読む礼拝


「そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道を通って帰って行った。」 (マタイによる福音書2:12)


 キリストの誕生は「すべての民に与えられる大きな喜び」です。神様はこの知らせを、どこからでも見出すことのできる空の星によって知らされます。より真実なもの、より善なるもの、より美しいものを求めて天を仰ぐ者は、誰でも導きの星を見出すことができるのです。

 けれども、星に導かれて主にお会いすることができたのは東の国の博士たちだけでした。どれほど明るく導きの星が輝いていても、地上の事柄で頭が一杯で、他人の顔色を伺うことに汲々としているばかりなら、その輝きは見えず、その導きに応えて歩み出さないなら、その導きは意味のないものになってしまうのです。

 そして、その星に導かれて歩み出したはずの博士たちですら、いつしかその星を見失ってしまいます。王ならば王宮に生まれるはずだという常識が、救い主は力と富と栄光に包まれているはずだという思い込みが、彼らの足をベツレヘムの馬小屋へではなく、エルサレムの宮殿に運んでしまいます。けれども、そこはきらびやかではあっても、実際には疑心暗鬼と敵意に満ちた死の世界にほかなりません。自ら力と富と栄光を求めこれを独占しようとするところに本当の命はないのです。

 この人間の思い違いを正し、歩むべき道を示すのは神の言葉です。神様は小さなものに目を注がれ、小さなものを小さくないものへと変えてくださるという聖書の言葉に導かれて、彼らはベツレヘムを目指します。そしてその時に彼らは導きの星を再び見出すのです。 そこには「富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた」(IIコリント8:9)主がおられます。飼い葉桶はその貧しさの、そして命のしるしです。自らのために力と富と栄光を求めるところにではなく、人のために弱さと貧しさとはずかしめを身に負うところにまことの命があるのです。

 博士たちはこの飼い葉桶のイエスに黄金・乳香・没薬をささげます。黄金は王のしるし、神にささげられる乳香は神のしるし、死者に塗られる没薬はイエスがその死によって私たちを救う救い主であることのしるしです。彼らは、イエスを王として、神として、救い主として告白するのです。それらはまた、彼らがこれまで占いとまじないに使ってきた商売道具だったと理解することもできるでしょう。彼らは、これまでの自分たちの生き方を捨て、人の知恵によらず神の言葉によって歩み出そうとするのです。

 彼らは「ヘロデのところに帰るな」とのみ告げを受けて「他の道を通って帰って行」きます。イエスと出会った人間は、これまで歩んできた道を転換して新しい道を歩み出します。ヘロデの道ではなく、イエスの道にこそ、宮殿にではなく馬小屋にこそまことの命があるからです。         (2018年1月7日の礼拝説教から)


「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。 (創世記11:4)


 バベルの塔の物語は、「全地は同じ発音、同じ言葉であった」と始まります。同じ言葉ではいけないのでしょうか。人が心を合わせることがどうして問題なのでしょうか。

 それは、アダムとエバの堕罪以来、「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い」(8:21)からです。人は「生まれながら、神と隣人とを憎むことに傾いている」(ハイデルベルク信仰問答第5問)ために、時に人は心を一つにして悪いことを行ってしまうのです。

 それは最初は悪とは思えない形で始まります。人々は一致して敵に当たることができるようになり、守るに易く攻めるに難い山裾を出て、作物の栽培により適した「平野」に住むことができるようになります。生産活動が盛んになり、技術革新が起こります。人々は「石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得」るのです。

 けれどもその時、人々はその富と知恵とを、自分たちだけのものにしようと謀ります。「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」というのが彼らの計画です。 それは、神様が「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(1:28、9:1)と祝福してくださった人のあり方へからの逸脱です。

 町を建てるということは、町の回りをぐるりと囲む壁を造るということです。自分たちとそれ以外とを分ける「隔ての壁」を建設して、手にした富と知恵とを自分たちだけのものにしようとするのです。そして、その知恵と富とを誇示するためのシンボルとして「塔」を造ろうとします。頂を天に届かせようとするその塔は、自分たちが「神のように善悪を知る者となる」(3:5)ことを誇示するものでした。

 神様は、この企てを止めさせようとします。なぜなら、全知でも全能でもない人間が、そうであるかのように振る舞うなら、その結果は破滅以外にはないからです。実用を無視して「天にまで」届かせようとする塔は倒壊するほかありません。焼成煉瓦を作るために行われる森林伐採は水源を枯らし、人体に害のあるアスファルトは人々の健康を損なうでしょう。バベルの塔建設はそれ自体、人々を破滅させずにおかない時限爆弾だったのです。

 けれども、「同じ発音、同じ言葉」の人々の中には異論の生じる余地がありません。一旦走り出したら脱線大破するまで止まらないプロジェクトを被害なしに中止させ、心を一つにして破局に向かうことのないようにするために、神様は「言葉を乱し、互に言葉が通じないように」されたのです。それゆえそれは永遠にではありません。そこにはなお「ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となる」(ヨハネ10:16)希望が与えられています。この希望に歩みたいのです。(2018年1月14日の礼拝説教から)



