読む礼拝


2025年8月24日(日)  主日礼拝
聖書朗読 創世記9編1-17節
説 教 「契約のしるし」 大石啓介

はじめに


 本日共に聴きましたのは、ノアの箱舟物語の結末です。ノアの箱舟の物語は、絵本や映画などでも取り上げらており、大変よく知られている物語です。要約すると次のようになります。

 人々の悪が地上に満ち、神に背く生活が広がりました(罪)。このとき、神は洪水をもって地を審かれました(審き)。

 しかし正しい人ノアとその家族、そしてすべての種類の動物たちは箱舟によって守られました。四十日四十夜続いた雨が止み、百五十日間地上を覆っていた水が乾いた後、ノアとその家族は新しい地に足を踏み入れます。

 神はここで彼らを祝福し、新しい秩序を打ち立て(回復)、二度と洪水で地を滅ぼさないという契約を結ばれました(希望)。

 この要約から分かるように、ノアの箱舟の物語は、「罪と審き(過去)」から「回復(現在)」、そして「希望(未来)」へと進む物語構造を持っています。

 本来であれば、このすべてを共に見ていきたいところですが、時間の都合上、本日特に焦点を当てるのは回復と希望です。大洪水による審きの後に、神がどのように人と世界に関わられたのか、旧約聖書神学の要とも言える祝福と契約に注目して、この物語の希望を共に読み進めていきましょう。

1 契約に先立つ祝福:産めよ、増えよ、地に満ちよ

 本日共に聞きましたノアの箱舟物語の結末を彩るのは、表題にも示されているように「契約が結ばれた」という出来事です。

 けれども、この契約に先立って神の祝福があったことを見逃してはなりません。そして、契約の根幹をなしているのは、まさにその祝福であることを覚えておきたいと思います。 9章1-7節はそのことを明確に証ししていますので、順番に見ていきましょう。

 大洪水によって人類が審きを受けた後、神がまず最初になされたことは「祝福」でした。この祝福は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という御言葉で始まり、「産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」という御言葉で綴じられます。

 この御言葉は、天地創造の時の祝福、すなわち「すべてが素晴らしい」とされたときの祝福と同じ内容です(創1:28、1:22参照)。それはつまり、洪水の裁きの後、神は新しい世界に向かって、再び最上級の祝福を与えられたということになります。

 この最上級の祝福が1節と7節に置かれることによって、1−7節全体は一貫して祝福に満ちた御言葉となります。

2 契約に先立つ祝福:あなたがたの手に委ねられる

 そのため、2節以降もその祝福は色褪せることはありません。

 神は続けて、地上にいる生物について「あなたがたを恐れ、おののき、あなたがたの手に委ねられる」と宣言されます。ここでは、天地創造における人間による地上の生物の支配が再確認されます(創1:28。

 つまり、人間の支配権は祝福のうちに与えられていることが再確認される)。

 しかしここには、創造の記事にはなかった「地上にいる生物が人間を見て、恐れ、おののく」が追記されています。

これはどういったことでしょうか。

 この箇所を誤解し、恐怖や力による支配が容認されたと考える人たちがいますが、そうではありません。祝福の中で容認された支配は、正しい秩序の中で行われるべきものであり、搾取や虐待を許すものではないからです。

 ではどうして地上の生物は人間を見て「恐れ、おののく」のでしょうか。

 その理由は、9章6節でも語られている通り、人間が「神のかたち」に造られているからです(創1:26)。

 神は、統治者が自分の像を支配地域に置くように、被造物の中に人間を置かれました。人間は神の支配を体現する存在として使命を帯びており、他の生物は人間を見ることで神の支配を思い起こすのです。

 創造の時には祝福だけを思い起こしていた被造物も、洪水を経た後は神の審きの恐ろしさをも思い出すことになりました。ゆえに、地上の生き物は人を見て、神の祝福を喜びつつも、その審きを恐れおののく存在となったのです。

 神の祝福のうちに与えられた「神のかたち」としての権威――すなわち他の被造物を従え、管理する権利――は、楽園追放や洪水の審きを経ても失われることはありませんでした。

 もしこの神の後ろ盾がなければ、人間は地上において極めて脆い存在にすぎません。猛獣の前での弱さを思えば、それは明らかです。

 それでもなお「神のかたち」が人間に残されているからこそ(創9:6。5:1も参照)、人間は神によって守られつつ、他の被造物を支配することができるのです(ダニエル書参照)。

