11月30日礼拝説教

「気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである」。(マルコによる福音書13:33)

 教会の一年は、待降節の第1主日から始まります。
 11月30日に一番近い日曜日に始まり、12月24日まで続く待降節(アドヴェント)は、キリストの誕生と共に、その再臨を覚える時です。キリストは、一度確かにベツレヘムに幼子として来て下さったように、もう一度確かに、歴史の審判者、世界の完成者として来てくださるからです。
 教会は、一年の初めにその終わり、目的地を確認するのです。ゴールを知らないでスタートを切ることはできません。ゴールがどこかを知って初めて走ることができるのです。
 そのゴールとは「大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来る」最後の審判のときです。けれどもそれは決して地球最後の日、人類滅亡の時ではありません。むしろそれは、「はなはだ良かった」はずなのに、人間の罪によって「虚無に服した」世界を神様が回復してくださる時、歴史のすべてが明らかにされて、善が善とされ悪が悪とされる時、「神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる」(ヨハネの黙示録21:3-4)喜びの時、世界と歴史の完成の時なのです。
 このゴールを心にとめているということ、それが「目覚めている」ということです。それは、ヘロデ大王のエルサレム大神殿に「なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」と目を奪われるのではなく、「乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れた」やもめの信仰に目をとめることです。なぜなら「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづく」(コリント人への第二の手紙4章 18節)からです。事実、ヘロデのエルサレム神殿はこの時から40年も経たないうちにユダヤ戦争(紀元66~74年)によって灰燼に帰し、一方、やもめの信仰は二千年にわたって語り継がれます。
 主の眼差しをもって、何が大切であり何がそうでないかを見分け、主が大切にしているものを自分もまた大切にして生きること、主から託された働きに責任をもって生きることが「目覚めている」ということなのです。
 目に見えないものに目を注ぎ、目の前の「わたしの兄弟であるこれらの最も小さいものの一人」を、来たりたもう主イエス・キリストのように大切にすることをイエス様はお求めになるのです。
 神さまから与えられた一日一日を、託されたつとめを、感謝して、大切に、心を込めて、丁寧に生きること、それが、主を待ち望む私たちの歩みなのです。この待望をもって教会はその一年を始めるのです。
                  (2014年11月30日の待降節第1主日礼拝説教から)

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