「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。(マルコによる福音書1:9)


 イエス様の救い主としての生涯は、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けることから始まりました。キリストは、群衆の中の一人となることから、その救い主としての働きを始められたのです。そこには何の特別扱いもありません。イエス様は、他の人々と同じように列に並び、同じようにバプテスマのヨハネのもとに身をかがめ、同じように水で洗礼を受けられたのです。

 イエス様はその働きを山の上にある町エルサレムで、高い壇の上で人々に仰ぎ見られることから始めることもできたはずです。けれども、イエス様はそうなさいません。イエス様は、丘の上の町ナザレから出てヨルダンの低地に下り、ヨルダン川でヨハネのもとに身をかがめることから始められたのです。

 救い主の働きは低きに下ることから始まるのです。それは「神のように」なろうとして、楽園と永遠の命を失った私たちを救うためにほかなりません。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられれた」(ピリピ2:6-7)のです。

 そのとき、イエス様は「天が裂けて、聖霊がはとのように自分にくだってくるのをごらんに」なり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」との天の声をお聞きになります。それは、神の子が、神のようになろうとして罪に堕ちた人間のために、「おのれをむなしゅうして」人となってくださったことによって、神と人とを隔てていた罪という隔ての中垣を打ち砕いてくださったということ、「ケルビムと、回る炎のつるぎ」(創世記3:24)によって閉ざされていた、エデンの園の「命の木の道」が再び開かれたということにほかなりません。

 いまや私たちはキリストにあって、神様から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」との言葉を聞き、神の子としての恵みに生きることができるようになったのです。そして、この言葉が、詩篇第2篇の「王の即位式の詩篇」とイザヤ書42章の「主の僕の歌」の引用であることを知るとき、私たちが神の子として生きるとは、ルターが「キリスト者の自由」の中で語ったように、私たちが「全ての者の上に立つ王であって、何者にも従属しない」王として、そして「全ての者に仕える僕であって、全ての者に従属する」僕として生きるということであることを知るのです。この「思いのままに吹く」風のような、こだわりなき神の子の自由と喜びとに生きる者たちでありたいのです。       (2018年1月21日の礼拝説教から)


「イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』」 (マルコによる福音書1:17)


 イエス・キリストは、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」との御言葉をもってその救い主としての働きを始められました。けれども「時は満ちた」と言われるその時は、「バプテスマのヨハネが捕らえられた後」であり、「神の国は近づいた」と言われるその場所は「ガリラヤ」です。

 バプテスマのヨハネは、「自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとった」ヘロデ・アンティパスに「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と語ったために捕らえられ、獄に繋がれ、ヘロデの誕生日の宴会で舞を舞ったヘロデヤの娘サロメへの褒美として斬首されます(6:16-28)。

 預言者が非道な力によって口を封じられたまさにその時、キリストは「時は満ちた」と言われるのです。人々が、神様はいるのか、いるならどうしてこんな非道な振る舞いを見逃しているのかと嘆く時、イエス様は「神の国は近づいた」と語られます。私たちがまだその時ではないと思う時、すでに神の時は満ち、私たちが不可能だと考える時、神の計画は実現を始めているのです。

 「異邦人のガリラヤ」(イザヤ9:1)と呼ばれた地、「なんの良いものが出ようか」(ヨハネ1:46)と人々があきらめ、あざけりさえする場所から、神様は神の国を到来を語り出されます。

 神の支配は、私たち人間の状況判断を越え、思いを超えて実現していくのです。「悔い改め」と「信仰」とは、時と場所を選びません。「いま」がその時であり、「ここ」が信仰の出発点なのです。私たちが、自分で自分の時と場所を定めることをやめ、神様の時と場所とに自分自身を委ねることが、信仰の始まりなのです。

 最初の弟子たちの召命は、このことをあかししています。時が満ちたとは、キリストがその救い主としての働きを始められたということです。神の国が近づいたとは、キリストが私たちに近づいてこられるということです。そして、悔い改めて福音を信じるとは、キリストが私たち一人一人に語りかけてくださる「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」との言葉に聞き従って、私たちが「網を捨てて、イエスに従」うことなのです。

 網を捨てるとは、自分の生活の手段を捨てるということです。それは、私たちが自分の知恵と、自分の力、自分の経験、自分の腕で自分の人生を支えようとすることをやめて、神様の言葉、神様の力、神様の恵みに自分を委ね、人生の舵取りを神様に委ねて生きる者とされるということにほかなりません。この招きに応えることが悔い改めであり信仰です。この招きに応え、キリストに従い、その御足のあとを踏む者となりたいのです。    (2018年1月28日の礼拝説教から)