 契約に先立つ祝福:肉食と血の規定

 さて、神様の祝福はまだ続きます。9章3−4節にて、条件付きで肉食が許可されます。これは、創世記2章16−17節を思い起こさせる許可です。

 創世記2章で神は、人に園のどの木からでも取って食べることを許可しました。

 しかし死を招く善悪の知識の木からはとって食べてはいけない、と定めています。9章では、肉食を許可するが、命である血を食べてはいけないと定められています。

 天地創造より、命が蔑ろにされることを望まない神の意志を感じます。肉食が許可された後も、命を弁えないで食べて飲む行為は、禁止されていくのです(Ⅰコリ11:29参照)。

 さらに創世記9章5−6節では、この禁止がさらに拡張されます。それは「人の血を流すことの厳重な禁止」です。

 動物であれ人間であれ、血は命であると強調されていますが、とりわけ人間の血については、流されること自体が厳しく禁じられていきます。

 ここで問題にされているのは、流された血が致死量に達するどうかではなく、命の象徴である血が侵害されるという事実そのものなのです。

 神は、人の血を流した者に対し、人間であれ獣であれ、血の償い――つまり命をもって償うことを定められました。これは非常に重たい罰です。

 なぜ、人の血を流すことがこれほど重く扱われるのでしょうか。それは、人間が「神のかたち」に造られているからだと説明されます(9:6)。先ほども見たように、「神のかたち」の背後には、神ご自身の存在があります。

 ゆえに、人の血を流す行為は、単に人間を傷つけるだけでなく、神ご自身を冒涜する行為であり、神への背信に他なりません。

 被造物全体は、「神のかたち」を通して、神の支配を恐れとおののきをもって思い起こさなければなりません。

 しかし、その恐れとおののきもまた、命を大切にしたもう神の祝福の一部であることは先に学んだ通りです。「神のかたち」は、被造物の世界における抑止力として働き、人間を含めた被造物全体が、互いの命を尊び、守り合うように召されていくのです。

4 契約としるし

 こうした一連の祝福ののちに、物語はいよいよ「契約」へと進んでいきます。

 興味深いことに、9章8節で神は「ノアとその息子たち」に契約を告げますが、9〜10節ではその対象が拡大し、彼らの子孫、さらにすべての生き物にまで及んでいます。

 祝福はまず「ノアとその息子たち」に与えられましたが、契約の段階においては、その限定を超えて、場所を超え、時代を超え、全被造物にまで広がるのです(創20:6、34:6-7参照)。それは、神の祝福が契約において地上全てを覆う、ということを意味します。

 この拡張された祝福、すなわち契約の中心にあるのは、「すべての肉なるものが大洪水によって滅ぼされることはない。洪水が地を滅ぼすことはない」という約束です。神の御言葉は一度だけでも十分であるにもかかわらず、神は二度も語られます。

 さらに、そこに「しるし」をも添えてくださいました(ここに人間の弱さに寄り添う神の愛が垣間見られます)。そのしるしとして選ばれたのが、「虹」です。

 虹は創造の時からすでに存在していた自然現象ですから、ここで初めて虹が登場したわけではありません。創造の頃から虹は、人間に神の神秘を映し出していたに違いありません。

 しかし、この契約において虹は、神の契約を思い起こさせる決定的なしるしとして、新たな意味を担うようになったのです。

 また「虹」という言葉は、ヘブライ語を直訳すると「弓」となります。

 そのため、13節の御言葉は、「わたしは雲の中に弓を置いた」と訳すことができます。

 つまり神は、人を滅ぼすことのできる武器を壁に掛けるように、雲の中に弓を置かれたのです。神は戦いをやめ、ご自身の審きの武器を手放された、と言えます。

 しかしこれは、神が権威を放棄したという意味ではありません。その権威を「審き」にではなく「命を守る」ために用いると誓われた、ということです。

 神は人と被造物全体の幸いのためにご自身を約束で縛り、すべての生きるものと共に歩まれるのです。

 このように虹は、天地創造のときから存在していた自然現象でありながら、契約においては新しい意味を帯びました。それは「神が裁きの武器を手放された」というしるしであり、また「神が命を守ることを誓われた」という約束の保証です。

