせるものではありませんでした。
こうした彼女たちの心の浮き沈みが、16章1節から3節に描かれています。
悲しみに顔を伏せ、不安に駆られながらも、いてもたってもいられず墓へと急ぐ。
そのような「死を前にした人の姿」が、彼女たちを通してあらためて示されるのです。
これまでも彼女たちは不安と葛藤を抱えていたでしょう。
しかし、行動を起こしたときの不安は、ただ目撃していたときのそれよりも、さらに重く彼女たちにのしかかったのではないでしょうか。
答えは見えない。
それでも行動するしかない。そのような状況の中で、心は必要以上に騒ぐものなのです。
3 驚き
さて、彼女たちは墓に近づきました。
するとそこには、伏せていた目を上げる出来事が待っていました。
16章4節には、「目をあげてみると、石はすでにころがしてあった」と記されています。
早朝、まだ人影もない時間に墓に来た彼女たちが、この光景を見て何を思ったのか、聖書は詳しく記していません。
ただ「この石は非常に大きかった」と、その大きさが強調されているのです。
マルコ福音書の著者は、あえてこの石の大きさを強調します。
しかし興味深いことに、彼女たちが石のこと自体に驚いたとは記されていません。
たとえ非常に大きな石であっても、人の手によって動かし得るものであるならば、それ自体は決定的な驚きにはならないからです。
ですから私たちもまた、「誰がどのようにして石を動かしたのか」という点に心を奪われる必要はありません。
マルコが読者の目を向けさせようとしているのは、そこではないからです。
本当に心を向けるべきは、これから示される、真に驚くべき出来事そのものなのです。
彼女たちは、墓の中に入っていきます。
ヨハネによる福音書によれば、どうやら身をかがめなければ中の様子を見ることはできなかったようです。
そのことを思うと、この行動には驚かされます。
中に誰がいるのかもわからない状況で、彼女たちは中へと足を踏み入れたのです。
その大胆さは、驚くべきものと言わざるを得ません。
墓荒らしがまだその場にいる危険さえあったはずです。
しかし、彼女たちは誰がいるのかもわからないまま恐れずに、ただイエス様を求めて前へと進みました。
そして、「右手に真白な長い衣を着た若者が座っていたのを見て、非常に驚いた」(16:5)のです。
ここにきて、ついに彼女たちは驚きます。
「右手」とは、聖書において救いと平和を象徴する方向です。
その「平和の来る方向」に、明らかにただの人ではない若者が座っていた。
それゆえに、彼女たちは「非常に驚いた」のです。
この「非常に驚いた」というのは、単なる驚きを意味するものではありません。
また、先にみたピラトの驚きを伴う「不思議」でもありません。
ギリシャ語原文を見ると、この動詞は新約聖書の中でも、とりわけマルコによる福音書に特徴的に用いられている語であることがわかります。
その代表的な箇所の一つが、14章33節、ゲツセマネの祈りの場面です。
そこには、主イエスが「恐れおののき、また悩み始められた」と記されています。
この「恐れおののき」と訳されている動詞が、16章5節の「非常に驚いた」と同じ語なのです。
つまり、16章5節の「驚き」は、単なる意外性への反応ではありません。
神が差し出された十字架の杯を前にして、主イエスご自身が深く震えられた、その心の激しい動きと同質のものが、この三人の女性を襲ったということになります。
さらにこの語は、他の用例から考えても、圧倒的な存在の前に立たされたときの、畏れと尊敬を含む態度を表す言葉です。
すなわちそれは、真の権威ある方の前に立たされた人間の、畏怖を伴う驚きなのです。
彼女たちは、「平和の方向」に座す神の使いを見て、畏れおののいたのです。
16章5節のこの激しい驚きは、神の御言葉と御業の前に立つことの恐れおおさを示しています。
人間がその権力を誇示するために用意した、最も残酷な刑罰である十字架を、毅然として見上げることができた女性たちでさえ、この神の驚くべき御業の前に立たされたときには、ただ恐れおののくほかなかったのです。
マルコ福音書の著者は、彼女たちの姿を通して、神の御業が本来持っている重みと偉大さを読者に伝えようとしています。
そしてこの物語を読む私たちもまた、その重さを共有することへと招かれているのです。