読む礼拝


2025年10月19日(日)  主日礼拝
聖書朗読 マルコによる福音書14章12―16節
説 教 「過越の食事の準備」 大石啓介

1 木曜日


 本日から、マルコによる福音書の講解説教を再開したいと思います。

 私たちは2年半、マルコによる福音書を読み進めてきました。「悔い改めて、福音を信じなさい」(マコ1:15)という主の呼びかけから始まった宣教の旅も、いよいよ最後の一週間へと歩みを進めています。

 日曜日—主イエスは小ロバにのってエルサレムに入場されました。
 月曜日—神殿を清め、
 火曜日—時の宗教的権力者との論争が展開され、弟子たちへ教えも深まりました。
 水曜日—主イエスを殺す策略が進み、埋葬の準備が整えられました。
 そして木曜日が始まります。
 
 木曜日の朝、主イエスとその一行は、引き続き、ベタニアまたはオリーブ山のどこかに滞在していたのでしょう。

 十二使徒の一人ユダの裏切りによって、主の身辺はますます危険になっていました。その日が来るまで、一行はできる限り、身を潜めていたのです。

 そのような中、除酵祭の第一日目、すなわち過越の小羊を屠る日 がやってきました。一行は、過越の食事の準備を始めなければいけませんでした(出12:1-13、14-28、申16:1-17参照)。

 過越の食事は、エルサレム市内で行われなければならないと定められています。

 この日には、エルサレムに住む家庭はもちろん、過越祭のためにエルサレムに集まった人々も、それぞれの家で一匹の小羊を犠牲として捧げることになっていたのです。

 市内各所には臨時の祭壇が設けられ、祭司たちは出張してその犠牲を聖別し、奉献しました。小羊はまず犠牲として捧げられ、その後家に持ち帰って料理され、過越の食卓に並べられます。

 こうした状況を背景に、弟子たちは 「過越の食事はどこで行うのか」 が気になったのでしょう。過越の食事を行わないことはあり得ない。

 しかし、それならば、エルサレムのどこで行うのか。ただ場所を確保すればよい、というわけではありません。

 主イエスを始め、十二人の使徒、また他の多くの弟子達が一斉に食事を行うための場所でなければなりません。またこれだけの人数です。調理場もそれなりのスペースが必要でしょう。

 さらに加えて、主の安全が守られなければなりません。今から探してそのスペースを確保することができるのか。そういった疑問と不安から、弟子たちは主に尋ねます。

「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」(14:12)。

 この問いに対して、イエス様は二人の弟子を「都」エルサレムへ使いに出されます。

 もちろん、過越の食事の準備のためです。イエス様はここで、エルサレムで過越の食事を守ろうとする固い意志を示されます。

 しかし、それだけではありません。ここでさらに強調すべきことがあります。

 それは、過越の食事の準備が、弟子たちが動き出す前に、すでにイエス様によって備えられていたという事実です。

 弟子たちは命じられて動きますが、実際には、主がすべてに先立って整えていたのです(ここにも、主の堅い決心が見受けられます)。

2 主の用意

 イエス様は、二人にしるしと言葉を与えました。その「しるし」は、「水がめを運んでいる男」です。

 当時、水がめを運ぶのは女性の仕事でした。ですから、男性がそれを担っているのは極めて珍しい光景でした。

 だからこそ、それが弟子たちにとっての明確なしるしとなったのです。このしるしはとてもわかりやすく、弟子たちはすぐに見つけることができたでしょう。

 次に、「言葉」ですが、それは次のようなものでした。

「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をする宿屋はどこか』と尋ねています」(14:14)

 この言葉をそのまま伝える時、弟子たちの道はさらに開かれ、導かれて行きます。

 そのような彼らに、答えが与えられていくのです。彼らは「席のきちんと整った二階の広間」にたどり着くのです。

 こうして弟子たちは、主の命令に従い、また主の言葉を信じたため、「席のきちんと整った二階の広間」にて、過越の食事の準備を整えることができました。
 
 一見すると、これは主イエスの霊的予見の力によるもののように思えます。

 しかし、この箇所で強調されているのは、「主がすでに用意されていた」ということです。そのことを示すのが、この短い箇所に実に3回も登場する「用意する」という言葉です(14:12,15,
16)。

 これは、この物語の主要テーマの一つです。この言葉によって、すべては「過越の食事」のため、つまり小羊の犠牲のために用意されたものであり、それを用意したのは、紛れもなく主イエスご自身であることが、強調されています。