 この祝福と契約とそのしるはは神の一方的な施しによってなされたものであることを最後に覚えたいと思います。

 人は神の前に何もしていません。それどころか、神の前に悪であったのです。しかし、神は天地創造以来の(いやそれ以前からの永遠の)愛を示し、人を祝福し、愛してくださいました。

 このノア契約に私たちも包まれているのです。ですから、私たちは虹を見るたびに、ただ自然の美しさに心を奪われるだけではなく、その背後にある神の御心を思い起こすべきでしょう。

虹は、洪水という審きの記憶を超えて、命を守り抜こうとされる神の祝福を証ししています。神はその祝福のうちに、その権威を審きに用いるのではなく、祝福と命を保つために、ご自身を契約において縛られました。

 この深い恵みと愛に応える私たちでありたいと思います。私たちは、虹を見るとき、自分の命が守られていることを感謝し、互いの命を尊び合い、神の祝福の中を生きるように招かれているのです。虹は、天にかかる約束の弓です。神の命を守る愛と約束を、今日も私たちに語りかけています。

※伝道師のひとりごと ―― 創世記6章より

 皆さんは、ノアの洪水物語の冒頭、つまり創世記6章をご存じでしょうか。そこには、大洪水に至る経緯が描かれています。

 大洪水は、端的に言えば「主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」(創6:5-6)ことが直接的な原因として挙げられます。

 ではどのようにして人の悪がはびこったのかに目を向けてみましょう。

 6章を1節からじっくりと見てみると、「神の子ら」と「人の娘たち」の混血(結婚)にその原因があることが指摘されています(6:2)。

 人間がこの時点ですでに、「神の子ら」と「人の娘たち」と分けられていることは驚きです。その区分は、原初史(創世記1章~11章。天地創造からバベルの塔まで)が示す人の罪の広がり、つまり「原罪→カインとアベルの物語→「アダムの系図」→ノアの箱舟(→バベルの塔)」といった文脈の中で発生したものと考えられます。

 いずれにせよ、前者はアダムとエバの息子セトの家系に属する人々を指す言葉であると考えられています。

 カルヴァンによれば、セトの家系は、神礼拝を純粋にまた正しく守った者たちであったゆえに「神の子ら」と呼ばれていました。

 一方後者は、神礼拝を拒み、神の前から去った者たちの子孫であり、「神の子ら」と分けて考えられていました。カインの子孫とその他の汚れた種族の子らがそれに属すると考えられています。

 ここに直接的な表記はありませんが、それらに属する娘が「人の娘ら」と呼ばれていることから、「人の子ら」と表記しても良いかもしれません。

 つまり9章2節では「神の子ら」が「人の娘ら」の美しさに惑わされ、祝福された結婚(創2:24)を汚し、神から遠ざり、「人の子ら」に属していく姿が暗示されているのです。

 これはアダムとエバがその美しさ(とへびの誘惑)に惑わされ、善悪の知識の木からとって食べてしまったあの罪(原罪)を彷彿とさせる出来事です。

 更に罪は広がります。彼らとの間に「ネフィリム」が生まれるのです。

 ネフィリムを直訳すると「巨人」となりますが、これは単に体の大きい者が生まれたということを意味するのではありません。

 創世記6章4節後半の「勇士」と響き合い、「他の人よりも力があり、自己の強さと能力により頼む者」(カルヴァン)「我が物顔で地上を支配しようとする者」が生まれたということを意味します。

 つまり「神の子ら」はその背信により、神から遠ざかった者を生むという罪を重ねていくのでした。
つまり「神の子ら」の罪が審きを招く結果となるのです。

 それは原罪と同等の重い罪でありました。それどころかこの罪は結婚を汚し、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福さえ汚していったのです。こうした罪は個人の罪にとどまることなく全地上へと及びます。

 ですから全地上は、水によって清められ(審き)、回復と未来への希望が与えらえていかなければならなかったのです。
 
 そのような構成を持っているのが、ノアの箱舟物語となります。ですから、この物語を単なる自然現象や歴史的史実、または神話の枠に留めておくのではなく、神学的に重要な物語として、信仰の要として心に刻む必要があります。

