わたしは、天地(てんち)の造(つく)り主(ぬし)、全能(ぜんのう)の父(ちち)なる神(かみ)を信(しん)じます。
わたしは、そのひとり子(ご)、わたしたちの主(しゅ)、イエス・キリストを信(しん)じます。
主(しゅ)は聖霊(せいれい)によってやどり、処女(おとめ)マリアから生(う)まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦(くる)しみを受(う)け、十字架(じゅうじか)につけられ、
死(し)んで葬(ほうむ)られ、陰府(よみ)にくだり、三日目(みっかめ)に死者(ししゃ)のうちから復活(ふっかつ)し、
天(てん)に昇(のぼ)って、全能(ぜんのう)の父(ちち)なる神(かみ)の右(みぎ)に座(ざ)しておられます。
そこから来(き)て、生(い)きている者(もの)と死(し)んでいる者(もの)とを審(さば)かれます。
わたしは、聖霊(せいれい)を信(しん)じます。聖(せい)なる公同(こうどう)の教会(きょうかい)、聖徒(せいと)の交(まじ)わり、
罪(つみ)の赦(ゆる)し、からだの復活(ふっかつ)、永遠(えいえん)のいのちを信(しん)じます。
アーメン
使徒信条(しとしんじょう) (文語文ぶんごぶん)
我は、天地の創造主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
我はその独子(ひとりご)、我らの主イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてみごもられ、処女(おとめ)マリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦難(くるしみ)を受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
三日目に死者のうちより復活し、
天にのぼりて全能の父なる神の右に座し給う。
かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審き給わん。
我は聖霊を信ず、
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、
体(からだ)の復活、永遠の生命を信ず。
アーメン
![](http://toshimakitachurch.com/wp/wp-content/uploads/hpb-media/CAM001171.jpg)
この「使徒信条」も教会に通うひとたちが、
いっしょに唱える言葉です。
ところで、この「使徒」とはなんでしょう。
これはイエスさまとともに伝道につとめた
12人の弟子のことです。
その弟子がイエスさまの昇天ののち、
各地で伝道に当たって、
自分たちの信仰を言葉として
あらわしたのが、この「使徒信条」だといわれています。
じっさいには、使徒がみずから筆をとって書いたというよりは
使徒から伝えられた教えをそれぞれの教会が記憶にとどめ、
それが自然にひとつにまとまったというべきかもしれません。
「主の祈」がイエスさまから授けられたのに対し、
この「使徒信条」は信者みずからが
言葉にしたところに意義があります。
読んでみると、新約聖書をみごとに
要約していることに感心いたします。
教会に集うひとたちは、
この「使徒信条」を唱えることによって、
その信仰を告白しているのです。