 さらにこのことは、エルサレム入場前の準備(11:1-6)の出来事と関連して理解できます。

 互いを見比べると、実に多くの共通点があることに気付きます。

 あの時は、主イエスは、王としてエルサレムに迎え入れられために、準備を整えておられました。今回の場面では、小羊として屠られる準備を整えておられたのです。

 いずれにせよ、強調されているのは、すべては主が用意されたということです。
 
 主が用意周到に準備なさったのは、過越の食事を行える「席のきちんと整った二階の広間」でした。この場所が直接教会を示していると断定することは時期尚早です。

 聖霊が降る前であり、教会は生き始めていません。しかし、この場所で最後の晩餐が行われ、主が血とからだを差し出されたところに、教会の胎動が始まっていること、そしてそれを主ご自身がご用意してくださったことは、見逃してはならないでしょう。

 主は、「弟子たちと一緒に過越の食事をする」(14:14)為に、これらすべてを用意されました。ここにもう一つの重要なテーマが隠されています。

 それが「過越」という言葉です。よくよく見るとわかるのですが、「過越」と言う言葉はこの短い箇所の中に4回も登場します(4:12に2回,14,16)。

 この事実は、「過越」が物語全体の中心的テーマの一つであるということを示しているといってよいでしょう。

3 過越
 
 では、過越とは何か。

 それは、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放された夜を記念する、救いの出来事の記念です。出エジプト記12章で、神はモーセを通して命じられました。

「この月はあなたがたの第一の月であり、一年の最初の月である」(出12:2)

 つまり、イスラエルの新しい歴史の始まりが、この夜から始まったのです。この日を記念として祝う祭りであると言えるでしょう。

 より具体的には、神は、エジプトを打つ日の前日、イスラエルの民に、一家ごとに傷のない一歳の雄の小羊を取り、それを屠り、その血を家の入口の柱とかもいに塗るように命じられました(出12:5–7)。そして神は言われました。

「その夜、私はエジプトの地を行き巡り、…初子を打つ。…あなたがたがいる家の血は、あなたたちのしるしとなる。私はその血を見て、あなたたちのいる所を過ぎ越す」(出12:12–13)。

 神の裁きは、血のしるしによってその家を過ぎ越した。この「過ぎ越す」という言葉から、「過越(すぎこし)」という名が生まれました。

 血のしるしによって民の命が守られる。それは贖いと救いの原型となり、この出来事をイスラエルは毎年思い起こし、祝うようになったのです(出12:14,申16:2)。
 
 では、著者はこの記念日を忘れないよう訴える為に、「過越」という言葉を強調するのでしょうか。

 そうではありません。

 著者は、あの出エジプトの救いが今、主イエスのうちに再び実現しようとしていることを、強調しているのです。

 神がエジプトの地で、血のしるしを見て民を過ぎ越されたように、今、イエス・キリストの血が新しい契約のしるしとなり、神の怒りと死の力を過ぎ越させる。

 ここに「新しい出エジプト」が始まろうとしている。そのことを強く訴えているのです。

 イエス様ご自身が「ほふられる小羊」となり、罪と死の支配から人を解放する新しい救いの出来事が、この夜から始まります。

 弟子たちは、その歴史的瞬間へと招かれて行くのです(主がわざわざ14節で「弟子達と一緒に過越の食事を」と言うのは、弟子たちをこの救いへと与らせるためでしょう)。

 過越の出来事は、もはやエジプトからの解放の記念ではなく、罪からの解放の現実として、主イエスのうちに成就します。マルコはこのことを、「過越」という言葉の反復を通して、読者に深く刻みつけようとしているのです。


4 弟子たちの応答

 弟子たちは、この招きに従って、主の言葉の通りに歩みました。
 
「弟子たちは出かけて都へ行ってみると、イエスが言われたとおりであった」(14:16) 

 ここに信仰の歩みの原型を見ることができます。

 彼らはすべてを理解していたわけではありません。

 しかし、主の言葉を信じ、その言葉に従って歩むとき、主の備えの中に導かれていったのです。

 信仰とは、完全に理解してから従うことではありません。また、ただ待つものでもありません。

 主のしるしと御言葉を信じ、一歩を踏み出す中で、その真実を体験していくことです。そして、主がすでに用意しておられた場所にたどり着くまでが信仰です。

 同じように、私たちの信仰の歩みも、主が先に備えてくださった道を歩むことです(マコ1:2-3参照)。私たちは、自分で信仰の席を整えるのではなく、主が整えてくださった食卓に招かれるのです。

 主のしるしを探し、言葉を携え、信頼して、主が用意してくださるその場所(ゴール)まで歩んでいきたいと思います。