 罪と審き、しかしそれを越えて示された祝福、そして希望(契約)へとつながる物語としてのノアの箱舟物語は、イエス・キリストの物語と響き合い、人間の罪深さを思い起こさせつつ、徹底的な神の愛を示す物語なのです。



2025年8月17日(日)  主日礼拝
聖書朗読 詩編51編18-19節
説 教 「砕かれ悔いる心」 大石啓介

1 ダビデの嘆きの詩


 詩編51編は、個人的な嘆き・訴え・祈りや懺悔の詩に分類される詩です。

 1節によると、この詩を書いたのは、イスラエルの王ダビデとなっています。

 イスラエルの中で最も愛され、尊敬される王です。現代の旧約学者の多くは、この詩がダビデの作であることには否定的ですが、この詩に内在するダビデの権威は認められております。

 ですので、ダビデの詩として私たちも聞きたいと思います。

 続けて2節には、この詩が「ダビデ王がバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」の詩であることが記されています。

 つまり、サムエル記下11~12章が背景となります。この物語を振り返っておきましょう。

 王となったダビデは、忠実な部下ウリヤの妻バト・シェバに恋をしてしまい、彼女を奪うため、ウリヤを戦場の厳しい場所に出向させ、その場で死なせるという恐ろしい罪を犯しました。

 それは権力の濫用を越えて、十戒における殺人と姦淫、二つの重大な律法違反であり、死刑に値するものでした。しかし誰が王を裁けるでしょうか。

 民は沈黙し、権力の前で何もできません。ダビデ自身も、そうした沈黙を当然のように利用したのでしょう。

 神から与えられた権威を自分のものと勘違いし、神の前にへりくだることを怠り、ついには私利私欲に飲み込まれていたのです。

 しかし、沈黙は許されませんでした。主なる神が彼に臨んだのです。神は預言者ナタンを遣わし、王の罪をはっきりと告発されました。

 そのときダビデは心砕かれ、隠れずに御前に立ち、「私は主の前に罪を犯した」と告白していきます。その時の悔い改めが形となったのが、詩編51編です。

 詩の中でダビデは、心砕かれ、航海の中で、自分の罪を告白し、その赦しを神に求めます(マルコ1:5参照)。

 彼はこう告白しました。

「あなたのみに私は罪を犯しました」(6節)。

 一見すると、彼は直接的に罪を犯した相手(ウリヤとバト・シェバ)のことを忘れてしまっているように思えるかもしれません。

 しかしそうではありません。ダビデは、人に対して犯した罪の重大さを十分に分かっていました。それでもなお、最終的にはその罪が神ご自身への罪であることを深く悟っていたのです。

 なぜなら、神が人間同士の出来事に介入し、真の正しさをもって審かれる方であることを知っていたからです。

 この罪を本当に裁くことができるのは神だけであり、そしてまた、罪を本当に赦すことができるのも神様だけだと、ダビデは知っていたのです。

 ダビデは、実際にその審きを経験し、その経験を「骨を砕かれた」と表現しています(10節)。

 この苦しみは、人と人との間に生じる罪がもたらす、単なる「良心の呵責」や自己嫌悪ではありません。神の義が、自分にまっすぐ向けられている。その重みを、彼は魂で味わっていたのです。

 彼の心は完全に「砕かれた」のでした。

2 砕かれ悔いる心

 心が砕かれる時、その苦しみと痛みはどれほどのものでしょうか。

 それは、詩にあふれる悲痛な祈りが示している通りです。この苦しみのただ中で、ダビデは主に向かい、自らの罪を告白し、赦しを乞い願います。

 すると、彼の内に明らかな変化が生まれます。彼は祈りにおいて神と深く対話し、慰めを経て、神の真実にたどり着くのです。

 彼がたどり着いた結論、それは神が愛であり、救いであると言う事でした。そのため祈りは、「ほめたたえの誓い」へと変化していきます(15–19節)。

 私たちが共に聞きました18–19節は、その「ほめたたえの誓い」の中から生まれた、深い神学的省察となります(ちなみに20–21節は後代の補遺です)。

 ダビデは、罪の告白と悔い改めと祈りを通して、神の真実にたどり着きました。そこで次のように語ります。

「あなたはいけにえを好まれません。
 焼き尽くすいけにえをささげても、あなたは喜ばれません。」

 ここで彼は、イスラエルのアイデンティティの中心であった祭儀礼拝に触れ、しかもその中で最も重要とされた「焼き尽くすいけにえ」さえ、神は喜ばれないと告白しています。

 これは、祭儀全体に対する根本的な問いかけです。けれども、ダビデが否定しているのは、神ご自身がレビ記において定められた制度そのものではありません。

 彼が問題としたのは、それを担う人間の心です。習慣化された儀式、偶像に心を奪われたままの儀式―そこには、神を敬う真実がありません。ダビデはそうした人間の心を18節で鋭く暴露しているのです。そしてダビデは19節において結論づけます。

「神の求めるいけにえは砕かれた霊。
 神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません。」

 ここで言う「霊」(רוּחַ(ルーアハ))とは、ヘブライ語で「生命を与える息」を意味します。天地創造のとき、神が土の塵から人を形づくり、その鼻に命の「息」(רוּחַ(ルーアハ))を吹き込まれました(創2:7)。

 この「命の息」こそが「霊」であり、それは人間本来の生が神に向かって生きることを表しています。神を離れては、人間は本質的に生きることはできません。

 しかし聖書は、人間がその霊を与えられながらも、道を踏み外し、罪を犯し続けた歴史を証言しています。

 神への背信(アダムとエバ)、隣人殺し(カインとアベル)、悪への順応(ノアの洪水)、そしてついには神になろうとした(バベルの塔)。罪の歴史は、霊を束縛するだけではなく、心そのものを頑なにしていきました。やがて人間は、自分の力では霊の束縛を解くことも、硬くなった心を砕くこともできなくなったのです。

 この状況は、詩編がうたわれた当時のイスラエルの現状でもありました。本日の一つ前の詩編50編は、そのことをまざまざと示しています。詩編50編では、神ご自身がイスラエル全体を法廷に呼び出し、彼らの心の頑なさを告発されます。

 形式的ないけにえと礼拝、しかし心が神から遠く離れている民。ここで民全体が「被告」として立たされているのです。

 そして詩編51編に移ると、その裁きを受けたイスラエルを代表する者として、王ダビデが登場します。彼は罪を告白し、砕かれた霊と悔いた心をもって神に祈るのです。

 つまり、詩編51編は単なるダビデ個人の懺悔の詩ではありません。むしろイスラエルの民全体に対して、「あなたがたもこのように祈れ」と示されている模範の祈りなのです。 

 霊を縛る鎖、固まった心は「砕かれなければならない」のです。ここで大切なのは、「砕かなければならない」ではなく、「砕かれなければならない」という受動形です。

 つまり、人は自分の力で心を砕くことはできません。必要なのは、神の御言葉によって砕かれることです。実際、ダビデもそうでした。罪の自覚は、自分の内側から自然に生まれたのではなく、神の御言葉と神の告訴によって目が開かれたのです。

 人は神の訴えによって初めて、自分がどれほど罪深いかを知らされます。そしてそのとき、自分の霊が鎖につながれていることを認識するのです。

 ですから、「砕かれた霊」とは、神によって束縛から解放された霊の状態を意味します。罪を認識した瞬間、霊の束縛は神によって砕かれ、解き放たれます。その後に続いて「砕かれ悔いる心」が生まれます。これは順番が大切です。

 まず神が御言葉によって霊の束縛を砕き、心の頑なさが砕かれます。これによって人間は悔いることができるようになり(この「悔いる」も受動態!)、そこから人間が能動的に「悔いる」のです。

 こうして「砕かれた霊」と「砕かれ悔いる心」を持ち続けるなら、人は自分の罪を正直に告白し、神の前に謙る者とされます。「悔いた心」は、自己弁護や言い訳を捨て、ただ神の憐れみにすがる心です。そして聖書ははっきり言います。神は、このような心を決して退けられません。

3 キリスト者への適用

 ダビデの詩は、イスラエルの民の罪全てを担い、告白し、罪の赦しを神に切に祈る詩でした。

 この詩は、未だ神の前に罪人である私たちの祈りとなって響いています。私たちも残念ながら、神の前に立つとき、外面的な礼拝や奉仕、儀式に頼ってしまう危険があるからです。

 神が求められるのは、砕かれた霊、砕かれ悔いる心。儀式も行いも、この霊と心から出るものでなければ意味をなしません。私たちが捧げる礼拝は、真実なものとなっているか、それが問われます。

 私たちの罪は、犠牲や努力や儀式では贖えません。それを完全に贖ったのは、イエス・キリストの十字架です。キリストは完全に砕かれた者として父に従い、私たちの罪の代価を負われました。

 だからこそ、ダビデの祈りは、キリストにある私たちの日々の悔い改めの模範となります。毎日、砕かれた心をもって神に近づくなら、神はそれを決して退けられません。

 詩編50編は「裁き」の場面から始まり、詩編51編は「恵み」へとつながります。今日、神は私たち一人一人をその法廷に呼び出します。

 しかし、砕かれた心を持って主に向かう者に、神は赦しと回復を約束しておられます。この約束に信頼し、日々の歩みの中で、砕かれ悔いる心を神にささげてまいりましょう。


2025年8月2日(日)  主日礼拝(合同礼拝)
聖書:マルコによる福音書14章1-11節 
説教:『ナルドの壺』 大石啓介

1 人間の策略と神のご計画


 イエス様の最後の一週間を、私たちは順を追って読み進めています。

 一日目の月曜日、イエス様はエルサレムに入場されました。

 そして二日目の火曜日には、神殿を清め、祭司長や律法学者、ファリサイ派やサドカイ派といった宗教的指導者たちと対峙されました。彼らと激しいやり取りを交わしつつ、弟子たちには終末に関する教えを語られ、「目を覚ましていなさい」と命じられました。

 こうして二日目は終わります。

 そして本日、私たちが耳を傾けているのは、三日目、水曜日の出来事です。

 この日に起こったのは、本日共に聴きました三つの表題を持つ物語のみとなります。火曜日の記事に比べると、非常に短く感じられますが、

 実はこの水曜日こそが、「受難の序章」として、イエス様の最後の一週間の中で大きな転換点となっているのです。

 この日を境に、イエス様の受難は一気に加速し、二日後には十字架というクライマックスに至ります。以前から予告されていたその受難と十字架の死が、いよいよ目に見えるかたちで迫ってきた。そんな不穏な空気が、この水曜日には漂っているのです。

 物語の冒頭からも、その空気ははっきりと感じ取れます。マルコ14章はこう記します。「過越祭と除酵祭の二日前になった」(14:1a)。この一言が、イエス様の十字架の時を予感させます。

 続く導入では、こう続きます。「祭司長たちや律法学者たちは、どのようにしてイエスをだまして捕らえ、殺そうかと謀っていた」(14:1b)
 
 かつて、イエス様との対話において心を開く機会が与えられていた祭司長たちは、悔い改めることを選びませんでした。

 むしろ「正論では勝てない」と判断し、「どうすればイエスをだまして捕らえ、殺すことができるか」と策略を練る方向に進んでしまったのです。彼らの心はますます頑なになり、正しい道からは離れていってしまいました。

 とはいえ、彼らにも一つの恐れがありました。群衆の存在です。イエス様は昼間、人々に囲まれながら行動しておられました。民衆の目がある中で手を出すことはできなかったのです。

 一方で、夜になればイエス様は人里離れた場所を転々としておられましたが、具体的にどこにおられるかは、彼らにはわかりませんでした。そこで彼らはこう結論づけます。

「祭りの間はやめておこう。民衆が騒ぎ出すといけないから」(14:2)。

 つまり、祭りが終わってから、静かな時に捕らえよう―そう考えたのです。

 しかし結果的に、イエス様の殺害計画は延期されることはありませんでした。思いがけない「助け船」が、彼らのもとに現れたからです。

 それが、14章10〜11節に登場する、十二使徒のひとり、イスカリオテのユダでした。

 ユダは祭司長たちのところへ出向き、自らイエス様を引き渡す相談を持ちかけたのです。「彼らはこれを聞いて喜び、金を与える約束をした」(14:11)とあるように、 祭司長たちは、大喜びしたことでしょう。思わず「神が機会を与えてくださった!」とさえ思ったかもしれません。

 しかし、神様は決して、彼らの願いや祈りに応えられたわけではありません。むしろ、イエス様を裏切ろうとする罪深い動機を持ったユダという弟子を通して、神ご自身の救いのご計画を着実に進めておられたのです。

 そうした暗い影が濃く立ち込める中、私たちはこの水曜日の出来事の中心に、一筋の光が差し込んでいることを見逃してはなりません。

 それが、いわゆる「ナルドの壺」の物語です。暗闇と暗闇に挟まれた、この一つの輝く出来事。この出来事の中には、神の救いのご計画に、光をもって参与した一人の女性の姿が描かれています。

 本日は、特にこの出来事に目を向けていきましょう。 

2 塗油

 イエス様の最後の一週間の三日目――それは水曜日でした。この日、イエス様はベタニアで、かつて規定の病を患っていたシモンの家におられ、人々と食事を共にしていました。

 イエス様は、ご自身の死が二日後に迫っていることを知っておられたのでしょう。残されたわずかな時間を、新しい家族や弟子たちと分かち合うひとときとして、大切に過ごしておられたのです。

 家族や友人と共に食事をする。それは、喜びの時です。まして、かつて病を患っていた人とその家族にとっては、その喜びは何十倍、何百倍にも膨らんでいたに違いありません。この場は、そうした喜びで満ちていました。

 その喜びの席に、一人の女性が立ち上がります。そして、純粋で非常に高価なナルドの香油が入った石膏の壺を壊し、その香油をイエス様の頭に注いだのです。

 人々は突然の出来事に大いに驚きました。そして、さっきまでの喜びを忘れたかのように、彼女に向かって激しく怒り出しました。

「何のために香油をこんなに無駄にするのか!」と、彼女を厳しく責めたのです。人々はさらに正論で、彼女の行動を非難していきます。

「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに!」

 たしかに、人々が言うように、ナルドの香油は非常に高価なものでした。しかもこの壺に入っていた香油の価値は三百デナリオン――つまり、労働者の賃金の一年分に相当するものでした。そのすべてを、ただ一人のために注ぐというのは、人々にとって常軌を逸した行動に見えたのでしょう。

 人々は、彼女の行為を愚かで不適切なものと判断し、その誤りを正そうとしたのです。

 一方、彼女の思いを受け止めることを第一に考えた方が、ただ一人おられました。それが、イエス様です。イエス様は、周囲の人々とは違い、彼女がなぜそのような行動をとったのか――その行為の内にある彼女の心に、まず耳を傾けようとされました。

 彼女の心の奥底をご覧になったイエス様は、その行為を次のように結論づけられます。「彼女は私に良いことをしてくれた」(14:6)

 イエス様は、なぜこのようにおっしゃったのでしょうか。そのことを理解するために、私たちもまた、彼女の思いに静かに耳を傾けてみましょう。

3 彼女の思い

 彼女はナルドの香油を、イエス様の頭に注ぎました。

 香油とは、日常の料理や灯りに使われるオリーブ油とは異なり、高価な油に香料を混ぜてつくられた特別な油です。この香油は、会見の幕屋や祭壇を聖別するために、また特定の儀式の必需品として用いられていました(出29:40)。

 また特別な時につける香水(ルツ記3:3、雅歌1:3)、病の治療薬(イザヤ1:6、マルコ6:13、ルカ10:34、ヤコブ5:14)など、大切な目的のためにだけ使われるものだったようです。

 そのような香油の中でも、ナルドの香油は非常に高価なものでした。通常は、細い首のついた小さな瓶に入れて、大切に保管されていたのですが、ここでは、壺に入った状態で保管されていました。

 なんと、それは三百デナリオン——労働者の一年分の賃金に相当する価値だったと、聖書は伝えています。

 彼女は、その価値を知っていたはずです。けれども彼女は、一滴も惜しむことなく、全部を注いだのです。

「壺を壊す」という行動には、彼女の強い決意が表れています。少しだけ使っても、十分に意味はあったでしょう。

 でも、彼女は全部を捧げたのです。

 この香油が、彼女自身の所有だったのか、シモンの家のものであったのか、あるいはベタニの町の共同財産だったのか—詳しいことは書かれていません。

 けれども、これが規定の病を患っていたシモンの家で注がれた、という点に注目するなら、ある象徴的な意味が見えてくるのではないでしょうか。

 もしかするとこの香油は、病の症状を和らげるために用いられ、大切に保管されていたものだった可能性が出てくるのです。

 けれども、イエス様がそこに来られたことで、病は癒やされ、もはや香油は“必要ないもの”となった。食事を共にすることができるようになった。シモンの家は喜びで溢れ、その中でも人一倍喜んだ彼女の感謝の思いが、イエス様に香油を注ぐという行動へとつながった——そう考えるのは自然なことです。

 彼女はただ、食事を共にするだけでは、感謝を表しきれないと思ったのでしょう。また、一滴注ぐだけでは足りないとも思ったのでしょう。

 だからこそ、惜しみないかたちで、香油を注いだのです。それは、あの「すべてを神に捧げたやもめ」の姿を思い起こさせます。どちらも、神様の示してくださった愛に対して、惜しみない愛で応える姿です。

 彼女の行為は、イエス様の愛に心を動かされ、神様を何よりも第一に愛する応答でした。彼女は、この時にできる最高の仕方で、「神を愛した」—そのことを、行動によって表したのです。

4 イエス様の応答
 
 このような思いを含んだ行為は、まさに「良いこと」に他なりません。この思いを知って、誰が彼女に文句を言えるでしょうか。

 人々の正論は、この愛の前に意味を失います。それでも文句を言うとすれば、それは愛を知らない者の愚かさゆえです。

 ただ一人、イエス様だけが、彼女の愛を深く受け止められました。

 だからこそ、イエス様は彼女の思いを代弁し、「するままにさせておきなさい。なぜこの人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」(14:6)と語られたのです。

 しかし7節以降、驚くべき展開が待っています。

 なぜなら、イエス様は、実は彼女の行いが神の御心にかなったものであることを明らかにされるのです。これは彼女も知る由もない事柄でした。イエス様は続けてこうおっしゃいます。

「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる。したいときに良いことをしてあげられる。しかし私は、いつも一緒にいるわけではない」(14:7)

 ここでイエス様は、ご自身の死が間近に迫っていることをほのめかします。もちろん、貧しい人々に目を向けることは大切です。

 しかし、目の前に「失われようとしている命」があることに気づかず、なお「貧しい人のために」と言い続けていたのでは、それは本末転倒です。今、イエス様はご自身の死――すなわち十字架の時――を目前にしておられます。

 今こそ、人々は目を覚まし、イエス様を見つめなければならなかったのです。

 そして8節では、この出来事の最も重要な意味が語られます。

「この人は、できるかぎりのことをした。前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれたのだ。」

 彼女の行った行為を、イエス様はただ愛の応答として評価しません。イエス様はこれを埋葬の準備として受け取ってくださったのです。

 彼女の愛は、驚くべき形で、神様の救いの計画の内に数えられていくことになります。

 そしてイエス様は、最後に次のように語ります。「よく言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人がしたことも記念として語り伝えられるだろう」(14:9)

 これは驚くべき言葉です。イエス様は、彼女の行為を「福音と共に語られるべき出来事」として高く評価されたのです。当時の人々にとって「この人がしたこと」は、ただの感情的で非合理な浪費にしか見えなかったかもしれません。

 しかし、イエス様にとってそれは、神への深い愛に基づく応答として、何よりも価値のある行為でした。

 そしてここで「語り伝えられる」とあるように、これは単なる称賛にとどまりません。後に続く者たちの模範となる行為として、語り継がれるのです。

 こうして、彼女の行為は、祝福されたのでした。

 ここに、私たちの信仰を励ます驚くべき事実が記されています。

 彼女のように、惜しみない愛をもって神に応答する者は、今この時代にも、神の目に尊く用いられるのです。

 彼女がしたことは、決して「特別な資格がある人だけに許された行為」ではありませんでした。確かに金額は目をみはるものでしたが、今あるすべてを神様に捧げるということは、誰にでも可能なことです(マコ1:16以下、2:14以下参照)。

 彼女は聖職者でもなく、権威ある人物でもなく、名前すら記されていない無名の一人の女性です。それでも、自分にできる最善を尽くして神を愛したという一点において、彼女は永遠の記憶に残る存在となったのです。

 この物語から私たちが知ることができるのは、イエス様は、決して大きなことや完璧な奉仕を求めておられるわけではないということです。

「できるかぎりのことを、惜しみなく注ぐ」

――それで十分なのです。たとえ人の目には奇異に映る行為であっても、それがその人にとって最大限の愛であり、神様へのささげものならば、イエス様はそれを喜び、用いてくださるのです。

 そしてイエス様はその愛を、すべて覚えていてくださり、祝福してくださるのです。